悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

戦場と母ちゃん

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老兵からの電話

 戦場に行った息子を想う母の気持ちもさることながら、戦場で母を想う息子の気持ちもはかり知れない。100歳になる老兵でも母親のことを話すとき、声音が柔らかくなり、顔がほころぶ。元兵士の聞き取りは軍隊や戦場の話ばかりにかたよりがちだ。戦場(軍隊)だからこそ、母、あるいは恋人や妻への想いも一入ひとしおになる。先月、百寿ももじゅを迎えた大橋中一郎(1921年生まれ)さんもそのお一人。

 このところ、大橋さんからちょくちょく自宅に電話がかかってくる。

 90歳後半を過ぎた元兵士たちは、一人で戦友会や慰霊祭に参加することも難しい。志願兵である少年兵でもない限り、実際に戦場に立った元兵士は概ね97歳以上である。戦後76年ともなれば戦場を体験した生存者は残り僅かとなり、戦友会は消滅し、慰霊祭の継続も至難の業となりつつある。この傾向はコロナ禍でさらに加速した。外出が制限され、この2年近く元兵士たちや彼らの家族にも直接会える機会がめっきり減った。だからと言って100歳の大橋さんにいきなり「リモート」による面会をお願いするわけにいかない。本来、「リモート」ほど高齢者のライフスタイルを支えてくれるツールはないと思うのだが、やはり100歳はもっぱら手紙か電話である。字を書くことももどかしくなると最後に頼る手段は電話、それも「家電いえでん」。大橋さんは夕食後の就寝前にかけてくることが多いのだが、その時間、こちらは夕飯の支度でバタバタしている。天ぷらを揚げていても火を止めて、ハンバーグのひき肉をこねる手も休めて、万難を排して大橋さんの電話には出るようにしている。もしかしたらこれが最期の電話になるかもしれない。そう思うと出ないわけにいかないのだ。夕飯が少々遅くなっても、天ぷらの出来がイマイチでも仕方ないと、家族も受け入れてくれているはず……。


 私からめったに電話をかけることはない。大橋さんは脊柱管狭窄症のため歩行器を使って室内を移動されている。突然の電話(電話はえてして突然)に急いで対応しようとして万が一転倒したら再起不能になるから、大橋さんの都合の良いときに電話を頂くことになっている。私は大学で教鞭をとっているのだが、授業の大半がリモートなのもさいわいし、電話に出れる日がぐっと増えた。

 大橋さんとは2015年からのお付き合いである。2015年1月14日の朝日新聞の「ひと」欄に私が取材を受けた拉孟らもう戦の記事が載った。それを読んだ大橋さんは記事を書いた記者に問い合わせた。これが縁で私は大橋さんの自宅をたびたび訪れ、ソ連と満州の国境警備と中国における「大陸打通作戦」1の戦場体験を数年かけて聴いた。それにしてもコロナ禍の2年のブランクは高齢者の心身に及ぼす影響は想像以上に大きかった。「最期のお別れ」も出来ずに旅立たれた元兵士の方も何人もいる。「電話によるオーラル・ヒストリー(口述史)」が実現できるのも思えば限られた方だけである。

手渡されたノートの切れ端

 2015年10月、大橋さんの自宅に3回目の訪問をしたとき、大橋さんから手渡されたノートの切れ端には鉛筆でこう書かれていた。

 遠藤さんは戦友会の雰囲気を持っている。
「我が戦場体験を話す」と。遠藤女史にはじめて会った。わたしはなぜか「戦友会」で話している気分になって、(相手はご婦人なのに)…さらけ出しの気分だ。
戦友会は軍隊当時の階級、年功、実践力…などすべてそのままの戦さ友の会。そこでは今の社会的地位は関係ない。戦場での厳しい活動から生まれた連帯感がある(未体験の人にはわからないだろう)。
 当時の軍隊序列で宴席が自然に治まる。
遠藤女史。長い間、そのような戦友会の世話をされてこられたと…。
あ。それで—。今や年老いた戦士の気持を知り応待されてこられたのだろう。すでに『「戦場体験」を受け継ぐということ』という著者を出されている。
遠藤女史のインタビューに答え、わが軍隊体験を話すことは大変意義のあることだ。
(2015年10月15日)

