悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

音楽は軍需品なり――朝ドラ「エール」とビルマ戦線

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古関裕而のもう一つの顔

 2020年3月から11月まで放送されたNHK連続テレビ小説「エール」。第102作目の朝ドラは、作曲家・古関裕而(主演は窪田正孝・役名「古山こやま裕一」)と妻・金子きんこ(二階堂ふみ・役名「おと」)をモデルにした、戦前から戦後の昭和期に音楽で人々に「エール」を送り続けた夫婦の物語。2年前、得体の知れない新型コロナウィルスの感染拡大で不安が募る中、ステイ・ホームが叫ばれて自ずと「朝ドラ」を観る回数が増えた。毎朝、GReeeeN(グリーン)が歌う「エール」の主題歌『星影のエール』にずいぶん元気づけられた。

 古関裕而(本名勇治ゆうじ1909‐89年)は、福島県福島市の老舗の呉服屋の長男に生まれた。そういえば、GReeeeNも2002年に福島県郡山市で生まれた男性4人組のボーカルグループだ。古関は子どもの頃からその類稀な才能を開花させ、高校卒業時の寄せ書きには「末は音楽家」と書いている。アマチュアの作曲家時代に山田耕筰(1886- 1965 年)と文通をしていたことが功を奏して、1930年に当時コロムビアの顧問で専属作曲家の山田の推薦で、コロムビアの専属作曲家となった。志村けんが山田耕筰役だったのを記憶されている方も多いだろう。

 古関裕而といえば、東京オリンピック開会式の「オリンピック・マーチ」や被爆者への鎮魂歌「長崎の鐘」、夏の甲子園に響く「栄冠は君に輝く」、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」、阪神タイガーズの球団歌「六甲おろし」まで、今でも誰もが一度は聞いたことがある数多くの名曲を残した昭和の国民的作曲家である。

古関裕而『アサヒグラフ』 1956年9月23日号

 そんな古関裕而にはあまり知られていない「もう一つの顔」がある。軍歌・戦時歌謡の一人者という顔だ。古関は150曲に及ぶ軍歌・戦時歌謡を世に出した。プロの作曲家としてデビューするもなかなかヒットに恵まれなかった古関の出世作が、日中戦争のさなかに作った「勝ってくるぞと勇ましく……」の歌詞で有名な「露営ろえいの歌」(1937年)。露営とは野外に設置した陣営・野営(キャンプ)のこと。前線の兵士と銃後の家族の気持ちに寄り添う歌詞と短調の哀愁漂う「古関メロディー」が戦時下の人々の心をとらえ、60万枚もの大ヒットを生んだ。「露営の歌」が古関の名を世に広めたのである。もし戦争がなかったら、古関裕而の戦後の活躍はこれほどまでになっていたか……そう思うとなんとも複雑な気持ちになる。

 戦意高揚歌として新聞社が公募で歌詞を募集するも、「露営の歌」の歌詞は2等(作詞:藪内喜一郎)で、古関がメロディーを担当した。1等に選ばれたのは、大蔵省(当時)勤務の本田信寿の「進軍の歌」の歌詞で、陸軍戸山軍楽隊隊長の辻順治が曲を付けた。1937年、レコードのA面が「進軍の歌」でB面が「露営の歌」としてコロムビアから発売されるが、B面の「露営の歌」の方が爆発的にヒットし、皮肉にも陸軍お墨付きの「進軍の歌」はパッとしなかった。

 1938年、戦前の婦人雑誌『主婦之友』(1917年創刊)が「婦人愛国の歌」の歌詞の懸賞応募を行う。仁科春子の歌詞が選ばれる。幼子を抱いた妻が中国大陸に出征する夫を見送る姿が目に浮かぶもので、あの「露営の歌」の古関裕而に是非にと作曲の依頼がきた。短調で力強くも哀愁漂う「古関のメロディー」は、皇軍の銃後を守る妻の覚悟と逞しさを当時の女性たちに強く意識づけた1。このように前線から銃後まで、人々の心をギュッとつかむ作曲家・古関裕而を軍は放ってはおかなかった。

