しるもの時代 / 木村衣有子

味噌汁、スープ、シチュー、カレー。さまざまな形で私たちの食卓に登場する「しるもの」。脇役として主菜の引き立て役に甘んじることもあれば、弱っている時には、心や体を救ってくれることもある。とても身近で、そして変幻自在な「しるもの」にまつわるテキストを通して、食卓の<記憶>を描き出す。
著者が2020年に発行し、現在完売しているリトルプレス『しるもの時代』の続編が、短編小説+エッセイで登場!

冷や汁/読む料理本

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短編小説:スコール、冷や汁

 世間的には祝日だった、と、ヒノは語り出した。ヒノにとっても急ぎの用事のない、つまり休日だった。今年いちばんのむしむしとした昼下がりだったと思ったけど、今日それが更新されたね、と、ヒノは言う。むしむし、と、聞くだけで暑くなる。ぼくは携帯している手拭いを握りしめた。
 ヒノはめずらしく、財布だけぽんと入れたエコバッグを手に、アパートを出て、最寄りのドラッグストアに向かったという。そんなふうに軽やかにというか無造作に外出することはほとんどなくて、本来、はおりものだの文庫本だのあれこれ鞄に詰めて携行しないと気が済まないはずのヒノだった。
 ヒノの住処から徒歩1分の距離、そう広くない通り沿いのドラッグストアは1年と少し前にオープンして以来、ヒノの生活を助けていた。それ以前は、大通り沿いにしばらく歩いて、向こう側に渡って、繁華な商店街まで出ないと、そこそこ大きくていろいろ揃うドラッグストアはなかった。ヒノはたいていの生活必需品の買い物を、ひとり徒歩でしているもので、トイレットペーパーのようにかさばるもの、洗剤のように重たいものを補充する億劫さがかなり払拭されたのだった。数年来愛用しているシャンプーもちゃんと置かれていたし。そのシャンプーは、17、8年くらい前の匂いがするのだと、ヒノは言う。香りの流行に乗ろうとしない代わりに、材料もそれくらい前のまま、けちってないんじゃないかな、とも。それくらい前の匂いだと、ダサいとも思えない。あと3年くらいしたらもしかして最先端になるんじゃない?
 しかし、ドラッグストアの棚に、お目当てのシャンプーが並んでいるはずの列はからっぽで、入荷未定、と記された札がある。
 すでに、歯ブラシも生理用ナプキンも、ここに通い詰めるうちに、ここの品揃えにたった1年でももう馴染んでしまっている。とはいえ、件のシャンプーは前に買い物をしていたドラッグストアでも取り扱われていたのだから、そっちにはきっとあるはず、あるよね。
 ヒノは大通りに出ようとして、空の暗さに目をやった。頭上には、濃灰色の雲がもくもくしている。さっきまではなかったのに。いや、気配はあった。近所だし、ぱっと買って帰るだけだし、大丈夫、と、たかをくくっていたのは否めない。柄にもなく、持ち物を最小限に絞り込んでいたのもまた。
 しかしヒノは、いったんアパートに帰ろうか、せめて傘を取ってこようか、という迷いを無謀にも捨てて、先へ歩を進めたという。すぐに大粒の雨が落ちてきた。

