しるもの時代 / 木村衣有子

味噌汁、スープ、シチュー、カレー。さまざまな形で私たちの食卓に登場する「しるもの」。脇役として主菜の引き立て役に甘んじることもあれば、弱っている時には、心や体を救ってくれることもある。とても身近で、そして変幻自在な「しるもの」にまつわるテキストを通して、食卓の<記憶>を描き出す。
著者が2020年に発行し、現在完売しているリトルプレス『しるもの時代』の続編が、短編小説+エッセイで登場!

コーンポタージュ

share!

短編小説:自販機とおさげ髪

 のみものの自動販売機の前に立ったヒノは、ボタンを押してから少しかがんで、ICカードを所定の場所に押し付けた。程なくして、ガション、と、ヒノが選んだのみものが落ちてくる音がする。
 ぬるいよ。
 ヒノは黄色い缶のプルトップを指にかけながら、こちらを振り返ってそう言った。
 「素手だともう持てないくらいあっつあつのをご所望でしょう」
 ぼくが言うと、ヒノはふふっと微苦笑した。
 ヒノとぼくは、とある駅のホームで、電車が来るのを待っていた。電光掲示板には「3分の遅れ」とあって、それでなにかのもうかなとヒノは思い立ったというわけ。
 ヒノがなかなか開けた缶に口をつけようとしないのをぼくは訝しく思った。ヒノはばつが悪そうにこちらを見てから、開ける前に振るの忘れたっ、口早にそう言うのだった。
 ああ、それは口惜しいはずだ。よりによって、ヒノが選んだコーンポタージュの缶には「粒たっぷり2倍増量!!」との惹句が斜めに躍っている。粒こそが身上。ふと、ぼくはヒノに問うた。
 「「ポタージュ」と「スープ」の違いってどこにあるだろう」
 イメージの上での呼び分けってだけでしょ、と、ヒノは、すげなく返す。そうだ、スープもポタージュも、しるものにはちがいない。
 缶には、黄色一色を背景に、皮はシャツの襟のようにえがかれ、頭の上のひげをなびかせたとうもろこしのキャラクターがあしらわれている。
 そもそも缶に直に口をつけて飲んでしまえば、明るい黄色の多幸感も、缶に印刷されたイメージ図からしか汲み取ることができないんだなあ、と、ぼくは思う。そうはいっても、缶からマグカップに移し替えるような、一拍置ける人はここでコーンポタージュ缶なぞ買わないにちがいないし。
 まだ口をつけずに、缶の表面を指でなぞり続けていたヒノだが、不意にぼくのほうを見て、とうもろこし色のおさげ髪の彼女ねっ、と、言って、にっこりした。
 ああー。
 もうずいぶん前、ヒノには喋っていたんだった。
 ぼくが少しばかり好きだった女の人の話を。

