悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

永代神楽祭と「謎の研究者」

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戦友会の「代表世話人」に

 今秋も東京九段の靖国神社から龍兵団(九州久留米編成)の東京地区戦友会の永代神楽祭の案内状が届いた。戦友会とは、戦場体験や部隊への所属体験を共有した元軍人や遺族の任意の集まりをいう。通常、案内状は戦友会の「代表世話人」に届く。これまで龍兵団の「代表世話人」は将校クラスの元軍人が担ってきた。ところが、3年前の永代神楽祭から遺族でも家族でもない「謎の研究者」が戦友会の「代表世話人」を担うことになった。これは非常に稀なことで、これこそが最大の謎。

 2017年1月に、龍兵団の東京地区戦友会の関昇二会長(陸士52期、元少佐)が99歳で亡くなられ、20数名いた戦友(元兵士)らもほとんどが鬼籍に入り、遺族も80歳代が主力となる中、戦友会の「代表世話人」をやってもらえそうな方は見渡してもいなかった。戦友がいなくなった後は、できればその家族(遺族)に世話人を引き受けてもらえるのがベスト。しかし現実はそう簡単にはいかないのである。子ども世代、孫世代が、父親や祖父が関わってきた戦友会の「代表世話人」を引き継ぐことは極めて稀なこと。それ以前に戦友会は、元兵士らの手により自主的に閉じられることが一般的で、次世代に引き継ごうという発想がそもそもない。「戦に行っていない者にはわからない」。それはわが子にもわからない、わかるはずがない、と元兵士たちは思っていた。

永代神楽祭とは?

 靖国神社のホームページによると、永代神楽祭とは、「遺族の申し出により神霊の命日や縁のある日に、神楽を奉奏し、永代に亘って神霊を慰める祭り」と記されている。永代神楽祭には何度も参列してきたが、独特の世界観を味わえる。仕女が神霊に供物を供え、琴や笛や太鼓などで神楽を奉奏し、神職が神命を奉上し、仕女が2人で神霊を慰める舞を奉士した後、元兵士か遺族の代表者が玉串を奉り拝礼する。ここで参列者一同も拝礼し、本殿を下がった後に、直会なおらいとして御神前より下がった御神酒や供え物などの「おわかち(広く分ける)」、で終了。

靖国神社の大鳥居

永代神楽祭で奉奏される神楽「みたま慰めの舞」(靖国神社の永代神楽祭の案内パンフレットより)

 
 龍兵団東京地区の永代神楽祭は、11月22日に靖国神社の本殿で行われる。日時は永代に変わらない。季節が良い5月と10月は永代神楽祭がとかく集中する。11月以降ともなると吹きさらしの本殿にじっと座っているのは高齢者にはかなりキツイ。11月22日は、高齢者が集う慰霊祭としては限界の日程だ。さらに難所は本殿に上がる階段があること。足腰が弱くなってきた高齢者には寒さよりもっとキツイ。元軍人の矜持で、手を添えられるのも嫌なのだ。関会長も人の世話になるのが不甲斐ないと、永代神楽祭を辞退するようになった。ところが数年前に本殿に上がるエレベーターが設置され、便利になっただけでなく、戦友の「体面」が保たれ、安堵した。


 さて、龍兵団の戦友らはなぜに11月22日を選んだのか? 師団の創設日というようなメモリアルな日でも何でもない。おじいさんたちはけっこう適当に日時を決めた。季節の良い時期はすでに埋まっており、11月下旬しか空いてなかった。「11 22は語呂がいいから覚えやすい」「次の日が祝日(勤労感謝の日)だから遠方からも来やすい」とこんな具合だ。さすがに「『いい夫婦の日』だから」はなかったが。

 長らく慰霊祭も戦友会も戦友らの手により日時や場所が選定されてきたが、10年前頃から、戦友らも歳には勝てず、次第に集まりも悪くなり、やがて訃報ばかりが続くようになった。そして90歳代の超高齢者集団による今後の慰霊祭の催行も危ぶまれ、ついに永代に神霊を慰める靖国神社での「永代神楽祭」を選択するに至った。

靖国神社の参集殿(永代神楽祭の参列者が集まる場所、ここから本殿に上がる)

 関会長としてはどなたか戦友の身内に、年に一度の永代神楽祭の「代表世話人」だけでもお願いしたかっただろうに……。熱烈にオファーした元中佐のご子息にもキッパリと断られ、おそらく関さん自身のご子息にも願いは届かず、迷った末にチョロチョロ戦友会に出入りする「謎の研究者」に行き着いた。まさにラストプライオリティ。「この人は本当に研究者なのか? 何しにここに来てるのか?」。おじいさんたちは不思議に思っていたに違いない。実際に戦友会の「お世話係」にしか見えない「謎の研究者」なので……。

