家族と厄災 / 信田さよ子

感染症、災害、原発事故。予期せぬ非常事態は、家族関係に何をもたらすのか。 新しい物事を生みだすのではなく、いずれおとずれる限界を前倒しで呼びよせているとしたら……。 家族のなかの最も弱い立場の人々と接してきた臨床心理士が、「家族におけるディスタンス」をめぐって希望の糸をたぐる。

母への罪悪感はなぜ生まれるのか

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クライエントの3分の2は家族問題を抱えて来所する

 「愛」という言葉ほど一筋縄ではいかないものはない。特に家族問題でお困りの方たちのカウンセリング経験からそう思う。私が顧問をつとめる開業の心理相談機関、原宿カウンセリングセンター(HCC)は、少し他の機関とは違っている。主な対象を家族関係、アディクション(依存症)、暴力などにしぼっているからだ。臨床心理士が開業する場合、「心」の問題や個人の内的世界を対象にするのが通例だ。

 最新の資料を掲載するので見ていただきたい。これは2020年の1月から同年の12月初めまでの約11か月間に新規で来談した人たちの主訴(何に困っているか)を集計したものである。

 これを見ておわかりのように、配偶者との関係、親子関係を主訴とする人たちが全体の約3分の2、親子関係を主訴とする人にAC(アダルト・チルドレン)も含めれば約半数である。HCCは1995年開設時よりアディクションを持つ本人やその家族の問題を対象としてきたが、そこから家族関係全体、中でも暴力の加害・被害にまで広がる主訴と向き合い続けてきたのだ。

 親との関係が苦しいのは「悩み」ではなく、つらさとも違う。とにかく「苦しい」のである。よく「カウンセリングってお悩み相談でしょ」と言われるが、そのたびに強い抵抗感をおぼえて反論したくなってしまう。悩みとは、心の中で起きることを指している。「悩」という字にリッシンベンが付いているのもそのせいだろう。でも、苦しいというのはもっと全体的(身体反応も含む)なものだ。中でも母との関係において生じる物事は多岐にわたり、その点では他に類をみない。だから「苦しい」としか表現できないのだ。

名づけることの意味

 拙著『母が重くてたまらない』(春秋社、2008)を出版した時大きな反響を呼んだのは、それまで母との関係をどう呼んでいいのか、形容する言葉がなかったからだ。

 母娘問題に注目が集まる中で、「重い」という私の表現から、その後出たいくつかの本のタイトルに見られるように「しんどい」「つらい」といった形容詞へと発展し、東日本大震災の翌年、2012年には、「毒」親という言葉が広まっていった。それ以前に『毒になる親』という翻訳書はあったが、いわゆる毒母という言い方が日本で広まったのは震災以降である。毒という言葉を用いることで、親を形容するさまざまな表現の出番はなくなったかのようだ。「うちの親は毒母だ」とか、「毒親もち」「毒抜き」「解毒」「毒母の生態」といった表現が、現在にいたるまでネット上で、まるで植物が繁茂するようにどんどん広がっている。

 私は「毒親」「毒母」という言葉を自分では使わない。名づけという行為は名づける側にとって意味があるからだ。自分を苦しめる相手を「名づける」ことの意味はわかる。そして苦し紛れに相手に叩きつける時、毒というショッキングな言葉がもつインパクトも認める。名づける相手の側が自分より権力を持っていれば、それを叩きつけるだけでも勇気がいる。電車の中で大声で「チカンです」と言えないのと同じだ。ネットやさまざまな媒体で「毒親」と言えるのは、それに同調してくれる仲間がいるからできることだとも言える。

 だが、毒親と親に向かって言っても、相手にはなんの痛痒も与えないだろう。巨人に向かって小石を投げたところで、相手には虫に刺されたくらいの刺激しかない。残念ながら、私のカウンセリング経験をふり返っても、子供に糾弾されて自省したり行動を改めたりできる親はほんのわずかだ。毒親という言葉は、あくまで名づけた側にとって意味を持つものにすぎない。親の加害性を毒という言葉を用いることで明るみにし、思いを投げつけるという意味以上のものはない。

 毒親と名づけたところで、親との関係は変わらない。毒を解毒するという表現もあるが、そんなハウツーで解決できることなど、ほとんどない。「毒親に悩んでいる方、ご相談下さい」などと宣伝するカウンセリングもあるが、毒親という言葉を使って人を集めているのではないかと思ってしまう。


