悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

(最終回)「戦場体験」を受け継ぐということ

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戦争前夜

 「朝、目が覚めると戦争が始まっていた」

 芥川作家の中村文則さんの小説『R帝国』(2017年)の書き出しだ。

 昨年末からご本人もいろいろなメディアやサイトなどで指摘しているが、現政権が押し進めている「敵基地攻撃能力」が、『R帝国』の冒頭の場面にそっくりなのだ。隣国が核ミサイルの発射準備をしていると察知したら、それを阻止するために攻撃を始めた、という設定。「やられる前にやってしまえ」とばかりに敵基地への攻撃を強行し破滅に向かう「R帝国」の顛末を描いている。「R帝国」という架空の島国とはまさしく日本国である。

 いまや現政権は、莫大な軍事費を投入して高価で目立つ「正面装備」1 の拡充に躍起になっている。見てくれを派手にして威嚇するつもりらしいが、正面装備偏重の防衛力装備は他国に脅威を与えるだけで、岸田首相が主張するような抑止力になるとは到底思えないのだ。

 抑止力のために防衛費をGDP(国内総生産)の2%、いまのほぼ倍に増額し、2023年度から2027年度までの5年間で43兆円の防衛予算にするという。抑止力といえば聞こえがよいが、諸外国は日本がとてつもない勢いで「軍事国家」に宗旨替えしたと見なすだろう。「そっちがその気ならこっちもやるぞ」となって、抑止力という名の軍拡競争が始まるだろう。日本の軍拡が中国のさらなる軍拡を生み、中国のさらなる軍拡に脅威を抱くインドが軍拡し、インドと歴史的に揉めてきたパキスタンも軍拡化するかもしれない。北朝鮮も便乗しそうだ。このような国際的な大軍拡の「ドミノ倒し」の火付け役が日本だなんて冗談じゃない。単なる妄想だと一蹴するなかれ。岸田首相の答弁よりずっと腑に落ちる話ではないか。

 さらに、「敵基地攻撃」へのGOサインの判断は、あの「最大友好国」が握っているのだ。情報の収集や分析や伝達能力がイマイチの日本は武力行使に踏み切る判断を米軍に依存せざるを得ない。過去の戦争が情報戦で負けたことは周知の歴史的事実である。日本は米国の判断で武力行使に踏み切り、米国と相手国との代理戦争を担うという最悪のシナリオ。もはや小説の中の話ではなく、日本が戦場になる可能性が一気に現実化してきた。いまのウクライナを見れば一目瞭然。米国は武器を送るが米兵を派兵しない。日本も同じようになる。戦争をするとどうなるのか、日本人は嫌というほど知っていたはずだ。為政者は過去の戦争の失敗から何も学んでこなかったのか、元兵士らの声にしっかりと耳を傾けてきたのかと、問いたい。


 軍拡や戦争は、あちこちで沸き上がってくる「脅威」と有事の宣伝から始まる。明治初期の「ロシア脅威論」、戦後の「ソ連脅威論」に基づく再軍備化、現代における「台湾有事」の宣伝による「中国脅威論」が如実に表している。軍拡期は、戦争や軍拡に反対する思想を取り締まる発想が幅を利かせ統制が実施される。「脅威」は「外敵」だけにあらず。1925年の治安維持法の制定で、共産主義者を「内敵」と見なし徹底的に弾圧した。現代では2013年に制定された特定秘密保護法が様々な「内敵」をあぶり出し、言論抑圧に適されることを危惧する。そうなれば「軍拡・戦争反対」と表立って言えなくなるだろう。学問や教育などへの介入や統制はすでに始まっている。昨今では2020年10月に明らかになった、菅政権下で生じたアカデミーとしての独立性に政府が関与した「日本学術会議会員任命問題」が筆頭にあげられる。

 最も有効な抑止力は日本を「脅威」と見なされない巧みな外交だと思うのだが、いまの日本は勇ましい声の方が大きく聞こえてくるだけで外交努力が見いだせない。戦争のできる準備は着々と進んでいる。一見平穏な平時が一晩で「戦時」となる。もはや戦後〇〇年でなく、「戦争前夜」なのだ。