 1941年12月8日、アジア・太平洋戦争の開戦の告知は、ラジオの「海ゆかば」の演奏後、「臨時ニュースを申し上げます……」から始まった。ハワイ真珠湾への奇襲攻撃の「大成果」が報じられ(マレー上陸作戦は無視)、その後に「軍艦マーチ」が華々しく流れた。

 古関裕而は、宣戦布告からシンガポール陥落の約2ヶ月は軍に連日引っ張り出された。12月9日に「皇軍の戦果輝く」を発表。12月10日にマレー沖海戦で英国の不沈戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを撃沈した、というビッグニュースが届く。同日19時の「臨時ニュース」に間に合わるため、3時間弱で「英国東洋艦隊潰滅かいめつ」に曲を付けるという神業を古関は成し遂げる2

 その後の緒戦の日本軍の「快進撃」は周知の通り。年明け早々の1月2日にマニラ占領、2月15日に英国の東洋の拠点のシンガポールの陥落に続いて、3月1日にジャワ、3月8日にラングーン(現ヤンゴン)と次々に南方戦線の要衝が陥落。大本営から逐次「戦果」の報告がラジオで報じられる度に、その「戦果」に見合った曲作りが音楽家に求められた。古関裕而もその一人。連日寝る間も惜しんで曲作りに励んだ。

 戦争遂行の中で航空兵の需要が急速に高まる。古関は海軍飛行予科練習生(予科練)の「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨……」で始まる「若鷲わかわしの歌」(1943年)を発表(作詞:西条八十、歌:霧島昇)。20万以上のヒットを記録。東宝映画「決戦の大空へ」を観て、その主題歌の「若鷲の歌」を聴いて、多くの少年たちが「七つボタン」の予科練に憧れて海軍の航空兵を志願し、帰らぬ人となった。予科練の7つボタンの「短ジャケット」は、1942年末の制服改正で実現。これも映画に合わせて大量募集のうたい文句となった3

南方「皇軍」慰問団と拉孟らもう

 日中戦争期から、兵士の娯楽と士気高揚のため日本や植民地の芸能人たちが陸軍省の後援で慰問公演が行うようになる。アジア・太平洋戦争期になると陸軍省だけでなく、ラジオ局、新聞社等の企画・後援で、日本占領地域に駐屯する日本兵のため、音楽、舞踊、文芸など様々な分野の「皇軍慰問」が奨励された。

 朝ドラ「エール」でも古関裕而が南方慰問団員としてビルマに派遣されるシーンがある。古関は戦時期にビルマを二度訪れている。最初は1942年11月、古関裕而は社団法人東京放送局(JOAK:現NHK)派遣の南方慰問団員としてビルマの地を踏んだ。二度目は1944年4月中旬、大本営から「特別報道班員」を命じられ、インパール作戦(1944年3-7月)のさなかにビルマのラングーンを訪れている。「エール」では二度目の1944年の訪緬が舞台。

 1942年頃のビルマは、日本軍側からみれば比較的平穏な時期だ。楽団を指揮する古関裕而と13名の楽団員、浪曲師の梅中軒鶯童ばいちゅうけんおうどうと弟子1名、三味線1名、流行歌手5名 4、舞踊家石井みどりと舞踊団6名に落語家の林家正蔵、漫談家の徳川夢声の総勢32名の大演芸団であった。慰問団はビルマの中央部マンダレーで二手に分かれ、古関の班はメイミョウ、ラシオ、クットカイ、センウイの北ビルマの日本軍の拠点を回りながらビルマと中国の国境のワンチンから中国雲南省に向かった。師団司令部のある雲南省西部の龍陵で、危険な道中を経て来た慰問団を労って渡邊正夫師団長は盛大にもてなし、慰問団に感謝状を贈った5