 大橋さんのいう「戦友会の雰囲気」ってどんな雰囲気だろう? 当人はいまだに明確な回答に至っていないのだが、何はともあれ、オーラル・ヒストリアン冥利に尽きる。

母ちゃんのバカ

 大橋中一郎さんは、1921(大正10)年10月30日に新潟県で生まれた。幼少期は東京都杉並区で過ごした。父親は阿佐ヶ谷駅北口の商店街で大橋洋品店を営んでいた。大橋さんは長男で一人息子、妹が2人いた。

 1929年、自宅のすぐ近くの杉並第一尋常小学校(現杉並第一小学校)に入学。子どもの頃、大橋少年は学校の勉強はあまり好きではなかった。学校から帰るとカバンを放り出しすぐさま遊びに行った。よく母に「勉強しなさい」と叱られた。そんなある日、そっと遊びに行こうとしたら母に見つかり、部屋で勉強をさせられる羽目に……。うっぷん晴らしに、大橋少年の出た行動が半端ない。墨汁がたっぷりの筆で、障子いっぱいに「母ちゃんのバカ」と大きく書いた。よくぞやったもんだが、その時の母ちゃんも負けていない。息子の行動に知らん顔。何日も障子は張り替えずにそのまんま。当時は気さくな近所付き合いがふつう。遠慮なく人が家に上がり込んで来る。「これは何?」と来る人、来る人に驚かれたり、笑われたり。さすがの悪たれ小僧も居たたまれなくなって、自ら障子を下から全部破って紙なし障子にした。神主の娘で、商家に嫁いだ母は、よそ様から品の良い人と褒められていた。しかし、優しいだけじゃない。時に厳しく芯が強い女性だった。大橋さんはそんな母ちゃんが大好きだった。

 1941年12月8日、アジア・太平洋戦争の開戦時、大橋中一郎さんは20歳。この年、徴兵検査を受け、翌年1月に東京東部第6連隊に現役兵として入営。現在の東京ミッドタウンのサントリー美術館があるビル群の辺り。大橋さんは20歳から24歳の若盛りに、開戦から敗戦までの3年8ヵ月の間、ずっと中国の戦場にいた。いま、このような元兵士を探しても見つけられないだろう。

 「お国」のために兵役につくのが日本男児の本懐だった時代。両親も「死ぬな、行くな」とは表立って言わなかった(言えなかった)。

千人針

 息子や夫、兄第や恋人を戦地に送る女性たちは、街角に立って、知り合いの女性や時に通りがかりの見知らぬ女性にも「千人針」をお願いした。「千人針」とは、1メートルくらいの長さの白い布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ縫って結び目を作ってもらう。  

 これは兵士の身内の女性たちが作った「武運長久」と無事を祈るお守りのようなものだ。白い布に虎の絵図を刺繡で描いたものも多くあった。なぜ虎かというと、虎が「一夜に千里を行き、千里を帰る」という言い伝えにあやかっているからだ。遠くに出兵した兵士が故郷に戻ってきてほしいとの思いからか。特に寅年の女性は、その人の年齢だけ縫うことができたので重宝がられた。さらに白い布に五銭硬貨や十銭硬貨を縫い込んだ。「五銭」は「死線(しせん=四銭)」を越え、「十銭」は「苦戦(くせん=九銭)」を越えると考えられ、「千人針」には愛する人の無事を祈る女性たちの思いが込められていた。多くの兵士がこの「千人針」を弾丸除けのお守りとして身に付け戦場に立った。

