生まれてすぐにオニゴは山に捨てられた。
オニゴは生まれたとき、なめらかな青い肌を持ち、タールのように黒い眼球の中に金色の光を放ち、額に大きなツノを生やしていた。親は生まれた我が子を一目みて絶望に嘆き我が身を責めオニゴを責めた。そして村の総意で遠くの山にひっそりと打ち捨てられたのだった。激しい雨の降る朝、険しい山にひとり取り残されたオニゴは自らの境遇を悲しむこともなく、小さな手を伸ばし目の前を這う大きな虫を掴んだ。すでに生えそろっていた強い歯と牙でむしゃむしゃと咀嚼して飲み込むと仰向けになり、雨に打たれながら立ち枯れた大木の枝のすきまの暗い空を見上げた。
そして思った。
にんげんに必要とされないのであれば、じぶんはにんげんではないのだな。
その日からオニゴは自分の力だけで生きた。
鬼の自覚がオニゴを助けた。
成長したオニゴは山を支配する存在になった。ちいさな虫から大きな獣まですべてがオニゴの青い肌と黒いツノに忠誠を誓った。雑草に至るまで植物たちもオニゴに頭を垂れた。周囲の山々もオニゴの統治下にあった。山に住むにんげんは住まいを追われた。オニゴはにんげんが山に住むことを許さなかったが、命を取ることはせず、ただ追放しただけだった。
山が津波のように麓のにんげんの村を襲い生活を奪っていった。オニゴの名前はにんげんの社会に広がり、厄災の代名詞としてにんげんの口に膾炙した。オニゴはにんげんの敵となり、にんげんはオニゴを討伐しようと軍事力を繰り出したが、山々の深さがそれを妨害した。長い年月が流れて、にんげんはオニゴの存在を言い伝えの類いとして忘れ去ろうとしていた。山々の深さがそれを助け、やがて本当ににんげんはオニゴを忘れた。さらに月日が流れた。
ある日、青いオニゴは仰向けになり空を見上げていた。
黒々と多い茂った葉を巨木はそうっと動かしてオニゴに空を開いてみせた。オニゴの肌のように青い青い深い空がみえた。青い青い青だった。
見上げているうちに胸に棘が刺さったような感触を覚えた。
実はオニゴのその時に訪れたものは「さみしさ」という感情だったのだが、オニゴはついぞそんなものを知らなかったので手に持っていた黒山葱の束を口に放り込んだ。それを空腹と勘違いしたのだった。
もちろん「さみしさ」は空腹とは違うので、いくら食べてもオニゴの胸には無数の棘が1000年ほども刺さり続け、さしものオニゴも混乱した。その頃には山も動物も虫も植物も意思を失っており、ただの山や動物や虫や植物の抜け殻だったのでオニゴを癒やすこともできず、オニゴは思わず呻きながら駆けだして、転げ落ちるように山を下りていった。下りていった先には光と電気と金属と樹脂で構成されたにんげんの街が広がっていた。山を忘れたにんげんはオニゴの姿を見てもなんの反応も示さず、ただ通り過ぎていくのだった。
冷たく堅い道をよろめきながらオニゴはさまよい、キラキラと光るガラスのドームの前で座り込んだ。もう動けなくなってしまっていた。「さみしさ」はオニゴの身体を覆い尽くしていた。剥ぎ取れない痛みに包まれてオニゴは泣いた。生まれて初めて泣いた。オニゴの目の前をちいさな身体をしたにんげんの子供が笑いながら歩いていた。痛みから錯乱したオニゴは子供を捕まえて頭から囓った。囓られながら子供が笑っている。それはにんげんの姿を模した生体ロボットだ。オニゴは叫びながらそれを地面に投げた。ばらばらになった子供は、それでもまだ笑っている。
にんげんはとうの昔に滅びていて、にんげんに見えたものは皆生体ロボットだった。山にも街にも、この星にはにんげんはひとりも生きていなかったのだ。オニゴだけがそれを知らず、山の奥でひとりで生きていた。この星に生きて動いているのはすでにオニゴだけだ。
にんげんもいなくなった今、じぶんはいったい鬼と呼べるのか。
オニゴにはその答えはなく、そしてオニゴの命もやがて尽きた時、この星はしずかに宇宙から消えた。
と、いうショートショート的な鬼の物語のシノプシスとキャラクターを考えてみたのだが、どうだろうか?
どうだろうか?と言われても作者も困るのだが。さまざまな鬼の像を求めてさまよっている。鬼っていったいなんなのか。あいかわらず迷走を続けている。
ともあれ鬼子という言葉は、生まれながらの異物という意味を持つもので、よく考えずともその言葉の成立背景はヘビーであります。不確かな価値観を他者に押しつける時は悲劇しか生まれない。それぞれの時代に応じてそれぞれのオニゴは生まれてきているのだろう。
今、この現代におけるオニゴは果たして誰なのだろうかなどと考えつつ鬼を探す旅は続く。