声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

(最終回)しまわれた戦争

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 ほかの家でも同じかどうかはわかりませんが、いや、これは家族の中でもわたしだけのことかもしれないのですが、祖父母、とくに祖父はわたしにとって、“戦争”と切り離せない存在でした。戦争というのは、第二次世界大戦のことです。こんな言い方をすると祖父がちょっとかわいそうですけれど、同じ家の中に祖父がいるだけで、どこか空気が重苦しい感じがありました。そして、その重苦しさは、わたし自身は体験したことのない、あの、戦争というものとつながっていた気がするのです。いや、もしかすれば当時はそんな風には感じていなかったかもしれません。それが、大人になって祖父のことを思い返しているうちに、わたし自身の認識が変わっていっただけかもしれない。

 それでね、あの重苦しさはなんだったのか、その中心にいた祖父はいったいどういう人だったのか、いま一度考えてみたいと思うんです。だって、また戦争が始まってしまったから。もう2ヶ月以上も経ちますか。つい早いなあと思うけれど、戦地にいる人びとからしたら、きっと絶望的に長いのでしょう。それがまだ、終わる兆しが見えないなんて。

 あの日、わたしは東京の仕事相手とzoomをしていました。だいたい用件が済んだ頃、携帯を見たその人が速報に気づいて、ふたりで、えーって叫びました。恥ずかしながら不勉強で、わたし、こんなことが起きるなんてぜんぜん思っていなかった。それから毎朝、今日こそ終わっていないかなと念じながらテレビを点けるんですが。毎日たくさんの人が殺されてしまって、まちも建物も次々と焼かれて、あたり一面灰色になって。攻撃されたまちの名前を検索してみると、どこもすごくきれいなんですよね。それで、こうなる前に一度行ってみたかったなって思ったりして。まあこういうことは、いま言うことではないのかもしれませんが。

 この前ラジオで、いまも戦地に残っている人が、復興するときにまた力を貸してくださいと言っていて、胸が苦しくなりました。いつになったら、彼らが復興に専念できるんだろうって考えてしまって。

 11年前、津波で流されたまちを見たお年寄りたちが、まるで空襲の後みたいだって話していたのを覚えています。あるおじいさんは、自衛隊員に支えられて壊れた家から出てきたときに、大丈夫です、また再建しましょう!って笑っていて、わたし、その姿にすごく救われました。戦争も昭和のチリ津波も体験した人たちは、その度にまちを作り直してきたんだなって思って。そのおじいさんも、何年か前に亡くなられたみたいですけれど。もうずいぶん時間が経ちましたから。おかげさまで、まちもすっかりきれいになりました。

 わたしね、市民が何百人も避難していた劇場が爆撃を受けたってニュースを見たときに、同じように何百人も避難していたのに津波で流されてしまった、あの海辺の体育館のことを思いました。人災と天災は違うって言うけれど、わたしは天災の悲しみを知っているからこそ、あの人たちの悲しみが、すこしは想像できる気がするんです。

 でも、やっぱり天災と戦争の違いっていうと、戦争の方が、より人間の悪い面が見えてきますね。信じがたいような悪行が報じられてきて、本当に目を覆いたくなる。でも、毎日毎日、え、こんなことも、え、ここまでやるのって驚いているうちに、人間は根源的に、こういうことをしてしまう存在なんだろうなって思うようになりました。わたしだって、あなただって。状況が状況だったら、同じことをやってしまうかもしれない。もしかしたら、わたしの祖父だって。あなたのおじいさんだって。ついね、そんなことを考えてしまう。

 そう、それで今日は祖父の話をしてもいいですか。あなたに聞いてもらいたくって。

 わたしの祖父は、語らない人でした。いえ、正確にはよく語る人だったのかもしれません。でも、すくなくともわたしは、祖父の話をちゃんと聞いたことがない。

 祖父は、戦争から帰ってきた人でした。身体が小さかったためになかなか召集されなかったけれど、敗戦の間際に令状が来て、南方の島に送られたそうです。たぶん、悲惨なものも見てきたはずだけど、その経験が詳しく語られることはなかった。いや、すこしは語っていたんですよ、断片的に。ジャングルの中の細い道とか、積み上げられた遺体とか。繰り返し同じようなフレーズを口にしていたと思う。

