短編小説:りんごジュースをあたためる
わたしはあっためたいな。
ぼくは頷いた。電子レンジの扉を開けて、りんごジュースをなみなみと注いだマグカップをふたつ入れようとした。
チャイのスパイスも入れてみたい。
ヒノの要望に応えて、ぼくは棚からチャイ用にあらかじめ混ぜてあるスパイスの瓶を取り出し、マグの上で2度振った。スプーンでマグの中をゆっくり3回混ぜてから、電子レンジにかける。
混ぜたほうがいいの? とヒノは訊ねる。ぼくが返答する前に、そうだよねえ、と、ひとり合点している。
ぼくが今勤めている、カウンターが主体である小体な飲食店の、開店前の仕込み終りかけの頃合いにヒノがふと訪ねてきたのだった。たまにあることだ。ぼくより年若い店長も知っていてこれといって咎めない。ちなみに、系列店はこの界隈に3軒あって、どの店のスタッフも、オーナーも、みんなぼくより年若い。
レンジが、チン、と鳴って振動を止める。
よそのレンジの音って新鮮でいいよねっ、ヒノはそう言う。とはいえ、この店のレンジの出来上がりお知らせ音はぼくが長く使っているものと同じ音なのだった。だからヒノと同じ感覚は得られない。だけれど、気持ちはわかる。
りんごジュースはうちの店のメニューにはない。常連客からの差し入れである。1.5ℓ瓶入りで、一昨日一杯ずつ飲んだ。冷やして。飲み残しは持って帰ると言っていたはずの店長がすっかり忘れて帰ってしまい、定休日を一日挟んで、まだ冷蔵庫に入っていた。なにせ小体な店、小体な冷蔵庫なので早く飲み切ってしまわないと、次に来るものの居場所が確保できない。
温度が上がると、糖分含有量は同じでも甘味をより強く感じるものだから、あたためたほうがはなやいだ味わいになる。ヒノがなんでもあたためたがる理由はそこにあるのかもしれない。
ヒノに倣ってあたためてみたりんごジュースはチャイ用のスパイスと相まって、アップルパイの中身みたいな味になった。
そういえば、フレッシュな果物をあしらったお菓子をかつてのごーちゃんは存外喜ばなかった、という記憶がある。
ごーちゃんには、足湯から上がってすぐ、手土産を渡していた。「高いが旨いお菓子」と、とある老舗の喫茶店のメニューにある文言を真似してぼくとごーちゃんがよく言い交わしていた、名は体を表す、見た目とサイズを裏切るお値段と味わいの、けっこうこってりした焼き菓子だった。そんじょそこらじゃ売ってないはずの。
受け取ったごーちゃんは、私、これ好きだったね、と、言った。
もう、かつての好物なんだな。
ごーちゃんがどんな暮らしを今しているのかも問わずに踵を返す、ぼくの気持ちが冷めているのをたしかめるだけのために会ったのだったらまだよくて、ごーちゃんのほうもきっと寸分違わぬ気持ちなのだと知らされると、なんとも恥ずかしいというのか、やりきれない。はじめて行った温泉街という場所はぼくは嫌いじゃなかった。ごーちゃんにも嫌悪感はない。なのに、もうお互いに熱を発する力がない。酷だな、と、思った。
温泉街からの帰途は雨になった。ぼくは、お皿を取り落として割ってしまったときみたいな心持ちだった。お皿、イコール思い出のイメージ。戻って、かけらを片付けたら気が晴れるかもしれない、という衝動が小さく胸中に生じては消え、また生じては消えるのを繰り返す。気泡のように。
手前勝手な空想だ。ばかばかしい。
ワイパーがフロントガラスに流れる雨を退けるみたいに、ぼくも幻の泡をかいくぐって、そう、丁寧に運転をしないと。
「慣れない道なんだからさあ」
ぼくは口を開き、自分自身に言い聞かせた。
「丁寧に、っていう言葉はこういうときに使うもんなんだからさ!」
それ以上のひとりごとはやめておいた。
