家族と厄災 / 信田さよ子

感染症、災害、原発事故。予期せぬ非常事態は、家族関係に何をもたらすのか。 新しい物事を生みだすのではなく、いずれおとずれる限界を前倒しで呼びよせているとしたら……。 家族のなかの最も弱い立場の人々と接してきた臨床心理士が、「家族におけるディスタンス」をめぐって希望の糸をたぐる。

マスクを拒否する母

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不穏な視線

 宝くじに当たった人はおそらく周囲にはそのことを語らない。これまで一度も買ったことはないけれど、もし私が当たったとしてもそのことは絶対に口外しないだろう。長い列ができる宝くじ売り場を見るたびに、コロナ禍をひそかに歓迎している人たちのことを思い出す。施設入所中の親との面会が原則禁止になったことで、どれほどの娘(息子)たちが安堵していることだろう。そのことは決して口外しないし、むしろ「会えなくて心配なんですよ」などとしおらしく語るはずだ。

 彼女(彼)らは、親に会わないのではなく、「会えない」のである。親に会わないことが、こうして免責される。悪いのはコロナなのだから。世界中を覆うパンデミックが、合法的な親との面会謝絶をもたらしたのである。

 では、そういう人たちは心から解放感にひたっているのだろうか? 話はそう単純ではないと私は思っている。


 あきこさんと最後に会ったのは6年前になる。当時82歳だった母との関係に行き詰った彼女は、約1年半ほどカウンセリングに通った。

 一人娘だったあきこさんは、実家の敷地内に夫と住んでいた。2人の子どもはそれぞれ結婚し家を出て行った。都心のその土地は今では高級住宅街と言われているが、もともと北陸から上京した祖父が商いで成功して自宅を普請した場所だった。長男だった父は跡を継ぎ、山梨から嫁いだ母と家業と土地を守ってきた。

 母はもともと専横的だったが、孫が家を出て行くと、娘に時間ができたと勝手に判断し、娘の生活に再び干渉し始めた。ある日、外出しようと玄関を出て何気なく振り向くと、2階のガラス窓越しにこちらを見ている母と視線が合った。自分が外出する様子をじっと観察していたに違いない。あきこさんはぞっとした。身震いがするほどの嫌悪感だった。毎日自分の行動は見張られていたに違いないと思った。あきこさんがカウンセリングに訪れたのはそれからすぐだった。

心理的に距離をとる

 ひざ丈のスカートに素足でヒールのあるパンプスを履いてカウンセリングに訪れたあきこさんは、50代後半にはとても見えなかった。幼稚園から一貫教育の女子大出身らしく、言葉遣いもふるまいも○○マダムという表現がぴったりだ。しかし彼女が母から受けてきた「しつけ」の内容は、外見からは想像できないほど過酷なものだった。

 「母の辞書に『褒める』というカテゴリーはないのです。幼いころから、深い沼の上にかかった頼りないつり橋を渡れ、と言われてきたようなものです。落ちたら地獄だと言い聞かされて、母の敷いた人生のレールを必死で歩んできました。

 父はおとなしい人で、母に反論したことはありません。それは母を愛していたからではなく、あきらめていたからだと思います。そんな父に母はいつもいらついていました。母の言うとおりにするしかないという怯えを感じていたのは、私と同じでした。ひとことでも反論すると延々と攻撃が続き、最後は大声で怒鳴るので、私も父もずっと母を刺激しないようにしてきました」

 「母はまるで女帝でした。それもいつ爆発するかわからない不安定な。私に対する文句の定番は『あきこはなんでそんないい思いばっかりしてるんだ、なんで苦労なしに暮らせるんだ』でした。母に言われたとおりの幼稚園に入ったのに、幼稚園でいい思いばっかりして! と責められるのです。それが理不尽だと気付いたのは小学校の高学年になってからです」

 このようなことは、だれにも語れなかった。広い敷地に一戸建てを構えているというだけで、幸せで文句のない人生を送っているという先入観を人に抱かれるからだ。

 母の言う「世間様に出しても恥ずかしくない」娘に育ったあきこさんは、いっぽうで聡明な視点で自分を見つめる力を養っていた。大学で学んだ社会学も役に立った。

 女子大の3年生になったあきこさんは海外研修旅行に行き、そのとき知り合った夫と結婚することになった。母は猛反対したが、あきこさんは生まれて初めて母に抵抗し、駆け落ちすら覚悟した。ふだん何も言わなかった父が結婚に賛成してくれたおかげで、同じ敷地に住むことを条件に母が折れた。