 最終回の冒頭から危機迫る不穏な事ばかり書いてしまったが、そもそもこの連載を引き受けた最大の理由は、二度と戦争や紛争による死者を出さない、二度と「悼むひと」を生み出さない、そういう未来を次世代に繋ぐバトンになりたいという願いからである。

平和ボケ

「すべての戦争は自衛戦争から始まる」

 戦友会で耳にタコができるほど聞いたフレーズだ。

 戦争忌避や厭戦を断固取り締まる任務のビルマ憲兵隊の元憲兵軍曹が、なんと「もしいま戦争になったら、私は米袋を抱えて山に逃げます」と耳を疑うような発言をした。ビルマ戦場を生きのびた約200名の部隊の中隊長も戦友会で次のように語った。

 「私はいま戦争になったらさっさと逃げます。戦争に行って、戦争のむごたらしさを嫌というほど経験し、私は最大の卑怯者になりました。戦争は何としても阻止しなくてはいけません。勝っても、武力では何も解決しません。だから自衛隊も軍隊もいりません」

 さらに彼は「今度生まれてきたら、音楽家か画家か、美しいものを愛でる芸術家になりたい、戦はもう懲り懲りだ」と結んだ。冗談なのか? いやはや、100歳を超えた元中隊長の心からの本音である。

 戦争で生きのびた元兵士たちは皆、口を揃えて語った。

 「戦争はどんなことがあってもやってはいかん」

 これが地獄の戦場を生きのびたおじいさんたちの唯一無二の「遺言」なのだ。
                   
 ミャンマー内陸部のウェトレット村の日本軍戦没者慰霊祭で、ミャンマーの僧侶は、「日本人のためだけではない、ビルマ戦線で亡くなったすべての人のために祈っている」と説いた。当たり前だが、戦争で惨たらしく死んでいくのは日本人だけではない。日本は、約80年前の戦争で戦没者した自国民を悼むことはあっても、日本の侵略戦争の犠牲となった諸外国の膨大な死者と向き合い、その死を心から悼むことがどれくらいあったか。


 戦争を生きのびた元兵士たちは住民に対する加害行為に身に覚えがある、あるいは(伝聞も含めて)見聞きした。一方で、彼らは戦場で無惨に死んだ戦友を片時も忘れられず、彼らを悼む気持ちと同時に「死に損なって申し訳ない」という贖罪の気持ちを抱えて戦後を生きのびてきた。戦争に行ったら誰だってただじゃすまない。人間性をかなぐり捨て、自らの命を差し出し、相手の命を奪う。本来、何の因果も恨みもない相手(住民も含めて)を国家間の対立の末に殺さなければならない宿命を負わされる。戦死するも生き残るも時の運。運が悪ければその屍を野に晒す。戦争で父親や夫や兄弟など家族を失った遺族のその後の過酷な末路も筆舌に尽くしがたい。運よく生きのびた帰還兵らも凄惨な戦場の記憶から生涯逃れることができずPTSDを発症する人も少なくない。そしてこの復員兵のPTSDが子々孫々までも深刻な影響を与えるのだ2。それもこれも日本人だけではない。植民地にされた朝鮮半島や台湾の人たちは「日本人」として戦争に駆り出された。15、6歳の少年が戦場に駆り出され、初潮を迎える前の少女までもが「慰安婦」にされ、人として生きるあらゆる権利を踏みにじられ、戦後も過去の忘れ難い苦しみを抱えて生きなければならなかった。今でもこうした「終わらない戦争」が至る所で癒えることのない傷口をぱっくりとあけて横たわっている。

 本当の「平和ボケ」とは、そうした未だに癒えない傷口に気づかずに「平和」だと錯覚して無頓着に生きていることだと思う。それが為政者だったとしたら史上最悪の事態だ。

客室乗務員からビルマ戦の研究者へ

 ここで、少し私自身のことについて述べたい。

 1970年代頃、東京の池袋駅付近に白装束を纏い、ヨレヨレの軍帽を被り、傷痍軍人と思しき手や足を失った人が物乞いをしている姿を目にした記憶がある。当時子どもだった私はそうした人たちに出会うことが怖くて意識的に避けていたように思う。あの時代はまだ子どもでも戦争の痕跡を見つけることができたのだが、1980年代になると見える形では認識しづらくなった。