大橋中一郎さん

千人針の虎の意匠(大橋さん写真提供)

 大橋さんの「千人針」は、母と妹たちが作ってくれた。大橋さんもこれを腹に巻いて出陣。大橋さんは中国湖北省の白螺磯はくらきで敵機の爆撃を受けた時、タコツボ(砲撃や銃撃から身を守る一人用の壕)で腹の「千人針」に手を当てた。タコツボから夜空に月が大きく見えた。その時、ふと母を思い出した。月が鏡で、母の顔が写ってほしいと切に思った。この時もなぜか父の顔は出て来ない。父親は不憫だけど何処もそんなもの。

初年兵教育

 軍隊に入営すると「初年兵」と呼ばれる。そして、兵隊の基礎訓である「初年兵教育」が行われる。入隊初日、2日目までは「お客さん」扱いだが、それも3日目でお仕舞い。「お客さん扱いは今日までだ」と古年兵(先輩の兵)の罵声にビビる。一人前の兵士になるために徹底的にしごかれる。「軍服」を着る。身に付けているものも軍隊特有の用語で呼ぶ。例えば、上着は軍医ぐんい、シャツは襦袢じゅばん、スリッパは上靴じょうか、ゲートルが巻脚絆まききゃはんという具合だ。これまでの元兵士たちの聞き取りで、「上官に上靴じょうかで顔が変わるぐらい殴られた」と度々聞いていた。最初はトランプの「ジョーカー」しか思い浮かばなかったが、上靴でボコボコ殴られたら確かに人相が変わるだろう。

 初年兵は「内務班(兵営の中で兵士が寝起きをする最小の単位)」を基本に軍人精神を叩き込まれる。「ハイ、〇〇であります」。初年兵教育は敬礼と返事で始まる。初年兵は右を向いても左を向いても皆古年兵ばかり。機敏な動作と大きな返事が鉄則だ。集合に遅れるなど、のろまでもたもたしている兵隊は古年兵からビンタを喰らう。連帯責任を課せられることもたびたび。

 軍隊は階級がすべて。入営前の学歴も職歴も家柄も一切関係ない。一般常識は通用しない。空っぽの頭にして上官の命令を無条件で従う兵隊をつくる。上官の「突撃」命令で敵陣に突進する、それが兵隊だ。そこに個人の見解は必要ない。

 初年兵教育が厳しくて、その理不尽さに耐えかねて逃亡する者もいた。大橋さんもある初年兵が逃亡したのを覚えている。彼はまもなく捕まり、軍隊に戻された。この兵隊は3年経っても星一つの二等兵のままだった。

母ちゃんを思う気持

 大橋さんは、厳しい初年兵教育の最中、母ちゃんに会いたい気持ちと、どのようにその思いを律するかのせめぎ合いに苦悩したと語る。
 
 心の中で、白い紙に1メートルほどの横線をすっと描いた。今日はここまでの線まで母ちゃんに会いたい。明日はここまでの線まで……と今日より会いたい(帰りたい)気持ちの線を短く描いた。「母ちゃんに会いたい、母ちゃんに会いたい……」その一心でこんなことを毎日心の中で思い描きながら初年兵教育を耐えたそうだ。いっぱしの日本男児といえどもまだ20歳の若者である。母を想う息子の気持がとても切ないエピソードである。

 初年兵教育中に、高山という名の優秀な同年兵がいたそうだ。大橋二等兵と高山二等兵は共に「飯上げ(兵士に食事を運ぶ)」の任務についた間柄だった。

 ある時、高山二等兵に「母死去」の訃報が届いた。にもかかわらず高山二等兵は帰宅を許されなかった。非常に優秀な兵隊であったが、母の死を境に彼の様子がおかしくなり、度々訓練中に「頭が痛い!」と頭を抱えてしゃがみ込むようになった。しまいには訓練が出来なくなり、いつの間にか兵営から姿が見えなくなったそうだ。

