悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

戦友会「女子会」――元兵士と娘たち

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元特攻兵の娘

 100歳となれば耳が遠いのもあたりまえ。側らにいる娘さんが「お父さん、〇〇だってぇ」と父親の耳元で私の言葉を伝えてくれる。聞き慣れた娘の声なら補聴器の調子が悪くても何とか聞き取れる。いま、超高齢者の元兵士の戦場体験を聞く際には、身内の「女性陣」、とりわけ娘さんの協力や支援に大いに助けられている。「女性陣」が日常のお世話や見守りをされている場合は、訪ねるタイミングは彼女たちの都合にお任せする。聞き取り場所が自宅でもそれ以外でも、ご本人も「女性陣」が同伴してくれた方が何かと都合がよいのだ。元兵士を訪ねて、娘さんや奥さんに笑顔で迎えられたら幸運この上なし。この時点でインタビューは半分以上うまくいったといってよい。

 2019年11月9日、特攻隊員だったという兄弟の「最後の証言」を聞くために、早稲田大学(東京都新宿区)の大教室が約250名の聴衆で溢れかえった。この講演会は戦場体験者と市民でつくる「不戦兵士・市民の会」1 の主催で、私は司会を務めた。

 1943年12月10日、兄の岩井忠正さん(当時99歳)は慶應義塾大学、弟の忠熊さん(当時97歳)は京都帝国大学(現京都大学)からいわゆる「学徒出陣」で海兵団にそろって入団。忠正さんは人間魚雷「回天かいてん2 と人間機雷「伏龍ふくりゅう3 の隊員になり、忠熊さんは爆薬を積んだ木製のモーターボートで敵船に体当たりする「震洋」の艦隊員となった。

左から忠正さん、直子さん、忠熊さん(講演会を行った早稲田大学にて、2019年)

 忠正さんは右耳が聞こえづらく左耳が聞こえやすい。反対に忠熊さんは左耳が聞こえづらく右耳が聞こえやすい。そこで忠正さんの娘の直子さんが兄弟の間に入り、私の質問をそれぞれの聞こえる耳に向かって「通訳」する。忠正さんの話が脱線してあらぬ方に行きかけると直子さんが絶妙にコントロールする。本来は司会の仕事なのだが、直子さんとの「連携プレー」で大成功を収めた。当時99歳の父親と97歳の叔父がそろって登壇できる日を迎えまでの数か月、日頃の健康管理から事前の打ち合わせの準備まで、直子さんの心中が休まる時はなかったと思うのだが、常に明るい笑顔と父親譲りのポジティブマインドにこちらの方が支えられ、励まされた。


 そんな直子さんから2022年9月1日に、忠正さん逝去(享年102歳)の訃報が届いた。

 忠正さんは都内の老人介護施設に入居されていたが、コロナ禍で娘との面会もほとんどできずたまに電話で話すだけ。それこそ耳が遠い老人にはとりわけ酷なことだ。数年に及ぶコロナ禍で高齢者は外出を制限され、人との交流も遮断され、寝たきりや認知症の発症や進行が懸念されている。コロナ禍の2年半で忠正さんの生活も大きく変わった。

 「102歳の大往生。父は最期まで自分の思いを伝え生き切ったと思います」と直子さんは語る。本当にあっぱれな人生だと思う。

 講演会の最後に忠正さんが若者に伝えたかったのは強い後悔の言葉だった。

 「この戦争は間違っているとうすうすながら分かっていたにもかかわらず、沈黙して特攻隊員にまでなった。死ぬ覚悟をしているのに、なぜ死ぬ覚悟でこの戦争に反対しなかったのか。時代に迎合してしまった。私のまねをしちゃいけない」

 戦後再び京都大学に戻って歴史学者になった忠熊さん(元立命館大学副学長)は、次のように語った。

 「戦争を二度と繰り返さないためにどうしたらいいのか。特に青年、学生がどうするかによって未来が変わる。そのために歴史を学んでほしい」

 直子さんのメールには、「叔父が最後に父に会ったのが早稲田の講演の時となりました。あの時背中を押して下さって思い切って開催して本当に二人にとって記念になりました。最後で最高の機会になり、感謝、感謝です」とあった。

 都内で暮らす忠正さんと滋賀県の琵琶湖の畔に暮らす忠熊さんはお互いを気にかけながらもなかなか会うことができなかった。意外だが兄弟そろって戦争を語るのは戦後75年の早稲田大学の講演がはじめてだったとか。
 
