悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

98歳の「慶應ボーイ」

share!

「知らせたい人リスト」

 2021年8月8日、東京オリンピックの閉会式の日。朝からスマホに何度も見覚えのない電話番号の着信が入った。午後、気になって折り返し電話をすると、「父が今朝亡くなりました」と娘さんから知らされた。享年98歳11ヶ月。8年前から戦争の話を聴いていた慶應義塾大学の元学徒兵の神代忠夫こうしろただおさん(本人は「忠男」を使っていた)の訃報。

 「『知らせたい人リスト』にお名前があったので」との娘さんの言葉に涙が溢れた。私を「最期のリスト」に挙げて下さっていたなんて……。長く患うことなく、自宅で倒れる寸前まで普通にひとり暮らしをされていた。発見者はヘルパーさん。天晴れな人生だ。

 神代さんは慶應義塾幼稚舎(東京都渋谷区の私立小学校)からの正真正銘の「慶應ボーイ」。90歳代後半にしてダンディ。洒落た帽子を被り、上着にポケットチーフという出で立ちでいつも現れた。待ち合わせ場所は決まって慶應三田キャンパス内の「社中交歓しゃちゅうこうかん 萬來舎ばんらいしゃ(卒業生及び教職員の交流の場)」のラウンジ。戦争の話を聞きたくて出向いても、亡くなった奥様のこと、お孫さんの結婚問題、最後は独居老人の悲哀を語られておしまい、なんてことも度々あった。福澤諭吉の親戚筋のやはり慶應の元学徒兵の孫と自分の孫娘を結婚させたいと願っていた。その後紆余曲折はあるものの、お孫さんカップルは晴れて結ばれて、この春待望のひ孫が誕生した。神代さんは、今頃、先に逝った学友と「ようやく親戚になれたよな」と祝杯をあげていることだろう。

 奥様のことも照れ隠しなのかユーモアたっぷりによく話された。

 「戦争から帰ってきて、親が結婚しろとうるさくてね。僕は女だったら誰でもよかったんだ。ただ布団を敷くのが面倒だから、布団を敷いてくれればそれだけでよかったんだね」。

 その奥様が数年前に他界された。

 「家内は料理だけは上手くてね。いま、ヘルパーさんが作ってくれるけど味付けが口に合わなくて……。悪いから食べるけどね」。

 話の端々に奥様への思慕と愛情が散りばめられていて、かえって神代さんの寂しさが伝わってきた。

 葬儀の席で、娘さんは次のような挨拶をされた。

 「父は自分が大好き、慶應が大好き、そして他人が大好きで、思い通りに生きた人です。90歳代は慶應の学生さんをはじめ若い人に戦争の話をよくするようになりました。父は無能な指導者により、20歳そこそこの若者が結婚もせずに我が子を抱くこともできずに死んでいった無念を現代の若者に伝えたいと申していました」。

 もちろん、戦没学生だけが無念だったわけではない。同年代の若者は既に戦地に行きその中には独身で戦没した兵士も大勢いるし、妻子を残して戦没した兵士の無念は察するに余りある。神代さんは百も承知でいらっしゃる。

十人十色の戦争体験

 戦争を語る神代さんの忘れられない言葉がある。
 
 「十人の兵隊がいれば、十の戦争体験がある。兵隊の数だけ戦争体験や戦争観がある」。まったくその通りだ。

 第一に、配属された部隊や階級や兵科で戦争体験が異なれば当然ながら体験談も戦争観も異なる。参戦した時期が緒戦か戦争末期の撤退戦か、戦域がどこかでも雲泥の差がある。訓練もほとんどせずニューギニア戦線に送られる人もいれば、内地勤務で終わる人もいる。神代さんは後者だ。東京・六本木の近衛歩兵第3連隊(東部第6連隊)に入隊。この部隊はノモンハン帰りの古参兵が多く、神代さんも初年兵教育で相当に気合を入れられ毎日ボコボコに殴られた。半年ぶりに実家に帰ると痣だらけの息子の顔を見て母は泣いた。その後、神代さんは浜松の第1航測連隊を主に最後まで内地勤務だった。内地だから楽なわけではないのだが、飢餓と傷病に脅かされる南方戦線とは戦場体験がまったく異なる。

