悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

戦没者慰霊祭に響き合う「ポリフォニー」

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遺族間の「温度差」

 「『何年のお生まれですか?』って聞かれるのが嫌なのよ」

 ある関西方面のビルマ戦線の慰霊祭で遺族の洋子さん(仮名)が私の耳元で囁いた。

 またなんで? 最初は不思議に思った。女性に年齢を聞くなんて、という類の話ではない。戦没者慰霊祭で顔を合わせる遺族や家族は一枚岩ではない。微妙な「温度差」があるのだ。しばらくして、私も洋子さんの気まずさの理由が徐々にわかるようになった。

 戦後77年ともなれば、もう戦場体験者はほとんどが鬼籍に入っている。その子ども世代も大半が70代、80代である。洋子さんは今年で70歳。父親が戦争に行っている世代としては若い方だ。戦争が終わって7年後に生まれた洋子さん。このことは彼女の父親が戦場から生きて帰り、戦後に家族をつくったことを意味する。当たり前だと思われるかもしれないが、ビルマ戦線のように帰還者が3人に1人という過酷な戦場では当たり前の話ではない。杖を突きながら老体を引きずるようにして戦没者慰霊祭に参列する老親、彼らに付き添う娘や息子や孫の姿は慰霊祭ではよく目にする光景だが、洋子さんも父親が亡くなるまでは、父親に付き添って慰霊祭に「家族」として参列していた。

 かつて、その光景を複雑な思いを抱えながら見詰める「遺族」もいた。

 「なぜ、あの人はのうのうと生きて帰って来て、父は帰って来てくれなかったのか……」

 のうのうと生きて帰って来たのでは毛頭ないのだが……。戦没者の「遺族」がそのように言いたくなる気持ちもわからないではない。

 戦没者慰霊祭は、当然ながら帰還者の元兵士と戦没者の遺族が亡くなった兵士の御霊みたまをともに悼む場である。異国の地に眠っている戦友の御霊安かれと祈り、身も心も私財も惜しみなく投じる所存で参列している元兵士たち。そんな帰還者の家族として父親と参列した洋子さんは、「父が生きて帰って来たから自分は生まれた。だからお父様を亡くされたご遺族の前では何も言えないのよ」と呟きながらも次のように語った。

 「遠藤さんにだけは話すけどね。父は普段はとても優しかったのよ。でもビルマのことになると人が変わったように殺気だって、戦友会の会合にも慰霊旅行にも最優先に出かけるような人でね。おかげで子どもの学費とか家族のための大事な費用がビルマのために使われちゃって、兄は大学に行ったけど私は大学に行けなかったの。そのことは今でも恨みに思っているのよ。ビルマ人の若者には奨学金まで出してあげたのに……」

 この手の話はよく聞く。洋子さんの父上が特別なのではない。ビルマ戦場の複数の帰還者の元兵士から、家族よりも「戦没兵士ファースト」の話はいくつも聞いた。戦後、必死に成した財産は自分の家族のためではない。軍人恩給と退職金の全てを自分の部隊の戦没慰霊碑の建立に投じた元将校や、福岡県のある霊園の土地を広範囲に購入し、先祖の墓と同じ敷地にビルマ戦没者の慰霊碑をいくつも建てた元兵士もいた。どちらも家が建つほどの私財を投入したと家族から聞いた。家族としては愛憎の裏表のようなもの。残された家族は総じて、残された慰霊碑の維持に頭を悩ませている。

 中国雲南省の山上で「玉砕」した第56師団(福岡県久留米編成)歩兵第113連隊(拉孟守備隊)の戦没者慰霊祭(福岡県護国神社)では、そこにいる元兵士らがそもそも希少な生き残り。帰還者とその家族よりも、戦没者の「遺族」の方が断然多いのだ。「玉砕」というとアッツ島や硫黄島などの洋上の孤島を思い浮かべるものだが、拉孟は違う。拉孟は陸続きの山上陣地。撤退しようと思えばできるのにしない(できない)のが「皇軍兵士」なのだ1