引き継ぎ業務

 2013年春頃、関さんに戦友会の5人の世話人の1人になってほしいと頼まれて、私は戦争体験を聴けるチャンスが増えたと思って安直にも快諾した。関さんが亡くなる4年前のことである。5人の世話人の内訳(当時)は、90歳代の戦友が2人、70歳以上の遺族が2人、そして私の計5人。当時50歳の私が「若い」と言われるような「高齢世話人集団」である。若輩者であり「部外者」であるゆえに、率先して名簿作りや案内状作りなどの「雑用」を買って出た。関さんは脊柱管狭窄症で手術を受けたが完治せず歩くのが困難になっていた。私は永代神楽祭が近づくと、その準備に追われる関さんの手伝いになればと大田区大森の自宅マンションを度々訪ねた。関さんは奥様を亡くされ一人暮らし。耳が遠いので電話もダメ。往復ハガキでのやり取りが日常となる。「〇月〇日〇時に待っています」。ハガキには赤鉛筆の大きな字で要件が書かれていた。「〇月〇日〇時に必ず行きます」。私も大きな字で返信した。SNSが当たり前のこの時代にレア過ぎる体験だがほのぼのとした思い出である。時に往復ハガキではまどろっこしくなり、アポなしで関さんのマンションに行った。ベルを鳴らしても返事がない時は、庭に回って窓ガラスを叩く。ちょうど高校野球をやっている盛夏の頃、テレビの音量が最大で窓ガラスを何度叩いても気づいてもらえなかった。仕方なく、ベランダ越しに奇妙なダンスを踊ってみた。関さんは気づいてくれたが、目もあまりよく見えなかったようで、これさいわい。とにかくマンションの1階で功を奏した。

 今思えば、「代表世話人」になるための「引き継ぎ業務」があの時から始まっていたのだ。関さんと一緒に名簿を見ながら、亡くなった方、その家族などを確認しながら案内状を作った。名簿作りをしながら名を連ねる戦友のこと、戦時中のエピソードをいろいろ聴けたことは何ものにも代え難い時間であった。すでに知っている方の名前を見つけると何だか嬉しくなり、ビルマ戦線の話で盛り上がった。


 関元少佐の軍歴を紹介しよう。関昇二さんは1918(大正7)年生まれ。第56師団(龍兵団)第56連隊第9中隊、野砲兵の中隊長としてビルマ侵攻作戦に従軍する。1942年5月5日、同連隊は中国雲南省の山岳地帯にある拉孟らもうを占領。拉孟付近は両側を渓谷に囲まれ、眼下に怒江が流れている。龍兵団は山の傾斜のアップダウンを利用して200メートル四方の山上陣地を築き、中国軍の反攻に備えた。拉孟の陣地名は、音部山おとべやま西山にしやま関山せきやまのように陣地構築時の中隊長の音部、西、関の名がつけられた。野砲兵の関中隊長は、拉孟陣地で最も高い場所に大砲を撃つための観測所に置いた。関さんは陣地構築半ばの1942年10月に帰国し、陸軍科学学校に入学せよとの命令が出た。関さんは拉孟の観測所跡が「関山陣地」と名づけられたことを戦後になって知る。関中隊長は戦場で大砲を一発も撃てずに帰国せざるを得なかったことを、「軍人として不甲斐なかった」と何度も語った。戦友会で関山陣地の名前が出る度に恥ずかしさが込み上げてきたそうだ。しかし、もし関さんが帰国せずに拉孟に残っていれば、関山陣地の指揮官として確実に戦死していただろう。

関昇二さん(将校時代の軍装)

 1944年9月7日に全滅した拉孟守備隊約1300名は、いまも雲南の山のどこかで眠っている……。関さんは「私は陸軍士官学校時代にたまたま数学が得意だったから日本に呼び戻されたのだ」と語った。科学学校ではウラン化合物の授業もあったようで、旧軍も核兵器製造を視野に入れていたことを想起させられる貴重な証言だが、関さんは当時の科学技術では「核兵器製造は不可能」との結論に達したという。その後、軍隊の教育畑にいた関さんはまさか自分の部隊が2年後に全滅するとは思ってもみなかった。関さんは指揮官でありながら関山陣地に部下を残して去ってしまったことに生涯後ろめたさをもっていた。だからこそ、何としても拉孟の戦没者の慰霊祭をやり続けることを願って止まなかったのだ。