 古関裕而が拉孟守備隊の元准尉の神崎博に宛てた手紙が残っている(1961年6月30日付)6。古関は18年も前の南方慰問行を鮮明に記憶している。懐かしさから神崎に長文の返信をしたためている。ビルマと中国の国境のワンチンの小川を渡ると「いっぺんにアンぺラ小屋が支那建築(ママ)に変わり、地続きの国境をはじめて知った」と記されている。

 1942年12月2日に最終目的地で最前線の拉孟陣地にたどり着くのだが、龍陵から約60キロ離れた拉孟へ向かった一行にとんでもないことが待ち受けていた。古関の手紙にもあるが、拉孟陣地に行く途中の九十九折つづらおりの輸送路(援蒋ルート)で演芸団を乗せた自動車5台のうちの1台が転落事故を起こした。事故車は英軍から没収したシボレー。舞踊家の蔡瑞月、古森美智子、小池博子と三味線弾きの岡本わさが乗っていた。運転手の曹長は車の下敷きになり即死。三味線の岡本が肩を骨折したが、舞踊団の女性らは軽傷ですんだ。古関はこの転落事故を20年近く経っても忘れることができなかったようだ。曹長には気の毒だが、死者1名ですんだのが奇跡に近かった。

 山上に布陣した拉孟陣地に古関裕而が音楽慰問に行ったことはほとんど知られていない。赤土の山肌と無数の松しかない辺境の地。兵士たちはとにもかくにも娯楽に飢えていた。

 さて、日本女性に久しぶりに対面する拉孟の兵士たちの興奮ぶりは尋常ではなかった。先の転落事故で負傷した踊り子を手当てした衛生兵に対する男たちの羨望のまなざし……。彼女を背負った江田具視上等兵はいつまでもその感触を語っていたようだが、その彼も生還は叶わず拉孟で戦死した。歌手・奥山彩子の振袖姿に兵士らは狂喜乱舞し奇声を発して怪我人が出るほどに熱狂した。私も雲南省の抗日戦争資料館で振袖姿の奥山彩子に出会えた。彼女の写真は日本兵だけでなく中国兵にも好まれたのか、日本軍の罪行の展示を主としている資料館で、一見不釣り合いな奥山彩子の写真がその中にあった(2010年2月訪中)。

慰問団の写真

奥山彩子の写真 いずれも龍陵抗日戦争記念館内、2019年2月24日著者撮影

 拉孟陣地では女性客の訪問で女性トイレを新設し、夜間の特別警戒にも気をつかった。古関ら一行は、民間人(新聞記者などの報道班員を除く)としては初めて拉孟陣地に案内され、前線陣地に立ってさすがに緊張気味だった。

 中国大陸は想像を超えて広大だ。現在でも一日では拉孟には辿り着けない。2千メートル近い山上陣地跡から望む眼下の景色は雄大で暫し言葉を失う。山々の尾根を這うように蛇行する大河・怒江は文字通り怒れる蛇の如し。怒江はビルマ領ではサルウイン河という。山に霧がかかると辺りは水墨画のような幻想的な景観に変貌する。雲南の霧は濃い。元兵士たちは「霧が出たらあかん。敵も味方もわからんようなるから休戦や」と語った。

 拉孟の眺めは絶景だと評判になり、記者や作家なども平時の拉孟を訪れている。古関ら一行と同時期に、作家の水木洋子(1910‐2003年)が拉孟を訪れた。1942年10月末、南方に派遣された女流作家の一人に水木も選ばれた。派遣人名表には新聞、雑誌記者ら37名のほかにマレーに林芙美子、ジャワに宇野千代など名の知れた女流作家9名が出てくる。最前線のビルマを取材した水木は、帰国後、『ビルマ新聞』(読売報知新聞発行)に1943年2月から16回の連載「ビルマの旅」を掲載した。1944年1月には雑誌『令女界』に「前線のお正月」という題名で拉孟の将兵の日常をこう書いている。

