家族と厄災 / 信田さよ子

感染症、災害、原発事故。予期せぬ非常事態は、家族関係に何をもたらすのか。 新しい物事を生みだすのではなく、いずれおとずれる限界を前倒しで呼びよせているとしたら……。 家族のなかの最も弱い立場の人々と接してきた臨床心理士が、「家族におけるディスタンス」をめぐって希望の糸をたぐる。

KSという暗号

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 コロナ禍にあってカウンセラーとして思うことを、6月以来いくつか文章にしてきた。緊急事態宣言解除後も、感染状況は好転せず長期化の様相を見せている。そんななかで新しく連載を始めることになった。さていったい何をテーマにしようかと思い惑っていたが、今の段階で考えていることをとりあえず具体的に書こうと決めた。

 コロナによってもたらされるものがあるとすれば、新しい何かが生み出されるというより、これまですでに起きていた、芽吹いていた変化の加速化ではないかと思う。家族にあてはめればよくわかる。顔を合わせないようにして延ばし、猶予期間をつくってきたことができなくなる。早晩来るはずだった限界が訪れるのだ。そんな状況にあるひとりの女性の姿を描写することからこの連載を始めたいと思う(もちろん登場する人物は実在しない、私が出会った多くのひとたちから造形しなおしたものであることを最初にお断りしておく。このような定型的な前置きを書くことはあまり好みではないし、むしろお読みになった方たちが「これって私かも」と思っていただきたいくらいである)。

カウンセラーを査定する

 50代後半のくにさんは、4月から足の痛みがひどくなったので杖を突きながら通常の倍の時間を掛けてカウンセリングにやってくる。大きな病院で診てもらったが、骨や筋肉には異常がなかったという。

 精神科への長い通院歴のあるくにさんは、90年代初頭、子どもを虐待してしまう親のグループカウンセリングに参加していた。まだ世の中では虐待の二文字など存在しないと思われていたころだ。1990年に大阪と東京で相次ぎ虐待防止の専門家団体が誕生した影響を受けて、先駆的試みとしてスタートしたものである。約1年間続いたそのグループには、わが子への深刻な虐待をなんとかやめたいという10人前後の女性が参加していた。彼女たちのほとんどが、自分の親からさまざまな虐待を受けていたことも、グループをとおして知ったのである。

 くにさんは、30年近くの紆余曲折を経て、現在、親の所有するアパートの管理で生計を立てている。近所のスーパーでレジの仕事に就く35歳の娘と二人暮らしをしている。

 くにさんは、いつもギラギラとした目をして一冊のノートを片手にカウンセリングの部屋に入ってくる。開始が3分でも遅れると、時計を見ながら冒頭で「終わりは○○分ですよね」と言う。私は、「はい、3分遅れましたので終了は○○分です」。と答える。

 カウンセリングの途中で「そのことは3回前に話したはずですよ、覚えてないんですか」と指摘されることもしょっちゅうである。私はあわてて記録を読み返して「そうでした、すみません忘れてました」と謝る。

 5年ほどのつきあいだが、目の前に座るカウンセラーを厳しく査定し点検することが目的でやってくるのではないかと思うこともある。専門家と非専門家、援助者と被援助者、治療者と患者、カウンセラーとクライエント、さまざまな呼び方があるが、毎回この二者の関係性について考えさせられる。臨床心理学にはさまざまな流派があり、くにさんのような言動をまったく別に解釈する専門家もいるだろう。しかし私には次のような確信があった。

 くにさんには、長年意識の底にしまいこんだ記憶があった。グループに参加することで30年かけてそれを少しずつ思い出し、言葉にできるようになった。それは彼女の心身に深い影響を与えていたのだが、そう自覚できたのも近年のことだ。虐待された経験を否認せずに、日々苦しみながらもそれと共に生きていることを承認する数少ない存在のひとりが私であり、ふたりのあいだでそれが了解されているという確信である。