 よく戦争から帰った人は口が重い、なんて表現がありますが、うちの祖父はそれとは別の理由を持っていました。祖父は40代で交通事故に遭い、以降、脳に障害を負っていた。だからわたしが生まれた頃にはすでに、祖父はのろのろとしか動けなかったし、会話は支離滅裂でした。母は、祖母、つまり義母が亡くなってからずっと祖父を介護していたので、晩年の祖父をよく知る人です。その母に言わせると、祖父はいつも長々と話をしていた。でも、その言葉は断片的で、混乱していて、同じ内容をひたすら繰り返すようなものだから、とても聞いてはいられなかったのだと。

 はい、わたし自身もそういう認識です。祖父はいつも何かをぶつぶつとつぶやいていました。たしかに戦争に関わる言葉や、エピソードの断片みたいなものもあった気がするんだけど、わたしたち家族は、日常の中にそれが持ち込まれることを、どこかで疎ましく感じていました。せめてちゃんと聞き取ることができれば、聞く価値があるんだから、とも思えたんでしょうけれど。よく意味が掴めない、むやみに暗い話の断片に、日常的に付き合うことは難しかった。

 祖父のつぶやきは聞き取ろうとしても声が小さすぎたし、ときおり必要があって質問すると、祖父は悲鳴みたいな、不安定で大きな声で、言葉を必死に引っ張り出すみたいにして話しました。たとえば。わーたあしい、の、あーし、があ……という感じ。でも、たとえそれを辛抱強く聞いたとしても、内容が支離滅裂であることに変わりはなかったし、制御できない身体で話すこと自体が、祖父にとっては疲れることだったのだろうと思います。祖父はだいたいそういう風に話をしたあと、一瞬自嘲気味に笑って、目の端に涙を溜めていました。なにかが悲しくてそうなるのか、どこか痛いのか、ただの生理現象なのかはわからなかったですけれど。その姿はすこし切なかった。

 そういう祖父の涙を、最後に見たのはいつだっただろう。ちょうど20年前、祖母が亡くなった後あたりでしょうか。これはべつに、祖母の死を嘆いていたわけではなくて、単純に、わたしが最後に祖父と対峙したのがその頃だったというだけ。祖母が亡くなったのは、わたしが小学5年生の冬で、その後わたしが、中学、高校と進んでいくなかで、祖父との関わりは薄れていきました。

 それまでは、けっこう一緒にいたんですよ。うちは二世帯住宅で、一階に祖父母の部屋があって、二階にわたしたち家族が住んでいました。母が働いていた時期もあったので、とくに祖母にはよく遊んでもらっていたし、とても好きでした。でも、祖父母の部屋に入るのには抵抗があった。他の部屋とは違う、饐えたような臭いがするから。ふたりは物が捨てられなかった。インクの切れたボールペン、ヨーグルトのカップ、飴の包み紙、ハギレやボタン。そういったゴミみたいなものを、あちこちに積み重ねていた。

 わたしたちの世代だと、戦争の頃は物がなくて大変だったっていうのが、祖父母の定番の語りだったでしょう。食べ物を残しちゃだめ、電気も水も節約しなさいって毎日聞かされました。いま思えば、だからあの部屋は暗かった。もったいないと言って、手元が見えなくなるまで照明を点けないから。ふたりが見ているテレビも、ほかの部屋とは違いました。画面の中の演歌歌手は悲壮感に包まれているし、お笑い番組の再放送では、帰還兵に扮した芸人が軍歌の替え歌をうたっている。なんとなく暗くて、若い人にはわからないものという感じがした。祖父母のことは好きでしたが、もので溢れたあの薄暗い部屋の、生ぬるい空気は苦手だったのです。

 祖父母はクリスチャンでした。教会で一緒のおばあさんたちがあの部屋に集まって、聖書を読んだり、歌をうたったりしていることもよくありました。わたしはそれもあまり得意ではなかった。とくに、薄暗い部屋に夕暮れの光が差す頃の、その情景はうつくしかった気さえするのに。単純に、人見知りをしていただけかもしれません。みんな、おいでおいでと歓迎してくれるんだけど、知らないおばあさんたちの中で、よくわからない歌をうたうのはちょっと。そういうとき、祖父はちょこんと座っていました。ときには、うとうとと気持ちよさそうに居眠りをして。