 当時、ぼくの住処は、精肉店の斜向かい、小体なアパートの一室にあった。いかにも歯抜けの商店街で、シャッターが閉まったっきりの店も少なくなければ、ぼくのうちのようにアパートに建て替えられたり、駐車場になったりもしていたものの、古ぼけてデコラティブな街灯が立ち並んでいることで遠目にもそれなりに商店街の体を成してはいた。ちょうど中程にある鶏肉専門店は、それほど目立つ存在ではなかったけれど、お客が列を成すときもわずかにある。お昼に売っているお弁当を求めに来た人たちが、窓から、よく見える。そうはいっても、ここらには友人知人などいないからと決め込んで、並んでいる人の様子など気に留めはしないでいた。しかしその日、最後尾の女の人の姿には見覚えがあった。腰に届くくらい長い髪の毛を一本の三つ編みにして背中に垂らしていて、その毛先だけがとうもろこしのような軽やかな黄色に染まっている。さらさんだ。昨年までのぼくのアルバイト先の先輩、たしか2つ年上だった。ぼくは最寄りのバス停から、道路が混んでいなくとも最低25分は揺られてそこまで通っていた。さらさんはといえば自身の住処から歩いて通ってきており、その距離の近さをうらやましく思ったことがあったと記憶している。辞めてからのぼくは元バイト先の誰とも密には連絡をとっていなかったし、その近辺に足を運んでもいなかった。窓辺から名を呼びかけようかと迷うも、やっぱり、おもてに出て声をかけてみないと届かないかもしれない、と、部屋を出た。
 さらさんは、だし巻き弁当を買いに来たそうだった。
 どうしてわざわざ、ここに? そう問いそびれたのだったか、問うたもののはぐらかされたのかは、今となってはもう思い出せない。
 だし巻き待ちのいっとき、さらさんと立ち話をしていると、ぼくの気持ちはなごやかになった。久々に。
 そもそも、さらさんってこんなふうな雰囲気で、こんなふうなことを言う女の人だったんだ、と、いちいちハッとするくらい、さらさんをぼくは知らずにいたのだった。それでいて、さらさんと相対していると、反芻することもせずにいた、去年バイト先にてあった出来事、あれやこれやのルーティンワーク全てが、そう捨てたものでもない、仄明るい時間として胸中に浮かび上がってくるようで、それはぼくにとってなんとも不思議な感覚だった。
 そういえば、だし巻きの色も黄色ではあるけれど、さらさんのおさげ髪の先の色とはちょっと質が違う色に思えた。さらさんの髪は、とうもろこしの粒の硬質な瑞々しさを映しているようで、もっと褒めるなら、とうもろこし畑を吹き渡った風が毛先まで届いているんじゃないか、そういう飄々とした爽やかさというイメージで。
 さらさんとの再会からひと月ばかり経った。ラジオの天気予報では早くも熱帯夜だと告げられた、晩。
 予告なく、ぼくの部屋にさらさんがやってきた。階段をのぼる足音がなかったので、呼び鈴が鳴らされ、ドアの覗き穴から外を確認するまで、よもやさらさんが来たとは思いもしなかったが、不思議と、驚きはしなかったのはそういえばなぜだろう。こないだ、ぼくの家はそこです、と、振り返って指さしたのはたしかだが、部屋番号までさらさんに知らせていただろうか。
 さらさんはサンダル履きで、蹴飛ばすようにしてそれを脱いでから、荒々しいため息をひとつついた。常ならぬ様子だった。
 ため息をあとふたつついた。息はきっと熱かっただろう。もっとさらさんの傍に近寄っていればそれも感じられたはずだった。
 さらさんは語りはじめた。
 友達の紹介で、ついこないだからとある居酒屋で働きはじめたのだという。そこで予告なく、常連客に、後ろから、おさげ髪をぐっと引っ張られたそうだった。その居酒屋においては常連客ではあるとはいえ、入店したばかりのさらさんにとってはよく知らない人にはちがいなかった。そして酔っぱらいゆえの不埒さはさらさんにとっては恐怖だった。怒ったり悲しんだりではなくて、こわい、という感情に全身が浸されてしまったみたい。ぐいっと後ろに引かれたその感触がずっと残っていて、こわいのよ。こわい。
 といういきさつをさらさんはぽちぽちと、1時間以上かけて話した。今にも泣き出すのでは、というあやうい岐路が2度ほどあったがさらさんはぐっとこらえて崩れずに話し続けた。ぼくのほうはといえば、さらさんの打ち明け話の内容とは裏腹に、こないださらさんと相対したときのようななごやかな気持ちが、胸いっぱいに広がっていた。そういえば、さらさんと一緒にお酒を飲んだことはないな、なんて思ったりしていた。
 さらさんと向き合っていながら、ぼくの気持ちが波立ちはじめたのは、さらさんが、髪を切ってもらいたいと切り出したからだった。
 いつものように、とうもろこしのようなあざやかな黄色をして、夜だからかもう発光しているようにみえるおさげ髪の先っぽをぼくは凝視した。これまでに人の髪を切った経験はないぼくだった。それに、目印となるおさげ髪を失ってしまったら、ぼくはさらさんとどこかで行き合ったとしても、ぱっと見つけ出せはしないのではという不安が湧いてきた。穂先のような毛先は、ぼくをためらわせるだけの光を放っていた。
 そうはいっても、断れなかった。
 「ありがとう」
 ぼくが入れたハサミで、アシンメトリー、つまり左右ちぐはぐなおかっぱ頭になったさらさんは、かばんの中からストールを取り出してこれも中途半端な真知子巻きにし、「置いてかれても気ぃ悪いと思うから」などと言い訳をしながら、切り落とされたおさげ髪をかばんからしゅっと取り出したレジ袋に詰め込み、袋の口を結いて、それをかばんにしまいこみ、ぼくの部屋をあとにしていった。
 触れたのは髪にだけなのになにかいわゆる一線を超えてしまったような気さえしたものだった。

 ようやく電車が来た。遅れたわりには、この時間にしてはずいぶん空いている。
 ぼくより先に乗り込んだヒノは、ぼくより先に席に腰掛け、まだ飲んでいないコーンポタージュの缶を、両掌のあいだに挟んで揉むように回すなどしている。うっかり取り落とすんじゃないかと、ぼくは気が気でない。
 (了)


