悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

いま、戦争が起きたらどうしますか?

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元陸軍大尉の問いかけ

 「戦友の皆さん、もしいま戦争が起きて、こんな老人ですが、戦争に行ってくれといわれたらどうされますか? 」

 戦後70年(2015年)に、元兵士たちが集う第2師団のある戦友会で、元陸軍大尉の水足さんがいきなり戦友たちに問いかけた1

 総務省の人口推計(2020年)によると、戦後生まれが総人口の84.5%(1億665万2000人)となった。当たり前だが、毎年戦後生まれが漸増している。戦場体験をもつ元兵士は概ね90歳代後半から100歳を越えた。もう直戦場体験者はこの世から姿を消す。いま、「戦場体験」を自らの言葉で語れる人はどれだけいるだろうか。

 2005年から私が「お世話係」をしている第2師団の戦友会も、2016年から2018年にかけて元兵士たちの訃報が相次いだ。光橋大尉(享年94歳)、金泉軍曹(享年98歳)、角屋すみや上等兵(享年96歳)、磯部憲兵軍曹(享年99歳)氏木隊長(享年97歳)、この順番で見送った。皆さん、いま生きていたら100歳越えである。戦後70年に、水足大尉が冒頭で投げかけた問いかけに、戦友らが返した言葉は事実上の「遺言」となった。

戦友会の面々(2015年11月撮影)

 水足さんは、1922(大正11)年1月1日生まれの満100歳。戦友の面々が誰一人突破できなかった100歳の壁を見事に突破! 水足さんは戦友会では事務局長兼無茶振り好きなMC(進行係)役。彼の絶妙な気配りと軽快なトークで会は常に盛り上がった。現在(2022年)、勇会の戦友は水足大尉ただ一人。最後の語り部を担うのはやはりこの人しかいなかった。水足さんにはもうしばらく戦友の元に行くのを遅らせてもらって、いまの日本の浅はかな「戦争屋」を戒めてもらわねばならない。

 さっそく戦後70年の在りし頃の元兵士らの会話をできるだけ忠実に再現してみよう。

 言い出しっぺの水足大尉が最初に口火を切った。

水足大尉の場合

 「私は戦争になったらさっさと逃げます。戦争に行って、戦争のむごたらしさを嫌というほど経験し、私は最大の卑怯者になりました。戦争は何としても阻止しなくてはいけません。勝っても、武力では何も解決しません。だから自衛隊も軍隊もいりません」

 一瞬、一同がキョトンとした。陸軍士官学校出なのにそこまで言っちゃう? と誰もが思った。

 水足さんは、陸軍士官学校(以下、陸士)56期の「職業軍人」である。士官学校というだけあって、卒業すると工兵第2連隊の少尉に任官し、年齢が若くても否応なしに指揮官となる。ビルマ戦線では戦歴豊富な年上ばかりの200名もの兵隊を部下にもった。

陸軍士官学校時代の水足さん

 「部下の兵隊が皆死んでいって、自分のようなボンクラな指揮官が生き残ってしまった」と肩を竦めながら、「23歳で戦死していればよかったんだけど、おっちょこちょいだから死ねなくてね。あとの人生はおまけなのにこんなに生きちゃって……」と照れ笑い。こんな風に言いながらも、水足さんは90歳半ばまでビルマで戦死した将兵と、学徒出陣で1945年5月14日に米海軍航空母艦エンタープライズに突入し、航空特攻死した早稲田中学時代の親友の富安俊助中尉のために毎月欠かさず靖国神社に参拝していた2。水足さんも早稲田中学5年次に陸士を受験しなければ、早稲田大学に進学し学徒出陣で出征していたはずだ。水足さんが工兵を選んだ理由は、兵科の中で戦死率が高かったから。戦時中は早く戦果を挙げて名誉の戦死を遂げたかったそうだ。水足さんがそう思った理由の一つに親友の富安俊助さんの特攻死があったと思う。そんな水足さんが「戦争になったらさっさと逃げる。卑怯者となってもかまわない」、とどのつまり「自衛隊も、軍隊もいらない!」と戦友の前で語った。戦時中なら指揮官の敵前逃亡は言語道断。「軍法会議」で死刑も免れない重罪である。水足大尉が戦友会で、思いつきでこんなことを語ったのではないことは戦友の面々は重々承知のはず……。