 うちは、父方だけクリスチャンなんです。そもそもは、戦後に何かしらの宗教を持ちたかったという祖母が、ちょうど近所に教会が出来るからと言うので通い始めたらしくて。うちの祖母って素朴ないい人っていうか、あの時代のふつうの、ちょっと明るい女の人っていう感じだった。だから、そんな祖母が、宗教が欲しいと言って、自ら行動したこと自体がちょっと不思議なんですが。でも、世間的になのかはよくわかんないですけど、すくなくとも祖母の周りにはそういう人が多かったそうです。やはり当時としては、切実なことだったんでしょう。

 けっきょく、そうして祖母と一緒に教会に通いはじめた祖父の方が、信仰という面では熱心だったように思います。わたしが幼い頃、祖父母と一緒の夕食の前には必ず、お祈りの時間がありました。祖父が例の悲鳴のような声を絞り出しながら、父と子と……と言って、重そうな腕をなんとか持ち上げて十字を切るんです。

 それでね、祖父はわたしが大学2年生の時に亡くなったんですが、祖父は晩年、というか祖母が亡くなってから施設に入るまでの7年余り、押し入れの中にいました。

 押入れって、あの押入れです。荷物を入れておく、あの。もちろん祖父はそこへ押し込められていたわけではなくて、自ら居たんですよ。たぶん、仕事をするために。祖父は事故に遭うまでは小さな町工場をやっていたみたいで、押入れの中でも、いつも錆びた工具を持って何かを磨いていました。だから近しい人たちは、祖父のことを勤勉な人だと言っていた。だって、誰に頼まれなくとも、いつまでも働いているのですから。

 祖父の居た押入れは、もともと家族が居間として使っていた一階の八畳間で、祖母が亡くなってから家中の部屋割りを変えたときに、そこを祖父の個室にしたんです。祖父は部屋で朝ご飯を食べ終わると、その押入れに、毎朝“出勤”しました。押入れはいつも、ものでいっぱいでした。だけど、ちょうど祖父ひとり分のスペースだけ空けてあって、祖父はいつもそこに薄い座布団を敷いて、足を伸ばして座っていた。

 わたしは何年もの間、祖父の部屋自体、覗いてみることもありませんでした。たぶん、工具が擦れる音と、ぶつぶつと低いつぶやきが聞こえるその薄暗い部屋が、ちょっと不気味だったんです。祖父はただおとなしく、ひたすら勤勉に、そこで仕事をしていただけなのに。

 だけどね、じつは一度だけその押入れを開けてみたことがあしました。あれは、ただの怖いもの見たさだったのかもしれません。確か、わたしが大学一年生の頃、祖父が施設に入ったすぐ後のことです。

 家族がいない夕暮れ、わたしはそっと祖父の部屋の戸を開けました。ガランとして何もないその部屋は、あの饐えた臭いがしました。それから音を立てないように部屋に入って、祖父の押入れを覗き込むと、相変わらずわけのわからないものでいっぱいでした。わたしは、祖父の座布団に腰を下ろしました。薄い水色の花が描かれた座布団カバーは、かつて祖母が使っていたものだった。それが使い込まれてシミと毛玉だらけになっていて、触ると手のひらが痛いほどザラザラしていた。

 祖父が居たのは、わたしが足を伸ばしてすこし狭いくらいの空間でした。座布団の周りには、工具や材料らしきものがあって、たぶん仕事に使うもののすべてが、そのままの姿勢でも手に届くようにと配置されていた。そして、ちょうど右腕を伸ばしたあたりの床の上、祖父が座っていると外側からは見えないような場所に、広告の裏紙で出来たメモ帳がたくさん積んであるのに気がつきました。上の方の数冊をめくると、びっしりと文字が書かれていた。ミミズが這ったような読みにくいものではあったけれど、あれは確かに文字でした。

 その中で繰り返し書かれていたのが、どこかの島の名前だったっていう記憶があるんです。たぶんあれが、祖父が戦争中に行っていた島だったんじゃないかと思うんですけどね。いまはもう、ぜんぜん思い出せない。当時はメモの束にすら興味が湧かなくて、ぱらぱらめくったあとはすぐに戻してしまいました。