 1930年生まれの父は軍国少年であったが兵士としての戦場体験はなかった。ただ、父の背中には無数の焼夷弾の破片によるケロイド状の傷跡があった。幼い頃、父の背中を見るのが怖くて父と風呂に入るのが嫌だった。父方、母方双方の兄弟にも戦場体験者がいない。つまり私は戦没者の遺族でも復員兵の家族でもない。そうした家族状況も影響していたかもしれないが、1960年代生まれの私は、過去の戦争にも、戦争映画や文学にも、兄がよく作っていた戦艦のプラモデルにも些かも興味がなく、東南アジアや中国を訪問しても、そう遠くない過去に自国の軍隊が現地の人たちの命と財産の全てを奪った侵略者だったなんて露ほども思っていなかった。恥ずかしながら「平和ボケ」の典型だった。
                 
 1982年から88年まで、私は日本航空の客室乗務員として世界の空を飛びまわっていた。バブル経済で浮足立っていた時代である。若い頃、私は海外といえば観光とショッピングしか頭になかった。20代前半の息子に「母さんの若い頃はバブル期で勢いがあってよかったじゃないか」と指摘されると苦笑するしかない。未来に対する不安や閉塞感に苛まれているZ世代の若者にはそう映るだろう。

 1980年代の日本航空には戦場体験者も少なからずいて、元特攻隊の生き残りという機長(キャプテン)もいた。今でも思い出す出来事がある。天候の悪化が予測されている中、DC-10でクアラルンプール国際空港に向けて着陸態勢に入った。その時突然のスコールで機体が左右に揺れ、豪雨で視界が完全に閉ざされた。ところが飛行機は難なく着陸。同乗の男性パーサーが「さすが元特攻兵は腕が違うな」と呟いた。当時の私は戦争に対する漠然とした忌避感で、キャプテンがなんだか怖くて近寄り難く思えた。

 乗務後、クアラルンプールの滞在先のホテルに到着するやいなや、例のキャプテンから若いスチュワーデスたち(現在はキャビン・アテンダント)に予期せぬ「業務命令」が下った。とにかく言われるままにタクシーに乗せられ、こんもりとした森のような場所に連れて行かれた。そこが今となってはどこなのかよくわからないが、少し開けた野原に戦没者の慰霊碑か墓碑であろう石碑がひっそりと佇んでいた。戦争にまったく無関心な若い娘たちは「こんな所に来たくないわよね……」とこっそり耳打ちしたことを覚えている。戦場体験をもつキャプテンには忘れ難いメモリアルな場所であり、そのことを若い世代に知らしめたいと思ったのだろう。それなのにその時にキャプテンが語った言葉が何ひとつ思い出せないのである。


 1985年6月22日、私はニューヨーク行の日本航空006便に乗務していた。ニューヨーク便もまだ直行便ではなくアラスカのアンカレジを経由していた時代だ。このフライトが後の私の運命を変えることになる。

 乗務員席の向かいに初老の男性客が座っていた。男性の名は小林憲一さん(当時65歳)。あの時私が006便に乗務していなかったら、小林さんに出会わなかったら、私は拉孟らもう戦の研究者になることも、中国雲南省と北ビルマの境の山深い拉孟戦場跡に立つこともなかった。小林さんは拉孟戦(ビルマ戦線の一戦域)に深く関与した旧日本陸軍の飛行隊長で、戦後、日本航空に航空整備士として入社した。彼はニューヨーク駐在の娘さん一家を訪ねるためにこの便に乗っていた。この男性が、のちに拉孟戦について話をしてくれる重要な人物だったのが、当時はそんなことは知る由もない。通常、機内でのお客様との出会いは「一期一会」。その後地上でお会いすることはまずありえない。ところが小林さんとは東京の自宅が近かったことなどいろいろな偶然が重なって、その後、家族ぐるみの交流が続いた。しかし、拉孟戦について聞くに至るまでの道のりはまだ遠く、ずっと後まで待たなければならない。

