鬼画島 / 寺田克也

子供のころに出会った昔話では、鬼はたいてい悪者と決まっていた。だが、ちょっと待ってほしい。人に人権があるように、鬼にも鬼権があるはずだ。多様性重視のこの時代、いつまでもあんなガキと動物に、やすやすと殺されていていいわけがない。正義のありかはどこにある? そもそも鬼って何だ⁉ 寺田克也が絵とエッセイでくりひろげるシュールな冒険譚。描かれるのは福音書か、それとも黙示録か?

「おまもり」

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 日本には昭和の時代から特撮ヒーローという存在がテレビの中で大活躍をしていて、少なからず、というより全面的にその世界観で育った年代のオレなのである。その頃の年端もいかない年齢のじぶんには、現実と非現実の境目が曖昧なところがあって、びっくりするほど醒めた現実的な目線で、着ぐるみの後ろにチャックついてるわー、人が入ってるんじゃー、幼稚じゃなーなどと小馬鹿にしてたかと思うと、ふとした設定がめちゃくちゃ心に刺さって、存外この世界には悪の結社があって改造人間、怪人などがいるのではないか、と割と本気で思ったりしていた節もあり、まさに曖昧な私の中の虚実ないまぜの日々だったように思い出されるわけです。そんな中でじぶんは勿論単純にヒーローも好きだったのだが、心奪われていたのは敵である怪人のほうだったのだ。ひとに仇なす事を義務づけられた存在である怪しい人型怪物が次から次へと毎週悪いことを企んではヒーローに退治されていて可哀想だった。望んで生まれて来たわけじゃないだろうに。
 
 いや、どうかな? あるいは根っからの悪を為したい、と大望を抱いて自ら怪人になった者もいるかもしれないが。でも大概は脳をいじられ思想を植え付けられた哀しい異形の怪物に変身させられたんだと考えてー、んー、ちがうか。こどものじぶんには善悪についての複雑な思考はまったくなくて、悪い役目で出てきたんだから悪い奴! という単純化した視線で毎週観ていたのだ。そしてラスト、ヒーローの必殺技で爆死する瞬間はカタルシスを得ていた。悪い奴は地上から消え去るべきなのであるという強い思想というほどのモノでもなく、単にシナリオ上で悪い奴は純粋悪であるという説明が為されているから、それを担保に素直にドラマの中の善悪を疑わなくて済んだということだ。その後成長するにつれて世界が複雑化して現実の中の善悪については単純なものではないと知るわけだが、それはまた別の話だ。あくまでも特撮ヒーローの中においては、善悪は単純でいい、と思っている。理想は理想として心のまんなかに持つべきなのだ。善悪ではなく、じぶんの信念が奈辺にあるのか、それに殉じて行動することに意味とか美しさが生まれるのだ、という事でもある。

 そういう部分はさておいて、毎週登場する怪人のデザインにも純粋にぞっこん魅せられていた。怖いと思ったことはほとんどなく、オレにとってはかっこよかったのだ。怪人が。
 そして小学6年生の修学旅行で京都の蓮華王院本堂三十三間堂に行ったオレはそこに怪人たちが立ち並んでいるのを見た! 勿論それは特撮モノの為の怪人ではなく千手観音を中心とする二十八部衆と呼ばれる仏教彫刻の等身大立像なのだが、仏教を入り口とする異世界に登場するキャラクター達とは言える。つまり小学生のオレには怪人にしか見えなかったわけだ。
 他の生徒たちが、それらを古くてダサいモノとしか思えなかったらしくどんどん先に行く中
ひとり立ち止まって先生が呼ぶまで見とれていた。圧巻の造型力。塗装が剥げて覗く下地、材木のくすんだ肌さえ美しかった。それはもう間違いなくオレの中で後年手がけていくマンガやキャラクターデザインの源流となる原体験であったのだ。

 そういう場所に立っていておかしくない造型の鬼を目指してみた。
 畏怖をもたらす空気を纏い、あたりを睥睨する。対峙する者を物理的に圧する程のまがまがしさは、そのまま力の象徴でもあり、古来から異形の者は転じて守り神としても崇められてきた。
 家内安全。
 無病息災。
 銀行口座。
 焼肉定食。

 このまま御札としてご利用ください。
 
 さて、この連載は鬼について描くというものだが、著者の嗜好からその造型が主となる。
 次回は今回を踏まえて、特撮モノに怪人として出てくる鬼を作ってみようかと思う。
 また来週! (ウソです。また来月)

 

 

 

 

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。