悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

101歳の遺言

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1941年12月8日「開戦」

 今年は開戦80周年。元日本兵の本村喜一さん(1920年生まれ)は、開戦時の「勝ち戦」と戦争末期の「負け戦」の双方に従軍した。前者は、1941年12月8日未明、真珠湾への奇襲攻撃より1時間数分先行して開戦の火蓋を切ったマレー半島のコタバル上陸作戦。

 後者は、史上最悪の作戦といわれたインパール作戦(1944年3月-7月)である。

 1941年12月8日のマレー半島上陸作戦の指揮官は、「マレーの虎」という異名をもつ第25軍司令官山下奉文ともゆき中将(1885-1946年)。シンガポール攻略時に、英軍司令官のアーサー・パーシバル中将との停戦交渉で、「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が有名な豪傑の風貌の将軍だが、実際のところは通訳官がもたもたしているのにイラっときて、通訳官に「イエスかノーか、訊け」と語気を強めたのが真相のようだ1。同じ第25軍の作戦参謀の国武輝人は「一般に言われているように腹の太い豪放磊落ごうほうらいらくな将軍だと思っていた。しかし、同時に繊細、鋭敏な神経の持ち主でもあるとは知らなかった」と書いている。山下は家族からは「スグスグさん」と言われるくらいにせっかちな性格であった2。イメージと実物にはえてしてギャップがあるものだ。

シンガポールの戦い、降伏交渉中の山下奉文。日本映画社本間金資撮影

 そもそも山下将軍の南方作戦の最大の目的は、イギリスの最も重要な軍事的拠点の、マレー半島の南の小島・シンガポールの攻略だった。イギリスの東洋艦隊は、シンガポールに強力な要塞を構築していたので、日本陸軍は海から攻め込むのが難しいと判断し、防御が比較的緩いマレー半島から南下し、シンガポールを攻略することにした。一方で、日本海軍航空隊は真珠湾奇襲攻撃だけでなく、イギリスの東洋艦隊の花形の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスをマレー沖海戦で撃沈させた。

プリンス・オブ・ウェールズ(『シンガポールーー山下兵団マレー電撃戦』より)

 日本陸軍は少なくとも開戦から半年は、破竹の勢いで様々な南方作戦を完遂しながら侵攻したと思っていたのだが……。本村喜一さんは「いやいや」と首を横に振る。

 「近年インパール作戦ばかり注目されますが、私は初陣のコタバルの死闘が忘れられないのです。マレー上陸作戦は決して『勝ち戦』ではありません。少なくともコタバル敵前上陸をした私の部隊は主力部隊の『おとり』でした。最初から全滅してもよい部隊と見なされ、まさに全滅寸前だったのです……」

 これまで事実上の「開戦」の火蓋を切ったコタバル上陸を体験した兵士に会ったことがなかっただけに本村さんの話に惹き込まれた。


 意外と知られていないのだが、マレー半島上陸作戦は数か所で行われた。英領コタバル(現マレーシア)とほぼ同時に、主力部隊はタイ領のシンゴラとパタニなどに上陸した。第25軍隷下の第5師団(松井太久郎師団長)と第18団(牟田口廉也師団長)の一部と近衛師団(西村琢磨師団長)がタイ国のシンゴラ方面へ、さらに18師団の侘美たくみ支隊(侘美浩少将)がマレー半島東海岸のコタバルに向かった。山下将軍はタイ国との平和的進駐交渉に難儀した。それもそのはず、前年にタイの中立を尊重する友好和親条約を締結しているにもかかわらず、タイ国のシンゴラとパタニに奇襲上陸をしたのだ。タイは寝耳に水。相当強引に交渉を進め、結果としてタイ国は日本軍の上陸を追認せざるを得なかった。

アーサー・スウィンソン(宇都宮直賢訳『シンガポールーー山下兵団マレー電撃戦』より(サンケイ新聞出版局、1971年)

侘美支隊コタバル上陸部署要図『戦史叢書マレー進攻作戦』より

 マレー上陸作戦が「成功」と見なされる中、侘美支隊は概ね6割前後に戦力が消失し、コタバル敵前上陸で多大な犠牲を払った。本村の所属部隊の第56連隊の戦力は半分に満たなかった3。本村さんが「全滅に近い戦場だった」と回想するのも頷ける。