 忠正さんは「どうせ死ぬなら潔く一発でとの思いで特攻隊員に志願したので、自分もクマ(忠熊さんのこと)も絶対に生きて帰れないだろうと覚悟していたから、弟に再会しても『あー、死ななかったんだ』と思うくらいで大した感慨もなく、特攻隊員だからどうせとんでもない経験をしているに違いないからあえて聞く必要はなかったね」と語った。

海軍予備学生時代の岩井忠正さん(右)と弟の忠熊さん。1944年11月 長崎の写真館にて(直子さん提供)

 敗戦後の日本社会の変貌ぶりに復員兵は戸惑っただろう。「熱病から覚めたような冷ややかな空気感だった」と語る元兵士もいた。出征時は村や町をあげて万歳三唱で送り出された兵士たち。盛大に行われた明治神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会(1943年10月21日)。あの時の「高揚感」や熱気は戦争に負けてあっさりと消え去った。それどころか「特攻崩れ」と揶揄され、「お前ら兵隊がだらしねえから日本が負けたんだ」と責め立てる人もいた。日本社会の変わり身の早さに順応できずに心身に支障を来す復員兵もいた。あるいは傷痍軍人となって帰ってきたことで家族から疎まれた元兵士もいた。戦争による「後遺症」は家族が抱え込むことで社会から見えにくくなった。多かれ少なかれ心身に戦争の「後遺症」を抱え、自分ではどうしようもない傷を負った彼ら。最も身近な家族はその姿を目の当たりにしながら決して安泰ではない戦後社会をともに生きざるを得なかった。ここに戦友会「女子会」が生まれる根っこがある。

戦友会に参加する娘たち

 戦友会でも娘さんは頼りなる存在だ。80歳代の戦友(元兵士たち)は月に1度の戦友会の会合に一人でもスタスタとやって来たが、90歳を過ぎた頃から娘さんが送迎するケースが増え、やがて介助が必要になってくると娘さんが送迎だけでなく会合にも同席するようになった。

 「これまで父から何度も戦争の話を聞かされましたが、『あーまたか』という思いでちゃんと聞いたことがありませんでした」と語る娘さんが、父親の口からこぼれ出る戦場の凄惨な記憶を聞きながら目を潤ませた。

 「『タコツボ(一人用の塹壕のこと)』に初年兵に入るように促して私は外に出た。しばらくしたら敵の砲弾が『タコツボ』に命中して奴は木端微塵。死んだ兵隊は母と二人暮らしの素直な若者だった。母親が教師をして女手で一人で育てた愛息。母親に息子の遺骨も遺髪も持ち帰ってやれないで、私の身代わりに死なせてしまって、母親にどんなに詫びても詫びきれないんだ……」

 70数年経ってもありありと思い出される戦場の記憶を絞り出すように語る元兵士。
 
 同席した娘さんは「父が生きて帰らなかったら私は生まれて来なかったと思うと、戦争によって奪われた人生と悲しみが数えきれないほどあったことがはじめて自分事として感じました」と語る。

 ひょんなことから戦友会の「お世話係」を仰せつかった私は、娘さんの思いも掬い取り、分かち合う場を設けることもお役目の一つだと心得えた。


 さて、たまには戦友会に娘や妻が同席して不都合なこともある。元兵士は娘や妻の面前で中国人の首を刎ねたとか、「慰安所」で遊んだことなどはわざわざ語ることはしないが、中には娘の面前でも躊躇なく「慰安婦」との性交渉を懐かしさいっぱいに語る人もいた。

 「シンガポールで出会った20歳くらいの中国の女の人は綺麗な人で、生きていたらもう一度あの人に会ってみたい。もう婆さんだろうが私の初めての女だったから生涯忘れられないんだ。明日は死ぬかもしれないからと『慰安所』に行ったら『兵隊さん、必ず生きて帰ってきて下さい』と言ってくれて嬉しかったなぁ」

 正直、完全な「男目線」で、罪の意識も欠片もない「美しい回想」に娘さんとドン引きしたけれど、出撃を控えた22歳の飛行兵の正直な気持ちには偽りはないのだろう。

 戦友会でも「慰安所」の話がたまに飛び出すと、一人の元将校の紳士が「そんな話はいまここでしなくてもいい」と遮ってブレーキをかける。

 「戦友会で話さなくてどこで話すんかい!」と「お世話係」としては分をわきまえずに突っ込みたくなるが、戦友会でもしらふでその手の話しはしづらいのだ。だから戦友会は昼間から酒盛りが始まるのがふつう。ところが次第に年齢と健康を心配した娘さんから「禁酒&節酒令」が発令され、お茶かウーロン茶に取って変わり、話題も「健全化」する。ある意味「女性陣」の戦友会の参入は元兵士らにとっては良し悪しなのだ。ちなみに「お世話係」は黒子扱い、ゆえにディープな世界を垣間見ている。