エンタープライズに突入した特攻機(1945年5月14日 USN – U.S. Navy Naval Aviation News November 1945)

 2015年の戦友会の状況について簡単に説明しよう。第2次安倍内閣時(2012年12月発足)から戦後70年(2015年)にかけて、戦友や遺族だけでなく、戦友会には保守系右派団体の人たちが入れ替わり立ち替わり大勢押し寄せた。2013年は戦友と遺族合わせて13名だったが、2015年には戦友や遺族を上回る「部外者」(ピークは17名)が戦友会に随時入会した。例えば、「従軍慰安婦はいない」、「朝日新聞をぶっ潰す」と訴える人たち、「自虐史観」によって「貶められた歴史」を正す教育に従事し、靖国神社併設の戦争博物館「遊就館」に足繁く通う人たち、日本会議某支部主催の勉強会や「英霊にこたえる会」の会員たち。勇会だけあってあちこちの「勇ましい人たち」が集ってきた。彼ら彼女らは数回参加するも、どんなに長くても半年くらいでぱったりと来なくなった。総じて熱しすく冷めやすい人たちだった。この人たちは水足さんの前述の発言の意味が全くわかっていなかったようだ。不詳「お世話係」は戦友会歴17年(2022年現在)、怪しげな来訪者が繰り広げる戦友会でのすったもんだをしかと目撃した3。長くいればいいというものでもないが、「部外者」の筆頭として最後まで見届ける所存でいる。

最後に愛が勝つ

 水足さんは、おもむろに一冊の本を取り出した。イアン・J・ビッカートン『勝者なき戦争――世界戦争の200年』(大月書店、2015年)。本を紹介しながら「戦争は小さないざこざから始まる。戦争は勝ってもその被害は甚大で、その最大の被害者は一般の人たちだ」と述べた。さらに、とかく「安倍シンパ」が多い戦友会で、水足さんは当時の安倍政権にも苦言を呈した。

 「安倍さん人気が落ちている。これは国民が戦争を嫌がっている証拠。戦争は絶対にしてはいけない。愛が大事、最大に愛すること。妻を愛し、子どもを愛し、兄弟を愛し、隣人を愛し、社会を愛し、隣国を愛することが戦争回避に繋がるのです」

 「戦争回避に愛」なんてあまりに情緒的だと反論したくなる人もいるだろうが、「反骨の100歳のジャーナリスト」で有名なむのたけじさん(1915‐2016年)も晩年の講演会で「男女が愛し合えば、戦争をしたくなくなる。妻を、恋人を、友人を、隣人を愛せよ!」と訴えた 4。1世紀を生き抜いたジャーナリストが残した遺言も「愛せよ!」。

 右を見ても左を見ても「今だけ、金だけ、自分だけ」。家庭にも、隣人にも、社会にも、国同士にも「愛」が足らないと争いが絶えなくなって戦争になる。なんだか妙に腑に落ちる。大国は、小国(他国)を蹂躙して、自国だけが幸せになれるとまさか本気で思っているのだろうか……。

 兵士たちは「愛する人(国)のために戦う」とよく口にするが、どんな立派な大義名分を掲げても、現実の戦争は無辜の人たちの命や財産を奪う行為だ。殺した敵兵にも家族や恋人や友人がいる。殺し殺された後に残る悲嘆と憎悪の連鎖は次世代、次々世代へと引き継がれ、さらなる憎悪を生み、再び戦争を引き起こす燻ぶった火種になる。戦争は愛から一番遠い行為。ミュージシャンのKANのヒット曲(1990年)の歌詞ではないが「必ず最後に愛が勝つ」と叫びたい。

氏木隊長の場合

 氏木隊長は水足大尉より2期先輩の陸士54期。騎兵隊と戦車部隊の隊長。戦友会の会長でもあったが、常に「氏木隊長」と呼ばれていた。騎兵も戦車部隊も将兵の憧れの兵科。氏木さんは大変人望が厚く、他の部隊からも一目置かれ、誰もが氏木隊長の発言に耳を傾けた。氏木さんは若者への提言もこめて次のように述べた。