コタバル敵前上陸

 本村喜一さんは1920年1月6日に福岡県久留米で生まれる。大正から昭和初期にかけて、本村家は久留米絣(福岡県南部の筑後地方で製造された絣)の卸業を営んでいた。藍で糸を染めるのが伝統的な久留米絣だが、当時は藍染布をインドから輸入し、商売は繁盛した。ところが米国で世界恐慌が起きて、日本も不況の嵐に巻き込まれ、相次いで銀行が倒産し、本村家も資産を失った。

 本村さんは野球の名門校の久留米商業の野球部(三塁)の出身で、後輩に巨人軍の川崎徳次投手がいる。卒業後、大建工業(丸紅の前身)に入社し大連へ赴任。当時は海外手当てがかなりついて暮らし向きは良かった。

 1940年、20歳となった本村さんは徴兵検査のため大連から久留米に戻った。甲種合格。久留米編成の第18師団(菊兵団)に入隊した。同隊は留守部隊であったため初年兵教育は入念で非常に厳しかった。

 1940年11月、本村喜一二等兵は、第18師団第歩兵56連隊に配属され、広東の珠江から三井物産の商船淡路山丸に乗船した。海南島(中国海南省)やベトナムで上陸訓練を何度も実施した。南十字星が美しい夜空見上げながら、船は南方に向かっているのはわかっていたが、行先は誰も知らなかった。

 開戦前日の1941年12月7日、本村二等兵の第56連隊は侘美支隊に編入され、淡路山丸の行き先がマレー半島東海岸のコタバルだとはじめて知らされた。侘美支隊(淡路山丸)は1653名で、第一次上陸部隊は他の船の将兵も入れると総勢5500名ほどだった4

 12月8日午前1時頃、第56連隊を乗せた淡路山丸から縄梯子が降ろされ、コタバル上陸のために鉄舟に乗り換えた。波が荒く鉄舟が揺れる。真っ暗な海上で、鉄舟同士がぶつかって大きな音と火花が散った。兵士たちは、鉄帽、銃、弾薬、毒ガスマスク、雑のう(布製のカバン)など、その装備は40キロにも及んだ。本村二等兵は本船から鉄舟になんとか乗り移ることができたが、縄梯子が切れて海に落ちる兵士もいた。


 英軍はコタバル海岸で日本軍の上陸を待ち構えていた。英軍機の鉄舟への猛攻撃が始まった途端、コタバルの町の光がパッと消えた。攻撃を受けた淡路山丸は炎上し、その後海没。海は足がつかないほど深かった。高波で兵士は鉄舟から飛び降りても波とともに砂浜に打ち上げられたり、引き波で沖合に運ばれたりと上陸は困難を極めた。

 コタバル海岸に上陸してみると、英軍のトーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地)が浜辺のあちこちにあった。鉄棒をかぶって砂浜にへばりつきながら必死に匍匐ほふく前進を試みる。海岸の英軍陣地からビュンビュンと弾が飛び交い、上空から英軍機の空爆の洗礼を浴びた。降下時に英兵の顔がはっきり見えた。砂浜に貼られたピアノ線鉄条網に行く手を阻まれる。鉄条網を避けるために砂を掘りながら匍匐前進していると、海岸沿の住居から恐怖に怯える子どもの泣き声が絶え間なく聞こえた。

 侘美支隊のコタバル上陸後の最初の任務は英軍のコタバル飛行場の爆破であった。

 12月8日の明け方、本村二等兵はコタバルの町に入った。クチナシの甘い香りが漂って、「あー俺は生きているんだ」と実感した。死傷者が海岸の波打ち際に何人も横たわっていた。

 夜明前、「4中隊集まれ!」との号令後、英軍の飛行場に突入。飛行場は原油タンクが燃えていた。英軍のトーチカから一斉射撃。すぐ横にいた第4中隊の岩本中隊長の首に弾が当って隊長は即死した。古参兵に「本村! 中隊長の遺体を探しに行け!」と戦場清掃の命令を受けた。岩本中隊長が撃たれた場所はわかっていたが、指を切り落とす暇もなかったので「中尉の肩章けんしょう」を切って持ち帰った。