 「ここの兵隊さんは何れも穴倉の生活をしている。座っただけで頭のつかえる穴に毛布を敷いて、三人の兵隊さんが、終日、敵の動静を看視しているところであったが、穴の入り口に〆縄を張って、僅かにお正月気分を出している。この穴倉生活も、もう7ヶ月になるという」7

 1942年の訪緬は、南方慰問団とは別に、音楽家・古関裕而に格別の興味を与えたようだ。それを証拠づける史料が最近、古関裕而記念館(福島市)で見つかった。古関自らが撮影した6本の9.5ミリフィルムである。古関は日中戦争時の中国にも従軍楽団部隊として派遣されている。日中戦争時に撮影されたフィルムと、1942年の第1回目の南方慰問団のフィルムが収められており、ビルマの「土候」と呼ばれる有力者に歓待される様子や北ビルマのセンウイの現地の小学生の唱歌や現地の人々の様子など、日本軍の占領政策を物語る貴重な史料である。拉孟陣地から臨む展望なども映像に残されていた。


 とりわけ古関が好んで映像に残したのがマレーやビルマの現住民の民謡や舞踊などである。現地で採譜した民謡の楽譜帳も残されており、これらが戦後の古関の新しい音楽創作の源になったと思われる。南方の新天地の音楽に触発された古関は、軍歌・戦時歌謡を越えた新しい音楽へのインスピレーションを得た。帰国後の1943年、古関裕而は、一緒に南方慰問団に同行した舞踊家石井みどりと「ビルマの夕べ」という催しを公演し、そこで自ら作曲した「ビルマ・ブエ」など5曲の演奏を指揮している。これらの新しい音楽への試みは、戦後、映画「モスラ」をはじめ数々の名曲を生む原動力になった8。      

「ビルマ派遣軍の歌」

 2020年10月中旬の朝ドラ「エール」の第18週の「戦場の歌」のシーン。舞台設定は1944年4月の戦況悪化が著しいインパール作戦下のビルマ。古関はインパール作戦の日本軍将兵の士気高揚のために「ビルマ派遣軍の歌」を作曲した。作詞はともに特別報道班員として訪緬した火野葦平。豪華な顔ぶれだ。ところで、「エール」ではインパール作戦(1944年3月‐7月)のさなかの設定だが、これは史実とは違う。実際はインパール敗退後の1944年9月に発表。士気高揚には時すでに遅し。

 実際にビルマの戦場から生還した将兵らによると、「ビルマ派遣軍の歌」は作詞家と作曲家が超一流なわりに、ビルマ戦線の兵士にあまり受けなかったようだ。その中で将兵に最も広く歌われたのは、ビルマ戦線の兵士が作った「シャン高原ブルース」だった。これは必ずしもオリジナル曲ではなく、ブルース調でもないので「シャン高原の歌」の方がよいとのコメントがつけられている9

 戦友会で元大尉(現在100歳)に「ビルマ派遣軍の歌」のことを聞いてみた。N響の演奏会に足しげく通う無類の音楽好きの方だが、戦時も戦後も「ビルマ派遣軍の歌」は聴いたことがないと語る。しかし、「シャン高原ブルース」はよく耳にしたらしく自ら歌ってくれた。シャン高原は灼熱のビルマでは涼しく過ごしやすい。シャン高原のメイミョウは「ビルマの軽井沢」と呼ばれ、日本軍の師団司令部が置かれた場所でもある。

