しるもの時代 / 木村衣有子

味噌汁、スープ、シチュー、カレー。さまざまな形で私たちの食卓に登場する「しるもの」。脇役として主菜の引き立て役に甘んじることもあれば、弱っている時には、心や体を救ってくれることもある。とても身近で、そして変幻自在な「しるもの」にまつわるテキストを通して、食卓の<記憶>を描き出す。
著者が2020年に発行し、現在完売しているリトルプレス『しるもの時代』の続編が、短編小説+エッセイで登場!

めんつゆ

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短編小説:うどんスープ

 よりを戻そう。そうしよう。
 そう思い立って、奮い立っていたぼくだった。ヒノには、なぜか話す機会を逸していたけれど、それこそ、シンクロニシティ、去年の話である。
 元彼女が、今はひとりでいるらしいとの報せが届けられた。振り返ってみれば短いあいだではあったけれど、彼女の彼、という位置にたしかにあったぼくとのあいだに割り込み、彼女を魅了し連れ去った存在が、彼女から離れたこととイコールだった。報せをくれた友達は、性善説を信じないタイプで、だからこそ、集める噂の信憑性には定評があった。
 元彼女は、ぼくより年上だった。紹介してくれた人には、ごーちゃん、と呼ばれていて、ぼくもそれに倣った。合田、という名字から派生したあだ名だった。髪を金色に染めていて、長めに伸ばした前髪をゆるくカールさせて縄暖簾のようにおでこに垂らしていた。付き合いはじめる以前、前髪を指に巻き付ける癖を気に病んでいたけれどようやく克服したのだとうれしそうに話していたのが妙に忘れ難い。「髪型を変えるって選択肢は?」とのぼくの問いかけはきわめて愚かなものであったことも含めて。そしてあらためて、ぼくは髪を地毛とは別の色に染めている女の人が好みなのだと知らされる。強いていえば金色がいちばんだとも。
 あらためて、ごーちゃんに連絡を取ることはたやすかった。あのとき、ぐっとこらえて深追いしていなかったおかげ、やせ我慢した甲斐があったというものだ。
 4年半ぶりにごーちゃんから届いたメッセージの文体は、以前と変わったところはないように見受けられた。ごーちゃんとその新しい彼氏が、この街、すなわちぼくが住む街を共に離れたとは、前述の友達がいつぞや知らせてくれていた。今もそこにいるの? と、ふたりの行き先の地名をぼくが切り出す前に、ごーちゃんは現在の居所を教えてくれた。未知の地名だった。とある鄙びた温泉街だそうで、そこまで来てくれるならうれしい、とのことだった。
 温泉街?
 意外ではあった。ごーちゃんは世の女の人の常に倣わず、お湯に浸る時間にあまり重きを置いていないようだったから。
 有り体にいうと、ごーちゃんとぼくは、一緒にお風呂に入ったことはなかった。
 彼女の都合のつく日取りどおりに、2日間の休みをとることができたぼくは、温泉街までは車で行くことに決めた。片道、半日の道程。道中は曇天だった。報せをもらってからここまで一週間。ずうっと走り続けていながらも決してくたびれない、むしろどんどん元気になってくるみたいな、得難い感覚の中でぼくは過ごしていた。