 大橋さんは高山二等兵があのあとどうなったのか知る由もないが、母の死がきっかけで彼の精神がおかしくなったと今でも思っている。

晩年の老兵たちの言葉

 大橋さんだけではない。さまざまな事情で戦友会にも慰霊祭にも参加できなった元兵士たちから、戦場体験で思い出したことがあると、「遠藤さん、〇〇を思い出したから」と電話がたびたびかかってきた。あるいは戦争ものの映画や番組に登場する俳優の軍装や時代背景がちぐはぐだと教えてくれる方もいた。「思い出したことがあったらどんなことでも話してください」と、私が日頃からお願いしているからでもあるが、実はおじいさんたちは自分の話を、戦場の話だけでなく、今のことも含めて誰かに聴いてもらいたかったのだと思う。自身の健康状態や孫の自慢話や若い時の夢ややりたかったこと、いま取り組んでいることなどを一生懸命に話された。耳が遠いのでどちらかというと一方的に話されることが多かった。何度も同じ内容を聴いた。何度でも話したい話こそ、当人にとって生涯忘れがたい話なのだ。だからいつもはじめて聴く気持ちで聴くように心がけた。

 拉孟戦で飛行隊長をしていた小林中尉は晩年、戦争で閉ざされた若いころの夢を最期まで熱く語った。ニューヨークにあるコロンビア大学に留学することが小林さんの夢だった。いつも英会話のCDを枕元に置いて、亡くなるまで好きな英語の勉強を続け、その成果を電話で話されていた。少年飛行兵としてシンガポールで航空整備を担っていた小野豊中尉も、「多くの特攻兵を見送った悲痛な体験を分かち合える戦友がいなくなった」とよく電話口で話されていた。私は相槌を打つことしかできなかったが、「遠藤さんと話していると戦友と話しているようだ」という小野さんの穏やかな口調を思い出す。

 大橋さんは「軍隊生活は理不尽で厳しいことばかりでない」と語る。軍隊に何年も身を置いた兵士にしか分からない兵隊同士の人情の機微ともいようか、軍隊内にも「人間味のある」体験があったことを知ってもらいたいと語る。

 厳しい軍事訓練や死と隣合わせの戦場で、母ちゃんに無性に会いたくなる気持ちに戸惑う大橋二等兵の心情には胸が詰まった。大橋さんはこのような母を思慕する気持ちをこれまで戦友にも誰にも話すことはなかった。反面、息子を戦場に送った母親の胸の内も想像に難くない……。

最期の言葉は「お母さん」

 これまで20年以上にわたり陸海軍問わず元兵士に戦場の話を聴いてきたなかで、死にゆく戦友の最期の言葉は「お母さん」がダントツだ。独身の若い兵士らが多い軍隊だから無理もないのだが、哀しいかな、「お父さん」は一度も聴いたことがない。

 満14歳で「海軍特年兵」2 に志願した近藤恭造さん(現92歳)は、1944年10月19日に、第1機動艦隊の旗艦の空母「端鶴ずいかく」(いわゆる小沢おとり艦隊)3 の通信兵として乗艦。当時まだ15歳だった。1944年10月25日、レイテ沖海戦で瑞鶴は米軍の魚雷攻撃を受け撃沈。退艦命令が出て、近藤さんは着衣のまま海に飛び込んだ。沈没時に生じる渦に巻き込まれないように必死に泳いだ。瑞鶴は直立して一気に沈んだ。沈没後、海中で2度爆発。心臓が破裂しそうな爆音に死を覚悟し、海に漂う木材に必死にしがみついた。周りでは一人、また一人と力尽きて……。最期は「お母さん」と叫びながら海に消えていった。