もう、お皿は、大事にしまいこんでいたのはほんとうでも、取り出してみたときにはすでに割れていたのだ。住処の駐車場に車を置いて、おもてに出て、乾いた空気を吸ってみて、それからはぼくは思い切ることができていた、というのなら、いい話なのだが、わざわざ会いに行ったのがいけなかったのかな、とかなんとか、くよくよと思い出してしまういっときもあった。今日までのあいだに、幾度も。
ぼくも、ごーちゃんにばったり行き合うことができていたらどうだっただろう。太郎とやらと、ヒノのように。
ヒノが、太郎とやらと再会したという輸入食料品店は、にわかに観光地化し、いつもざわざわしている商店街にあった。たしかに、ぼくが前に住んでいたアパートがある商店街とはずいぶん様子が違うよなあ、などと思いながら幾度か歩いたことがある。だからその輸入食料品店の前を通りがかったこともある。なんなら、ヒノと一緒にそこを歩いたおぼえもある。
ぼくはその輸入食料品店にまだ入ってみたことはない。ヒノは不思議がった。そういえば、なんでなんだろう。扉を開ければ、中からヒノが飛び出してきたかもしれない。そうしたら、ヒノと付き合ったこともなければ、お別れしたこともないぼくだって、びっくりし、次いで、にっこりしただろう。
「ばったり会うなんてドラマチックな出来事、ほんとに起こるんだね」
思いの外、ぼくの口調は嫌味を含んでいたかもしれない。
ヒノは、ふん、と軽く鼻を鳴らして、手に持っていたマグをカウンターの上に置き、にやりとして言った。
とうもろこし色のおさげ髪の彼女ともね。
ぐうの音も出ない。
ぼくが20代のときに出てきたような、北国の小さすぎる街では、住人の生活圏はそう広くもないのだから、友人知人と偶然出会すのはごく普通のことだった。むしろその圏内にしばらく顔を見せない人のほうが心配される、いや、むしろ不審がられるような。そんな感覚そのものをぼくは忘れていたのだろうか。いや、ヒノの前にそうやって印象的にあらわれたらしい、太郎とやらがヒノの打ち明け話の中で放つ存在感に、なんとはなしに気圧されて、つい、ドラマチック、なんて、陳腐な表現をしてしまったのだろうか。
そういえば、ヒノの出身地は北国であってぼくと同じ、とは認識しているつもりであっても、わたしも北国、と、相槌を打つようにいつぞや知らされただけで、具体的にどこなのかは知らないままなのだった、と、今更気づいた。ぼくは、ぼんやりしている。
どこ? とヒノに問う代わりに、ぼくはこう言った。
「ばったり行き合うっていうシチュエーションにいちいちはっとするようになったのは、やっぱり大都市といえるところの一隅の暮らしに馴染んでから。連絡して会うまでの用事もなく、会いたいとたいして強く願っていたわけでなくとも、偶然に行き合う。すると、その人と自分自身のあいだになにか素敵な魔法がかかったように感じられて気分が浮き立ってしまう。そうはいっても、うれしくないばったりだってもちろんあって。避けられるものならそうしたかったばったりも。後者の場合は、早く立ち去りたいという気持ちを隠し切れなくて、先方に、なんでそんなに挙動不審なんですか? とか嘲笑されたり」
そんな場面乗り切れそうだけど、だって接客業してるじゃん、と、ヒノは不思議そうに言った。
「カウンターの一線を挟んでいれば大丈夫なんだよ。ていうか接客の仕事って人見知りだって自認しているくらいがうまくやれるんだよ」
口早に、そう返しながら、ぼくは、人見知りであると自認していたんだ、と、自分が自然と発した言葉によって知らされたのだった。
ヒノのマグの中を覗くと、ジュースはまだちょっぴり残っていた。ぼくの目線に気付き、ヒノは自身の手元にマグを引き寄せ、飲みます飲みます、と、言う。