 
 戦没者慰霊祭の「遺族」の多くは全滅戦争で戦没した拉孟守備隊の親族である。子どもは父親の顔も知らずに、父親も我が子を胸に抱けずに、愛する家族に思いを馳せながら異国の地に骨を埋めた。母親の腹の中に命を宿して、まるで亡父の生まれ変わりのようにこの世に生まれた赤ん坊がどれだけいたことか……。戦後の混乱時に乳飲み子を抱えて路頭に迷う母子や孤児の置かれた境遇は筆舌に尽くし難く、戦争の悲惨さは戦場だけではない。戦後の生き地獄を物語る出来事もあっただろう。

 戦没者慰霊祭とは戦没者の御霊を慰める場であるとともに、遺族の持っていき場のない思いを互いに受け止めて慰め合う場でもあった。反面、帰還した元兵士とその家族の姿に複雑な思いを抱える「遺族」もいた。父親が生きていたらこんな感じに年老いたのかと想像しながら、付き添う娘や息子の姿を目の当たりにして、若くして亡くなった父親の無念と、父親の味を知らないわが身を不憫に思うのである。参列者の多様な心の叫び声が交錯する中で、戦没者慰霊祭は例年粛々と行われてきた。

田中さんの場合

 「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な戦陣訓のもとで、最後の一兵が死ぬまで戦った「皇軍兵士」。降伏や撤退は論外。上官の命令は朕の命令。天皇のために死ぬのが「皇軍兵士」の本懐。そのような中で彼らが生き延びるケースは、戦闘で深い傷を負って後方に送られるとか、あるいは戦闘中に意識を失い不覚にも捕虜になるとか……。彼らは決してのうのうと生きて帰って来たのではなかった。戦場で死に損なったわが身を恥じ、あるいは自分の身代わりで死んだ戦友の顔を片時も忘れることなく月日を重ねた。満身創痍の元兵士たちは、身体だけでなく心にも深い傷を負っている。そのことを田中さんは目の当たりにした。

 田中さんの父親は31師団(烈兵団)としてインパール作戦で戦死した。父親が戦争に行った時、田中さんは2、3歳。父親のことほとんど覚えていない。田中さんは戦没者慰霊祭にも欠かさず出席し、父親の戦友とともに亡父を偲んだ。亡父の部隊の戦友会にも度々出席したが、彼の心は晴れたことはなかったという。

 「なんだかんだと言っても戦友が一同に会して、酒を飲み交わし軍歌を歌って楽しんでいるじゃないか」

 田中さんは「慰霊祭だ、慰霊碑だ」と戦友会で寄付を募る老人たちを冷めた目で見ていた。戦後を生きながらえて、家族をもって普通の生活を営んできたで戦友らに比べると、誰にも看取られず20代後半で亡くなり、遺骨も戻っていない父親と、若くして寡婦となった母親が不憫でならなかった。

 ところが、20年以上前、田中さんは父親の戦友たちとともにミャンマーへ慰霊巡拝旅行に出かけて戦友たちに対する気持ちが一変した。シッタン河のほとりに着くと、今まで平然と旅をしていた老紳士が、突如、戦友の名を絶叫し、「来るのが遅くなって許してくれ!」と何度も詫びながら川辺で泣き崩れたのだ。濡れることも厭わず人目も気にせずに号泣する目の前の老人の後ろ姿に衝撃を受けた。田中さんは「はじめて帰還した元兵士たちの深い悲しみを垣間見た気がしました」と語った。戦争末期、シッタン河の川岸には渡河できず力尽きた兵士の屍が累々と続き、まさに阿鼻叫喚の惨状だった。

永田治子さんの場合

 1944年9月7日、永田治子さんの父親の永田健太郎さんは拉孟守備隊の一員として、最期の一兵まで戦って、拉孟の「玉砕」日に戦死した。1942年生まれの治子さんも父親の顔を覚えていない。寡婦となった母親の淑子さん(2019年6月19日死去、享年100歳)と二人でまさに泥水を飲むような苦しい生活をしながら必死に戦後を生き抜いてきた。治子さんは40年近く前から福岡県護国神社の戦没者慰霊祭に参加している。そして、治子さんも長年複雑な気持ちを抱えてきた一人である。