 25歳の時、世界を見て己の未熟さを知り、改めて大学でもう一度きちんと勉強したいと思った。私は親に内緒で日本航空の客室乗務員の試験を受け、親の猛反対を押し切って大学を中退し日航に入社した。19歳の若気の至りだ。在職中にあの御巣鷹山(群馬県多野郡上野村)の日航ジャンボ機墜落事故(1985年8月12日)が起きた。便名は123便大阪行き。小林憲一さんに機内で出会ってから2ヶ月後の大惨事だった。123便墜落事故から私は安全運航も、健全な労働環境も黙って座ったままで与えられるものではないことを心に強く刻んだ。

 これは反戦・平和運動にも通じる。憲法9条があったという理由だけで日本は戦争を回避できたのではない。二度と戦争をしてはいけないという市井の人たちの強い思いと行動がそうさせたのだ。日航時代に私は航空安全や労務管理で少しでもおかしいと思ったら、その疑問を自覚し、解決のために行動することを学んだ。目を覆いたくなるような問題にも向き合って本質を明らかにすべきだと肝に銘じた。当時、520名の尊い命を奪った123便墜落事故の徹底究明と二度とこのような大惨事を起こさないために何をすべきかを深く広く考える日々を送った。こうした日航での強烈な経験がいまの私の戦争研究の基盤になっている。


 1988年3月末に6年間勤務した日航を退社し、4月から大学(文学部史学科)に復学した。日本が近代化の手本としたイギリス近代史を、とくに19世紀の労働運動史を研究対象に選んだ。その動機は日航時代の組合運動にある。

 当時の日本航空の労務政策は客室乗務員の新入社員を全員、会社側の第2組合(御用組合)に加入させて組織拡大を計りながら第1組合潰しを目論んでいた。当然ながら私も何ひとつ疑問を抱くことなく第2組合員に所属していたのだが、123便墜落事故を契機に私は第2組合の方針や要求に疑問を抱くようになった。当時の日航は利益を優先するあまり、安全運航や乗務員の健康を疎かにしていたのだ。最悪の事故を起こした直後にもかかわらず様々な安全に関する疑問を組合に投げかけてもやんわりとスルーされた。違和感を覚えついに意を決し第2組合を脱退し、真摯に航空機の安全と乗務員の健康を訴える第1組合に移った。そんな大それたことをする若手の客室乗務員はめったにいなかった。案の定、第2組合員の上司から会社の方針に敵対する不届き者として理不尽な差別や虐めを受けた。見せしめだった。この経験を肥やしに復学した大学では近代イギリス労働運動史の分析から日本航空の労働運動の労使協調路線の原因を明らかにしたいと考えた。実体験から生まれた並々ならぬ学究心を抱いて大学に復学したのである。

 その後の研究者としての歩みは紆余曲折があり過ぎるので割愛するが、2002年8月15日、17年前に006便で出会った小林憲一さんから突然自宅に小包が届いた。その中身は拉孟戦に関する陣中日誌や手記などの貴重な一次史料であった。この時、私は博士課程の大学院生兼主婦で、第二子の出産と育児に忙しく大学院を一時休学していた。拉孟戦の史料を見て全く門外漢の私は困惑し、大学院の指導教授に相談すると教授から「19世紀のイギリス近代史研究は後からでもできるが、戦場体験者は直にいなくなるから縁のある遠藤さんが拉孟戦の研究をすべきだ」と背中を押された。こうしてビルマ戦研究者として最初の一歩を踏み出したのである。

 手始めに小林憲一さんの戦場体験の聞き取りから取り掛かった。長年親交があったにもかかわらず拉孟戦の話を聞くのは初めてで、いつになく緊張して小林さんを訪ねた。連載でも度々取り上げたので改めて述べないが、小林飛行隊長の任務は膨大な兵力の中国軍による兵糧攻めに合いながらも死闘を繰り広げている拉孟守備隊への軍事物資の空中投下であった。雲南戦場では米軍が完全に制空権を掌握していたので、小林飛行隊長の投下任務は命がけだった。その後小林さんから拉孟守備隊の希少な生存者を紹介してもらいながら、拉孟戦場の内実を10年の歳月をかけて丁寧に聞き続け、英米中連合軍側の史料と付き合せながら拉孟戦の内実を論文にした。