 「エール」の第18週では、ドラマだけあって、「ビルマ派遣軍の歌」が兵士たちの心を掴み戦場で歌われる感動的なシーンに使われている。古関裕而の故郷の恩師・藤堂大尉は、インパール作戦の後方支援部隊の隊長という無理ある設定で登場する。藤堂大尉役の森山直太朗は、インパール作戦下の戦場で教え子の作曲した「ビルマ派遣軍の歌」を澄み切った歌声で独唱。なぜか藤堂大尉は2番の歌詞で歌った。1番の歌詞は「詔勅しょうちょくのもと勇躍し、神兵ビルマの地をけば」ではじまる、まさに「皇軍兵士」を鼓舞する歌。詔勅しょうちょくとは「天皇の御言を宣る」と言う意味。詔勅とは、テレビ的にも「お茶の間」にも聞きなれない言葉だけに、2番の「イラワジ河の水ゆるく御国の楯と進みゆく」の方が選ばれたのだろう。

 なにはともあれ、ビルマ戦線の兵士が好んだのは、皇軍兵士として士気高揚を謳う変ホ長調の「ビルマ派遣軍の歌」ではなく、シャン高原の自然や人々の暮らしを謳ったニ短調の郷愁を覚える「シャン高原ブルース」だった。たとえがおかしいかもしれないが、古関の曲はマーチ調で闊歩したくなる旋律だが、「シャン高原ブルース」は外国の日本食屋によく流れている「さくら さくら……」のような懐かしい旋律。「ビルマ派遣軍の歌」の方が格段に音楽性は高いのだが、兵士の心を打ったのは郷愁が漂う「シャン高原ブルース」だった。

 ちなみに「シャン高原ブルース」の歌詞(1番)は次の通り。なんだかほっこりする。

「野行き山行き 南の果てに 
来たぞ高原 シャンの町 
お花畑に 松風吹けば
桜吹雪の 春の宵」

 いよいよ音楽慰問会の日。藤堂大尉こと、森山直太朗の美声の後、朝ドラ史上いまだかつてない戦場の重たいシーンが続く。よりによって音楽慰問開催の直前に、敵軍と激しい銃撃戦が始まり、藤堂大尉が裕一を庇ってまさかの戦死。朝ドラでの銃撃戦に賛否両論がネットを騒がした。

 実際は、古関裕而はインパール作戦の従軍兵士の慰問はしていない。というよりしたくてもできなかった。古関が訪れた1944年4月のビルマの戦況は緊迫しており、音楽慰問団が戦場に馳せ参ずる状況ではなかったのだ。さすがにドラマは盛り上げるために、事実とは違う味付けを上手にする。

音楽家の戦争加担

 この銃撃戦の後、古山裕一は、凄惨な戦場を目の当たりにして戦場の現実を知ってひどく心を乱す。予科練の『若鷲の歌』のように若者を戦場に駆り立てる曲を作り続けた自分を激しく責め、ついに曲が書けなくなるというストーリー。とてもよくできているが、実際の古関はそこまで自責の念に駆られていなかったようだ。時世に合わせた音楽で人々に「エール」を送り続けたのが古関裕而の実像に近い。

 2020年11月、私は古関の故郷に建てられた古関裕而記念館を訪ねた10。NHKの朝ドラで古関裕而夫妻が主人公となったことで連日多くの人が押し寄せ賑わっていた。


カウンターに座る著者。いずれも古関裕而記念館にて。2020年11月19日撮影

 古関裕而記念館の学芸員は次のように語る。

 「古関の音楽家としての戦争責任についてはよく問い合わせがありますが、今の価値観でだけみてはいけないでしょう。戦後、NHKの取材でロザリオを持ちながら、『若鷲の歌』について自分が作った曲で若者が戦争に……というようなことを語っているのが唯一です。内面的には自分の作った曲が多くの若者を戦争へ向かわせることになったという贖罪の気持ちはあったと思いますが、彼はそれを文章や明確な言葉にしていません」

 古関裕而の評伝を書いた刑部おさかべ芳則氏(日大准教授)によると、古関はある雑誌のインタビーに次のように答えている。

 「あの当時の日本国民は、それぞれの分野で、お国のためにつくそうと考えていたわけで、私もまた、お国のために全力をつくした、としかいいようがありません」(『週刊平凡』1976年1月22日)