 だけどもうひとつ、祖父の押入れで気になることがあったんです。ちょうど祖父が座っていた場所から見上げたあたりに、空気の入れ替えのためだけにある、下から押し上げるタイプの小さな窓がありました。その把手のところに、15センチくらいの人形(ひとがた)のシルエットを見つけて。立ち上がって見てみると、それは、何かの印刷物から切り抜かれた、薄っぺらなマリア様だった。

 祖父はこれを見ていたんだな、と思いました。祖父は、マリア様に向かって話し続けていた。マリア様に見守られながら、仕事をしていた。

 こうして思い返すと、なにかけっこう、大事な話だって気がするんですけどね。当時のわたしは、ふーんとしか思いませんでした。ましてや、祖父が亡くなって間もなく、わたしと母は、押入れにあったものをすべて捨ててしまった。わたしがひとり暮らしの家を引き払って、祖父の部屋に住むことになったもので。

 やっぱり祖父の持ち物は、わけのわからないものばかりでした。インクの切れたボールペン、豆腐のパック、ヤクルトの容器、鉄くず、赤く錆びた工具。だからわたしたちは、何を取っておくかなんて判断するまでもなく、手に取ったものをどんどん捨てて、捨てて。そうして祖父が熱心に書いていたあのメモ帳に辿り着いたときも、まあこれもいいよね、と言ってゴミ袋に入れた。いまになって、惜しいような気がするんですけれど。

 それでね、わたしは毎朝戦争のニュースを見ながら、祖父のことを思い出そうとしてしまうんです。祖父は、戦争の記憶を語りたかったんじゃないかって。いや、祖父はちゃんと語っていた。よく聞き取れなくても、日々のつぶやきはわたしたちに届いていたし、文字だってたくさん書いていたんです。なのに、ついに誰も、それを聞くことも読むこともしなかった。

 祖父の言葉にどんな感情が込められていたのか。悲しみなのか、恐れなのか、懺悔なのかもわからない。あのメモにはどんな記憶が書き込まれていたのか。傷つけたのか、傷つけられたのか。後悔なのか、喜びなのかもわからない。母や父、叔母たちに聞いてみても、祖父が行った南方の島の名前すら、いまや誰も覚えていないんですよ。祖父は日々語っていたけれど、わたしたちは、祖父とともに暮らす日常の中で、それを聞く時間と、そのための方法を持とうとしなかった。

 祖父は、何を抱えながら“戦後”を生きたんでしょう。わたしはいま、日々戦地から送られてくる映像を見ながら、祖父が見たかもしれないもの、してしまったかもしれないことの細部をあれこれ想像してしまいます。わたしたちが日常のちょっとした重苦しさなんか避けていないで、せめて祖父の話をよく聞いていれば、聞こうとしていれば。ちょっと大げさかもしれないけど、すこしは違う未来があり得たんじゃないかって思うんです。

 だからわたしは、祖父が目尻に溜めていた涙と、あの薄っぺらなマリア様を探さなきゃなりません。

©Natsumi Seo

 前回の原稿を書いたすぐ後に、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まった。連日多数の人命が失われ、美しかった街並みが破壊されていく戦地の惨状が伝えられている。いつか学校の授業で教わったはずのこと。テレビのニュースで日々報じられていたこと。誰かが悲鳴をあげるように語っていたこと。とても情けないけれど、わたしが日常の中で聞き流してきたあらゆるものごとが繋がって、いま目の前の映像に映る戦火の引き金になったのだと実感して青ざめる。正直、最初の数日は起きていることの凄まじさにうろたえて目を伏せたくなった。でも、身近な友人が淡々と状況を調べ、彼女自身の態度も表明しながらSNSに投稿しているのを見て、まずはわたしも学びたいと思い直した。

 この戦争を考えるための特別な知識や専門性など持っていないわたしが、この現状を変えるための大きなアクションや“正しい”発言などなかなかできるものではない。そのやるせなさは確かにあるけれど、せめていま起きていることをできる限り見聞きして、自分なりに考えたこと、感じていることを言葉にしつづけていたい。