父の遺志を継ぐ娘

 娘たちは戦没者慰霊祭や戦地への慰霊旅行の付き添いをする。私もさまざまな慰霊祭や戦友会旅行で父親に同伴する娘さんたちによくお会いした。

 淑子さんは、父の今里淑郎さんと一緒に四半世紀にわたって慰霊活動に参加し、その経験から戦友や遺族や物故者の方々と交流を重ね、父亡きあとはその遺志を継いで慰霊継承活動の世話人となった。

 今里淑郎さんは、第49師団(狼師団)歩兵168連隊の通信中隊の隊長だった。ビルマ戦末期に「インパール作戦撤退時の救援部隊」として派兵されるも、ビルマ(ミャンマー)中央部のメークテーラ(現メイッティラ)で英軍のM4戦車隊に包囲され、猛攻撃を受けて今里さんの部隊は全滅。約400名のうち奇蹟的に生き残った2名。その一人が今里さんだった。
 
 淑子さんは「父は、いつもこの命は戦友の弔い、戦没者慰霊をするための命だと言い続けていました」と語る。今里さんは戦没者慰霊の世話役として奔走し、また日本人としては稀有な(おそらく初めて)ビルマ上座僧籍を84歳で取得(2006年2月21日)し、戦没者慰霊に生涯を捧げた。

 今里さんは手記に次のように記している。

 「『ビルマの竪琴』という小説の中で、水島上等兵がビルマ僧になり、戦友を供養したことを思い出し、自分も命あるうちにビルマ僧となって供養しようと決心した」4

 今も昔も日本人がビルマ僧に簡単にはなることはできない。それだけでなく『ビルマの竪琴』はフィクションとはいえビルマ僧が竪琴を奏でる。実際は僧侶がこのようなことはしない。しかし戦後の日本ではこの間違った僧侶のイメージが公然と流布している。日本から見たビルマ社会やビルマ僧に対する誤解や無理解は当事者には深刻な問題だ。

 と、いろいろ問題はあるのだが、それはともかく、高いハードルを前にしても今里さんはビルマ僧になる夢を諦めなかった。日本で5年の歳月をかけて座禅や瞑想の修行をし、仏教用語を学び、ついに2006年2月に9日間のビルマ僧得度式の受講に漕ぎつけた。厳しい戒律を守る僧侶になる決断宣言式(得度式)は、6人の僧侶の前でサンスクリット語の真言をとなえる中で厳粛に行われた。同伴した淑子さんは、この日「ミャンマーでの不思議な縁が父の得度式に合わせるように人を動かした」と語る。

ビルマ上座僧籍習得時の今里淑郎さん(2006年2月21日)

 得度式の前日、淑子さんが父上と旧知の間柄の高野山成福院住職5 、仲下瑞法大僧正に偶然にヤンゴンのホテルで出会ったというのだ。仲下瑞法大僧正は帰国予定を延期し、今里さんの得度式に参列。縁のある多くのミャンマー人が得度式に駆け付け、僧院への寄付や差し入れが毎日のように届いた。淑子さんは徳を積み、人のために援助を惜しまないミャンマー人の信仰の深さに驚くとともに、「さまざまな不思議なシンクロの連続に感動し、まるで慰霊をされている戦友の不思議な力による引き寄せのように感じた」と語る。

今里さん(右)と著者。2015年7月19日 高野山で行われたビルマ方面軍戦没者慰霊祭にて

「父に近づかないでください」

 必ずしも常に「女性陣」が協力者や支援者とは限らない。昨年、娘さんから「父に近づかないでください」と電話で釘を刺された。独居老人に見知らぬ女が近づいて怪しげな壺でも売りつけたら大変とでも思われたのかも……今どきそう思われても仕方ない。