 第二に、人生観や思想の違い、さらに政治観がリベラルか保守かでもその人の戦争観に影響を及ぼす。さらに、月日の流れと時世の変化で戦争観が若い頃と違ったものに「上書き」される場合もあるだろう。

 最後に、戦後の生活で成功した人もいれば、戦争で全てを失いその後も困窮に陥った人では語られる戦争も違ったものになりうる。戦時中、最下級の二等兵が、戦後に事業に成功し社会的地位も財力もかつての部隊長と逆転するケースもよくある話だ。そういう場合、戦友会や慰霊祭でかつての上官と部下の間に流れる妙な空気を私は度々感じた。「慶應ボーイ」の神代さんも戦後直後は生きるために新橋で「ヤミ屋」を始めたという。軍服や軍靴は高く売れたそうだ。その後、会社勤めをしたが、サラリーマンじゃつまらないからと皮製品の会社を起業した。神代さん自身、「同じ慶應の学徒仲間同士でも軍隊経験がこうも違うものか」と驚いたと語る。だからこそ、神代さんはできるだけ多くの体験を聴いて、ニュートラルに分析する視点が必要だと強調された。話を聴く私自身も、自分の思想や歴史観を物差しに、十人十色の戦争体験を色眼鏡で見てはいけないと肝に銘じている。都合の良い証言を恣意的に抽出して、自論の補強に当てはめるのはもっての外だ。

徴兵猶予停止と「学徒出陣」

 2020東京オリンピック・パラリンピック会場の新国立競技場は、1964年のオリンピック会場であり、さらにアジア・太平洋戦争中の1943年10月21日に「学徒出陣壮行会」が行われた場所でもある。当時は明治神宮外苑競技場と呼ばれた。メダルを掲げた選手たちが満面の笑顔で闊歩する姿を画面越しに眺めながら、ふと、78年前の同じ場所で、戦地に行く大学生や生徒たちの大規模な分列行進に思いを馳せる。この場所でこのような歴史があったことをどれだけの日本人が知っているだろうか。

 「学徒出陣」とは、戦況悪化による兵力不足を補うために、大学や専門学校などの学生や生徒らが学業を中断し戦場へ出征したことを意味する、いわゆる「造語」である。

 1943年10月21日、雨の中、東京近郊の77校の出陣学徒約2万5000人が集結し、真剣な面持ちで分列行進をした。色彩豊かなユニホーム姿の五輪選手たちとはうって変わって、学徒たちは各学校の学生服に身を包み、軍事教練用の三八歩兵銃を担いで足に「巻脚絆まききゃはん(ゲートル)」をキチリと巻いて一糸乱れず行進した。スタンドは「無観客」ではなく、男女約6万5000人の若者たちが埋め尽くした。ひときわ女学生の姿が目を引く。女学生らは学徒たちの志気を高めるために動員された。当時、女学生として参加したある婦人は「先頭の帝大生や早慶の学生は本物の銃を担いでいたが、あとの半分の学徒は木銃だったので、武器の不足に先行きを案じ、この人たちのどれだけが生きて帰れるのかと不安を覚えた」と語る。元学徒兵は、「スタンドの女学生らの白い襟が目に飛び込んできて、この娘さんたちを護るために僕は戦場に行こうと決意した」と戦後に語る。学徒や女学生の思いは各自いろいろあったと思う。しかしそれに比べてYouTubeなどで流れる東条英機が学徒らに檄をとばす有名な訓示のシーンは何度観ても何だか空虚に映る。