 「私はもう戦には行かないねえ。しかし、戦争はなくならんねぇ、人間が生きている限り……。ただし、弾を撃って血を流す戦はしないで生きていくにはどうするかを考えていかなければならない。これからは人類の知恵が試されると思うがね」

 知恵の足らない人類は、今でも弾で血を流す戦を繰り返している。

光橋大尉の場合

 光橋大尉は第2師団第29連隊の連隊旗手。軍旗は天皇の分身だった時代。連隊旗手は軍人の誉れであり、連隊の中でも優秀な人材が抜擢された。

 水足大尉の陸士の同期の光橋大尉は、時にはやんわりと時には厳しく暴走する「同期の桜」を抑える役割を担っていた。水足さんが、1945年にビルマ戦線で戦った将兵の「慰労」のために、ベトナムに慰安所を作った話をしたときは眉をひそめ、「水足、そこまでここでいう必要はないんだ」と戒めた。水足さんは、連隊長の許可の下で慰安所を作った話をさらりと語った。その時、「従軍慰安婦はいなかった」と訴える「勇ましい人たち」はなぜか黙秘権を行使。何も反論しなかった。いやできないでしょう。なんたって実際に慰安所を作った中隊長が証言しているのだから。光橋さんが皇軍の名誉を傷つけるとばかりに困惑していた顔が忘れられない。

 水足さんの問いかけに対して、光橋さんは次のように答えた。

 「戦争は二度としてはいけないのはそのとおり。ただし、支那事変と大東亜戦争を同類に考えてはいけない。私は戦争の酷いものをたくさん見てきた……でも我々も頑張った。よくあれだけの力があったと思う。よくやった」

 このように「支那事変」と「大東亜戦争」をわけて考える旧軍人はけっこういる。当時、「大東亜戦争」には欧米列強国の植民地支配からのアジアの解放という「大義名分」があった。当時はそれを信じて戦ったという証言も多くの将兵から聞いたが、しかし、彼らが実際に目にした戦場は緒戦を除けば、解放どころか非常に惨たらしい侵略戦争そのものだった。

 光橋さんは命を顧みずに闘った兵士たちの功労を戦後世代にも知ってもらいたかったのだろう。だが、先の戦争が正しかったとは言っていない。水足さんのように歯切れよく言えない心の葛藤が読み取れる。

義父・遠藤三郎中将の場合

 光橋さんは陸軍中将の遠藤三郎(1893‐1984年)を義父にもつ。遠藤三郎中将(陸士26期)は、1932年に関東軍の作戦参謀、34年に陸軍大学校教官、その後、参謀本部第一課長、第三飛行団長、陸軍航空士官学長や軍需省航空兵器総局長官などを歴任した軍部の重鎮であったが、戦後は一貫して護憲を徹底的に唱え、反戦運動に専念した極めて稀な元陸軍人である。戦後、極右派は遠藤中将を「赤の将軍」と揶揄し非難し続けた5

 1956、57年に中国の要請に応じて中華人民共和国を視察。57年に光橋さんも同行した。帰国後、二度と中国と戦火を交えてはならないと決意し、1961年8月15日に遠藤中将と志を同じくする元軍人らと「日中友好元軍人の会」を結成した(現在は「日中友好8.15の会」)。創立宣言では、「戦争の罪悪を身をもって体験した軍人として、戦争放棄と戦力不保持を明記した日本国憲法を遵守し、近隣諸国、とくに中国との友好を進めんとする」と謳っている6