 もちろん、音楽家だけではない。これが当時の大概の日本人の本音であろう。

 しかし、古関裕而が若い頃から尊敬していた山田耕筰の戦争加担は明白だ。1932年に日本の傀儡国家・満州国が建国された時、国歌をつくるにあたり、初代国務総理大臣の鄭孝胥ていこうしょが作詞をし、これに曲を付けたのが他ならぬ山田耕筰である。耕筰はこれを機に軍と接点を強めていった。1938年には陸軍省報道部嘱託に任命される。これは将官待遇であった。1941年10月には演奏家協会音楽挺身隊を結成する。そこでは自ら高級将校の軍服を身につけ、長靴を履き、日本刀を下げて戦力的に活動した。耕筰が作った音楽挺身隊歌の一部を引用する11

「さあ行かう ちまたのなかへ 
ささげまつる わが身だ この楽の音だ
御国のために ふるい起きてよ
はらからよ 我らが魂の歌を共に歌へ」

 アジア・太平洋戦争に突入後も、山田耕筰の「活躍」は色が褪せない。山田や古関だけではない。当時のほとんどの音楽家や演奏家も戦争加担に手を染めていくのである12

「音楽は軍需品なり」

 80年代の流行歌を聞くとあの時代を思い出すように、音楽は時代の申し子であり、時代を映す鏡でもある。海軍省軍務局の平出英夫(1896‐1948年)は、自著『音楽は軍需品なり』(音楽蓄音商会、1941年)の中で、総力戦体制下で、音楽は思想宣伝や音楽教育、教化動員といった役割を担うべきと説いている。当時、「音楽は軍需品なり」というフレーズが音楽雑誌に頻繁に掲載され、音楽が国民や兵士の戦意高揚に利用された。これを誠心誠意、実行した代表選手が山田耕筰であろう。

 さて、実際の戦場や占領地ではどうだったのか。音楽は軍需品(兵器)だったのか?

 17年以上も前になるが、私は軍隊内の音楽隊である元陸軍軍楽隊の西村初夫さん(1915‐2012年)から非常に興味深い話をいくつも聞いた13

 西村さんは陸軍軍楽隊のクラリネット吹きで、戦後は日本交響楽団(のちにNHK交響楽団に改称)に入団した演奏家のエキスパート。軍楽隊の本来の任務は、宣撫工作や士気高揚など平出が掲げた「音楽は軍需品なり」の手本のような部隊なのだが、実際は、特に戦地や占領地では多様な音楽的な要求に応じ、その要求は「軍需品」ばかりではなく、まさに音を楽しむ、あるいは心を癒すための本来の音楽であった。

 「昭和15年2月末南寧(中国広西チワン族自治区の首府)方面へ派遣。軍司令官は今村均中将。山岳地帯の戦場に慰問演奏のため出かけた折に、高地で気流が悪く一時停戦したので、敵兵に演奏を聴かせました。兵士が『いま、軍楽隊が来た。演奏を聴きたいか』と拡声器で敵兵に問いかけると、なんと『聴きたい』との返事が来ました。拡声器を山の尾根に置きに行った兵士は撃たれるのではないかと生きた心地がしなったそうです」

 1941年12月26日、西村さんは陥落の翌日の香港で英軍捕虜に対して演奏をした。

 「20名くらいの英兵捕虜が聞き入っているのを見て、英軍も音楽に飢えていたのだと思い、なんだかほっとしました」

 「仏領インドシナ(現在のラオス、ベトナム、カンボジア)では、『蝶々夫人』のようなオペラの曲も演奏しましたが、ほとんどはマーチや序曲、やはり軍歌です。でも一番兵士が好むのは日本の流行歌で、戦地の雰囲気とはそういうものだったのです」