 2016年9月7日に、福岡県護国神社での第113連隊の戦没者慰霊祭で、私ははじめて治子さんに出会った。慰霊祭も終わって神社内の直会なおらいの席で、治子さんが私のところに飛んで来た。はじめましての挨拶もそこそこに訴えかけるよう目で治子さんは一気に語った。

 「父を知らんとよー。母のお腹の中にいたからね。戦後生きるために店をやっていてね、よく父の戦友が25人くらい集まりよった。戦友からあんたの父親は『玉砕』の日に切り込み隊として勇敢に死んだと何度も聞かされてきたけど、なんで父が死んで、この人たちはこうして生きているんだろうと思ったとよ……ずっとね、釈然としなかったとよー。でも誰にも言えんかった」

 治子さんの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。私は黙って頷くことしかできなかった。

 「わたしはわかるとー。しゃべっていい人と悪い人はわかるとー。あなたを一目見た時、この人には話せると思ったとよー。全部しゃべってすっきりしたとー」

 この日、帰還兵としてただ一人参加された阿部久(第3大隊第8中隊)さん(当時97歳)に治子さんは抱きつきながら「阿部さん、長生きしてねー、父親のように思うとるばい」と満面の笑顔で語った。

治子さん(右)と、母親の淑子さん 

治子さんと阿部久さん(2017年4月7日撮影)

 あまりに突然の出来事で、目の前の豪華な幕の内弁当を戴くタイミングを逸してしまったが、あの時の晴れ晴れとした治子さんの顔が今でも忘れられない。

古賀祥子さんの場合

 古賀祥子さんの父親の神谷勝巳さんも拉孟で戦死した。祥子さんも父親が出征している時に母親のお腹の中にいたのだ。

 「私の父がなぜ戦死しなくてはならなかったのか……。何度も何度も思いました。父親がいつか帰って来た時に恥ずかしくない娘でいるのだよ、と母親に言われて育ちました」

 祥子さんはこの戦没者慰霊祭で父親の「当番兵」に会い、生前の父親のことを知って泣き崩れたという。彼女は雲南戦場の父親から届いた軍事郵便をたくさん保管していた。

 はじめての女の子の誕生を喜んでくれていた父親からの葉書が祥子さんの心の支えだった。端正な顔立ちの神谷勝巳さんによく似た祥子さんは、年に2回の戦没者慰霊祭には欠かさず出席されていたが、1年ほど前に兄の神谷敬之介さんから祥子さんの訃報が届いた。コロナ禍で慰霊祭ができなかった2年間が悔やまれてならないが、祥子さんは会いたかった父親にようやく会えて、親子の睦まじい時を過ごされていることだろう。

立川秀子さんの場合

 立川秀子さんの父親の天野賢吾さんは、1944年7月25日で龍兵団の師団司令部があった芒市ぼうしで戦死した。秀子さんも父親をほとんど覚えていない。秀子さんは福岡の慰霊祭だけでなく、毎年11月22日に靖国神社(東京九段)で行われる龍兵団の永代神楽祭(龍兵団東地区戦友会主催)にも遠く福岡から参列される。この連載の3回目「永代神楽祭と謎の研究者」を書いているが、東京地区の戦友会のお世話係を仰せつかった私は、参列された遺族同士を繋げる「接着剤(自称:ボンドガール)」の役割を果たしてきた。秀子さんから「遠藤さんがいるから靖国神社の永代神楽祭にも安心して参加できます」と言われるとお世辞に弱いお世話係としては、今後はさらに九州地区と東京地区の遺族を繋げる「ボンドガール」としてお役に立てるように頑張ろうと思ってしまう。

 戦友が健在だった1990年代に、秀子さんは拉孟をはじめ雲南戦場跡を巡る慰霊の旅に同行した。秀子さんは「現地に行ってみればみるほど悲しみが込み上げてきました。食べ物がないあのようなところで父が命を落として、不憫で堪りません」と語る。いつも控え目な秀子さんだが、父親を悼む気持ちは誰にも負けていない凛とした女性である。