遺族同士を繋げる「ボンドガール?」

 戦友(元兵士)が健在の頃の慰霊祭は何ら問題なく行われていた。おじいさんたちが主導して厳かに滞りなく事が進むのである。慰霊祭でも旧軍の階級が機能していた。戦時期、二等兵から上等兵の「兵隊」だった者は、現在の社会的地位にかかわらずよく動く。娑婆で代表取締役社長でも、戦友会では一兵卒として動くのだ。伍長、軍曹、曹長の「下士官」クラスはそつなく目配りをして会をスムーズに運ぶ。ここでも真の実行部隊であった。指揮官クラスはその場の重鎮として色を添える。慰霊祭の後の親睦会も中隊ごとに班分けされて遺族も、同じ班の戦友から戦没した身内の戦時中の思い出話を聞く機会に恵まれ、亡くなった者を偲ぶことができた。私のような「部外者」も部外者として戦友や遺族の方々に正式に紹介して頂き、「この人は誰?」と訝られる状況に陥らなくて済んだ。

 ところが、このような居心地の良い状況は長くは続かず、高齢化で毎年参加者が激減し、久しぶりにやってくる戦友も歩くのも大変そうで参加するだけで精一杯。会の運営どころではなくなってきた。次第に遺族同士の交流もなくなり慰霊祭だけ参加してそそくさと帰ってしまうようになった。これではあまりに寂しいではないか……。

 「謎の研究者」は、本当に拉孟戦の研究者なのだ。1944年の雲南戦場のさまざまな戦闘には誰よりも熟知している。だから遺族Aさんの父上がどの戦闘でどのように亡くなったのか、あるいは遺族Bさんの叔父上と遺族Aさんの父上の軍隊での関係性もわかるのである。さらに関会長と一緒に毎年「引き継ぎ業務」していたことで、現在の戦友会の会員の現状や関係性にも熟知していた。「部外者」ゆえに何のしがらみもなく対応できる。これが却って功を奏した。


 ある慰霊祭の席で、隣に座った男性の苗字を見て驚いた。思い切って声をかけてみると、やはり龍陵の守備隊長であった小室鐘太郎中佐のご子息であった。龍陵とは拉孟戦の後方基地で龍兵団の歩兵団司令部があった最重要拠点。龍陵の確保が拉孟戦の大前提であった。各地の日本軍守備隊から抽出された援軍が龍陵へ次々と差し向けられるが、中国軍の甚大な兵力差に龍陵守備隊も何度も全滅の危機に晒された。1944年9月7日、拉孟守備隊全滅の報を受け、龍陵守備隊長の小室中佐は龍陵の部隊までも無残に全滅させたくないとの思いで9月17日、龍陵を放棄し全隊を率いて独断退去に踏み切るのだ。その後、軍司令部の辻政信高級参謀に背命行為だと厳しく咎められる。小室中佐は「私はなぜこんなに弱気になったのだろうか」と副官に述懐した。独断退去の翌日の9月18日午後、そぼ降る雨の中小室鐘太郎中佐は自決した1。ご子息は慰霊祭の席で「自決するなんで父は頭が狂ってしまったのでしょう」と語ったが、それは違う。苦しみ抜いた末の、覚悟の上の自決であったのだ。小室中佐は「軍事日誌」を遺族に残している。ご子息は中身をほとんど見ていなかった。その中身を詳細に見れば、決して狂ったわけではないことが証明できる。その後、半年ほどかけてご子息の自宅に通い日誌を見せて頂いた。1944年7月26日(水)の日誌には「六山敵ノ一方的戦斗ノミ 子ヲ失フナヤミノ砲声胸ヲツキ涙留メナシ」とある。反撃する砲弾がないまま必死に防戦する六山の将兵を小室中佐は我が子のように不憫に思い涙していた。武器弾薬のない日本軍が唯一できる戦法は夜襲のみ。7月28日(金)の日誌にも「六山夜襲二回、二山夜襲」。29日(土)にも「二山夜襲」とある。何度となく切り込み隊が夜襲をかけ、山上の闇中を駆け巡った。8月になるとさらに戦況は緊迫し、8月18日(金)の日誌には「六山三宅、荒川戦死、野中負傷、大部死傷」(下線は筆者)と三宅と荒川両中隊長の戦死が記され、19日(土)には「六山放棄陣地ナシ死傷全員(一週間)夜襲以外手ナシ」と窮状が記されている。この六山戦闘は連載の第2回に登場した平田二等兵の部隊が全滅した戦闘である。8月23日夕刻に小室中佐は師団司令部に「龍陵は連日連夜優勢な敵の空地両方面からの猛攻を受けつつあり。各部隊は奮戦これ努めあるも、現状のままでは、今二日を持久しうるに過ぎず」と事態の緊迫を打電している2