 学ぶだけでも十分だけど、頼りなくても言葉として表現してみる。すると、身近な人たちと会話を始める契機が生まれたりするし、いまはSNSを通して世界中とやりとりができてしまうのだから、渦中にいる人びとに、離れた場所にいるけれど、ちゃんと見ているよ、聞いているよという個人的な意思を伝えることもできるかもしれない。そして、この言葉の積み重ねが小さな記録になっていくこともまた大事だと思う。もちろん現状を書こうとする言葉たちが正しいものかどうかなんてわからない。けれど、だからこそ、現状の中で思考を続けて記述していく言葉が、いつかこの出来事が“歴史”になったとき、その未来を生きる人びとが“当時”の複雑さを想像し、彼らの生活に引きつけて思考するための一助になる可能性は、すこしだけある。

 じつはわたしは、ひとりひとりが自身の体験と考えを言葉として表現していくことに、けっこう希望を持っている。ふだんから、過去を生きた人びとが生活を留めた記録物(戦争や災害などの特別な体験もあれば、ふつうの日常を記述したものもある。その表現手法は日記や手記、詩歌や絵画までさまざま)を読んだり、いわゆる市井の人びとにかつての体験や心情を語ってもらったりする時間を愛しているわたしは、きっと、いやもちろん、わたし/あなただってその担い手になれるのだから、と信じている。

 わたし/あなたがこの戦争をどのように見聞きし、どう感じるか、どう考えるかなんて、世界にとっては取るに足らないことだと思われるかもしれない。けれど、そんなことはない。わたし/あなたが小さくとも自ら表現をしていくことで、細いけれどもしなやかな連帯の糸がつながっていく。最近それを実感することがあったので、書き留めておきたい。


 先日、友人たちと『10年目の手記――震災体験を書く、よむ、編みなおす』という本をつくった。この本は、公募によって全国から届いた、東日本大震災についての記憶をつづる手記と、それらを読み、どのように受け取ったのかを、手記に対する返信のように記していくエッセイを軸に構成されている。

 震災体験というと、どうしても“当事者”のものという印象になりがちだけれど、この当事者という言葉が指す範囲はとても曖昧で、揺れ動くものでもある。たとえば大きな災害が起きると、被災の程度によって当事者(≒被災者)か非当事者(≒非被災者)かという境界線が生まれ、人びとはふたつに振り分けられる。これはいささか乱暴なことではあるけれど、実際には、家族や家を失ったり、ふるさとを追われたりして、手助けを必要としている人たちと関わるうえで必要な“慎重さ”の現れでもあった。こうしていっとき便宜的に括ることで、そこから溢れて非当事者になった人びとは、当事者に対して何か手伝えること(自分なりの役割)を探し、動き出すことができる。語りに関しても同じ構造が採られることは多く、苦しみの中にある当事者の貴重な(きっと社会的にも語る価値があると思えるような)体験を、非当事者が聞き手になって聞くことによって、同じ被害を生み出さないための話し合いや検証を始めることができる。そして何より、語ることは祈りでもあり、癒しでもあったはずだ。まずは当事者が語り、非当事者が聞く。この役割の振り分けは本質的に、災禍を受けて、立場や経験の異なる人たちが、まだ出来事から間のない時間をともに生きていくためのひとつの方法であった。

 だから、発災当初、また出来事の渦中において、この括りはある程度機能していたのだと思う。けれど、その後、時が経つにつれ、この括りによってさまざまな弊害(ともとれること)が起きてくる。たとえば非当事者は、あなたには震災に関わる資格があるのか、という自問も含むやりとりに揉まれているうちに、自分自身が同時代で体験し、考えてきたことには価値がないと決め込んで、出来事について語ることも関わることもできなくなっていく。一方で当事者は、他者から求められる当事者像を演じつづけなければならず、そこにもまたしんどさがある。

 東日本大震災で被災した陸前高田とそのほかの場所を行き来していたわたしの実感としては、当事者(≒被災者)という言葉が、同時代を生きる人びとのコミュニケーションをどこか複雑にしすぎていることが気になった。ある頃からは、被災したふるさとを立て直すためにひとつひとつ話し合い、暮らしのための決断を重ねてきた当事者と比較して、非当事者の方が、むしろ震災の話題に対してセンシティブになっているようにも感じられた。