不穏な母

 くにさんが小学校3年のときのことだ。夕方テレビを見ていたら、いつものように母親が台所で騒ぎだした。午前中は寝込んでいる母は、夕闇が迫るころから活動し始める。父が帰る前にはいちおう食事だけはつくるのだが、ガスの炎、野菜を切る包丁が母を不穏にするのだった。調理しながら近所のひとの悪口や、遠い昔に馬に蹴られて放り上げられた経験などを語り始めると、止まらなくなる。同じことばを繰り返しながらだんだん声が高くなる。「誰やあんた? いっつもそこで見とるんやろ」「バカにせんといて」

 東北生まれの母なのだが、なぜか関西弁を使い、誰もいない空間に向かって毒づくのだ。

 冷蔵庫のドアをバーンと閉めたり、キャベツを蹴ったりするうちはいいが、悲鳴を上げ始めると、手に負えない。そんなときは、見計らったように「かあちゃん、手伝おうか」とくにさんが駆け寄るのだ。

 くにさんは即座に行動をとれるよう、ずっと聞き耳を立てて緊張してなければならないのだった。

 その日は様子が違った。弟が学校帰りに交通事故に巻き込まれたため、母は聴取のため警察に出向いていた。戻ってくるなり、たぶん疲れ果てていたのだろう、母は車の運転手から商店街の目撃者、警察官までがグルになって自分を苦しめていると繰り返し、被害者である弟までもその仕組みに加担していたに違いないと主張した。くにさんは嵐が過ぎるまでいつもうなずいたり黙って聞いてあげなければと思っていたが、転んで肘に怪我をした弟のことを思うと、黙っていられなかった。

 「ゆうちゃんは怪我したんだよ、とっても痛かったんだよ」

 それを聞いたとたん、母は無言でくにさんの首に両手を掛けた。

 呼吸が苦しくて言葉も発することができないくにさんは、ひたすら母の目を見た。その目にはくにさんの顔は映ってはいなかった。ただただ怒りだけが底なしの穴の中で渦巻いているのだった。母の見ている世界に私などいない、このひとは自分しか見ていない、こう直観したところで記憶は途切れている。

背負い癖

 ここまでを思いだすのにどれほどの時間がかかっただろう。

 出産後にくにさんは、日々成長していく娘がかわいいと思ういっぽうで、なぜか無性に腹立たしくなるのだった。そんな自分を母親失格と思った矢先、夫が急死。不安定になったくにさんは、初めて精神科を受診したのだった。医師の勧めで保健所の育児相談を訪れ、それがきっかけで冒頭で述べたグループにつながった。

 ほどなくして弟が通院していた精神科の処方薬を大量に飲んで亡くなった。大きな支えだった夫ばかりか弟までも失ったくにさんは、グループで「世界でいちばんかわいそうでみじめな自分」をわかってもらいたいと願った。このままでは娘を傷つけてしまうかもしれないと恐れたからだ。しかしそれは根を張った苦悩の木のほんの一部に過ぎなかったのだ。

 グループのメンバーは子どもへの虐待を止められず自分を責めていたが、いっぽうで自分の親から受けた虐待についても語った。それを聞いていると、次々と不調のスイッチが入っていくようだった。解放されるとか、謎が解けたといったプラスの経験ではなく、メンバーの体験が引き金になって体調が崩れたり、原因不明の体の痛みも生じたりした。

 母に首を絞められたことが明瞭に想起されたのは、今から20年前だった。弟が母親に何度も包丁を向けていたことも、それに伴って芋づる式に思い出されたのだ。一連の言動から母親がおそらく統合失調症だったこと、にもかかわらず一度も治療歴がないことも想像にかたくない。父親は極端な病院嫌いだったので、母の異様なふるまいも見てみぬふりをし、放っておいたのだ。結果的に母を落ち着かせ、家族を平穏に保つ役割はすべてくにさんが背負うことになったのだ。この「背負い癖」はくにさんを今でも苦しめている。