1943年(昭和18)10月21日に行われた出陣学徒壮行会 

後列右端が神代さん。入営前の壮行会 家族と学友とともに

 2020東京オリ・パラ開催で、確かな根拠を示すことなく「安心・安全」を連呼する菅首相の姿が、戦争末期の戦争指導者の姿と妙に重なる。成算のない戦闘に多くの兵士を送り込み、「神州不滅(「神国」日本は不滅であるという意味)を掲げて突き進む「根拠なき精神論」を主唱した戦争指導者とそっくりに見えてきた。

 当時の戦争指導者と教育関係者の無責任と、現代の大学の「戦没学徒兵」への無関心に、神代さんは生き残りの学徒兵の一人として心底、怒っていた。

軍に嫌われた福澤諭吉と経済学部?

 元学徒兵の間で囁かれる噂に「慶應出身者は軍に嫌われていた」がある。福澤諭吉の影響下、英米の経済学や実学を売りにする学風が嫌われたというのだ。なかでも経済学部は目の敵にされたとか。物の売り買いで儲けることは英米主義的な個人主義や自由主義的行為で、戦時期の日本の指針である「滅私奉公」や「大和魂」に反するというめちゃくちゃな理屈だ。戦地で慶應だとわかると上官から「慶應出身者は一歩出ろ。福澤諭吉は国賊だ。歯を食いしばれ!」と他大学出身の兵隊よりも多く殴られたという。これも「十人十色」の体験談で必ずというわけではないのだが、慶應嫌いはさておき、一兵卒(ひらの兵隊)を経験することなくすぐに指揮官となる学徒兵に対して、一兵卒からたたき上げの古参兵は相当に面白くなかったに違いない。その鬱積した思いが学徒兵への私的制裁に繋がったとも考えられる。しかし、一方で工兵隊のある中隊長は、ビルマ戦線で早稲田大学の工学部出身の兵隊が難しい計算を駆使して見事に河に橋を架けたと絶賛していた。ちなみに神代さんも経済学部だが、「慶應だから殴られたわけではない」と言っていた。

軍装の神代さん

 慶應の経済学部が軍隊で嫌われていたどうかは個人的な見解によると思うが、経済学部は確かに憂き目にあっていた。慶應義塾の白井厚名誉教授が独自に算出した統計によると、経済学部の学生の死亡率がダントツに高かった。文学部、医学部はやや低い。工学部は入営が延期され、入営後も技術系将校なので前線に出ることが少なく、結果として戦没率が著しく低い1 。学部によって死ぬ確率に差が出るとは理不尽な話だ。しかしながら、帝国大学や早慶はまだマシな方で、それ以外の大学では理工系以外の学科が潰される憂き目に合った。例えば立教の文学部は潰され、学生は慶應と上智が引き受けた。経済学部に限らず、総じて文化系の学生には受難の時代だったといえる。

卒業生の割合 文学部6.4% / 経済学部51.4% / 医学部10.4% / 工学部4.0%
戦没者の割合 文学部4.9% / 経済学部56.9% / 医学部9.6% / 工学部0.5%

【白井厚編『アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿』より一部引用】

 現在の大学進学率は50%をゆうに越すが、白井厚慶應義塾大学名誉教授によれば、当時の大学生は同年の男性の2%程度に過ぎない「超エリート集団」であった。学徒兵だけを特別視するつもりはないが、戦後、各分野で存分に活躍したであろう学徒兵の戦没は、日本社会における「知的財産」の多大な損失だったと思う。慶應義塾では、学徒3000人以上を軍隊に送ったが、約400人が戦没しふたたび学園に戻ることはなかった。

「学徒出陣壮行会」をサボって何処へ

 神代忠夫さんもあの日あの場所で銃を担いで分列行進したと思っていたら……。なんと学友3人で「学徒出陣壮行会」をサボったというから驚きである。

 「僕らは壮行会をサボってね……どこに行ったと思う?」とニンマリ。

 「あの日、家から支度して神宮外苑に行こうとしたら雨が降って来てね。相撲部と射撃部の連中も銃を担いで僕を迎えに来たんだけど、銃が濡れると後の手入れが大変だし、行ったところで東条首相の大したことない話を聞くだけだし。もう見納めかなと思ってね、3人で日劇ダンシングチームの踊り子の生脚を拝みに行っちゃたんだ(笑)」。