 それから起きたさまざまなことを、個人カウンセリングやグループカウンセリングに参加しながら、あきこさんは丁寧に振り返った。

 AC(アダルトチルドレン)という言葉も知り、母から受けてきた長い支配について言葉で語れるようになった。そしてできることなら、今すぐにでも、母から離れたい、母の目の届かない地に住みたいと切実に願った。しかし夫の仕事や、今後訪れるだろう父の介護への責任を考えると、物理的に距離をとることは不可能だと判断した。

 あきこさんがカウンセリングをとおして出した答えは、今の家に住みながら可能な限り心理的距離を取って生活することだった。朝晩の挨拶は欠かさない、親の家には入らず玄関先で帰る、母には丁寧語で話す、などを心掛けた。これらの方針を確認し、カウンセリングはいったん終了した。

母の遁走

 それから4年。90歳になった父が急激に弱り、ある日入院することになった。86歳の母は猛烈に反対したが、あきこさんが説得し父を入院させ、毎日付き添った。足が丈夫な母は一人で病院に行き、あきこさんと時間をずらして父と面会した。それも3日一度、10分間だけだった。

 母が面会に訪れると、その晩必ず父は熱を出した。担当の看護師さんもそのことに気づいていた。おそらく母は父を毎回怒っていたのだろう。「なぜこんな不甲斐ない状態になったのか」「もっと頑張れないのか」「だらしない」とベッドの上の父を責め続ける姿が目に浮かぶようだった。あきこさんも幼いころから病気になるときまって母に責められたが、それどころか翌日には競うように母が熱を出して倒れてしまうのだった。

 夫や娘は自分にケアを与えるべき存在なのに、逆にケアを求めてくるとは何事かと母は怒っていたのだ。自分のほうがもっと重篤だ、さあ私をケアしろ、と言わんばかりに寝込んでしまうのだった。あきこさんはカウンセリングで「ずっと病気になることに罪悪感を抱いていたせいか、丈夫に育ったんです」と冗談めいて語る。あきこさんには、母からケアを受けたり看病されたりした記憶がない。


 昨年2月初めに父は亡くなった。当時コロナ感染がそれほど広がっていなかったので、葬儀は大きな斎場で執り行われた。この時、事件が起きた。読経の最中に母の姿が見えなくなったのだ。あきこさんはトイレに行ったと思っていたが、なかなか戻ってこない。不安になりトイレまで探しに行ったが見当たらず、携帯に電話をかけても電源が切られている。受付の担当者に尋ねたら、先ほどタクシーに乗って出て行かれました、とのことだった。

 その瞬間に思い出したことがある。そういえば母は、親や兄弟の葬儀に出たことがないと語っていた。いつもの口調で、「出てやるもんかと思った」「どんな顔で葬式に出ればいいんだい」と母が語るのを聞き、幼いあきこさんは、母の親も兄弟も本当にひどい人だったのだろうと母に同情したことをおぼえている。

 しかしカウンセリングであきこさんは、母が身近な人たちの死に直面できない人だということに気がついた。自分をケアすべき存在、ケアしてほしい人たちが病気になっただけであれほど怒り狂うのだから、亡くなる(死ぬ)のはもっとも恐ろしく認められないことに違いない。だから母は、葬儀に出ることができなかったのだ。

 しかし、自分の夫の葬儀から抜け出すとは思いも寄らなかった。席に戻ったあきこさんは参列者に、突然母が体調を崩して退席したことを詫びた。「それはよほどのお悲しみだったんですね」という同情的な反応がほとんどだったことにほっと胸をなでおろしたのだが、あきこさんは改めて腹が立ってきた。

 滞りなく葬儀が終了し、お骨も拾ったあと、たったひとりの味方だった父が居なくなったさみしさと不安があきこさんを襲った。夫や外国から駆け付けた娘夫婦も、何の疑いもなく母のことを心配していた。しかしあきこさんだけは母がどこに行っているか、見当がついていた。

 自宅に戻り、喪服からふだん着に着替えてあきこさんはそのクリニックに向かった。母には歯科、整形外科、内科とかかりつけ医がいた。友達が皆無だった母は、クリニック通いを日課にしていた。行けば必ずケアしてくれる場所だからだ。中でも内科医は母のお気に入りだった。

 主治医はあきこさんが来るのを待っていたように「お母さまはよくお休みなのでそっとしておきました」と言った。

 母は診察室の奥のベッドに横たわり、高いびきをかいて眠っていた。

 「ご主人が亡くなったショックで葬儀場で具合が悪くなりタクシーで駆け付けたとおっしゃるものですから、落ち着けるように薬を出しました。少し休ませてくださいとおっしゃるのでベッドをお貸ししたら、そのまま起きてこられないものですから……」