シンガポール攻略

 コタバルの町に入って、淡路山丸乗船時にもらったおにぎりを食べようとしたら腐っていた。柳の葉を乾燥させたものにおにぎりが包んであった。仕方なく飲まず食わずで、シンガポールまで歩いた。英軍は小さな橋まで全て破壊し、日本軍の行く手を阻んだ。架橋作業に励む工兵が人力で橋を下で支えながら「どうぞ!」と叫ぶ。「ありがとう!」と声を交わしながら橋を渡った。侘美支隊は東海岸を、タイからの本隊は西海岸をともに南下し、シンガポールを目指した。華僑が経営しているゴム園がたくさんあった。

 ジョホール水道を渡ればシンガポールである。同水道までジャングルの中、船を布で隠して運んだ。同水道を渡るためだ。ジョホール水道で英軍の攻撃を受けて舟に穴が開いた。しかしこちらには撃ち返す砲弾がなかった。マレーからシンガポールへ第5師団が渡って厳しい戦闘となった。塹壕にインド兵が隠れていた。ジョホールから撃った大砲はほとんど意味がなかった。第4中隊の軍曹が腹を撃たれた。ビュッと腸が飛び出た。びっくりして皆で腹に戻したが軍曹はやがて死んだ。

 本村はシンガポールに入る。英軍の兵舎にはたくさんの私物が散乱し、パジャマもそのままであった。紀元節(2月11日)までにシンガポールを攻略せよとの命令だったが、2月15日にシンガポールを攻略。「万歳!」と叫ぶと涙が溢れた。シンガポールの飛行場の原油タンクから煙が立ち上る。そこにスコールが降って、本村二等兵の顔も煤だらけで戦友と泣き笑いした。勝ち戦は嬉しかった。本村さんはこの時「戦争はこれで終わった」と思った5

 「勝ち戦」の裏で、日本軍によるシンガポール華僑に対する無差別大量虐殺が行われた。中国との泥沼の戦場に苦戦を強いられていた日本軍はシンガポール華僑が資金や物資を送って中国を支援しているとみていた。だから少しでも「敵性」と見たら、老若男女、小さな子までもが殺された。日本側の資料では犠牲者は5千人、中国側では4万から5万人と言われている6

 イギリスの東南アジアにおける最大の植民地のマレー半島およびシンガポールの陥落は、その後の香港、上海、ラングーン(現ヤンゴン)の陥落と合わせて、イギリスの東南アジアにおける植民地支配の崩壊を意味するのと同時に、大日本帝国の東南アジアへの侵略の起点となった。

 本村の部隊はシンガポールから再びマレー半島へ戻り、つかの間の休養のあと、ビルマ行を命じられた。当時、本村さんは第5師団の華僑粛清の噂を耳にしたが、その実態を知ったのは戦後ずいぶん経ってからだった。

地獄のビルマ戦の幕開け

 本村二等兵の次なる戦場は地獄のビルマ(現ミャンマー)戦線。1942年4月、ラングーンからビルマ中央部のマンダレーまで行軍するも、酷暑で水もなくきつかった。小さな水たまりの汚水を煮沸して飲んだ。背中の汗が乾いて塩がふく。食糧は現地調達だった。籾をついて白米にし、現地のパパイヤやマンゴーは塩でもみ漬物に。後方から乾燥味噌が届き、久しぶりにつくった味噌汁は旨かった。

死んだ人にも格差

 本村さんは「戦場ではどこで死んだかで大きな格差がある」と語る。コタバルで戦死した岩本中隊長の遺体はすぐに収容され、丁重に焼骨され、身内に遺骨が戻された。そして二階級特進で「少佐」となった。階級は遺族の恩給に反映された。一方、インパール作戦では遺体収容など、そんな「呑気」なことはできなかった。あまりに惨めな死に方をし、さらに遺体もそのまま放置された。高温多湿と激しい豪雨で死体の腐乱が進み、兵士たちの屍の白骨化はすこぶる早かった。彼らの屍が累々と続き無惨な「白骨街道」をつくった。

