こどもの頃から鬼がそばにいた。
と言っても勿論ツノを生やした真っ赤な肌を持った巨大な鬼がうちに住んでいたわけではなくて、手に取る本の中に彼らはいたのだった。幼い人間向けの読み物や絵本にも普通に泣いたり笑ったりして現れる。その代表格はおとぎ話の桃太郎だ。岡山県に生まれ育ったこともあって、オレは現地の英雄としての桃太郎は、もはや生まれた時から知っている。
岡山駅前にイヌ、キジ、サル、ハトを引き連れた桃太郎の銅像があるくらいには、身近な存在だったといえる。いや、ハトは勝手に銅像にとまって、糞を桃太郎の頭上に振らせているだけだったが。土産物屋をのぞけば銘菓きび団子が積み上がっているし、とにかく地元の有名人感が半端ないのだった。何が言いたいかと言うと、桃太郎とくれば鬼ですよ、という展開を狙っている。
そう、鬼退治だ。
退治されるべき存在というのが鬼の意味だった時代があり、まさにその中で物心を積み上げてきたオレは、桃太郎の鬼退治になんの疑問も抱かず接してきた。鬼は駆逐されるものだった。主人公に殺されるために生み出され描かれていた。だが、『泣いた赤鬼』とかの児童書にも触れ、ペーソスやユーモアのある鬼もいるのだと知る事になった時、永井豪の『手天童子』を読んだ。
成長過程で視野の拡大が果たされていく中で、はたして鬼とは無碍に桃太郎に殺される存在でいいのですか? という視点を得ることになる。いいわけがないのである。人間にも人権があるように、鬼にも鬼権があるはずだ。
現代では多様性を重視する社会が世界的に構築されつつある。まだまだ建前的なモノから独り立ちしてるところまではいかないが、以前では一般的とは呼ばれなかった視点から見直しが行われている。その流れの中で鬼も、いつまでも桃太郎に殺されていてはいけない。てゆーかあんなガキと動物になんで易々と殺されなければいけないのか。現実的に考えれば多勢に無勢、武力的には鬼が圧倒的な筈だし、むしろ桃太郎を制圧して拘束し、奴を育てた爺さん婆さんの家に乗り込み、法的な手段に則って司法に桃太郎を委ねる、などの結末がリアルですよね。とはいえ、鬼もそれなりに悪いことをしてきているのかも知れず視点は二転三転していく。正義のありかは常に曖昧なままだ。
鬼とはなんなのか。
前段で鬼の生存する権利などと唱えてはみたが、そもそもそんな人間の思考の枠を鬼に当てはめることすら実はおこがましいのかも知れない。オレが鬼に求めるのはなんなのか。鬼が意味するものはなんなのか。鬼からしたらそんなことすら知ったこっちゃないのかも。殺されるも殺すも自由なのだ、と鬼の魂には刻まれていて、本当の自由というものが形を持って表れたのが鬼なのか。自由ってなんだ。鬼ってなんなんだ。誰だ、おまえ。おまえこそ誰だよ! 鬼さんこちら!
そのあたりをさまざまな鬼の絵を描きながらじぶんの中でゴソゴソしていく。じぶんにとっての鬼とはなんだろう、という問いかけも目的のひとつではあるが、主題としてはかっこいい鬼の絵を描くというのがメインであります。
こどもの頃見たあの鬼と、みずからの筆先でふたたび出会えるのか。あの時の鬼は今もオレの中にいるのだろうか。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。