エッセイ:とうもろこしの第一印象

 自分のお財布を手に、ファストフードのお店に行くようになってから、時たまコーンポタージュを買っていた。あったかくて、とろりとして、甘じょっぱいしるものを欲するとき、手っ取り早く私を満たすのがコーンポタージュ、そう決め込んでいた。紙カップに注がれたのを、プラスチック製の短く頼りないマドラーで混ぜる。野菜であるゆえの生々しさを全くといっていいほど感じ取れないまま、漠然と啜る。そもそも、とうもろこしの風味よりも牛乳の味のほうが勝った味わいだったことを傍に置いてみても、感じ取ろうという心そのものをまだ私は持ち合わせていなかった。
 とうもろこしを野菜としてみるようになったのは、育ててみてから。好きになったのもそれから。3年ばかり野菜づくりをしていた時期を経てのことだ。しかし、自分で育てればなんでもおいしく感じられるというわけではなくて、きゅうりはむしろ自分の手で育てる前のほうが好きだった。
 それより前には、生えている様子を間近で見たことすらなかった。たとえば電車の窓などから、とうもろこし畑を、遠目に見ることくらいはあったにちがいないのだけれど、その風景は自分に関係ないものとして視界から飛び去るままに任せていた。
 一緒に植えていた幾種類もの野菜、ピーマン、なす、トマトなどと比べて、とうもろこしの立ち姿は奇異にみえた。背がとても高く伸びるし、茎が太くなるのに、一度、一本収穫したら、それでおしまいである。その傍に植えてあるピーマンとなすは、もいでももいでも次から次へと実が成るのに。それに、細かな実をこそげ取ったあとの芯は、レシピ集をめくっても、ごはんと炊き込む他には特段使い道が見つからない。
 実を収穫した後、茎にぎゅっと抱きつくようにしてひっこ抜きながら、なぜ、この野菜はワールドスタンダードで、ものすごく大量に生産されているんだろう、と、不思議に思ってしまう。とうもろこしという作物が背負う世界史を知らずに気まぐれに植えた者の、無責任なファーストインプレッションではあるにちがいない。それに、日本の、真夏のスーパーマーケットや産直ではとうもろこしは生野菜として並んでいて、買うほうもフレッシュさを受け取っているけれど、世界史的にみるととうもろこしは保存して長く食べ繋ぐ穀物として重宝されてきた。

 いったん好きになってからしばらくは、野菜としてのとうもろこしのあのふわっとフレッシュな香りとあっさり爽やかな個性をどれだけ再現してくれているのかを、季節を問わず、市販のコーンポタージュにも問うていたものの、やっぱりまた別物かもね、と思い直している。乳製品を足してからの、コーンポタージュだからこそのぼってりとした重たさ、飲みごたえを求めてしまっている。
 粉を溶くスタイルではなく、レトルトの、パッケージごと電子レンジであたためられるような、粒の形がそのまま残されているようなポタージュは、3、4粒目まではおおっと驚くけれど、煮溶けているみたいなほうがよくない? などとだんだん思うようになる。きっと、生のとうもろこしを使うレシピで、毎夏自分でつくっているものはとうもろこしの炊き込みごはんだからかもしれない。実は崩れて皮も柔らかになっているところが身上なのだ。

 宮沢賢治のごく短い童話『畑のへり』を2、3年前にはじめて読んだとき、そこにはやはりとうもろこしの姿を奇妙に思う心が活写されていて、やっぱりそう思うよ、と、感じ入った。
 「へんな動物が立ってゐるぞ」
 『畑のへり』では、通りすがりのカエルにとってのとうもろこしの第一印象はそういうもの。
 ちくま文庫の『宮沢賢治全集 7』には、さらっと短い童話『畑のへり』の、最終推敲版と、それ以前の「初期形」のふたつが収録されている。どちらかといえば私は後者のほうが賑やかで俗っぽく、好き。
 その初期形では、カエルは望遠鏡で、とうもろこしを覗いてみている。その望遠鏡は、ものの姿を「はんぶんぐらゐへんてこに」見せてしまう代物であった。するととうもろこしの実は「七十枚ばかりの白い歯と青じろいつやつやした髪の毛をもって、十五六枚の緑色のマントを足から頭の方へ逆さに着たせいの高い女の幽霊」であると映し出される。
 賢治の目にも、とうもろこしはそう映ったのかどうかはわからない。けれど、豊かさよりもまず不気味さを含んでみえたのはほんとうだろう。
 しかし、実際にとうもろこしに近寄ってみると親しみを持てるものだとイメージは反転し、一本一本のとうもろこしの実は、隣に成った実よりも自身のほうが優れていると主張し合う若い娘である、と、えがかれている。カエルは、茎に傷を付けると滲み出てくるという甘いお酒を堪能して帰っていく。とうもろこしのお酒、と書くときに、賢治はバーボンを想定していたのだろうか。バーボンは、アメリカらしさを体現するお酒であり、そもそもはイギリスで大麦、小麦からつくられていたウイスキーを、とうもろこしに置き換えた産物だ。アメリカにイギリスからの移民が到達する前には、とうもろこし、かぼちゃ、豆が、お互いをじゃませず助け合える組み合わせとして「スリー・シスターズ」と呼ばれ、栽培されていたそう。