 本村さんは「久留米の小学校の同級生の永石軍曹が忘れられない」と語る。軍曹はインパール作戦の撤退時にチンドウィン河付近の崖から転落した。雨期で増水した河は真っ黒い泥水の激流となった。あの状態(怪我)では永石は生きてはいないだろう。

 戦後、永石の母親に彼の戦死を伝えた時、「息子の遺骨はどうなったのか? あなたが持って帰ってくれると思ったのに……」と詰め寄られたが、言葉がでなかった。負け戦では遺体収容はとうてい無理な話。永石軍曹の遺骨を持ち帰れるような状況ではなかった……。でも親御さんの気持ちも痛いほどわかる。

インパール作戦からの敗退

 補給を無視した無謀なインパール作戦。その最高責任者は第15軍司令官の牟田口中将。15軍隷下の31師団(烈兵団)は右側、第33師団(弓兵団)は左側、第15師団(祭兵団)は中央の三方向からジャングルと大河を越えて英軍の軍事拠点インパール攻略を敢行した。携帯食料約二週間分のみ。不足は現地調達せよ。

 本村軍曹(インパール作戦時は軍曹に昇級)の部隊は第18師団から、インパール作戦でコヒマ攻略を目指す第31師団に編入された。食料の欠乏はすぐにやってきた。本村はいつも野草しか食べていなかった。草が生えている場所で用便もした。腹を壊さないように炭を食べて解毒した。チンドウィン河を越えて軍より籾付きの米が配給されたが時遅し。鉄帽に籾を入れて脱穀するが結局食べられなかった。木は濡れて火がつかない。火をつけたら敵に居場所がわかって狙われる。インパール北方コヒマ付近では、英軍の襲撃を避けるために毎日タコツボ(戦場で兵士が一人隠れるために掘った穴)の中で過ごした。ふんどしやシャツを干していると機銃掃射や弾が飛んできた。本村は「アーメン、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経」と知っているだけのお祈りを呟く。生きた心地がしなかった。

 1944年3月頃の乾期のチンドウィン河は水が少なく簡単に渡れたが、同年6月の撤退時は雨期で河は増水して渡るのに苦労した。

 兵士は武器弾薬を失くしても死ぬまで飯盒と水筒だけは離さない。「水をくれー」と悲痛な声。でも飲ませたら即死んでしまう。「天皇陛下万歳」と言って死ぬ者は誰もいなかった。撤退時の「白骨街道」で、最期に兵士らは母や妻や子供の名前を呼んで逝った。目や鼻、口には蛆がうごめき、ハゲタカが空を舞う。その下には必ず日本兵の死体があった。腐臭が漂い、死臭が堪らなかった。でもそのうち感じなくなった。

 野戦病院とは名ばかりでジャングルの木の下で寝るだけである。野戦病院から無理やり退院させられた兵隊はまだ病院服を着ている。彼の軍服はおそらく誰かが退院時に着てしまったのだろう。彼が死んだ兵士の軍服を剥がそうすると、「待て、俺はまだ生きているぞ……」と微かな声がした。

 本村も銃を杖代りに中隊からはぐれてとぼとぼ歩いた。中隊はどこにいるか分からない。木の下で腐ろうが誰にも看取られない。倒れた場所が死に場所となる。

 本村軍曹は、ある時、休憩しているインド兵を殺害して靴やズボンを奪う兵隊を目撃した。またある時、歩哨が偵察に来た敵兵2名を殺害した。皆が極限的に飢えていたのを見かねて上官が「こいつらを食おう」と言った。本村軍曹は近くに行ってその死体を覗くと、敵兵の身体は入れ墨だらけで食べる気が失せたという。
 
 「入れ墨がなかったら食っていたかもしれない。それほど飢えていました」

 本村もついに動けなくなった。上官から、今晩の汽車が最後になると聞いた。誰かが本村の尻をおして貨車に乗せた。そのまま寝て起きたらビルマ中央部のマンダレーに近いサガインだった。サガインで降りると偶然、中隊の同年兵が立っていて、シラミだらけのシャツをドラム缶で煮沸消毒し、焼いた蛇を食べさせてくれた。おかげで元気が出て命を繋いだ。