 なぜこんなに厳しい見方をするかといえば、ACという言葉に対する激しい社会的バッシングを経験しているからだ。私は1996年に『「アダルト・チルドレン」完全理解』という本を出したが、刊行後しばらく、ACに対する批判が続いた(ちなみに本書は増補の上『アダルト・チルドレン――自己責任の罠を抜けだし、私の人生を取り戻す12章』というタイトルでこの9月に学芸みらい社より出版予定)。当時の出来事をひとつずつ書く余裕はないが、数年にわたる日本社会の拒否反応を見ながら、「母を責める、母を断罪することは、この国に反逆することを意味する」と思ったのだ。それほどに、世間の批判はACと自認することに対して苛烈だった。

 フェミニストたちのムーブメントも、たしかにバッシングに遭っている。伊藤詩織さんの性被害経験の告発に対して、どれほどの揶揄・批判がネット上で繰り返されたかを思いおこすと、あれは憎悪ではないかとさえ思った。しかしACへのそれは質が違う。そう思わざるを得ない。ACはジェンダーを超えて、もっと深くこの国の深部にまで根を張った「信仰」への反旗と受けとられたのだ。それくらい、日本という国で母から自由になることは困難を極めるのだ。だから毒親と名づけることが日本社会を変えると私は思えないのだ。

 ACは、自分で自分を名づける言葉だ。生きづらさが親との関係に起因していると明言し、自分の中に入り込んでいる親の存在を自覚し、その影響をつぶさに語り、認め、仲間とつながっていくこと、さらには世間の常識にがんじがらめになるのではなく、その常識を超えていくことを目指す言葉である。それでも、誤解や批判が多々あった。

罪悪感が生まれる背景

 社会の無理解の他に、大きな壁がもうひとつある。どれほどカウンセリングを受けようと、どれほど仲間や他者から経験を承認されようと、最後まで残るものがある。それは罪悪感だ。「ああ、こんなことを考えるなんて、やっぱり自分のとらえ方がヘンなのでは」「あのかわいそうな母には私しかいなかったのでは」という思いが自分の中でゼロになるわけではない。そして、なぜこうなってしまうのか、と考えるたびに、「すっきり割り切れない自分はダメなのではないか」という思いが沸き上がる悪循環が始まる。

 その悪循環はたぶん、世の中がどんどんわかりやすくなっているせいで生じているのだろう。ネットをみていても、入り組んだ記事はヴューアーの数が伸びない。ランキングに慣れてしまうと、下位の記事を読むのに少し抵抗を感じる。自分自身を振り返ってもそうだ。そこには、たぶん後期高齢者になったこともからんでいるだろうが。

 私たちは、少しずつ世界を狭めている気がする。歩いて回れるほどの小さな島に住んで世界の複雑さから無縁でいるような感覚が、どこに住んでいても普通になっている。盆栽のようなちっぽけな世界を求め、状況をわかりやすく解説するものを求め、それに満足しようとしてスマホを手放さない。毒親という言葉も、複雑さを遠ざける時代が生んだ文脈を源流としているのかもしれない。


 なぜ罪悪感はついて回るのだろう。思いつくのは、母性という最強ワードの影響である。発達心理学や育児論において、すでに「母性」という言葉は死語になりつつある。使われる場合も「母性的」という言い方が一般的になっていて、その主体は生みの母でなくてもいいというのが共通の理解だ。父や近親者、他者でも母性的な行為はできるとされる。

 田間康子著『母性愛という制度』(勁草書房)という、ここ20年ほど私が参考にし続けている本があるが、それによれば、母性愛は一種のイデオロギーであり、次の3つの要素から成り立っている。
① 女性は皆母親になるものだ
② 子どもは皆実母の愛を必要とするものだ
③ 母親は皆子どもを愛するものだ

 今では、先進国の常識となったダイバーシティという考え方によって、①はほぼ公に口にできないようになった。しかし②と③は広く信仰されており、母親による虐待事件があると、例外者(どこか欠陥がある母親)による事件とされて、彼女たちは「ふつう」の人から排除される。

 さらに母性の構成要素には2つの要素がある。それは愛と自己犠牲である。多くの母性愛の物語を盛り上げるのは、母の自己犠牲的な献身であり、それは子供を包み込むような無私の愛とも言える。このストーリーのフォーマットはいつの時代も揺るがない。21世紀の現在もバリエーションを変えながら広がり続けている。

 自己犠牲とは、無私であるということだ。「私」を主張せずに、黙って苦労を受け入れる態度である。かつてそれは苦労して自分を育ててくれた母の姿に求められた。現代では、それは「少女」になった。短いスカートに、服からはみ出しそうな胸。いまやセクハラという感覚が麻痺してしまいそうになるほど、巷には肉感的な少女のイメージがあふれていて、どれも似通っている。なぜあんなに巨乳なのか。そこに母性の変形を見ることができないだろうか。