 近藤の母は「こんな子どもが行くことはない」と強く海軍への志願に反対したそうだ。いまでいえば中学生2年か3年の少年だから無理もない。この海軍特年兵は、1942年の1期から4期まで総じて17200名に及び、そのうちおよそ5000名が戦死したといわれている4。瑞鶴には1600名が乗船し、3分の2が戦死した。近藤さんの同期50名のうち瑞鶴に配属されたのは10名で生きて帰れたのは近藤さん一人だけ。私は近藤さんの話を聴きながら、戦場の最前線に14、5歳の少年をも兵士として送らざるを得なかった作戦に憤りを覚えるとともに、少年らの前途ある未来を奪った非道な戦場の現実を忘れるまいと心に誓った。

 先日(2021年11月14日)、久しぶりに近藤さんにお会いしたのだが、92歳のいまでも「お母さん」と叫んで逝った少年たちの叫び声が忘れられないと話されていた。

近藤恭造さん

 ビルマ戦線を生きのびた衛生兵の細谷寛さん(現102歳)は戦争末期の1945年1月、ある兵站病院で両手足の熱帯潰瘍の治療を受けていた。明け方、重症患者が女性の名前を絶叫してベッドから落ちた。意識が薄れる中、最後の力を振り絞り故郷に残した愛する妻子の名前を叫んだのだ。細谷さんはこの絶叫に胸がかきむしられる思いだったという。

 食料も水もない南方戦線では最期の言葉が「水をくれ……」ということもかなりある。「〇〇軍曹殿、水をください」と最期の時に上官の名前を呼ぶ兵士もいた。致命傷を負った兵士に水をやるのは死を早めるだけなのだが、戦友の最期の望みを叶えてやるためになけなしの水をやるのだ。戦場でも病床でも、現実の戦場の断末魔では「『天皇陛下万歳!』と叫ぶ兵士はほとんどいなかったと老兵らは語る。もちろん、そう叫んだ将兵もいただろうが……。

 「戦争の話を聞きたいという人はいても分かってくれる人がいなくなった。
 遠藤さんしか話せない。戦友に話しているようで燃えてくるんだ」

 
 電話口で語る大橋さんの言葉にいまでも励まされている。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 大橋さん属する通信中隊は、上海から漢口、武漢、長沙、衡陽を目指す、いわゆる「大陸打通作戦」に従軍。正式名称は「一号作戦」。この作戦は1944年4月から12月中旬までにおよそ50万以上の兵力を投入した最大規模の陸上作戦であった。作戦は江南省の戦い、湖南省長沙・衡陽の戦い、広西省桂林、柳州の戦いの三段階に分かれており、大橋さんは長沙・衡陽の戦いに参戦。
  2. 海軍特年兵とは、海軍が満14歳で募集した史上最年少の志願兵。少年兵よりもさらに若い特例に基づくものであったので、特別少年兵、特別年齢兵とも称され、略して「特年兵」と呼ばれた(詳細は高野邦夫『軍隊教育と国民教育』81頁‐83頁を参照)。
  3. レイテ沖海戦とは、1944年10月20日から終戦にかけて、フィリピンのレイテ島に上陸を始めた連合軍を攻撃するため日本海軍連合艦隊がレイテ湾に突入を図った一連の戦闘。1944年10月20日、連合軍がレイテ島に上陸すると、連合艦隊は捷一号しょういちごう作戦に基づき、10月25日に主力艦隊のレイテ湾突入を敢行。航空部隊が米軍機動部隊を攻撃する一方で、小沢治三郎海軍中将率いる小沢艦隊がおとり(小沢囮艦隊)となってこれを北に誘導し、その間に栗田艦隊が突入する作戦であったが、結果として作戦は頓挫し、小沢艦隊の空母「瑞鶴」をはじめ多くの艦船を失った。この戦闘において、海軍は初の神風特攻隊を投入した(吉田裕他編『アジア・太平洋戦争辞典』705頁、吉川弘文館、2015年を参照)。
  4. 吉田裕他編『アジア・太平洋戦争辞典』298頁。