 ある日、前述の岩井忠正さんと同じく人間魚雷「伏龍」の元特攻兵(当時94歳)の男性から、体験談を話したいと「不戦兵士・市民の会」の事務局に問い合わせがあった。私は改めて男性に電話をかけ面会日を決め、念のため日時や目的などの仔細を文書にして送った。父親の自宅のカレンダーに記された「怪しげな予定」に娘さんが警戒して電話をかけてきたのだ。父上の戦場体験は非常に貴重で後世に残すためにもぜひとも話を伺いたいと丁寧に説明するも、「父は認知症で正確な証言はもはやできません」と電話口できっぱりと断られた。娘さんは妻を亡くしたばかりで気弱になった父親を大変気にかけていた。娘さんは「父親の日常生活の世話も大変なのに戦場体験の語りを手伝う余裕などはなく、生活のルーティンを外から乱されるのは御免蒙りたい」と正直に語った。娘さんの事情も気持ちもよくわかる。だからこそ、超高齢者となった戦場体験者の聞き取りは身内の理解と協力が鍵となる。そのために戦友会の「お世話係」は得意のコミュ力を発揮し、「女性陣」に信頼してもらえるように日々精進を欠かさない。そして戦友亡きあとも引き続き娘さんたちとの交流を続けることも「お世話係」の使命と心得ている。今では亡き父上との関係性を超えて、「女同志」として交流を重ねている。戦友会「女子会」の主要な構成メンバーはこのような元兵士の娘たちである。

戦史研究に熱心な息子たち

 娘さんだけでなく息子さんのことも忘れてはいない。父親の戦場体験から波及して戦史に関心を抱くのは娘さんより断然息子さんの方だ。私の偏見かもしれないが、定年を迎えた男性は自由になる時間が十分あるので、戦史研究にのめり込みやすい傾向がある。ある年齢に達すると男性は自らのルーツに関心が向くようで、こうした人たちが家系図の作成に熱中し、その延長線上に父親の戦場体験を「発見」するというわけだ。あるいは遺品整理をしていたら、父親の軍隊時代の手記、写真、部隊名簿や部隊史の類に出くわして息子の探求心に火が灯る。侮るなかれ。彼らの戦史探求に対する熱量はその辺の研究者(私?)を超えている。息子さんからの発問や資料提供で私の研究が深化したことはいうまでもない。現在も父や叔父などの戦場体験に熱心に迫る彼らとの交流は続いている。「男性陣」の活躍は別の機会に譲る。あしからず。

亡父と「和解」した娘

 皆さん、第10回の「やすくにの夏」に登場した角屋久平すみやきゅうべいさんを覚えているだろうか? 2015年の靖国神社のみたままつり(例年7月半ばに開催)で、1灯20万円もする「永代献灯(大型)」を100灯も個人で奉納した元ビルマ戦士。家が建つほどの私財を家族にではなく、「英霊(戦没者)」のために投じた強者だ。

 私がはじめて角屋さんの長女の恵美子さんに会ったのは、2018年2月初旬、角屋さんの通夜の席であった(享年96歳)。初対面の恵美子さんに「あなたが遠藤さんですか……。父が大変お世話になりました」と礼を言われたのだが、その時「この人は私を、戦友会を好ましく思っていないの?」と一瞬妙な考えが過った。戦友会で一番の元気者でいつも明るく快活な角屋さんは、奥様や二人の娘さんと孫やひ孫にも恵まれた良き人生を送られたのに違いなかった。恵美子さんに感じた「違和感」は私の思い過ごしだと思っていたのだが、後に恵美子さんから角屋さんの意外な一面を知らされることになる。


 2月の角屋さんの逝去に続いて2018年は4名の戦友を相次いでに見送った。皆さん90歳後半の長寿を全うされた。戦友会の「お世話係」は、亡くなった戦友会員を偲ぶための戦友会「女子会」を開催した。正式にそのような会があるのではないが、戦友会員亡き後に集まるのは娘さんや奥さんをはじめ参加者は女性ばかりなので、独断で勝手にそう名付けた。

 おせっかいが取り柄なので、角屋さんの四十九日の法要が済んだ頃から、恵美子さんにも月一度の戦友会「女子会」へのお誘いメールを送っていたのだが、その都度体調不良や仕事の都合などで断られていた。しばらく連絡を控えようと思っていた矢先に恵美子さんから一通の手紙が届いた。通夜の席で過った「違和感」が的中した。かいつまで言えば「父親と戦争に結びつく物事や人から距離を置きたい。せっかくだが父が好んで通った戦友会には行きたくない」という主旨。元兵士の子どもの人生に、父親の戦場体験が何らかの影響を及ぼしてきたことが文面からも窺える。誠に余計な世話をしたと反省し、「女子会」へのお誘いはもうしないと決めた。