「かわいいよ」

 80歳を過ぎた両親は徒歩で20分くらいのところに暮らしている。もともと近所づきあいの少なかった両親だったが、くにさんが小さかったころに建てた家はすっかりゴミ屋敷になり、人づきあいもほとんどない。両親はコンビニやスーパーの総菜を食べて暮らし、一日中テレビを流し、時折空中ですれ違う言葉はケンカにもならなかった。

 ひとり息子がなぜ自殺をしたのか、突然夫を亡くした娘が孫を抱えてどうやって生きてきたのか、そんなことを考えもしなかったのではないか、両親の姿を見るたびにくにさんはそう思う。

 ケアが必要なときだけは、突然くにさんが呼び出される。父親が自転車でよろよろ走って転倒し救急車で運ばれたとき、買い物の帰りに道に迷って商店街で保護されたとき、父も母もそろってくにさんの名前と携帯番号を書いたメモを差し出すので、くにさんは何があっても駆けつけることになる。だが、両親と顔を合わせるとその後必ず混乱し、3日間ほどは精神安定剤をたくさん飲んで寝込んでしまうのだった。


 コロナの感染拡大は両親と接触する機会を増やし、くにさんの背負い癖の再発を生んだ。両親はマスクを持っているだろうか、緊急事態宣言をどこまで理解しているのか、父はマスクもせずに自転車で遠くまで出かけてしまうのではないか。ケアマネージャーを訪問させて父の要介護度を認定してもらう必要があるのでは……。考え始めるとくにさんは居ても立ってもいられなくて、マスクをかき集めて実家に行った。

 ゴミ屋敷の中で両親はいつもどおりぼんやりテレビを見ていたが、意外にも冷蔵庫の中には買い込んだ総菜がたくさん入っていて、コロナという言葉も知っている様子だった。くにさんが「できるだけ外に出ないようにね。出るときは必ずマスクするんだよ!」と手渡したマスクもすなおに受け取った。ほっとして帰ろうとすると、薄笑いを浮かべた母が体に触れんばかりに近寄ってきて、突然10万円をくにさんに握らせた。そして「かわいいね~、くにはほんとにかわいいよ」と言ったのである。その母の目には、見覚えがあった。

フラッシュバックと痛み

 帰宅してから、くにさんは足が少ししびれる気がした。最初は朝晩のしびれだったのが、2週間ほど経つと、少しずつ痛みに変わっていった。さらに、首のまわりの何とも言えない感覚に襲われるようになった。夜眠る前が特にひどかった。頚動脈が圧迫されうっすらと気が遠くなるような気がするのだ。

 6月中旬、ひさしぶりにカウンセリングにやってきたくにさんが杖をついていたので、私は驚いた。しかし足の痛みよりも困っていたのは首の感覚だという。私がフラッシュバックなのではないかと伝えると、くにさんは、待ってましたとばかりに「ピンポーン!」と即答した。

 コロナ感染拡大を契機にして、両親の孤立と感染を防ぐために実家を訪問したことがフラッシュバックの引き金になったに違いない。これまでも母親に会うときには用心してきた。実家の玄関を開けると同時に記憶に蓋をしなければならなかった。何より首を絞めていたときの母の目を思い出してはならなかった。

 準備をして覚悟を決めれば、なんとか1時間程度の滞在はこなすことができた。そうやって最大限の努力をしてきたのだが、コロナによって会う頻度が増し、調整が崩れたのである。

 服用する薬の量も増え、ふらつきながら実家に行くようになり、足の痛みが始まった。理由もわからず、とりあえず整形外科を受診した。処方された鎮痛剤を飲み、眠ろうとしたとき、ふっと息ができなくなった。暗闇の中でくにさんは気づいた。これは初めてではない、ああ、あのときの感覚だ。母が私の首に手をかけて、それから……。