 「(え! マジですか……と心で呟きながら)参加が義務あるいは強制ではなかったのですか」。

 「大学に何人出せという割り当てはあったけど、全員出ろという強制はなかった。あの時の学徒は文系の学生が中心で理系は対象外(対象外でなく医学部や理科系は延期扱い)、慶應は割り当ての人数が足らなくて、医学部の学生も動員されたらしい」。

 それにしても驚いた。白黒フィルムの悲壮感溢れる「学徒出陣壮行会」の映像を観る限り、まさかサボって踊り子の生脚を見に行った学徒がいたなんて……。ついでながら、1943年秋頃にはまだ日劇でラインダンスが見れたことにも驚いた。さすが慶應? 福澤風の自由主義的な大学だから規律が緩いと思われるかもしれないが、この日に山登りに行ったという早稲田の学徒の手記もあるので、慶應だけが特殊だったわけでもなさそうだ。よく考えてみれば、77校すべての学生が参加したら、満員電車でもあるまいし、サクサクと分列行進できなかったに違いない。

「出陣学徒壮行の地」の碑の建立

 1993年、「学徒出陣壮行会」50周年を機に、元学徒らが国立競技場のマラソンゲート近くに「出陣学徒壮行の地」の碑を建立した。毎年10月21日に、元学徒らが集って追悼会を続けてきた。この慰霊碑がこの場所にある、それこそが「学徒出陣の証」であり、後世に向けてこうした歴史的事実を記憶に留めてもらいたいとの強い思いがこの慰霊碑には込められている。当事者はこの碑を「慰霊碑」と呼ぶが、一般に「記念碑」と呼ぶ人たちも多い。戦争の非体験者には「慰霊碑」も「記念碑」も大差がないように思うのだが、自分も学友のように死んでいたかもしれない当事者は、「記念」なんて何ごとか! というのだ。よって、本文では「慰霊碑」とした。

 「学徒出陣壮行会」から70年目の2013年10月21日の追悼会には、約100名の元学徒兵と関係者が集結した。神代さんも私も参列した。2020年の東京オリンピック会場となる国立競技場の建て替えをひかえ、2014年に、慰霊碑も国立競技場から一旦撤去されることに決まったので、高齢の元学徒らは「この場所での追悼会はこれが最後になるかもしれない」との思いで遠方からもやって来た。その後、「出陣学徒壮行の地」の碑は、国立競技場からほど近い秩父宮ラグビー場に移設され、彼らは移設先でも追悼会を続けた。今年、新国立競技場の完成にともない慰霊碑は元に戻されたと聞いている。

「出陣学徒壮行の地」の碑

 コロナ禍で2020年の慰霊祭や追悼会は軒並み中止となり、私も神代さんにお会いすることができなくなった。神代さんと参列した最後の追悼会は、2019年10月21日の秩父宮ラグビー場での追悼会となった。2019年の追悼会に参加した元学徒は、「最後の早慶戦(1943年10月16日の『学徒出陣』前の早慶の壮行試合、のちに映画化)」ではないが慶應の神代さんと早稲田の方の二人だけであった。

 戦没学徒の追悼会のあと、神代さんとよく二人でお茶をした。

 「19年三田会(昭和19年卒業生の親睦会)でもう僕しか残っていないからね。内地で大した戦争もしてない僕が最後に残っちゃって……。三田会の幹事だから仕方ないね。

 さっきも若い新聞記者に、『あの雨の日の壮行会はどうだったか』なんて聞かれても、NHKも撮っているし、まさか踊り子の生脚を観に行ってました、とは言えなくて困っちゃったよ、えへへ」。子どもみたいに嬉しそうに笑われる。