 温泉、と名の付いた駅前の駐車場に車を停めて、彼女を迎えに行った。ごーちゃんは、松尾芭蕉の銅像の傍に立っていた。チノパンを履いていた。芭蕉もここ来てたんだ、と、ぼくは知る。奥の細道。
 ごーちゃんは、ぼくに気付くと、表情を変えぬままに片手を耳の横あたりまで挙げ、ゆるく左右に振って合図する。真正面から顔を合わせるのは4年半ぶりだったけれど、そのあいだ、友人知人が撮った写真に写り込んでいる彼女の姿をちらりちらりとぼくは見ていた。その小さな画像の上での印象と、ごーちゃんの立ち姿のあいだには、ずれはなかった。今向き合ってみての所作は、4年半前を思い出させる。変わっていないみたいだ。
 ぼくはごーちゃんに案内されるまま、駅から3、4分ばかり歩いて、温泉名物だというカツ丼を出す食堂に入った。注文を待つあいだ、共通の友人知人の近況について、至極無難なお喋りをした。みんな相変わらずだよね、などと言い交わしながら。実際に身辺になんやかや大事件があった人について喋ることは避けた。せめて、人生観に影響しないような小事件に留めておいた。自分たちの身の上に起こったことについても、同じく。
 カツ丼はおいしい。カツの厚みもちょうどいい。
 たべながら、どうも、以前よりも、ごーちゃんはごはんをたべるのが早くなったような気がした。
 ぼくは、ふたりぶんのカツ丼の代金を支払った。ぼくが誘ったのだから。かつては割り勘にこだわったはずのごーちゃんはぼくより先に食堂の外に出ていて、ぼくが店の引き戸を後ろ手に閉めると同時に、ごちそうさまでした、と言った。
 ふと気付く。
 待ち合わせからお昼ごはんをたべ終えるまで彼女と一緒にいながら、ごーちゃんに、ふれていない。
 かつて、ふたりで歩いているときには、手を繋ぐなどせずとも、ふと指先がふれ合うほど、肩がぶつかり合いそうなほどの距離感でいたものだった。
 今日は、ぼくとごーちゃんのあいだには、普通の友達同士くらいの、間がある。
 さて、ぼくは車をとってこようとしたのだけれど、ごーちゃんは、このあたりをぐるっと、腹ごなしがてら歩いてみようと言い出したのだった。
 はじめて包まれた温泉街の空気は、なんとも浮世離れしていた。雰囲気、という意味でもあるが、実際に、漂う空気が、湿っていながらも妙にふわあっとしている。ゆるゆると歩くだけでも、のぼせそうになる。

 「足湯あるんだね」と、指差したのはぼくだった。
 入ろうかと言い出したのはごーちゃんのほうだった。
 温泉街に行くからにはと、タオルを2本持ってきていたものの車中に置いてきてしまっていた。手拭いを持ち歩く、という習慣があってよかった。彼女もそうだった。付き合うより前、そのことは打ち解けて話をするきっかけのひとつだったしな、と、ぼくは久しぶりに思い出していた。
 ごーちゃんは、いかにも手慣れたふうに履いていたズボンの裾をめくって靴下を脱ぎ、湯気の向こうに丸めて置いた。
 ぼくはごーちゃんの靴下から少し離れたところに、自分の靴下を置いた。
 湯気に包まれたごーちゃんは言った。
 薬湯ってあるじゃない? さっき通ったとこは日替わりのオリジナル薬湯もやってるんだけど、今日は「チョコレートパフェ」だったじゃん。よさそうじゃない? あっ、見てない?
 ぼくははじめての街、はじめての道ということもあり、そこまで目配りしながら歩くことはできていなかった。チョコレートは入浴剤としてはあるのかもしれないが、パフェがくっついてくるとよくわからなくなるぼく。
 ごーちゃんは続けて言った。
 地酒の酒粕とかの正統派な日もあるよ。こんな薬湯ありえないよ、って思ってても実際あったりするからね。
 「キャラメル、とか?」
 むしろそれはスタンダードなのだとごーちゃんは返す。
 「じゃあ、塩バターキャラメルマキアート」
 あるよう、と、ごーちゃんは返す。
 「トマトスープ」
 あるある、と、ごーちゃんは返す。あるんだ。
 「うどんスープは?」
 あっ、それは流石にないかもと、くっくっ、と、ごーちゃんは笑った。自身の前髪の先を指先でつまんで、ちょい、ちょい、軽く引っ張りながら。
 ぼくは、彼女から視線を離し、なんとはなしに振り向いて、脱ぎ捨てられた2足の靴下のほうに目をやった。
 よりを戻そう、と、切り出そう。足湯に浸かるまでは、いや、駅前の駐車場に車を停めるまでは確実に、ぼくはそう心に決めていたはずだった。
 待ち合わせて、少し歩いて、昼食を共にし、さらに歩いて、ここまできてみても、お湯の中でゆらゆらして見える、白い彼女の足にぼくの足を重ねたい、という気分がいっこうにわきあがってこない。ぼくはそのことにおどろいていた。ずうっと、彼女に未練たっぷりでいたつもりなのに。
 たしか、一昨日、うどんをゆでた。
 お湯を沸かしたなべの中にうどんを投入する。うどん同士がくっつかないように、菜箸を握って、なべの中をぐるりぐるりとかき回す。そう、ぼくはコンロの前に立ち、白いうどんがゆだる様を見ていた。まだ、うどんを見つめているときのほうが、ぼくの目は優しい色をしていたかもしれない。
 
 (了)