 ヒノは大通りを渡ったところにある、屋根付きのバス停のベンチに、車道とは反対側を向いて腰掛けて雨宿りをしていた。降り出した雨はたちまち、アスファルトに跳ね返る水飛沫がふくらはぎを濡らすほどの勢いとなったもので。ベンチは、人ひとりが横になれるくらいの長さで、肘掛けというよりはただの飾りのような鉄製のもので、三席に区切られていた。腰掛けているのはヒノひとりだった。首筋を、汗が流れていく。中途半端な長さの髪のせいもある。せめてヘアゴムがあればいいのに、と、ヒノは願望をこめながら服についている全てのポケットの中を探ったが、そんな便利なものはなかった。ヒノは、舌打ちをしながら、なんとはなしに、着ているシャツの袖をめくったりおろしたりしていた。
 男女ふたりが通りがかった。傘は各々さしている。ふたりとも、ヒノよりずいぶん若かった。先に立って歩く男が女のほうを振り返り、笑いを含んだ声でなにか鼓舞するようなことを言った。半身ほど遅れて後からついてきていた女はヒノの眼前にさしかかったところでぐっと歩みを遅くし、男とのあいだには距離ができた。うつむいている。おり、女はずいぶんむっとしているようだった。彼女の姿を遠慮なくじいっと見てみて、当然だ、と、ヒノは思う。裸足で履いている白色のキャンバススニーカーがたっぷりと雨を含んでいるのがありありとわかる。肩から下げている薄手のトートバックだって濡れている。少し、立ち止まればいいのに。どこか急いで辿り着かなきゃいけない場所があるとしても、そんな濡れ鼠になってしまっていたら困るでしょう。
 ああいう、気の利かない男が嫌いなんだよな。このあとすぐ別れるさ、あのふたり。
 つきあっているという前提でふたりのこれからを想像しながら、ふたりの後ろ姿が小さくなるまでヒノは見ていた。なんやかや、それ以上遅れることのなく男についていく、一足ごとに水を含むであろうスニーカーを履いた女の後ろ姿を。
 バスがやってきて、停まった。ヒノの後ろでドアが開く音がしたが、ヒノが、乗らない姿勢でいるのを見てとって、ドアを閉め、走り出す。
 それと時を同じくして、バス停の屋根の下にひとり女の子が息せき切って駆け込んできた。
 ベンチの脇に立ち、折りたたみ傘を丁寧にたたんでいる、年の頃は高校生と思しきその子の可愛らしさについてヒノは熱を入れて喋った。ぼくにはよくわからなかった。伝わらなかったというよりも、実際にその子を目にしたときに可愛らしいという印象を持てないだろう、と。女の子は制服を着ていて、上はセーラーカラーの半袖。下は長ズボン。ヒノの目には馴染みのない組み合わせだったものの、頭ではぱっと理解したという。
 そっか、スカートかズボンか、女の子はもう、制服選べるようになってるんだよねっ。
 「へえー」
 そうはいっても、雨の日はスカートのほうがいい。濡れてもすぐに乾くから。ヒノ自身はというと、腰掛けたときに膝がぎりぎり隠れるくらいのズボンを履いていたという。大人気ない丈、だとヒノは言った。

 女の子は、次のバスを待つでもなく、傘を再び広げて歩き出した。雨は小やみになったもんね、と、再び、後ろ姿を見送るヒノ自身は、傘がないものでまだ腰掛けていたという。
 ぼくは、ヒノに訊いてみた。
 「誰も通りがからない、ひとりぽつんとしたときってどんなこと考えるの」
 冷蔵庫になにがあるかな、って。そのときは、昨日の味噌汁あったなって、思い出してた。
 「冷や汁?」
 つめたいものを基本的には好かないヒノとわかっていながらも、つい、そう言ってしまったのは、ぼくにとっては、味噌味のしるもので冷蔵庫の中イコール冷や汁。は大好物で、夏場はちょいちょい冷蔵庫に仕込んであるからだった。
 「愚問だったね」と、ぼくはとりなした。意外とヒノは、こう問うてきた。
 冷や汁の味ってどういうの?
 「スタンダードなのは、焼き魚の身を裂いたのと、あぶった味噌を使うから、芳ばしさがそのまま冷えてるっていう」
 流行ってるの? 冷や汁って?
 というのも、近頃、ヒノの周りで冷や汁が話題にのぼったのだそうで、昨夏、無印良品の「宮崎風冷や汁」に助けられたから今夏も終売しないようにって願ってる男の人がいてさ、と、ヒノは言った。ぼくはレトルトの冷や汁の存在をはじめて知った。冷や汁愛好家としてはどうにも口惜しい。無印の食料品棚の前ではもっとゆっくりと品物ひとつひとつに目を凝らすべきなのだ。ちなみに、きゅうりと豆腐は後から足さないといけないのだという。
 ひとり暮らしのライフハックを語りたがる人なんだよね、と、ヒノの話は逸れていき、その男性の持論だという靴下の賢い選びかたについて述べたのち、少し間を置いて、こう言った。
 そう、ひとりになったとき考えることといえば、わたしってひとり暮らしに向いてないな、っていうこと。
 ベンチの傍の、通りの敷石が欠けているところに立派な水たまりができていた。その表面が太陽の光を受けてぎらっと光るのをたしかめてから、ヒノはようやく、ベンチからお尻を離した。雲の後ろ姿は雑居ビルの高さに隠れてしまい、ヒノからは見えなかったのだという。

 (了)


エッセイ:レシピの行間を読む料理本

 この連載のきっかけとなったリトルプレス『しるもの時代』では、料理本の世界のしるもの元年を、2016年としている。
 2016年3月に、有賀薫さんのスープ作家としてのデビュー作『365日のめざましスープ』(SBクリエイティブ)、そして10月には料理研究家の土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)が世に出たから。
 こないだ、昭和の食年表をめくっていて「一汁一菜」という言葉を意外なところに見つけた。1930年代の終わり、日中戦争がはじまってから、国策として掲げられた標語だったとある。それから80年も経っているものだから、タイトルから当時を想起させられる人はもういなかったのか。『一汁一菜でよいという提案』は、刊行から半年と少しで発行部数が10万部を超え、2021年に新潮文庫に入ってその翌年には、単行本と文庫を併せて33万部に達したという。スローガンとしての強さも感じざるを得ない。「“システム”であり、“思想”であり、“美学”であり、日本人としての“生き方”」イコール、一汁一菜であると謳うこの本に、私はやっぱり親近感を持てないままだ。