 欧米ではセクハラコードにひっかかってしまうようなイメージが日常からあふれる日本は、とほうもなくペドフィリア的で、小児への性暴力が問題視されにくい社会ともいえる。

 なぜ母にではなく少女に自己犠牲的な母性を見るのだろう。少女は無垢であり無知であり、私を主張するような「私」「自我」はなく無私だからだ。この少女の圧倒的なイノセンスは、彼らを決して脅かさない。罪悪感すら抱かせないだろう。日本の男性にとって、少女は安心して母性を求められる存在であり、少女を介すことではじめて承認欲求と支配欲求を満たすことができるのかもしれない。

「あなたのために」という偽装された自己犠牲

 日本社会のペドフィリア的な状況については稿を改めるとして、母親がなぜ罪悪感を覚える対象とされるかについて、もう少し考えてみたい。自己犠牲の母は、貧しく悲惨であればあるほど、美化され崇高化されていく。山深い田舎の一軒家で、ほっかぶりをした母が肉じゃがを炊いて息子の帰省を待っている。今ではテレビCMの中にしか存在しない「おふくろ」の姿が、母性という言葉を具現化しているかのようだ。

 実際の母たちは、スキニージーンズにスニーカーを履き、ずっと若々しい。子供のために我が身を犠牲にするイメージはなく、習い事や旅行などに忙しいアクティブな中高年という感じの人々が少なくない。それなのに、娘たちに語る言葉が変わっていないのはなぜだろう。母親が「あなたのために」という言葉で娘を支配するのは定番だ。もう25年前から飽き飽きするほど私はそう主張し続けてきた。

 母親の母性を裏付けているのは、無私の愛でもなく無償の愛でもない。「あなたのために」という言葉によって抵抗不能な罠を仕掛け、娘を支配し生き延びようとする欲望である。この欲望は、表向き欲望には見えないので娘は抵抗ができないのである。抵抗すると、「あなたはまともな人間じゃない」「母の愛を否定する恐ろしい存在」と、娘に問題があるかのように言い募るだろう。

 母は、娘の抵抗を恐れている。支配下から娘が脱することを何より阻止したいのだ。だから娘が少しでも抵抗しようとすると、母は自分の「弱さ」を武器にする。心不全やパニック発作を起こして心配させる。母の反対を押し切って結婚しようとすると、娘が運転中の車から飛び出そうとしたりする。中には自宅の2階から実際に飛び降りた母もいる。こうやって「命を懸けて」まで娘の抵抗を阻止するのだ。
 
 そんな経験をした娘たちは、抵抗したり、母の愛を「支配」と思ったりすること自体が許されないと思う。

 娘たちは、勝手に罪悪感を抱くわけではない。明らかに、母が娘を支配下から逃さないようにした結果、娘は自分を責めるのだ。「素直じゃない」「そんなの私の娘じゃない」「どうして私を捨てるのか」などと言って、決して娘を手放そうとしない母たち。そんな母への娘からの反応、誠実な応答が、罪悪感の正体なのだ。本当に悪い娘なら完全無視をきめこみ、応答などしないだろう。だから罪悪感を抱く娘はなんていい娘なのだろう、と思う。

 自分はひどい娘ではないか、と苦しむ人は、母親による複雑な罠にはまり、支配には見えない支配にからめとられているのだ。だから、罪悪感に苦しんだ時には、なんて自分は母に対して誠実で真っ正直なのだろう、そう思ってもらいたい。

 どうして母への罪悪感がなくならないのだろうと思ったら、まず罪悪感は複雑なものだと自覚して、そのやっかいさを覚悟しよう。ひとことで「○○だから罪悪感が生じる」といえる説明は不可能だからだ。

 最近の精神科医療における新しい流れにオープンダイアローグがある。ここでは詳細に立ち入らないのでできれば解説書をいくつか読んでもらいたいのだが、患者や家族、スタッフチームが対話を繰返すことで症状が治まるという現場の経験から生まれた手法をさす。それを実施する際に大切な態度として挙げられるのは、「不確実性に耐える」ことである。

 大好きなこの言葉をもじって、私は罪悪感を抱える人たちに向けて「複雑さに耐える」という言葉を贈ろう。母への罪悪感の根を探るには、複雑さに耐えなければならない、がんばろう、と。

 次回は虐待の結果として生じる罪悪感についてくわしく述べようと思う。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。