 水足さんは戦後、吉田茂が作った「日本国土開発(1951年設立)」で遠藤三郎の息子の遠藤十三郎(陸士58期)さんと同僚だった。水足さんは十三郎さんから遠藤三郎の持論の「軍備亡国論」を聞いて、遠藤将軍は非常にユニークな人物だと好奇心が沸いたそうだ。戦争のプロが、日本は地政学的にも戦争に不利で、資源も乏しく、原発が列島に配備されおり、日本が再び軍備増強を行えば必ず国が亡びると強く訴えたのだ。さらに遠藤は「非武装は無防備ではない」との持論を展開し、「非武装(無防備)でも防備(防衛)の手段方法はいくらでもある。第一に心構えであり、政治、経済、外交のあらゆる面おいても防衛が達成せられる。威嚇に屈せず富貴にいんしない独立の精神、そして内にあっては不平不満をなくして内乱の原因を剪除する格差解消の政治経済、外にあっては諸外国と友好を深め敵を作らない外交がそれである。科学技術が発達し原子力が開発された宇宙時代に入った今日、軍備国防のごときは無意味であるばかりでなく、むしろ軍備そのものが有害無益、きわめて危険な存在になったのである。…日本国憲法は明らかに国防の神髄を示している」と述べた7。半世紀以上前の言論とは思えない、現代にも十分通用する内容に驚く。

 しかし、光橋さんは義父・遠藤三郎中将のことをほとんど戦友会では語らなかった。このあたりのことを本人に直に聞けなかったことが悔やまれる。

角屋上等兵の場合

 角屋上等兵は、「戦争は嫌だ。でもいざという時は俺は日本を守るぞ!」と威勢よく語った。角屋さんは戦争反対の立場だが、軍隊は必要だと訴えた。しかし、角屋さんは「戦はよその国ではやってはだめだ」と付け加えた。この一言が重要。よその国で戦争をすれば、戦場にされた側からみれば明らかに「侵略」である。かつて日本はどれだけよその国を戦場にしたかを猛省せねばならない。

金泉軍曹の場言

 古参兵の金泉軍曹がいつも口癖のように語る言葉。

 「私は軍隊が大嫌い。二度と戦争はしてはいけない。最初から相手が憎いわけではないのに殺し合う。相手にも親兄弟がいて死んだら悲しむでしょう。戦争ほど愚かなことはない。勝っても負けても意味がない。所詮、国同士の関係だからね」

軍装の金泉さん(左端)

 ガダルカナル戦とビルマ戦の激戦を生きのびた金泉軍曹の言葉はずっしりと重い。

陸士61期の安喰あじきさんの場合

 安喰さんは、陸士61期生。陸士59期から61期までは陸士を卒業前に敗戦を迎えた。陸士最後の61期の安喰さんは、在校中は爆弾を抱えて戦車のキャタピラに突っ込む特攻訓練ばかりさせられていた。戦争がもう少し長引けば安喰さんはおそらくこの世にいなかった。安喰さんも「戦争は反対だが、自国は自分で守らねばならない」と主張し、「勇会には昭和30年代から参加。61期は戦争の後始末をするためにいる」と締めくくった。安喰さんのように決意をもって陸軍士官学校の門をくぐった人たちは、戦場に行けなかったことにある種の「負い目」のような感情をお持ちのようだ。だからだろうか、先頭に立って有事には身を捧げる覚悟があると直立不動で返答された。陸軍士官学校(あるいは幼年学校)に入って戦場に行かずに敗戦を迎えた人たちの中には、戦後、改憲と国防軍の必要性を強く主唱する人がいる。あくまで憶測に過ぎないが、「戦場体験」がない「負い目」が勇ましい言葉を生むこともあるのではないだろうか。実際に戦場体験があるかどうかが元兵士たちの間でも戦後の生き方や戦争に対する考え方に大きな影響を与えている。

栗田中尉の場合

 さらに、同期生の仲でも「戦場体験」があるか否かで、戦争に対する見解が大きく異なる場合もある。

 勇会の会員ではないが、陸士57期の二人の元将校は戦争に対する見解がまったく異なった。戦争末期、陸士57期は少尉に任官し、敗戦色濃い前線に次々に送り込まれた。ビルマ戦線もその一つ。57期までがリアルな戦場体験があるギリギリの期だろう。1945年3月、陸士57期の栗田中尉は、戦争末期のビルマ撤退作戦のイラワジ会戦に投入され、英軍との銃撃戦で頭蓋骨陥没の重傷を負いながらも「地獄のビルマ」から奇跡的に生還した。