井生いお弘文さんの場合

 「なぜ自分だけが生き残ったのか? なぜ戦友が死んだのか?」その答えは永遠に出ない。たまたま拉孟に赴いて戦闘に巻き込まれて命を落とした兵士もいた。あるいは危機一髪、タッチの差で拉孟を離れて生還できた兵士もいた。井生さんは後者だった。

 第56師団第56連隊の輜重兵しちょうへい2井生いお弘文さん(2020年2月9日死去、享年99歳)は自動車部隊の運転手だった。各陣地に塩や乾パンや武器弾薬などの軍事物資や兵隊を運搬した。時に「慰安婦」の女性たちを運んだこともあった。山上の拉孟陣地への物資の輸送は、常に死が隣合わせの危険な任務だ。昼間は敵機からの空爆や砲撃に晒されるので運行できない。夜間運行のみだが、ライトを付けた途端に敵機に見つかってしまう。拉孟陣地へ向かう山道は狭く激しく蛇行していた。転落したら命はない。漆黒の闇の中、背中に白布を貼った兵隊に前方を歩いてもらい、それを目印に細心の注意を払ってトラックを運転した。井生さんたちが拉孟陣地に着いたのが、中国軍に包囲されるわずか1時間前。当時、井生さんは何も知らなかった。1944年6月2日に中国軍の攻撃が開始され、1週間もしないうちに拉孟陣地への補給路が途絶えた。兵糧攻めの100日全滅戦闘の幕開けである。拉孟へ着くのが1時間遅れていたら、拉孟守備隊の戦没者名簿に井生弘文という名前が刻まれたであろう。元兵士らは、軍隊は生きるも死ぬも運次第だと語る。だから戦没者は自分自身なのだ。

戦死した「貴方」の無念伝えます

 2015年4月、拉孟守備隊の「遺族」の徳永英彦さん(福岡県在住)から出版社経由で封書が届いた。徳永さんの手紙には、1944年10月23日に第56師団の第4野戦病院で戦病死した一色武雄さん(1910‐1944年)にまつわる事ならどんな些細な事でも知りたいとの思いが綴られていた。一色武雄さんは拉孟守備隊の補充兵であった(のちに通信中隊に編入)。武雄さんは、徳永さんの母・和衛さんの前夫だった。したがって手紙の主の徳永さんと武雄さんとは血の繋がりはない。いわば義理の関係である。徳永さんは「間接的な親族」と表現されている。

 板前だった武雄さんと和衛さんの間には4人の娘がいた。1943年8月に武雄さんは召集され、34歳の働き盛りで故郷に妻子を残して帰らぬ人となった。遺骨は戻ってきていない。4人の子どもを抱えた和衛さんは中国雲南省で夫が戦病死したとなど露も知らず、夫の帰りをひたすら待っていた。

 「昭和23(1948)年の広報にてただ戦病死のみを伝えられた母の無念を思うと胸が苦しくなりました」と徳永さんは手紙に書いている。官報で夫の戦死を知った和衛さんは、その年の暮れに徳永さんの父・徳永寅助さんと再婚した。子どもたちと生き延びるための決断だったのだろう。寅助さんとの間に2児をもうけ、その次男が徳永さんだった。

 徳永さんは子どもの頃、和衛さんから武雄さんの名前を聞きながら育った。一緒に墓前にもたびたび足を運んだ。「武雄さんはビルマで戦死した」と母から聞かされ、母は多くは語らなかったが、「戦争があったけぇのぉ~」と「靖国神社へ行きたい」と常々漏らしていた。だが再婚して生まれた息子には愚痴ひとつをこぼすこともなかった。