 ところが、しばらくして恵美子さんから思いもよらぬメールが届いた。

 「父と、まさか和解できるとは思いませんでした。幸せな気持ちです。母と泣き笑いで思い出話をしました」

 母と娘で再放送を重ねていたNHK・BSスペシャル「隠された日本兵のトラウマ――陸軍病院8002人の“病床日誌”」という、戦争で心に深い傷を負った元日本兵のドキュメンタリー番組を偶然一緒に観たのだ。
 
 メールはさらに続く。

 「『お母さん、理由がわかってよかったね』
 『そうか、父さんは病気だったのかい』
 母は半べそをかいていました。私の見たことのない姿でした。暴力を振るう父の激しい性格が母は苦手で、銭湯を経営していた兄のところに入り浸ってばかり。長いこと父は母が近所に住む兄と仲がいいことに嫉妬していました。
 なぜ父が私を虐待したのか? 母に暴力を振るったのか? テレビ番組を観て、これは戦争による『トラウマ』が原因の『病気』だとわかりました。父も長いこと苦しんでいたと思うと母と二人で泣きました」

 このような話は角屋さんの家族に限ったことではない。

 柔和な雰囲気の父が家では木刀で母を殴るDV魔に豹変すると恐れる娘。夫に殴られて眼鏡と一緒に体が2、3メートルいつも飛んでいたとさらりと語るご婦人。父親が戦没したことで関係性に生涯苦しむ異父兄弟。出征前に生まれたため、戦争で父と6年も会えず、戦後ずっと関係がギクシャクした子。戦争から生還してもかつての精悍な青年の面影は失せ、無気力で虚ろな目をしている父を疎ましく思う息子。戦争に翻弄された数えきれない家族の面々。それは、外側から見えにくく、内側からは見せたくない姿なのだ。


 ある戦友会の温泉旅行に参加した時、懇切丁寧に雲南戦場の話をしてくれた元兵士が、その夜、襖一つ挟んだ別室で嗚咽しながら、「お前だけじゃないんだ」と戦友に宥められている場に遭遇した。「チャンコロ(中国人の蔑称)を……」というフレーズが否応なしに耳に入ってくる。敵を殺したときの光景が夢に出てくるという。酒が入ると封印していた戦場の記憶が顔を出すのだ。しらふで語れる話ではないのだろうが、武勇伝のごとく残虐行為を雄弁に語る元兵士もいれば、家族にも戦友にも言えずに心を壊す人もいた。

 戦争の心の傷は、本人だけでなく次世代にも受け継がれる。父や祖父の「戦場体験」が家庭という場で子どもから孫世代の心にも深く長く影響するのである。

 20人以上集っていた戦友会も、100歳の元中尉を残すのみとなった。「お世話係」は最後の一兵までお世話する所存だが、戦友亡きあとはお役目御免と思いきや、残された人たちが互いの気持ちを分かち合う場を用意することが次の仕事と思い定めている。

 恵美子さんのメールは「お誘い頂いた『女子会』に参加します」と結んであった。

 俄然張り切る「お世話係」のおせっかいはまだまだ続く……。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 1988月1月、アジア・太平洋戦争において皇軍(天皇の兵士)として侵略戦争に参戦し、戦場の生き地獄を見てきた元兵士たちが、その体験と戦争責任から「戦争だけは二度としてはならない」と固く誓って、「不戦兵士の会」を設立した。200名以上いた「不戦兵士」ももう僅かとなっている。
  2. 「回天」は先端に1.6トンの炸薬を装着した全長14.5メートルの魚雷で、操縦席の隊員ごと敵艦に体当たりする特攻兵器。
  3. 「伏龍」は米軍を水際で壊滅する目的の本土決戦用の特攻兵器で、粗悪な潜水服、性能の悪い呼吸装置を背負い、竹竿の先の機雷で、海底を徒歩で移動し待ち伏せし、敵船を突いて自爆する。実際に使用されることはなかったが訓練で多くの若い兵士が死亡した。
  4. 今里淑郎『授かりし道――進化と向上を求めて』(私家版、2009年)、190頁。
  5. 高野山の成福院じょうふくいんにはビルマ戦没者を祀る摩尼宝塔まにほうとうがある。1941年に成福寺の前住職上田天瑞大僧正は陸軍嘱託としてビルマに入り悲惨な戦争を経験し後にビルマ僧となって修行した。兼ねてからビルマ方面軍戦没者を供養したいとの願いが1965年に摩尼宝塔として成就した。成福寺では毎年7月にビルマ方面軍の戦没者慰霊祭が行われる。