 音楽を楽しんだ後のドンパチはさぞかし双方ともに気合が入らなかっただろうに……。第4回(戦場と母ちゃん)で登場した大橋中一郎さんは中国の戦場で、壊れたハーモニカで日本の歌を懸命に吹いた。戦場に出る前の部隊全員が聞き入ったという。音楽を戦地で聴くことは、人間性を少しだけ取り戻す行為であったのかもしれない。音楽は本来、軍需品(兵器)にはなりえないのだ。

 さらに西村さんは、こうも語る。

 「軍楽隊は軍隊には珍しくリベラルな空気やデモクラシーが多少はありました。内地では鬼畜米英の音楽(特にジャズ)は禁止でしたが、戦地では町に出てどんなレコードでも買って聴けました。
 1943年に帰国後も軍楽隊は朝礼で、ハンガリー出身で米国にいたヨーゼフ・シゲッティ(1892‐1973年)のヴァイオリンと米国人のベニー・グッドマン(1909‐1986年)のクラリネット、それにピアノの三奏者による『コントラスト』(ベーラ・バルトーク作曲)のレコードをみんなに聴かせました」

 
 音楽を通じて敵兵、捕虜、現地住民、もちろん部隊慰問もできるのだ。そして軍楽隊員自ら敵国の音楽を拒絶していなかった。もっと言うならば、軍楽隊の中で西欧音楽は温存されていたのである。まさしく音楽には国境はない。音楽を軍需品にするなんて論外。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 刑部芳則『古関裕而――流行作曲家と激動の昭和』中公新書、2019年、79‐80頁。
  2. 前掲『古関裕而』106‐108頁。
  3. 高野邦夫『軍隊教育と国民教育――帝国陸海軍軍学校の研究』つなん出版、2010年、75頁。
  4. 波岡惣一郎、藤原千多歌、内田栄一、奥山彩子、豊島珠江はすべて当時の人気歌手。
  5. 星野幸代「南方『皇軍』慰問――芸能人という身体メディア」西村正男・星野幸代編『移動するメディアとプロパガンダ――日中戦争期から戦後にかけての大衆芸術』勉誠出版、2020年、136‐147頁。
  6. 太田毅『拉孟――玉砕戦場の証言』昭和出版、1984年、48‐53頁。太田自身も元龍兵団の将兵で、戦後拉孟の数少ない生存者の証言を収集した貴重な著書。古関裕而の書簡が収められている。古関裕而記念館(福島市)で古関の別の拉孟の元将兵に宛てた書簡が見つかった。
  7. 水木洋子(1910‐2003年)は映画脚本家。水木のビルマ・雲南従軍従軍記の詳細は、加藤馨『脚本家 水木洋子――大いなる映画遺産とその生涯』映人社、2010年、111‐127頁を参照。
  8. 2020年に、古関裕而が自ら撮った南方慰問団の9.5ミリフィルムと楽譜帳などの貴重な史料が見つかる。NHKBSプレミアム「もう一つの『エール』~古関裕而 新しい音楽への夢」(2020年12月19日(土)23時)が放送。番組作りに協力し、様々な示唆と資料提供を受ける。
  9. 全ビルマ戦友団体連絡協議会編『勇士はここに眠れるか』(付録第三「ビルマ戦線の歌」)、弘報印刷株式会社、1980年、595‐604頁。
  10. 古関裕而記念館は、地元福島市大町出身の昭和の著名な作曲家・古関裕而の業績を称え、「古関メロディー」を後世に継承し、音楽文化の振興を目的として、市制80周年の記念事業として1988年11月12日に開館した。
  11. 山田耕筰「音楽挺身隊歌を結成さる」(『月間楽譜』第10号、松本楽器合資会社、1941年)。
  12. 戦時下の音楽家の戦争への動員や加担、またその責任問題ついては、戸ノ下達也『音楽を動員せよ――統制と娯楽の十五年戦争』青弓社、2008年に詳しい。
  13. 西村さんへの聞き取りは2004年8月4日に渋谷の西村フルーツパーラーで実施。