しるもの時代 / 木村衣有子

味噌汁、スープ、シチュー、カレー。さまざまな形で私たちの食卓に登場する「しるもの」。脇役として主菜の引き立て役に甘んじることもあれば、弱っている時には、心や体を救ってくれることもある。とても身近で、そして変幻自在な「しるもの」にまつわるテキストを通して、食卓の<記憶>を描き出す。
著者が2020年に発行し、現在完売しているリトルプレス『しるもの時代』の続編が、短編小説+エッセイで登場!

トマトのしるもの

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短編小説:ミネストローネの柄

 「これ、頼んでません」
 ああ、オーダーミス。
 すみません、わたしって耳が遠くて。
 「いえいえこちらこそ滑舌が悪くて」
 そうやってあやまりあったのち、ぼくは極力、突っ返さずに引き取るようにしてきた。先方のミスだとありありとわかる場合にも。
 その場に居合わせた知人などに、波風を立てたくないからそうしているのだと説明すると、たいがい、なるほどこの人はいい人なのだな、と、納得してもらえる。たべられないものというのもほとんどないし、いい人になれる、いいチャンス。
 しかしヒノには、たしなめられる。
 それは、いい人、じゃなくない? むしろ、お人好し。
 ヒノは厳しく言う。お人好しは軽んじられるよ、わたしは偽善はいやだよ、と。
 いやいや、ヒノは単に、偽善を受け入れられるほど処世術に長けていないだけなのだとぼくは思うのだけれど。

 ところで。ぼくが今ひとりで住んでいる部屋は、日当たりがよすぎる。いいからこそ、借りたのだが、よすぎる。日照的には対照的だった前の部屋から持ってきたカーテンは、暴力的な夏の光をほぼ素通ししてしまっていた。ここに越してきて一年目の夏は、心頭滅却すればなんとかなる、と、自分自身を鼓舞していたけれど、夏痩せする、というはじめての体験はぼくをすさんだ気持ち一色につま先まで染め上げた。
 ひとり暮らしをはじめてから、カーテンをはじめとして部屋の調度品を司らざるを得ない生活に入ってから、これまで、カーテンにこだわりはなかったというか、カーテンの効用について考えてみたことはなかった。
 ぼくははじめて、光および熱を遮断してくれるカーテンの存在を知った。機能のぶん、安価ではないということも。そうはいっても、手に入れて窓に吊るさないともう夏を越せない、この部屋では。
 ある、まだ春だといえる日、ぼくは、30分以内で行ける中ではいちばん規模の大きなホームセンターに出かけた。
 カーテン売り場はずいぶんと奥まったところにある。ヒノの部屋のカーテンはこんなふうだったかなあ、と、思い出そうとしながら、向かった。
 カーテンは派手にするにかぎる、それがヒノの主義だそうだ。その部屋で起こった楽しい出来事がより記憶に刻みつけられやすい、ヒノはそう言う。ぼくはその場では「うそでしょ?」と反駁したのだったが。あらためてヒノの部屋に行ったときのことを思い出そうとしてみると、お喋りの中身などはおぼえていても、カーテンは暖色系だったな、その上にちらちらとなにか模様がおどっていたな、というぼやけた像としてしか頭の中には浮かび上がってこない。まあ、カーテンの模様をおぼえているかどうかはまた別問題なのかもしれない。
 ホームセンターには、ぼくの望むような、派手な色柄のカーテンは、眩しさ暑さをたいして遮ってはくれることのない布地のものしかなかった。ただし、よろず承り窓口担当の、ぼくより幾つか年長と思しき女の人によれば、遮光できる別布を裏地として縫い付けることは可能だそうだった。裏地は一種類しかないそうで選ぶ余地はなく、ベージュ一択とのこと。
 ぼくは、赤い地色に、黄色、緑色、白色の、小さな幾何学模様が散らばっているものを選んだ。まるでミネストローネみたいだ、と、思いながら。そして裏地を付けてもらうことにした。出来上がりまでには10日ばかりかかり、代金は後払いでよいそうだった。発送しますか、と尋ねられたが、直に受け取りに来ようと決めた。
 窓口で、おもて側になる、ミネストローネふうのカーテン地の品番をメモした注文票を受け取ったぼくは、店を出たところでその紙片を財布の中にしまった。