 彼は「戦争は人間を壊す。あんな惨めなものはない。絶対にしてはいけない」と語気を強める。3月の灼熱のイラワジ戦場では、間断ない英軍の空爆よりも水の欠乏が何より苦しかったと語る。2016年に「あの猛烈な暑さを知らない人間にビルマ戦の話をしてもわかるはずがない」と言われた。私は発起し、翌年3月に栗田中尉が戦ったイラワジ河付近の戦場に赴きその灼熱を体験した。早朝でも30度を超え、日中の日差しは帽子を被っていても耐え難い。ミャンマー人は寺院内ではすべて素足で、地面に額を付けるようにして祈りを捧げるのだが、ひ弱な足の裏をもつ私はその暑さに耐えがたく、歩くことも地面に座ることも決死の覚悟だった。栗田さんの経験したイラワジ河の川辺を歩いてみたが、穏やかな大河の流れを眺めながら、ここが戦場だったとしたら身を隠す場所もないではないか……と思うと、言葉がなかった。灼熱の中で、水も弾薬も枯渇し、見捨てられた戦場。栗田さんは「絶望」の一言だったと語る。栗田さんの戦場体験は別途連載で取り上げたい。

 一方でこんな人もいる。栗田中尉の同期生の某中尉は航空特攻部隊の隊長であった。多くの若者が特攻死した現実を知る身である彼から出た言葉とは……。

 「軍隊は絶対に必要だ! 若者が国防のために死ぬことができない国に未来はない」

 保守系右派が聞いたら泣いて喜ぶ発言。まさに彼は保守系右派のヒーローであった。この元特攻隊隊長の発言は若くして散った隊員を思っての発言だと思うが、とりわけ彼は戦死者を靖国神社で「英霊」として祀ることを重視していた。

 栗田さんに同期生の言葉を伝えると「彼は、軍隊は知っているが戦場は知らんから仕方がない」とさらりと語った。元特攻隊隊長がじつは「栗田は本当の戦場を知っているから心して話を聞いてきなさい」と、栗田さんを紹介してくれたのである。

磯部憲兵軍曹の場合

 「戦争に行きますか」という問いに対して、磯部さんは「戦争は絶対に行きません。戦争に行けと言われたら私は一目散に山にでも逃げますね。米を一升担いで逃げますよ!」ときっぱりと答えた。

憲兵時代の磯部さん

 元憲兵軍曹とは思えない発言に私はびっくり仰天。「そんなことをしたら『憲兵』に捕まっちゃうじゃないですか!」と叫んでみた(心の中で)。

 MCの水足さんが間髪入れずに一言。

 「憲兵さんが戦争反対なんだから怖いものはありません」

「勇ましい」若者たち

 MCの水足さんは、戦友以外の戦後世代の会員にも問いかけた。

 「愛国主義者の皆さん、戦後70年にどう思われますか」

60代の男性の場合

 60代男性は「海軍の父からは何も聞きませんでした。若い時海軍関係の本を読んだが、陸軍の人たちの話は思っていた以上にリベラルでした。皆さんの戦争体験の証言はリアルで本とは違いました」と話した。

40代の会社員の男性

 次に、保守系右派の代表選手の40代の男性が早速持論を展開した。

 「かつての軍人は日本の自衛のために、白人の世界植民支配を打破するために命を捨てて戦ってくれました。日本軍の特攻や玉砕に対する畏敬の念が、アジアの人々に勇気を与え独立戦争を戦う力を与えました。自虐史観の教科書で学んだ国民の意識を変え、正しい歴史を認識すべきです。日本の総理が靖国神社を参るのは当たり前です」

 保守系右派の決まりきった文言だ。安倍元首相が聞いたら絶賛間違いなし。

 安倍さんを喜ばせておく程度にしておけばよかったのだが、彼はさらに饒舌になった。戦場体験も戦争の被災体験もない戦後生まれが、ビルマ戦場で戦った元兵士らの面前でビルマ戦線を語る暴挙に出た。彼によると、インパール作戦は敗退戦ではないらしい。とにもかくにもこの御仁は2015年11月を皮切りに「大東亜戦争とビルマ戦線」という題目で、元軍人の親睦団体の偕行社で数回の講演会を実施した。彼のメンタルは超合金並みであるのは間違いない。