エッセイ:めんつゆ現代史

 いつぞや、めんつゆをつくってみた。料理家の飛田和緒さんのレシピ本『常備菜』をみて。みりん1/2カップを煮立ててから同量の醤油+砂糖大さじ1を足して冷蔵庫で一晩置き、出汁1カップと合わせてできあがり。
 めんつゆの雛型のような味がした。めんつゆ、といって想像するイメージとぶれがない。なさすぎる。それってレシピとしては大正解のはずだけれど、なにか物足りないような気もしてしまう。じゃあ、私があえて買わずに自分の手でつくりたいめんつゆってどんなのなんだろう。
 どこかへ旅行したときにその土地ならではのめんつゆを買って帰ることはこれまでにもあったけれど、つくってからはもっと前のめりになって、試してみている。すると、今や、味噌よりもめんつゆの味をみたほうが土地柄が分かるような気がしてきた。たとえば北海道では昆布が、関東では醤油の味が前面に打ち出されていたりして。
 秋田で最もポピュラーなめんつゆ「味どうらくの里」の姉妹品である白だし「かくし味」は、まるで山菜のためにあるような味の設計だなといつも感じ入ってしまう。「かくし味」の甘さは山菜の苦味とちょうどよく手を繋いでくれる。
 めんつゆって、いつからお店で売られるようになったんだろう。
 食と工芸のライターである澁川祐子さんが今春上梓した『味なニッポン戦後史』を読むと、めんつゆは、「味の素」に代表される「うま味調味料」ことグルタミン酸ナトリウム=MSGが失速するのと入れ替わるようにスーパーマーケットの棚を埋めてきたとわかった。
 「うま味調味料」は、1950年代後半から60年代末にかけてはレシピ本にも当たり前のように登場していた。しかし1968(昭和43)年をピークに売れ行きが落ちていく。いっぽう、めんつゆは「1960年(昭和35)には年間二千キロリットルの販売量だったのが、1975年(昭和50)には2万キロリットルを突破し、10倍も伸び」ていき「ここ10年ほどは23万キロリットル前後で推移している」という。
 とはいえ、めんつゆのラベル裏にある原材料リストをみると、たいてい「調味料(アミノ酸等)」とあり、素直に解釈するとグルタミン酸ナトリウムを指すのであるから、結局、うま味調味料はめんつゆの中に生きていることになる。
 『味なニッポン戦後史』のために澁川さんが集めた参考資料の一端を見せてもらって、めんつゆは1970年代頃まで、スーパーマーケットでは春夏のみ並べられる商品であったけれど、文字どおり、めんのつゆ、としてだけではなく、おかずの調味に使われるようになり、一年中店頭に置かれるようになった、と知る。1975年生まれの私はたしかに、棚にめんつゆがない風景を知らない。そして正直言って、めんつゆを文字どおり麺のつゆとして使う機会はほとんどないかも。
 ここに、ざっくりとではあるものの、黎明期から、伸び盛りの1970年代までのめんつゆ発売年表を載せておきたい。

1952(昭和27)年 麺素(兵庫)「麺素金ラベル」※創業の地は大阪・伊丹。
1959(昭和34)年 ホシサン(熊本)「だししょうゆ」  マルキン(小豆島)「ダンチ」※現在は名古屋の盛田が製造。
1960(昭和35)年 イチビキ(名古屋)「つゆの素」
1961(昭和36)年 キッコーマン(千葉)「めん類用萬味」※1964年に品名を「めんみ」に変えた。
1964(昭和39)年 にんべん(東京)「つゆの素」  テンヨ武田(山梨)「ビミサン」
1965(昭和40)年 鎌田醤油(香川)「だし醤油」
1967(昭和42)年 ヤマサ醤油(千葉)「かつお一番だし」
1979(昭和54)年 東北醤油(秋田)「味どうらくの里」  ヤマキ(愛媛)「めんつゆ」

 並べてみると、一般的には、めんつゆ、と呼ばれていても、そう名付けられた商品が少ないことに気付く。
 ちなみに「味どうらくの里」に続いて「かくし味」が発売されたのは1987(昭和62)年。そんなに大昔のことではない。
 そして、ヒガシマル醤油の「うどんスープ」は顆粒なので、めんつゆ、とはいえないかもしれないけれど、発売されたのは1964(昭和39)年だと記しておきたい。ヒガシマル醤油は兵庫県たつの市にあって、素麺「揖保乃糸」の街でもある、とも。

 

参考文献
 『常備菜』飛田和緒 主婦と生活社 2011
 『味なニッポン戦後史』澁川祐子 インターナショナル新書 2024
 『食品と容器』vol.25 缶詰技術研究会 1984(昭和59)年7月号

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。