 ふと思い返すと、震災における非当事者が自分自身の言葉を語る場はあまりなかったかもしれない。東日本大震災という巨大な出来事が起きたとき、きっとみなが動揺し、感情が大きく揺れた。発災当時やその後の時間に、離れた土地でニュースやSNSで状況を見ていただけであっても、個人的な記憶と結びつけたり、情報を調べたりしながら、その痛みに共感し、露呈した課題に頭を悩ませ、想いを巡らせてきた人は多い。だから、語りたいこと、語るべきことは誰しもにあったはずなのに、自らを非当事者と位置付けた人びとの多くが、それを語れないままでいた。発災当時になされたあの振り分けによって抑圧され、表に出てこられないままの語りが、まだひとりひとりの身体の中に沈み込んだまま残っている。

 震災10年目に当たる2020年にはじまったコロナ禍で、わたしは遅まきながらも、それは結構まずいことだったのではという感覚を強めた。当事者か否かという境界がよりあいまいな疫病の流行という長期的な災禍にあって、語れないストレスが溜まってくると、社会全体がヒリヒリと苛立っていく。それでもなんとかみなが感情を抑えて日常を進めていくうちに、もっとも気遣われるべき死者を弔ったり、闘病中の人びとに想いを寄せたり、最前線で働く人たちの状況を想像したりするような場面は大事にされなくなる。不全感に苛まれる中で、社会の空気も自分自身もそうなっていくのは、悔しくもあった。

 自分の体験を語ること、他者の体験を聞くこと、そして話し合うことは、たとえば自分に “語る資格”があるのかと吟味することよりももっと切実で、誰しもに必要なことだったのではないかと、わたしはいまになって思う。震災にしてもコロナ禍にしても、ある災禍によって傷ついたコミュニティを修復し、この先の未来をつくっていくためには、互いに語らうことによってそれぞれが癒されながら、自分なりの考え方や立場を位置づけていくことが大切な気がする。そして、そのやりとりを重ねていく先にこそ、語り継ぎや伝承がなされる可能性が見えてくるのではないか。

 だとすればいま一度、当事者か否かに関わらずに、それぞれの震災体験を語り、聞き、話し合えるような場をつくってみたい。そんな想いから、2020年初夏、友人たちと一緒に『10年目の手記』という企画を立ち上げた。手記というメディアは、その本人がひとりきりになって書くものだから、他者との比較からいったん抜け出して、それぞれが“本当に”語りたいことに向き合うのにきっといい。震災で直接的な体験をした人も、そうではないと感じている人も、自分なりの「忘れられない」「忘れたくない」「覚えていたい」ことを綴ってくれませんか。さっそくそう呼びかけてみると、全国からぽつりぽつりと手記が届いた。

 初めの頃、茨城からの応募が目立ったのは印象的だった。被災したけれど東北ではないし、比較すると被害は大きくないのだけど……という戸惑いの告白の後に、それぞれの経験が慎重に綴られていた。応募された手記は俳優に朗読してもらい、隔週で配信していたネットラジオ番組で流す。すると、その声に呼応するようにして、また違う手記が届く。徐々に、震災当時子どもだった歳若い人や、直接的に原発事故や津波の被害を受けた人、一方で、西日本などの遠方の地に暮らす人からも手記が届き始める。なかには、阪神淡路大震災や広島の土砂災害など、ほかの災禍の経験を持つ人もいた。そして、“あの日”を契機に人生が好転した人もいたし、被災地の復興の歩みを自身の人生と重ね、支援することが人生の支えになっている人もいた。体験の種類は違えど、どれもが切実さと誠実さを持った語りであり、読めば新鮮な驚きがあった。あのとき、こんなことがあったんですか。この10年間そんな風に生きてこられたんですね。声が声を呼び込み、出会い、そんなやりとりを重ねていく。

 それぞれが持つ痛みの記憶は重苦しいものではあるけれど、互いの違いを尊重しながらそれについて語り合い、聞き合い、共感できる部分を慎重に見つけていくことで、人びとがゆるやかに繋がっていく。このとき、痛みの記憶は“媒介”である。見知らぬ人の痛みに気づいて寄り添おうとし、やっぱりわからないと戸惑うこともある。また、思いも寄らなかった他者の感覚を知ることで、ふと身近な人に対する理解が深まることもある。その時間は、どこか尊い。

 わたしたちはきっと、教訓を語り継ぐためだけに災禍を語るのではない。同時代を生きる者同士が語らうことで、互いの存在を理解する解像度を上げ、この人を信頼したい、信頼できるという感覚を獲得しながら、ともに生きる友人になっていくのかもしれない。