 慰霊祭の席で小室中佐のご子息の隣に座ったのが荒川少尉の甥御さんであった。小室中佐の8月18日の日誌の「荒川戦死」とは荒川修治少尉のこと。小室中佐は同じ工兵の若き将校・荒川少尉を我が子のように思っていたのだ。荒川少尉の最期も壮絶だった。荒川小隊の生存者の中村上等兵によれば、武器が消耗していた中で、中国軍が投げ込んだ手榴弾の「投げ返し」を敢行するも荒川隊長は投げ返しに失敗し、眼前で爆発。顔面蜂の巣になって爆死した3。享年24歳だった。

 奇しくも戦後の慰霊祭で、龍陵で共に戦った小室中佐と荒川少尉の遺族同士が隣合わせに座った。お二人に事の次第を説明すると、お互いに会釈しながら感無量の様子であった。余計なお世話の節もあるが、縁のある遺族同士を繋ぐ「ボンド(接着剤)」になる、これも「謎の研究者」のミッションの一つだと思っている。間違ってもジェームズ・ボンドの「ボンドガール」ではないので、悪しからず……。

戦場体験を聴くということ

 私はこれまで戦争の話を聴きに元兵士の証言会や講演会にできるだけ足を運んで来た。慰霊祭、戦友会にも定期的に通い続けてきた。かれこれ17年も「お世話係」をしている戦友会もある。我ながら長きに亘り続けてこれたと思う。ここまで年季が入ると「謎の研究者」の域を出て、プロの「お世話係」といえそうだが、あくまでも自発的なボランティア。

 聞き取りの方法もよくわからないままに飛び込んだ戦場体験の聞き取りの世界。何をどうしてよいのかわからぬままに黙って座り続けた数年間。「謎の研究者」といわれる所以である。

 さて、「歴史認識」の問題からも靖国神社を忌避する研究者もいるかもしれないし、研究者のくせに「代表世話人」なんてとんでもないと批判されるかもしれないが、靖国神社に行かなければ聴けない話、出会えない人たちがいることも事実である。むしろ多面的な戦争の姿を知るためには戦没者慰霊祭や永代神楽祭に進んで参列し、そこに集う人たちの言葉にも耳を傾けるべきだと思っている。文字史料からは見えてこない「世界」や聴こえない「声」が聴こえてくる。戦争の全体像だけでなく現代社会を読む解く上でも重要な手がかりになるだろう。オーラル・ヒストリー(口述の歴史)の醍醐味がそこにある。


 私が聞き取りで最も大切にしているのは元兵士やその家族の方々との信頼関係である。戦争の話を聴くためには聴き手である私を信頼してもらわないとそもそも話にならないし、人の生き死ににかかわる話を深く聴くことは到底簡単なことではない。それは一朝一夕では成就しない。一般公開の証言会や講演会とは異なり、慰霊祭や戦友会は元将兵やその家族に限られているので、原則として関係者の紹介がなければ「部外者」は気軽に参加できない。例えば、少年飛行兵の戦友会(少飛会)の慰霊祭は外部に閉鎖的であったが、例年、その日だけ元少年兵の「娘」になって参列した。周りの方もそれを知ってか知らでか、戦友の「娘」として様々な戦場体験を話してくれた。一年に一度だけの「父」とは、亡くなるまで電話でよく話した。

 縁のあった元兵士の大半がこの世を去ってしまった。深い信頼の中で、多くの戦場体験談を聴いてしまった責任が、いま、ずっしりと肩にのしかかっている。その重みは半端ない。
透明人間になってこっそり話を聴けたらどんなに気が楽だっただろう……。

 昨年(2020年)11月22日の龍兵団東京地区戦友会の永代神楽祭は、「謎の研究者」1名と70代後半の遺族2名の3名のみ。今年も10数名に案内状を出したが、コロナ禍の中、何人参列されるかわからない。そのうち、「謎の研究者」ひとりだけになってしまうかも……。これから、元兵士の「遺志」をどのように継承していけばよいのか。実は真剣に悩んでいる。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 陸戦史研究普及会編『雲南正面の作戦――ビルマ北東部の血戦』(1970年、原書房)、181-182頁。
  2. 防衛庁防衛研修所戦史室編『イラワジ会戦――ビルマ防衛の破綻』(1969年、朝雲新聞社)、250頁。
  3. 荒川修治少尉は軍隊手帳(日記)と寄せ書きの日章旗を遺族(実兄)に残している。甥の荒川洋さんは、伯父の最期を知るために龍兵団東京戦友会とコンタクトをとってついにその様子を知るに至る。荒川洋さんは、荒川少尉の日記をもとに私家版『一冊の日記』と題した冊子を1995年5月に上梓した。中村上等兵の証言はその冊子から引用。