 女性が研究者になるのは昔も今も容易くない。結婚し第一子を授かって、しばらくして第二子を身ごもった時、ある大学教授が発した言葉が忘れられない。

 「一人ならまだしも二人の子持ちじゃ専任のポストは無理だな……」

 夫も研究者になることには理解を示してくれたが、家事育児を代わりに受け持ってくれることはなかった。家事・育児・親の介護を一手に担う側らで研究時間を捻出するのは容易ではない。寝る時間を削るしかなかった。院生仲間(私よりずっと若い独身男性たち)からは「遠藤さんは子ども産んだだけで研究成果は何も産んでいないですよねー」と軽いノリでズバリと言われ、かなり凹んだ。あながち嘘ではないので悔しくも反論できず、そんな自分を惨めに思った。いまだったらマタハラ? アカハラ? と問題視される発言なのだが……。

 ようやく自分の時間がもてるようになったのは50歳を過ぎた頃で、単著『「戦場体験」を受け継ぐということ――ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』(2014年)を上梓したのは51歳だった。006便の小林さんとの機上の出会いから30年もの歳月が流れていた。
                

慰霊登山と拉孟

 2015年は戦後70年と御巣鷹山の123便墜落事故から30年目の節目の年であった。在職中も退職後もいつか御巣鷹山に登らなくてはと思いながらも実現できずに月日が過ぎてしまったが、2015年10月、私は客室乗務員OGと運航乗務員OBの有志とはじめて慰霊登山をした。台風一過の目が覚めるような秋晴れの日だった。退職して30年もたっていたが、御巣鷹の尾根に向かう大型バスの中でかつてのJAL仲間の絆を肌で感じながら、和気あいあいとした雰囲気で昔話に花が咲いた。

 登山口の駐車場を降りると、「慰霊の園」と呼ばれる場所に到着した。両手を天に向けて合掌するようなイメージの巨大な慰霊碑が目に飛び込んできた3。青空に伸びた尖塔の先に墜落現場の山がある。胸が詰まる思いで手を合わせた。慰霊碑の後ろには納骨堂があり、身元確認できない遺骨が123個の壺に納められている。さらに亡くなった520名の氏名が刻まれた石碑がある。沖縄戦の戦没者の名前が刻まれている「平和のいしじ」(沖縄県糸満市平和祈念公園内)がふと脳裏に浮かんだ。同じ苗字が連なるのを見つけ胸が詰まった。お盆の最中、帰省のための家族連れがこの先も続くはずの人生を一瞬にして奪われた。客室乗務員の名前と年齢が刻まれている。22歳の○○。これは私だったかもしれない。そう思うとその後の30年余りの人生を精一杯生きてきたかと自らを問い詰めたくなった。

慰霊碑(2015年10月2日撮影 以下同)

 御巣鷹山と松山(拉孟戦があった中国雲南省にある松林の山)は、当然ながらまったく関係がない。123便墜落事故跡と拉孟戦場跡。私は御巣鷹山に登り、拉孟の松山を思った。二つの山を結びつける人物は世界中探しても他にいないだろう。だが、私はどちらも登山の随所で、亡くなった人たちの「声なき声」が山肌から聞こえてくるようで息苦しくなった。

御巣鷹山を登る

御巣鷹山の山中

 御巣鷹山は想像以上に険しい山道だ。野生動物も出没するので、熊よけの鈴を鳴らしながら登った。御巣鷹山にも松山にも登山道に横木が敷いてあってそれを頼りに一歩ずつ進むのだが、前人未到の松山はさらに足場が悪く山肌を這うようにして登ったのを思い出す(現在は遊歩道が出来ている)。そんなことを思い出す。御巣鷹山の登山道のあちこちに遺族が建てたと思しき慰霊碑が目に入った。ある遺族が書いたメッセージが目に留まる。

 「当時1才だった私も母親になりました。今日は父に孫の顔を見せに来ました」

 父親を亡くされた娘さんの言葉に涙が溢れた。機内で座っていた場所によって遺体の損傷が異なると教えられた。本当に辛く悲しい登山であった。

昇魂之碑

 登り切った墜落現場付近に「昇魂之碑」がある。一緒に登ったキャプテンが前方の山を指しながら語った。

 「あの山ね、最初に突っ込んだんだ。あそこだけU字にくぼんでいるだろ。30年経っても木が生えないんだ。俺たちに忘れないでくれってね」

 堪らなくなって同期とその場で号泣した。

 くる年もくる年も遺族や縁者は癒えない悲しみを抱えながらこの道なき山を登り、死者への哀悼を捧げてきたのだろう。


 海の向こうの別の場所で、死者を思いながら、同じように山を登る人たちがいる。1944年9月7日に全滅した総勢1324名の拉孟守備隊の元将兵が松山とその周辺のどこかで眠っている。その場所は今もわからないのだ。現在も中国は元日本兵の遺骨収集も慰霊も許可していない。拉孟の遺族らは生きのびた元兵士らとともに慰霊行為ができなくとも「悼む気持ち」を携えて、松山に登った。

