鬼画島 / 寺田克也

子供のころに出会った昔話では、鬼はたいてい悪者と決まっていた。だが、ちょっと待ってほしい。人に人権があるように、鬼にも鬼権があるはずだ。多様性重視のこの時代、いつまでもあんなガキと動物に、やすやすと殺されていていいわけがない。正義のありかはどこにある? そもそも鬼って何だ⁉ 寺田克也が絵とエッセイでくりひろげるシュールな冒険譚。描かれるのは福音書か、それとも黙示録か?

鬼になる。

share!


「なになにの鬼」

 巷間よく伝え聞くのが人が鬼になった話だ。
 でも突然額からツノが生えだし脂ぎって汗ばんだ皮膚の色が赤色とか青色とかに染まり筋肉の束がうねり、身長も見上げるほどに巨大化して髪の毛もちりちり目は金色に鈍く光り始め痛そうなスパイクが突き出してる金棒を太い指で握りしめて、「ウオー!」と叫んでギロリと睨み人を襲う、というものではなくて、人生のすべてを賭けて何者かにならん、何事かを達成せんと全身全霊で事に向かう姿勢を手に入れてしまった人の話だ。より多いのはスポーツの分野だが、分野的には多岐に渡る賞賛の意味を込めて使う「なになにの鬼」の事だ。
「あの人は鬼ですよ……、仕事の鬼だ」とか「ヤバいっすよ! 先輩は万引きの鬼っすよ!」とか「伊藤さんはとにかく鬼としかいいようがないですよ。エクセルにおいて」とかの鬼。
 そんな結構、安い使われ方をしている昨今、本当の鬼はそれをどう思っているのか。
 苦々しく思っているのではないのか。
 古来の日本の、闇の領域の代表格と目される「鬼」を、窃盗癖のある高校生とかに与えていいのか、という話だ。駄目だろう。そりゃ怒るだろう。「なになにの鬼」と呼ばれるくらいであれば、せめて誰からも一目置かれるような業績をバックボーンに、常人並みではない努力と犠牲を自らに強いているのがわかる存在レベルであって欲しい。それは尊称であって欲しい。鬼はそう願っている筈だ。

 つまり鬼と呼ばれるほどの人は「人間を超越」しているのが大前提だ。それは鬼が古来人間を上回るちからを持っている存在だという事の証左でもある。
 ちなみに「なになにの鬼」の反対はなんだろうか。
 犬か。
「いつもいつも上の顔色ばっかり窺って! 池田課長は会社の犬ですか!?」
 これは堪える。堪えるが鬼の反対語なのかこれは。
 虫はどうか。
「近藤さんはほんっとオタ活の虫ですよねえ」。言わないか。けなしてるのかどうかさえわからないが称号ではない事はたしかだ。でも「本の虫」は? 微に入り細を穿って突き詰める感じをほめてる雰囲気もある。サイズ感だけで言えば鬼の反対とも言える。
 サイズ感で言えば巨人はどうか。「彼女は今世紀最大の知の巨人」とかな。サイズというより速度感か。もうよくわからない。あっワニとかは? 音が似てる。
「あのひと、マジで空手のワニだよ!」
 いや、言わない。蝶は、夜しか使わないし。魚は?
 これでは脱線の鬼になってしまう。



鬼と呼ばれたい。

 「なになにの鬼」と呼ばれてみたい。それほどに打ち込んでいる姿勢に他者からの尊敬と畏怖を醸す肩書きは他にはない。ちなみに頭に鬼がつく前鬼使まえおにづかいは、なんとなく崇拝感が薄れる気もする。「鬼嫁」、「鬼コーチ」などの言葉が示すとおり、存在が矮小化されてしまう。
 その対象の持つ立場を揶揄してるだけの使用法になってしまうからだ。
 その点やはり広い世界の中に屹立しているイメージを掻き立てるのは後鬼使あとおにづかいなんである。ウエイトは鬼よりも、そのフィールド自体の大きさにある。その対比が強さを生む。
「登山の鬼」、「全国全駅名暗記の鬼」ほらどうだ。強いんである。扱っているものがかわいいものであろうが「ヒヨコ雄雌鑑別の鬼」となる。どうですか。もう強い。鬼強い。

 人は人以上を目指したがる。強さを求める。だから鬼の持つ力を恐れたり疑ったりしつつも憧れる。恐怖と憧れは裏表だったりもする。強権好きの統治者の乱暴さが、リーダーのあるべき強さに見えたりする。実際は抑圧されているのにも関わらず。人は力に思いを寄せる。強さを求めて鬼になろうとする。でも人に鬼を受け入れるだけの器がない時、鬼を目指した人はその力に飲まれてしまう。
 人は本物の鬼にはなれない。
 だからせめて「なになにの鬼」と、擬鬼化して人でしかいられない自らを慰める。



 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。