 主治医は少し戸惑った様子で説明した。あきこさんも主治医も、母がなかなか目を覚まさないのは、クリニックに来るタクシーの中でふだんより多めの抗不安薬を飲んだからだろうと推測した。

華麗な日々が暗転

 父の死後、87歳の母は真紅のマニキュアを塗るようになった。そして、きらきらとネイルを光らせ、自宅前からバスに乗り、老舗デパートに一日おきに出かけた。背筋を伸ばして歩く姿は、年齢より10歳は若く見える。

 緊急事態宣言が発出されているのに、母はマスクもしない。見かねたあきこさんが、「マスクをして出かけてください」と不織布マスクを手渡そうとしたら、真紅のネイルが光る手でさっと払いのけられてしまった。テレビのニュースを見ていないのだろうか、コロナの感染への不安はないのだろうか。葬儀を抜け出すほど動揺したはずの父の死について、この人はいったいどう思っているのだろう、と考えた。


 始まったのはデパート通いだけではない。母は父の死後ずっとお金の計算に忙殺されていた。長年の付き合いがある税理士を毎週呼びつけて、2時間ほど株券や現金、預金などの資産について説明を求めて、持論を展開した。父の生前はそれなりに抑えられていたお金に対する執着が、たがが外れて全開したかのようだった。

 母がもっとも忌み嫌うのは、他人が家に入ることだった。母にとって他人とは、自分の言うとおりにならない存在を意味する。税理士も主治医も、他人ではあるが母の言うことに逆らわない。なぜなら母がそれなりの報酬を与えていたからだ。だから彼らは家の中に招き入れられた。あきこさんが玄関先から中に入らないのは、母にとって私は他人だということを示すためでもあった。

 マスクをしないで老舗デパートの外商担当をひきつれて買い物をすることは、まるで治外法権のように許された。「奥様」と呼ばれてもみ手で接客されると、母は何より満足した。

 マスクなしで過ごしていた母は、昨年12月の末に転倒した。自宅の居間のわずかの段差に躓いて転んでしまったのだ。珍しく携帯に母から連絡がきたと思ったら、すぐに来るようにという命令だった。あきこさんが駆けつけると、母は起き上がることも困難だったので、やむを得ず救急車を呼んだ。「大げさだ!」と怒鳴ったが、そのまま入院することになった。コロナ病棟も備えた総合病院だったので、あきこさんは付き添うことも面会もかなわず、右手が捻挫していて腰骨にひびが入っていることだけを電話で知らされたのである。

 それから3週間経ち、母は歩行困難のままである。

あふれる感情

 6年ぶりにお会いするあきこさんは、いまだ母親と会えていないこと、オンラインでの会話を母が拒否しているため、それもかなわないことを教えてくれた。おそらく年末からの一連のできごとは、母にとって最大の屈辱だったはずだ。夫の死についても葬儀を抜け出して処方薬を多めに飲むことで直面しなかった母は、おそらく父の遺影すら見ないようにしているだろう。

 見たくない現実は無かったことにする。こんな母のやり方が通用したのは、あきこさんの間接的な支えとお金があったからだ。しかし今や歩くこともできない母は、病院で他人に囲まれて暮らさざるを得ない。それは、母にとって理不尽な現実に初めて直面した経験だっただろう。だから怒っているのだ。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、と。その怒りの矛先はあきこさんだ。娘のせいでこうなった。だからオンラインなんか拒否してやる、そう思っているに違いない。

 でも、その態度にあきこさんはどこか安心した。マスクを拒否して、真紅のネイルで外出していたような女帝ぶりは入院しても健在だと思ったからだ。

 「歩けないことで認知症になってしまうことを心配していたんですが、まだまだ大丈夫でした」

 笑顔で語ったあきこさんは、最後にこう述べた。

 「こんなに長く母の顔を見なかったのは初めてです。もっと解放感を味わってもいいはずなのに、なぜか気分が沈むんです。父の死後もやっぱり落ち込んだんですが、それとは全然違います。自分でも説明できないほどの罪悪感が湧いてきて」

         *
 
 娘が抱く母への罪悪感について、2008年の拙著『母が重くてたまらない』以後、ずっと考え続けてきた。

 次回はこの「娘(子ども)が抱える母への罪悪感」について書くことにする。一筋縄ではいかないテーマなので、多様な視点からアプローチすることにしたいと思う。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。