 「お世話係」の私は、彼の戦友会での言動をハラハラドキドキしながら見守っていたが、ある日、堪忍袋の緒が切れた古参兵の金泉軍曹が「もう一度ペリー来航から歴史を勉強し直してきなさい」と一喝した。しかし、その後も彼はどこ吹く風でその後も自称「軍事研究家」を名乗っていた。彼は私とは違う視点でビルマ戦線の本を書きたいとよく言っていたが、出版の折にはぜひとも書評を書かせて頂きたい。

飛行機好きの30代男性

 ペリリュー島の戦友・遺族会の理事も務めている30代の男性は、「こちらの戦友会にはお邪魔させて頂く気持ちで参加させて頂いています」と謙虚な姿勢で語る。彼がペリリュー島を含むパラオの戦争に興味をもったのは戦闘機マニアとして初めてアンガウルを訪ねたのがきっかけだそうだ。その後パラオの戦いを後世に残したいと何度も訪問を重ねた。戦争の記憶の継承を担おうとする奇特な若者であることは間違いない。しかし、彼が継承する戦争の記憶は前出の40代の男性の掲げる歴史認識と同じなのだ。

 「リベラルと市民」という言葉が大嫌いと私に語った彼は、「戦争には反対。でも反日を唱える人には日本から出て行ったほしい」と言い、さらに「自分の国は自分たちで守らなければいけない」とも付け加えた。ほっそりとした今どきの若者だが、本気で戦場に行く覚悟があるのだろうか……。

舞台俳優の30代男性

 ある舞台で航空特攻の隊長を演じるという30代の舞台俳優の男性は、2回だけの参加であったが、「僕は間違った歴史、靖国神社を参拝するなという偏向教育を受けてきた。役者としてこれを変えていきたい」と熱く語った。

 実際に戦場で戦った元兵士たちよりずっと勇ましいことを熱く語る戦場体験のない若者たち。若者が饒舌になると元兵士たちはなぜか寡黙になった。

 MCの水足さんは「皆さん、戦争を美化しちゃいけません」と珍しく語気を強めた。

不戦を訴える元兵士たち

 ロシアのウクライナ侵攻に乗じて、日本でも武力を強化し敵に攻めさせないようにする「軍備増強論」がにわかに説得力を持ち始めてきた。この機に日本の極右派・改憲勢力(「もっとも勇ましい人たち」)が、年来主唱してきた9条を破棄し、自衛隊を「国防軍」にバージョンアップし、再び戦争のできる国にするための口実にロシアとウクライナの紛争を利用している。「もっとも勇ましい人たち」は、「台湾海峡有事」を声高に叫び、さらなる危機感を煽っている。

 戦争は不毛である。日本は、二度と近隣諸国と有事を構えてはならない。やられたらやり返したくなる、武器をもっていたら使いたくなる、追い詰められたら何をするかわからなくなる。そして、戦争は始めるのは容易いだが止めるのは格段に難しい。一度始めたら行くところまで行く。その先は、阿鼻叫喚の戦場と化すのだ。「勇ましい人たち」は軍拡に反対する護憲派の頭の中は能天気な「お花畑」とよく揶揄するが、これらはすべて地獄の戦場を体験した元兵士たちの言葉である。彼らにそのように言えるのだろうか。

 ビルマ戦線で戦った元参謀の黍野きびのさんは涼しい顔で「一度始まった戦は辻政信でもそう簡単には止められない、たとえ軍司令官でも難しい……」と語り、驚くことに「最初から勝算のない作戦だとわかっていても後には引けないんだ」とも語った。ビルマ戦線は勝ち目のない作戦のオンパレード。約33万人の将兵が投入され、19万人が戦死した「地獄のビルマ」。戦死者の8割近くが戦闘ではなく傷病死や餓死だった。戦場となったビルマでは、平穏な人々の暮らしも、美しい土地もめちゃくちゃにされた。戦争の破壊の凄まじさはウクライナの惨状を見るまでもない。