神代さんと筆者。2018年11月10日慶應義塾戦没者追悼会にて

 「脚を観に行ってたとはさすがに言えませんよね(笑)」と私も笑顔で答えたが、本当は笑えなかった。神代さんの話は笑い話になんかできないと思った。当時の学生もいまの学生と変わらない普通の若者であったという当たり前のことに気づかされた。戦時中であっても、若者は異性に憧れ、恋をし、スポーツや音楽を楽しみ、友人と語り合い……彼らは普通に泣き笑いしていたのだ。戦時中、さまざまな制約があっても彼らなりの青春があった。そんなどこにでもいる普通の学生が、軍隊に入り、「娑婆しゃば(地方)気分」2 を叩き出され、「日本軍兵士」になる。そして彼らは命を賭して戦場に行った。ありふれた学生の日常が一変する現実。悲壮感漂う「学徒出陣」の映像を観せられるよりも、私はこのギャップに心が押し潰されそうになった。


 私は2002年から戦場体験の聞き取りを始めた。かれこれ20年になる。元兵士の戦争体験を聴くことは骨の折れる仕事で決して容易ではない。人の話を聴くには、相手を思う気持ちとひたすら忍耐が必要である。人はなかなか本当のことは話してくれないものだ。実は相手も相当辛抱してくれた。戦争にも軍隊にも無知などこの馬の骨ともわからない私を受け入れ、おじいさんたちは長い間辛抱強く相手をしてくれた。いまさながら感謝しかない。戦争のことだけでなく、人としての生き方も物ごとの見方もいろいろ教えて頂いた。当初はビルマ戦にのみ関心があったのだが、次第にできるだけ何でもかんでも戦域に関係なく陸海軍問わず幅広く戦場体験を聴くようになった。あれこれ選んでいる場合でも立場でもないことに直に気づいた。かれこれ17年ほど、二つの戦友会の世話人もしている。とはいっても戦友のほとんどが鬼籍に入った。遺族でも家族でもない私が成り行きで世話人をしている。戦友会はもとより慰霊祭や慰霊旅行にもできるだけ参加し、元兵士の子ども世代との交流を重ねている。

 戦友会や慰霊祭に現れる表面上の「本当」のことだけでなく、心の襞の奥深いオリのような感情も見逃さないように目を凝らし耳を傾けてきたつもりだが、正直よくわからないことばかりだ。でも今頃になってじわじわと浮かびあがってくる何かを、この機会に掬い上げてみようと思う。そんなこんなの戦争を介した慰霊祭や追悼会での出来事、そしてそこで織りなす人間模様や元兵士の「本音」など、外から見ただけでは分からないディープな世界を紐解いてみたい。

 最後にもう一つ、神代さんのパンチのある言葉をお届けしよう。

 「僕は右翼も左翼も大嫌い。なぜならどちらも自分の意見が正しいと主張して自分と違う意見の人の話を聞こうとしないから。こんなに長く生きてきたけど、本当のことは半分も言っていない気がする。僕の言うことは半分くらいは嘘だから信用しちゃだめだよ」。

 「嘘から出た誠」ではないが、嘘の方が本当(本心)あるいは真実に近かったりして……。

 娘さんが葬儀の挨拶で「皆さま、こんな面白いおじいさんがいたことを忘れないでいてください」と結ばれた。ユーモアとペーソスを持ち合わせた魅力的な「慶應ボーイ」を私は生涯忘れない。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 白井厚編 慶應義塾福澤研究センター発行『アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿』(2007年)73頁参照。
  2. 軍隊では兵営の外の世界を「地方」あるいは「娑婆」と呼ぶ。軍隊が中心に位置し、その周りはみな「地方」というわけだ。初年兵教育の目的は、兵士たちの心から「地方気分」を叩き出し、「軍人魂」を入れること。学徒兵の場合は「学生気分」である。