 「父はこんな遠い異国の山奥で死んだかと思うと不憫でなりません」

 もう80歳になる娘さんの言葉だ。

松山の地隙。中国雲南省には地表が割れて出現した独特の隙間があり、旧日本軍は地隙と呼んでいた。拉孟守備隊は交通壕に利用していた。2019年2月24日撮影

 123便の墜落事故(1985年8月)から今年で38年、拉孟守備隊が全滅して79年(1944年9月)が経つ。拉孟の慰霊祭にはもう元兵士の姿はない。遺族も80歳代が主流になってきている。日航ジャンボ機墜落事故の遺族らがつくる「8・12連絡会」によると、1985年事故直後に同会に加盟した遺族は約280家族だったが、2021年には140家族に半減し、80代前後が大半で全体の3分の2を占めている(朝日新聞夕刊2021年9月16日)。どちらも遺族の高齢化は進んでいる。

 2006年4月24日、日本航空は二度と再び事故を起こさないと誓って、事故の教訓を風化させないために、安全啓発センターを開設し、ここを「安全の礎」とした。それ以来、日航は重大な航空機事故を起こしていない。1985年に22歳で入社した社員も今年還暦を迎える。今となってはあの事故をリアルタイムで知っている社員はもう数パーセントだそうだ。およそ80年の戦場を知っている兵士ももうわずかだ。なんだか似ているではないか。あの事故を知る人がいなくなることで、事故が風化してしまうことがないように切に願う。戦場を知る人たちがこの世を去った時に次の戦争が始まるというのは先人の言葉だが、その兆しが目の前に見えてきた。だからいま、私は御巣鷹山を思い出し、松山に思いを馳せる。二度と同じ過ちを犯してはならない。空の安全も平和な世界もどちらも何もせずに与えられるものではない。安全と不戦を求める後継者たちのひたむきな思いと行動が風化を阻止してきたのだ。

 前出の「8・12連絡会」の事務局長の美谷島邦子さんによると、会の運営が子どもや孫世代に受け継がれているという。美谷島さんは「若い人たちは必ずしも私たちと同じやり方を継承しなくてもいい。自分たちのやり方で会を続けて欲しい」と述べている。これは「戦場体験を受け継ぐこと」にも共通する。戦時を生きのびた祖父母や両親が繋いだ命を私たちが次の世代に繋いでいかなくてはならない。二度と戦争や紛争による死者を出さない。二度と航空機事故を起こさない。不条理による無惨な死者を出さない。「悼むひと」を生み出さない。それを次世代に受け繋ぐためにバトンをもって走り続けたい……。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

*ご愛読ありがとうございました。本連載は加筆訂正の上、書籍化される予定です。

  1. 自衛隊の装備のうち、戦車、火器、戦闘機、護衛艦など、戦闘に直接使用される兵器・装備の総称。これに対して弾薬、ミサイル、燃料、通信機器、施設などの作戦実施の基盤となる整備を「後方整備」と呼ぶ。
  2. 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」(2018年1月設立)の代表の黒井秋夫さんは、中国戦線の復員兵だった自らの父親の無気力で虚ろな眼差しの原因が、戦争によるPTSDであることを訴え、戦争によるPTSDによる様々な症状が当事者(元兵士)だけでなく子々孫々まで何世代も長期的かつ深刻な影響を及ぼすことを世に知らしめる活動を精力的に行っている。
  3. 犠牲者520名(乗員乗客524名)の供養のために飛行機の墜落現場付近(御巣鷹山の尾根)に「昇魂之碑」が、ふもとに慰霊塔と納骨堂(慰霊の園)」が整備された。