「急かしてないよ」
むしろ、そんなふうな言葉をかけたほうが、ヒノは早く飲み切ってくれるにちがいない。そろそろカウンターを拭いて、看板を「営業中」にしないといけない。
(了)
エッセイ:百合子の枇杷
食べもの飲みものがえがかれたエッセイや短編小説を編んだアンソロジーは何冊も何冊も世に出ている。どれだけバリエーションがあるのだろうか、探索している。カレー。お酒。お弁当。数多ある中で、「果物」をテーマにしたアンソロジーは2冊見つかった。『くだものだもの』と『まるまる、フルーツ おいしい文藝』。前者は2007年に、後者は2016年に刊行されている。およそ10年に一冊、出される定めなのだろうか。ならば、そろそろ新たな果物アンソロジーを誰かが編んでいるはずだ。
読んだことのある作品はそれほど多くなく、ひとり恥じ入る。2冊ともに名前がある作家は、たとえば江國香織、村上春樹、内田百閒など幾人かいる。たしかに、江國香織の文体って、果物が似合う。
2冊どちらにも収録されている作品はただひとつ、武田百合子『枇杷』だった。
短いエッセイ『枇杷』は、百合子のエッセイ集『ことばの食卓』の、ページをめくって一作目である。
百合子は、夫である泰淳とふたり向かい合って枇杷の実をたべた時間を思い出している。
「ああ。うまいや」
泰淳は言う。百合子に切ってもらった枇杷をたべながら。
「枇杷ってこんなにうまいもんだったんだなあ。知らなかった」
果実の甘さや香りについては特段言及されない。汁、のみがえがかれる。
「枇杷の汁がだらだらと指をつたって手首へ流れる」
そのさまを百合子はじいっと見つめていたのだな。
この、枇杷のエピソードは、百合子の山荘暮らしの日記本『富士日記』の、1970(昭和45)年6月29日にちらっとあらわれている。百合子が45歳になる年のことだ。
その日は、朝9時半に百合子が運転する車で赤坂のマンションを出発し、山荘に到着したのち、百合子はお昼ごはんにすいとんをこしらえる。その後に枇杷をたべた。
「枇杷を食べる。主人は枇杷を千切りにしたのを食べる。おいしいという。主人がゆっくりと二個食べ終わるまでの間に私は八個食べた。おいしかった」
屈託ない描写だなあと思う。後日、あれほどしっとりとしたエッセイに仕上げられる予兆を、行間から読み取れない私が鈍感なのだろうかと訝しくなるくらい。この日の日記ではむしろ、富士吉田にある謎の土産物店についての描写が仔細で、そちらのほうが印象に残っていた。
もしかしたら、枇杷をたべた後の、ふたりとも昼寝をしたというくだりが鍵なのかもしれない。
うとうとし、目が覚めたら「寝室の小窓から、白バラ香水の匂いと樹の匂いが入ってきて、それがまた眠りを誘うのだ」という、うっとりさせられる描写の、気怠く官能的な雰囲気がエッセイ『枇杷』にも流れ込んでいるのかしらん。そういえば『枇杷』には夢の記録みたいな非現実感も含まれている。いや、そもそも、泰淳が没してから書いた百合子の文章はどれもふわふわと夢っぽさをまとっている。
『ことばの食卓』は泰淳が没してから10年が経とうとするときに刊行された。あとがきには「もっとも愛着のあるのは『枇杷』です」と、きっぱりと記されている。
参考文献
『くだものだもの』武田ランダムハウスジャパン 2007
『まるまる、フルーツ おいしい文藝』河出書房新社 2016
『ことばの食卓』武田百合子 ちくま文庫 1991
『富士日記』武田百合子 中公文庫 1981
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。