第33軍参謀当時の黍野さん

 軍隊と戦場を骨の髄まで知り尽くした年配者たちの言葉には相応の説得力がある。もちろん小さな戦友会の数名の元兵士の言葉がすべての元兵士を代弁しているわけではない。だが筋金入りの「もっとも勇ましい人たち」も、元兵士を前に持ち前の持論を展開できずに黙った。中には立場をわきまえることなく元兵士らの前で、「インパール作戦は決して負け戦ではなかった」と持論を長々と語る「強者」もいたが……。「もっとも勇ましい人たち」の声が大きくなってきたのは、戦場体験者が姿を消してその声が風化してきたからに他ならない。

 戦争を準備し、開始し、遂行する人間は戦争では死なない。戦争を始める人間は「自衛」という言葉を頻繁に発する。その自衛のための戦争で死ぬのは誰なのか。戦争を始めた人間ではない。戦争は自衛から始まり、その戦争には必ず「死」が存在する。戦争を始めた人間は、その「死」に責任を取ってくれるのか。日本が過去に犯した戦争、その内外の戦没者の声なき声に現代の「勇ましい人たち」はどれだけ真剣に耳を傾けてきたのか。それどころか、過去の戦争を正当化し、再びウクライナ侵攻を機に自衛を訴えて9条を改憲しようと躍起になっている。

 元兵士らがかつて若者であった時、「国のために死ね」という指揮官の命令で、虫けらのように死んでいった兵士を嫌というほど見てきた。

 私は内外を問わず軍拡を叫ぶ「勇ましい人たち」にこそ、軍隊と戦場を知る元兵士たちの遺した言葉を伝えたい。いま、その思いに突き動かされている。

「戦争を知らない奴ほどラッパを吹く」
「戦友の死を無駄にするな」
「戦争をしたがる輩は戦争を知らない人間だ……」

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 第2師団の通称号は「勇(いさむ)なので、戦友会名を「勇会」と呼ぶ。2007年末、「勇会」は会員の高齢化で一旦閉会するが、2009年3月に戦友や遺族ではない戦後世代も会員とし「勇会有志会」となる。第2師団は、福島、新潟、宮城の3県から編成され、主にガダルカナル島(ソロモン諸島最大の島)や中国雲南省を含むビルマ戦線の激戦地で戦った。
  2. 富安俊助(1911‐1945年)は長崎県生まれ。早稲田大学に進学、大学では柔道部に所属。水足さんによれば「富安は運動神経が抜群で中学の鉄棒で大車輪を何度もやっていた。在学中はハーモニカバンドを結成しコンサートを行うほど音楽好きでもあった」。学徒出陣で海軍に入隊し、神風特別攻撃隊「第六筑波隊」として出撃。1945年5月14日に単機でエンタープライズに突入。エンタープライズは大破し戦線離脱を余儀なくされた。
  3. 勇会有志会で繰り広げられたエピソードの数々は以下を参照。「戦友会狂騒曲――おじいさんと若者たちの日々」というタイトルで月刊誌『世界』923号‐927号(岩波書店)に5回連載(2019年8月‐12月)。
  4. むのたけじ(本名武野武治)は1915年秋田生まれ。報知新聞を経て1940年、朝日新聞に入社。従軍記者として戦地を赴く。戦時期、記者でありながら真実を書けなかったことへの悔恨から、敗戦の日、負け戦を勝ち戦のように報じ国民を裏切ったけじめをつけて朝日新聞を退社。その後、地元の秋田に戻り週刊新聞「たいまつ」を創刊。生活者の視点から人々が幸せに暮らす道を問い続け、晩年は9条の大切さと反戦を訴える講演会や執筆を101歳(2016年)で亡くなるまで続けた。
  5. 遠藤三郎の生涯については、宮武剛『将軍の遺言――遠藤三郎日記』毎日新聞社、1986年を参照。
  6. 日中友好元軍人の会『遠藤語録』委員会編著『軍備は国を亡ぼす――遠藤三郎語録』島田印刷、1993年8月15日、229頁。
  7. 前掲書『軍備は国を亡ぼす――遠藤三郎語録』44頁。