 1954年生れの徳永さんには、戦争もビルマも靖国神社もなんとも実感がなく遠い存在だった。どうやって母を慰めてよいのかもわからなかった。和衛さんは昔の「家族写真」を大事に取っていた。徳永さんは、生前の武雄さんと娘たちと写る幸せそうな母の笑顔がいまも目に焼き付いている。靖国神社に連れて行ってやることもできぬままに和衛さんは亡くなった。徳永さんは、「母はせめて武雄さんがビルマのどこでどのようにして亡くなったのかを知りたかったのだと思う」と語った。

出征前の徳永武雄さんを囲む一家。右から2人目の女性が和衛さん(昭和18年撮影)

一家で経営していた茶屋の前で。
包丁とタコをもった左端の男性が武雄さん。その隣が和衛さんで、三女(昭和15年9月生まれ)を抱えている。

徳永英彦さんご夫婦と娘さん、そして著者(右端)2018年4月7日

 2015年、還暦を過ぎた徳永さんは、亡母に代わって武雄さんの最期を詳しく知るために福岡県庁に武雄さんの「軍歴(兵籍簿)」を申請した。軍歴は血縁関係がない者は申請できないので、武雄さんの孫(徳永さんの甥)に依頼し、入手した。軍歴の記載は以下の通り。

 「昭和19年10月23日、中国雲南省の第56師団の第4野戦病院にて迫撃砲弾破片創兼マラリアで戦病死」

 たったこれだけである。当時、第4野戦病院はどこにあったのか? 徳永さんは1944年10月頃の第4野戦病院の場所を熱心に探していた。帰還者に尋ねてみても明解な回答は得られなかった。遺族なら親族の亡くなった日時と場所と死に至るまでの様子を知りたいと思うもの。しかし遺族の中には漠然としたままにしておきたいと思う人もいる。身内の詳細な死を知ることは、辛い現実を正面から受け入れることである。

 「詳しいことは知りたくないので何も話さないでください」

 こうした「遺族」の気持ちも尊重したい。


 
 昨年、ついに第4野戦病院の場所を突き止めた。第56師団(龍兵団)の軍医・石田新作さんの著書『悪魔の日本軍医』(山手書房、1982年)に「龍兵団第4野戦病院」の記述を見つけた。石田さんは第4野戦病院に配属された軍医だった。第4野戦病院はビルマ北東部のセンウイにあった。センウイはラシオの師団司令部から北20キロに位置し、比較的過ごしやすい場所のようだ。英国統治期のバンガロー風の洒落た官庁と校舎の建物群を接収して、第4野戦病院を設置した。石田元軍医によると、第4野戦病院は雲南の野戦病院の中では最も医学的な設備が充実していた。

 野戦病院は、前線から第1、第2、第3、第4と数える。第1野戦病院は弾雨が降りかかる最前線。少し下がって第2、さらに下がって第3、第4は最後方の野戦病院。この配置は、戦闘による傷病兵への対応に通じる。軽微な負傷は第1で簡単な手当てを受けて直ちに原隊に復帰。数日の入院加療が必要な場合は第2へ、さらに高度な治療は第3へ、重症でかなり長期の加療を必要とする場合は第4へ運ばれる。第4野戦病院で手に負えない患者は兵站病院に搬送される3。石田元軍医が配属された第4野戦病院では、中国のハルピンの731 部隊(石井細菌部隊)を凌ぐほどの非道な「人体実験」を敵性スパイに行っていた。その現場を目撃した石田さんは、著書でそのことを告発している4

 戦争末期の野戦病院はえてして病院とは名ばかりで、ジャングルにむしろを一枚敷いて、そこに患者が横たわっているだけ。敗走時は医薬品も欠乏し、まともな治療もできずに兵隊は死を待つ場所と化した。このような野戦病院に比べたら、結果として一色武雄さんは戦病死されてしまったが、病院として機能していた第4野戦病院に搬送されことはせめてもの救いである。

 2015年8月21日付の朝日新聞の声欄に、『戦死した「貴方」の無念を伝えます』と題した徳永さんの投書が掲載された。「貴方」とはもちろん一色武雄さん。その文面の後半部分を抜粋しよう。