私の手痛い失敗

 くにさんの話しを聞いた私は、記録するように提案した。これはフラッシュバックの対処のひとつだ。ほかにも深呼吸や目の前の物の名前を声を出して呼ぶなどがあるが、息ができないというくにさんには声を出すことは不可能だった。

 「そうだ、KSと名付けてはどうでしょう」

 私の頭に中に浮かんだのがDAI語だ。ローマ字でkubiwo shimerareruはKSとなる。記録する際にずっと楽で、回数もカウントしやすいだろう。こうして二人のあいだでフラッシュバックを指す暗号めいたKSが誕生したのである。

 くにさんは、それから一か月半たってカウンセリングにやってきた。

 いつもどおりにノートを読み上げながら、小さな声で「ケーエス」と何度も言う。全部報告し終わったくにさんは、聞いている私がケーエスに触れないこと対して、「覚えてないんですか」と詰問した。そこでハッと気づいた。一番大切な言葉だったのに、それを忘れてしまうなんて。私は心から謝った。

 何人ものクライエントから、「主治医が毎回同じことを聞くんですよ、前回伝えた事全部忘れてしまってるんでしょうか」といった訴えを聞いたことがある。そのたびに私だけはそれをしないと自負していたのに。膨大な数のクライエントの語る内容、住所や家族構成などをすべて覚えているというのが、不遜なまでの私の自信だった。それがKSによって崩壊するとは……。


 来年、後期高齢者となる私の記憶力の限界を示すものか、それとも相談記録を事前に読み込んでおくことを怠ったせいなのか。この一件は、カウンセラーとしての自信喪失と反省を促す出来事だったが、同時にフラッシュバックに関して多くの示唆を与えてくれる。

 日本で初めての「虐待する母のグループ」に参加した経験は、くにさんの中に脈々と生きていた。どうすればいいのかというハウツーよりも、自分の経験を言葉にすることのほうがずっと意味がある、そう信じてきたのだ。だからこそ、息ができなくなる感覚が、フラッシュバックに違いないことに気づけたのである。

侵入する記憶

 フラッシュバックにあたる日本語は、侵入的想起である。文字どおり、思い出そうという意志がなくても、勝手に当時の感覚が侵入してくることを指す。思い出す(能動)のではなく「思い出してしまう」ことが一番大きいポイントだ。くにさんは、母に首を絞められたときの光景を20年も前に思い出していた。しかしコロナ禍で母との接触が増えたことで、そのときの身体の感覚がフラッシュバックするようになった。当時の首の圧迫感と意識が遠のくような感覚が、40年以上経った今よみがえっているのだ。

 カウンセリングで報告するために、くにさんはKSの回数を記録した。ゼロの日もあれば3回の日もあったが、実家を訪れた日は、例外なくKSが起きていた。

 「目の前にいる年老いた母は、ボケたりしてません。娘にめんどうみてもらうしかなくて、そのために母はお金を渡したり、『かわいい』なんて言ってるんでしょう。わかってるんですよ」

 「3日前に、思い切って聞いてみました。母ちゃん、私が小学生のころ首絞めたことあるよね? って。そうしたら、母はきょとんとしてるんですよ。もう一回言いました、私の首しめたよね、って。そしたら急に夕飯の切り干し大根がどうのと話題を変えるんですよ。ヘンかもしれませんがそれが救いに思えたんです。だってどこかで身におぼえがあるから話題を変えたんでしょ? まったくおぼえてなかったら、『うそだ』とか『そんなことしてない』って否定するはずですから」

 そう語って、くにさんは杖をつきながら立ち上がった。

 実家を訪れる回数を減らすことはできるのだろうか。その前に足が痛くて動かなくなったりはしないのだろうか、果たしてくにさんの母は意図的に話題を変えたのだろうか。いくつかの問いをはらみながら、くにさんと一ヵ月後に会うことになるだろう。次回のカウンセリングでは「ごめんなさい」と言うことがないようにと自戒しなら、私はカウンセリングの部屋のドアを開けて、くにさんを見送った。そして心からKSが減少していることを願った。

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。