 カーテン仕上がりの日。ぼくは困惑していた。
 注文票を窓口に差し出したとき、前回の女の人ではなくて、ぼくより少し年若いと思しき男の人がそこにいた。彼が抱えてきた、透明のビニール袋に包まれた布地は、赤色でなかった。裏地が見えるようにしてたたまれているのかもしれない、と、袋から出して広げてもらったが、おもても、裏地によく似た、乾いた砂のようなベージュ色だった。無地だった。
 強いていえば、一度、飲んだことのある、マッシュルームのポタージュを思わせた。あれはおいしかったが、ぼくが窓に吊るしたいのはミネストローネなのだった。
 ぼくは言った。
 「これじゃないです」
 彼はぼくの顔をはっと見て、目を細めた。クレーマーだ、と。実際に口に出して言わずとも、その表情は雄弁にそう語っていた。
 固い声で彼は、そんなはずはないですよね、というようなことを言った。なぜなら、たしかにぼくの持っていた注文票にある8桁の品番はこのベージュの無地のカーテン地と一致するのだから、と。
 心外だった。
 しかし、ぼくが彼の立場だったら、やっぱりそう受け取ってしまうのではないか、とも思うのだった。というよりむしろ、ぼくの注文を受けた女の人はこの日は非番であり、品番以外の証拠はとりあえずなにもなかったのだから。
 「確認していただいてもいいですか」、ぼくは彼に言い、カーテン売り場まで付いてきてもらうことにした。向かう途中、2度後ろを振り返った。めんどうなことになった、と言いたげな足取りで彼はぼくに付いてきている。ベージュではだめなんだろうか、まあ、いいじゃないか、とぼくの気持ちが揺らいだのはほんとうだ。ぼくがベージュのカーテンを部屋に吊るせば、この場は丸く収まるのだから。
 しかし、カーテン売り場で、件のミネストローネみたいな柄を目にしてみると、旧知の人に出会ったように、ほっとした。自分でも知らぬ間にこの色柄にずいぶんと愛着が湧いていたようだった。
 「これです」、その赤色のカーテン地を指し示してそう言うと、彼は、全然違いますね! と、俄然明るい声で返してくれた。クレーマー、との疑いは晴れたようだった。
 結局のところ、品番を注文票に書くときに、写し間違ったのがいけなかったらしかった。というと、今日はいないあの女の人が悪いことになる。ほんとうなのか? いないからといって、責任を押し付けているだけなのでは? ぼくはそう思いはしたが、黙っていた。そう、やっぱりぼくは、いい人でも、お人好しでもない。
 それに、値段も、一万円高くなることが判明した。派手な趣味はお安くないのだった。
 もし、ここがチェーン店ではなくて、個人で営まれているインテリアショップだったら、カーテン地を、数字ではなく、名前で呼び合うようにしていれば、こんな誰もががっかりすることは起こらなかったのではないか。

 また10日が経ち、ぼくはカーテンを受け取りに出かけた。今度は、ちゃんと、おもてはミネストローネ模様、裏はマッシュルームのポタージュ色だった。
 ようやく、窓のカーテンレールに取り付けて、少し後ろに下がって見てみると、ヒノの部屋のカーテンの色柄とは全然違うように思えた。そもそもここはヒノの部屋ではないのだから、当然かもしれない。でも、たしかに派手ではある。

 (了)


エッセイ:トマトの皮と色

 トマトの皮をむく。
 鍋にお湯を沸かし、尻に浅く十文字の切り込みを入れたトマトを投入し、10秒前後で取り出し、氷水にとって冷やしてから、切り込みからめくれた皮を手でむく、湯むき、と呼ばれるやりかたが一般的、というよりむしろ最適解にちがいない。
 そういいつつも、この湯むきの一手間を億劫がって、生のトマトを使ったしるものを以前はあまりつくらずにいた私。
 ミニトマトを丸のまま皮もそのままに、鍋に放り込んでよしとするしるもののレシピを知ったとき、いいじゃん! と、早速つくってみた。出来上がって、お椀によそり、啜ってみると、トマトの皮が口の中で、具ではなく、ノイズとして、もそもそと、じゃまだなあと感じられてしまった。これが完成形でいいの? と、レシピに疑義を呈したくなった。とはいえ、湯むきの面倒くささと、皮のノイズとを天秤にかけてみると、後者のほうがましなように感じられたのもほんとうで。
 皮は基本的には食べるものの、何枚か脇によけて、残してしまうときもある。私にとって、鮭の皮との付き合いかたもそんなようだなと思わされたりする。
 そうやって皮ごとトマトをしるものに投げ入れ続けていながら、あるとき、ふと湯むきしてみたら、気付いてしまった。皮がないと、なんとも物足りないことに。皮は、具としての居場所にすでに落ち着いていた。
 なぜに、そう惑いながらもしるものにトマトを入れたいのかというと、全体に味がまとまるから。
 そう、トマトには、昆布、醤油、味噌などと同じく「グルタミン酸」が含まれているのだった。グルタミン酸=「うま味」。ちなみに、120年近く前、昆布にグルタミン酸が含まれていると突き止めた博士・池田菊苗の研究の賜物が「味の素」なのだそう。
 だから、トマトは出汁、なのだった。トマトを料理に使うと、うま味が加わる。その上、赤い色も、加わる。
 もしもトマトが赤色じゃなかったら、こんなにも食卓に求められただろうか、と、ふと思う。「透明醤油」の存在を知ったもので、余計にそのあたりが気になってくる。
 醤油が料理を茶色に染めることそのものに、特段、疑いを持たずにいたのは、自分でつくる料理がカラフルを目指していないせいもある。以前は、ただ無頓着にそうしていたのだけれど、だんだんと、いろどりのためにむやみに頑張りはしない、と、決意を固めた。SNS上で「#茶色い生活」というハッシュタグをつくって使っていたこともあったくらいに。
 透明醤油とは文字どおり無色透明のお醤油であるから、よい点としては、食べこぼしてもしみにならない。それは画期的! 問題点は、お刺身につけても見えないからちょうどいい量がわからないこと。
 余談ながら、ナンバーガールの名曲に「透明少女」があり、私の発行しているリトルプレスを取り扱ってくれている独立系書店に「透明書店」という一軒がある。でも、曲も本屋も、透明、を名乗る反面、かなりの存在感があるところは共通している。
 では、もしトマトが、透明であったなら。
 ケチャップでオムライスの上に♡だったり顔だったりあるいはなにかしらのメッセージを書くという慣習はなくなるだろう。
 ミニトマトがお弁当にぽんと入れられることもほぼなくなるだろう。
 トマトジュースは売れゆきが鈍るか、そもそもつくられないかもしれない。
 そして、トマトをしるものに入れようという意気込みも、やや、しぼんでしまうだろうか。