 「……おそらく『貴方』は玉砕前の段階で砲弾を受け、マラリアに侵され、後方の野戦病院に送られたのでしょう。最後まで母と娘たちを思っていたのではないでしょうか。無念だったと思います。
 なぜ兵士は補給もままならない中国で戦わなければならなかったのでしょうか。私は必ず貴方の孫たち、ひ孫たちに戦争の悲惨さを伝えます。そして二度と戦争はしてはいけないと言い聞かせます」

 戦争がなければささやかな家族の幸せは奪われることはなかった。戦後に生まれた徳永さんが、実母と雲南に骨を埋めた「義父」の無念を心に刻み、孫やひ孫たちに戦争の悲惨さと不戦を訴える役目を担った。義父の武雄さんも、実父の寅助さんも、そして何より母の和衛さんが一番喜んでいるにちがいない。  


 
 春秋二度の戦没者慰霊祭で顔を合わせる歩兵第113連隊の遺族や縁者の数が年々少なくなっている。同連隊第3大隊の藤井大典さんがこの慰霊祭の世話人を行っていたが(2014年死去、享年98歳)、その跡を継いだのが藤井さんの二人の息子さん(兄の藤井正典さんと弟の藤井順三さん)である。私の知っている大方の慰霊祭は継承者が見つからずにほとんどが幕を閉じる中、藤井ご兄弟の尽力のおかげで、私も2016年から春秋の第113連隊の戦没者慰霊祭に参加することができた。福岡県護国神社の宮司によれば、30年前は多くの部隊が福岡県護国神社で慰霊祭を行っていた。200名近い戦友が集まったこともあった。現在、この神社で戦没者慰霊祭をやっているのは第113連隊のみとなった。もはや受け継ぐ人がいないのが現状である。

 拉孟守備隊の遺族の有志らは、毎月7日の月命日に、福岡陸軍墓地(福岡市中央区) の「ビルマ・タイ 拉孟雲南地区戦没者之碑」に月参りをしている。このような人たちを私は他に知らない。治子さんはその中心的人物で、何十年も欠かさずお掃除とお参りをし続けている。

第113連隊の戦没者慰霊祭(2017年4月7日撮影)

拉孟雲南地区戦没者のための慰霊碑(2022年4月8日撮影)

 この慰霊碑の碑文は以下の通り。

 「中国雲南の源流怒江の上にそびゆる拉孟並びに雲南地区に眠る三千四百余の戦没者の御霊安かれ祈る」(昭和59年9月建立 建立賛同者一同)

 コロナ禍で2020年から2年以上、福岡県護国神社で戦没者慰霊祭ができぬままに、遺族の高齢化も危惧される。このブランクは大きい。帰還した元兵士の今後の参加はもう不可能であろう。きな臭い世の中だが、この先、新たな戦没者慰霊祭が行われないことを切に願って止まない。未来永劫、日本国は戦争による死者を二度と出してはいけない。戦争による遺児や寡婦を二度と生んではいけない。不戦の誓いに遺族間の「温度差」はない。

 これは戦没者慰霊祭の参列者全員の共通の思いである。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 拉孟とは、米中連合軍の中国内陸部への補給路(ビルマルート)の遮断のための重要な要衝であった。この作戦は「断作戦」と呼ばれ、インパール作戦の失敗後、ビルマ防衛作戦の「最期の砦」とされ全滅覚悟で死守しようとした。拉孟戦の詳細は、拙著『「戦争体験」を受け継ぐということ――ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』(高文研、2014年)を参照されたい。
  2. 輜重兵とは、旧日本陸軍の兵科の一つで、戦時に軍需品の輸送、補給を任務とした。駄馬、車両、自動車などの使用によって迅速確実に任務を遂行し、戦闘力を維持強化することが目的。歩兵第一主義の思想が強い旧陸軍では兵站を軽視し、輜重兵も最下位の兵科としてみなされていた。
  3. 石田新作『悪魔の日本軍医』山手書房、1982年、81‐82頁。
  4. 石田『前掲書』、第4章 悪魔の生体実験(173‐196頁)を参照。敵性スパイに対する生体実験の描写は筆舌に尽くし難い狂気の沙汰だ。