 1944年6月1日、第31師団(烈兵団)の佐藤幸徳師団長は軍からの補給がないことに憤り、独断の撤退命令を出す。佐藤師団長は軍命令違反で解任。しかし、佐藤師団長が独断撤退をしなければ本村軍曹も飢死し、ビルマの地に骨を埋めることになっただろう。

 「軍部の上官たちの命令で多くの兵隊を殺しておいて奴らは責任を取らず、戦後はのうのうと出世した。こんな馬鹿げた戦争を計画した将軍たちの顔を一発ぶん殴ってやりたいんだ」。

 いつも穏やかな笑顔の本村さんの顔が歪み、語気に力が入った。

 「まったく無謀な戦争だった。戦争は絶対しちゃいかんですよ!」


 先日、娘さんから本村さんの訃報(享年101歳)を知らせる葉書が届いた。2020年の年明けに100歳の誕生日をご家族ともに祝った日の本村さんの満面の笑顔がよみがえる。本村家を訪れるたびに、ご夫妻と二人の娘さんとお連れ合いと、6人に温かく迎えられて戦場体験を聴いた。娘さんたちはこれまで一度も父から戦場の話を聴いたことがなく、その壮絶な内容に始終驚かれていた。幸せな家庭を築かれた本村喜一さん。だからこそ、ビルマのジャングルで食うものも食えず、誰にも看取られることなく無惨な死に方をした戦友たちに対して、「自分だけ生きて帰ってきて、申し訳なくてね……」と言葉を詰まらせた。

2020年1月 本村喜一さん、100歳の誕生会の席

2017年12月、本村さんのご自宅にて ご夫妻と著者

 本村さんは、戦後一度もビルマを訪れたことはないと語っていたが、生涯ビルマの地で眠っている戦友に思いを馳せてきた。

 本村さんが自らの戦場体験を語ろうと思ったのは97歳のとき。2017年夏に掲載されたビルマ戦で亡くなった日本兵を慰霊する人の新聞記事に心を打たれたからだそうだ7


 次回は、本村さんが体験談を語るきっかけにもなった日本兵を慰霊し続けているミャンマーの小さな村の話を取りあげる。戦場にされ、被害を受けた村人がなぜ旧日本兵の慰霊をし続けるのか。その答えを見つけるために私はこの村を2016年と2017年の二度訪ねた。

 いまのミャンマーの動乱の中で、あの村人たちの暮らしはどうなっているのだろうか。

 ただひたすら無事を祈るばかりだ。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 安岡正隆『人間将軍 山下奉文――「マレーの虎」と畏怖された男の愛と孤独』光人社、2000年、354-355頁。
  2. 安岡、310頁。
  3. 防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書マレー進攻作戦』朝雲新聞社、205-206頁。上陸直後に実施した第56連隊(那須連隊)の戦力判断が掲載。
  4. 第一次コタバル上陸部隊の乗船は、淡路丸(侘美支隊)以外に、綾戸山丸(1700名)、佐倉丸(2150名)である。前掲『戦史叢書マレー進攻作戦』、192頁。
  5. コタバルへ上陸を果たした侘美支隊に、開戦の翌日(12月9日)に南方軍が感状(戦功を称える賞状)を与えている。
  6. 2月15日、シンガポール攻略後、山下奉文は「敵性」と断じた華僑は直ちに処刑せよと命じた。18歳から50歳までの華僑男子が指定場所に集められ、簡単な尋問だけで「抗日」と見なされ、郊外の海岸などで射殺。シンガポール警備司令官河村参郎の日記には2月23日に各憲兵隊長を集め、そこで「処分人数総計5千人」との報告を受けたと記されている。さらに第5師団と第18師団にもマレー半島の各地で粛清を命じ、日本軍による粛清は4月頃まで続いた。詳しくは林博史『シンガポール華僑粛清――日本軍はシンガポールで何をしたのか』(2007年、高文研)などを参照。  
  7. 朝日新聞(2017年7月17日)「旧日本兵の慰霊、続ける村」、同紙(2017年8月28日)「日本兵慰霊碑、きれいに」、同紙(東京版)(2017年9月22日)「元将兵たちを訪ねて ビルマ戦禍を後世に」(すべて編集委員・大久保真紀さんによる)