 ウクライナで戦火が上がり、2ヶ月が経つ。他者の/自分自身の痛みの記憶に向き合った経験はきっと、思慮深さを保ちながら、遠方の地まで想像力を広げていくことの一助になる。ひとりの人間として、戦地で生きるひとりひとりを想いたい。もちろん、ほかの困難に直面している人びとのことも。

 それと同時に、この戦争において侵略者たちが振るう凄まじい暴力と、それを支えてしまいもする道理の通らないシナリオ、そして各国が微妙な利害関係の中で選ぶ行動などを見ていると、翻って、わたしが日本国内で出会ってきた第二次世界大戦の語りたちは、あの語りでよかったのだろうか、あまりに一面的だったのではないか、という疑問が湧いてくる(ただ彼らが語らなかったのではなく、わたしが聞けなかっただけかもしれない)。

 敗戦から40年後の日本で生まれて、実際に戦地から帰ってきた祖父を持ち、戦争中は食料がなかったんだからご飯は残しちゃダメ、と口酸っぱく語る祖母と同居して育った“ふつうの日本人”のひとりであるわたしは、情けなくも、そもそもなぜその戦争が始まり、たくさんの人が犠牲になり、土地が焼かれ、先人たちが作り上げてきたまちや文化がなくなってしまったのか、その理由と経緯がきちんとは理解できていないし、腑に落ちないまま生きてきた。

 祖父は戦争についてあまり語らなかった。祖母は空腹で辛かったと繰り返した。空襲に遭った親類はその恐怖を涙ながらに訴えた。村の古老たちは自分も当たり前に軍国少年だったと告白した。先生は、日本は焼け野原から立ち上がったのだと誇らしげだった。戦時の苦労と、そこから再生した現在の日本を歴史物語として繋ごうとするとき、とりわけ日本側の加害に関わる語りは弾かれてしまったのだろうか。もちろん、痛みに引き裂かれながらも自身の行ないを語った人も多くいたはずだけれど、そのほとんどが(もしかすれば意図的に)見過ごされてきたのではないか。

 80年近く時が経ち、体験者、とくに当時大人だった世代の多くが亡くなってしまってから、やっとこんな問いに気づいてどうしたらいいのだろう。一瞬途方に暮れそうになるけれど、いまの時代を生きるわたし/あなたも、未来の人びとからしたら、かの戦争を語り継ぐ担い手のひとりであるのは確かなことだ。ならば、2022年を生きるわたしたちはわたしたちなりに、できる限り丁寧に、真剣に、未来に手渡すべき語り方を話し合えばいいのかもしれない。

 語られたことの陰には、語れなかったことがある。尋ねても聞き出せなかったこともあれば、聞くのが辛いから、面倒だからと聞き流されるうちに語られなくなってしまったこともあっただろう。そういうものの断片たちが、どこかに残されていないだろうか。

 もしかすればそれは、押入れの奥にしまわれた古い日記や、本棚に佇んでいる自主出版の手記集、あるいは地域史誌の片隅や映像記録の一コマに残されているかもしれない。その時どきの関係性や約束の都合で口には出せなかったけれど、ほんとうは言葉にせずにおれなかったはずの痛みの記憶たちはきっと、いまも何かの形で、この世界のどこかに刻み込まれているはずだ。ひとりひとりが語り継ぎの担い手として、残された記録を探し出し、あらためて読んでいく。語られなかった、大きな物語からは弾かれてしまった言葉たちを真摯に探してみる。集まって、いま向き合うべき問いについて話し合う。いま一度、先人たちの語りの在りようとその背景を見つめながら、未来に手渡す語りを、思慮深く、軽やかに実践していく。

 語り継ぐことは、つねに動的で創造的な試みなのだと思う。過去の記録を受け取り、思考しながら、それらを残した人びととのやりとりをつづけてゆく。そして、未来の人びとと手を繋ぐ。

 痛みの記憶を語らうことで同時代を生きる人びととつながることができる。連綿と続く語り継ぎの担い手のひとりとなることで過去や未来の人びととつながることができる。そんなふうにして細い連帯の糸でつながり、互いを友として、つきあっていく。

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます

ご愛読ありがとうございました。本連載は弊社より書籍化される予定です。詳細は後日、SNSなどでお知らせいたします。