 2019年に「第6回料理本レシピ大賞エッセイ賞」を受賞した『料理が苦痛だ』(本多理恵子 自由国民社 2018)には、リトルプレス『しるもの時代』では、「飲食書評の仕事と『家庭料理』考」と題した章でふれている。その翌年に刊行された『本当はごはんを作るのが好きなのに、しんどくなった人たちへ』(コウケンテツ ぴあ 2020)というエッセイ集もまたタイトルからして、料理の時間にわきおこるネガティブな気持ちを受け止めようという流れに乗っていた。
 ある誰かのために、その場合、たいていは家族のために、料理担当となって孤軍奮闘する上での不平不満がどちらの本でも綴られていた。たしかに、台所という土俵の上でどれだけ苦労したかを、ゆがんだ勲章のように見せびらかす女の人は少なくなくて、同調しない同性をはぐれもの扱いするのも、よくあること。
 『料理が苦痛だ』が刊行されたのと同じ年、『自炊力 料理以前の食生活改善スキル』(白央篤司 光文社新書 2018)を皮切りに、自炊本の潮目が変わった。『自分のために料理を作る 自炊からはじまる「ケア」の話』(山口祐加、星野概念 晶文社 2023)には、自分自身のために料理をすることを重荷に感じる人の語りが収められている。ほんものの億劫さを文字で辿るのもなかなかつらい。
 いかなる状況であっても、料理することとネガティブな気持ちとを切り離せない人。その人たちが抱える「罪悪感」の払拭を目指す本の刊行と並行して、「時短」を謳う、あるいは手順や使う材料の数を減らすことを第一に目指すミニマルなレシピが数多世に出ている。
 とはいえ、ミニマルであることを主眼とした短文レシピの大ヒット作『100文字レシピ』(川津幸子 オレンジページ 2000)があるのも忘れてはいけない。

 今、検索の海にあふれるレシピは、たいてい、ひとつを参照するだけではなんとも心許ない。なにかしら、慣れない品をつくろうというときはもちろん、幾つかのレシピを見比べるようにしている私。そうしないと、その料理の肝となる部分がどこかわからない気がして。すごく信頼している料理研究家のレシピは別だけど。
 短文レシピがあふれる状況に逆行する本もやはり刊行されている。その代表格は『10品を繰り返し作りましょう わたしの大事な料理の話』(ウー・ウェン 大和書房 2022)かなあと思う。手順のわかりやすさ、それを追う写真の綺麗なことも特筆すべき一冊。

 そんな大レシピ時代中の真っ只中、タイトルからして直球のメッセージといえる3冊の読む料理本が、昨秋から今春までの半年のあいだに、立て続けに刊行された。
 『レシピ以前の料理の心得 日々の料理をもっとおいしく』(上田淳子 青幻舎 2024)
 『レシピに書けない「おいしいのコツ」、全部お話しします』(井原裕子 主婦と生活社 2025)
 『レシピ未満のおいしい食べ方』藤井恵 (ダイヤモンド社 2025)
 以前、書けない、未満。
 『レシピ未満のおいしい食べ方』では、調理の前の70の一工夫が紹介されている。暮しの手帖名物「エプロンメモ」を思わせもする。ほぼ必ずカラー写真が添えられているところが違っているけれど。手始めに、やってみたのは、生玉子と納豆をごはんにかけるとき、卵白と納豆とをあらかじめよく混ぜておいてふんわりとさせ、その上に卵黄を載せるという工夫。私が無意識にやっていること、たとえば、炊き込みごはんに出汁は入れない、なども幾つかあった。ごはんのことばかりなのはやっぱりごはんが好きなので。もちろん、ごはん以外のページでやってみたいことも沢山載っている。「きゅうりはたたかず、縦に割る」とか「冷や奴は倒して盛る」とか。
 『レシピ以前の料理の心得』と『レシピに書けない「おいしいのコツ」、全部お話しします』はどちらも読ませるレシピが主軸である。
 後者のまえがきにある一文は、この3冊のタイトルを繋げるものだった。
 「普段はなかなか伝えられないレシピの行間にある「おいしいのコツ」をお話しさせてください」
 短文のレシピを幾つも併読しながら私が読もうとしていたのは、そう、「レシピの行間」だったと腑に落ちた。井原裕子さんの愛用する味噌数種類には、秋田はヤマキウの味噌も入っていて納得する。この連載第8回目の「出汁と味噌の近況」でもふれた味噌。もうひとつ、愛用台所道具として紹介される計量スプーンも同じ無印良品のものだった。

参考文献
『近代日本食文化年表』小菅桂子 雄山閣 1997

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。