白旗を抱きしめて 〈敗北〉サブカル考 / TVOD

格差社会が当たり前のものとなって久しい。「勝ち組」「負け組」という言葉は、社会背景によってその内実をかえながら、亡霊のように私たちにまとわりついているかのようだ。 音楽、映画、小説、漫画……。サブカルチャーにおいて、挫折や敗北はどのように描かれてきたのか。私たちはそこに何を見出そうとしてきたのか。 ともに1984年に生まれ、ゼロ年代に青年期をすごしたTVODの二人が、往復書簡をとおして自在に語りながら考察する。

負けから始まるーーパンスより

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桐島聡の出現

 急に暖かくなり、まさに春らんまんの中、この文章を書いています。今年は年初から個人的に忙しくなり、文章を書く余裕がなくなっていたのですが、ようやく少し落ち着き、この過ごしやすい気候もあってウキウキなので、このままの勢いで書き進められればと思います。

 昨日は東京国立近代美術館で中平卓馬展を見てきましたが、最終日で、かつ春の陽気で花見がてら来てた人も多かったのか(?)、どこのスペースも人でごったがえしており、そこに展示されている中平らの実験的な写真雑誌『PROVOKE』などの雰囲気とはかなりのギャップがあったのですが、ここのところ気になっている「風景論」について改めて考えるきっかけにはなりました。『現代の眼』や『流動』、『デザイン』など、当時の雑誌の紙面がそのまま展示されていたのが良かった。元編集者というキャリアもあり、「紙面にレイアウトされた」写真の方が中平卓馬自身の写真が「映えている」気もしました。
 「映え」といえば、若者たちがそんな中平のプリントをスマホで熱心に撮っている姿も印象的でした。かつ、2010年代以降の中平の写真が縦長の、「スマホの形」を想起させるようなサイズになっているのも面白かった。TikTokやinstagramストーリーのイメージか。ご本人の意図はわかりませんが……。

 まあ昔からの自分の嗜好ではありますが、ここのところ特に1970年代のモードです。かつ、上記したようにその頃と現在がクロスする風景を見出すのもまた自分がやりたいこと。あたふたと生活していた今年の初頭は、特に1974年前後、つまりちょうど50年前くらいの出来事について考えていました。なぜなら、桐島聡(と現在では確定している)が突然私たちの前に現れ、田中角栄の邸宅が全焼するなどのニュースがあったからです。
 田中角栄が東南アジア各国を歴訪したのは1974年1月。今ではあまり知られていませんが、その時、タイやインドネシアなどで反日デモや暴動が起こっていました。かつて侵略を行った日本が、もう一度経済的に自分たちの国を侵略しに来ているという反感があったんですね。

 以前『政治家失言クロニクル』(Pヴァイン)でも言及しましたが、この頃(1970年)の藤子不二雄Aのマンガ「北京填鴨ぺきんだっく式」では、中国に観光ツアーに行った日本人たちが描かれています。一人クズな親父がいて、戦争犯罪の話を平気でする。ツアーガイドはそれを静かに見ていたが、その後……という話です。父親の世代や上司が戦争体験者、元兵士だった時代のリアリティがあります。若者はそんな環境の中で高度経済成長を謳歌していた。
 当時の若者である「全共闘世代」も同様で、1970年、入管法反対闘争における華僑青年闘争委員会による「7・7告発」は、口では階級闘争というものの、日本国内のマイノリティ、ないしは戦争責任に対して無自覚な、今も使われる言葉で言うならば「特権」に対して無自覚な日本国内の新左翼を糾弾したわけです。それらに衝撃を受けて形成されたのが桐島聡が属していた反日武装戦線……という系譜の話は最近ようやく少しずつ振り返られてきているなという認識があり、ここではこれ以上深入りしませんが、上記したキーワードを見てもわかる通り、現代においても持続している問題だからこそ再注目されるのでしょう。そんな中での桐島の出現には驚かされるものがありました。

 連続企業爆破事件の被疑者として指名手配されていた彼は、2024年に入院中の病院で自ら名乗り、身柄確保されました。とはいえ桐島は自身の名前以外特に語らぬままこの世を去ってしまった。また、報道にもある通り、桐島は1974年の大規模テロを起こした東アジア反日武装戦線「狼」とは別グループであり、間接的な関係です。そして今まで僕が口を酸っぱくして語っているような現在との関連性などについて、ネットリベラル的な人々が議論したような形跡もない印象があります。かつてそういう人がいたのか、という話で過ぎ去ってしまった。むしろ、特に政治に関心がない人たちが「あの指名手配の人間か」と盛り上がっていたのが、僕は興味深かったです。あたかも、戦時中に潜伏していて数十年後に発見された残留日本兵のように、人々の語り草になっていた。1970年初頭における戦時中の記憶と違い、誰もが新左翼のテロのことは忘れているのに、「指名手配の人」として記憶の中に生きていた。
 そんな人々のネット上の語りの中で「彼の人生は『勝ち』だったのか、『負け』だったのか」という話がされていたのは印象的でした。その水準に落とし込まれてしまうのかと。彼らが持っていた思想と実践を考えれば、明らかに世間の「勝ち/負け」とは無縁であったでしょう。ただし、おそらくDJバーのようなところで踊り、サンタナやジェイムス・ブラウンを愛していたという彼の人生は、松下竜一『狼煙を見よ』で描かれた大道寺将司らのストイックな生き様とはかなり開きがあるもので、彼自身が指名手配の間に何を考えていたかはわからぬままです。色々と想像することはできますが、僕は過度な物語化を避けたいと思う方なので、1970年代を生きた中で、人生の極北を刻んだ人間だったのだろう、と判断するに留めておきます。

松下竜一『狼煙を見よ』河出書房新社

 

「もっと僕たちは寂しくなるべきです」――早川義夫

 いっぽう、同じ時空間を生きながら、極北ではなく「ふつう」を志向した人として、前回コメカ君も取り上げていた早川義夫についても書いておきたいです。最近ご無沙汰気味ですが、「音楽(やその他カルチャー)と社会」の関係についての分析は、かねてからのTVODのテーマでもあり、いまやSNS上でいろんな人が盛んに書きがちな話題でもあります。そこについて考えるにあたって、早川義夫や、1960〜70年代の日本のフォークについて改めて言及してみます。

 そんなわけで久々に、早川義夫『ラブ・ゼネレーション』を買い直し(文遊社版)、読み返してみました。これほど洗練された文章を20年代前半に書いていたのか……と舌を巻き、翻って自分の至らなさを痛感すると同時に、2024年現在の時点で読んでみるといろいろと発見があるものでもありました。
 フォークソングが、1960年代のスチューデント・ムーブメント、反戦運動その他の動きと不可分である、というイメージは実際その通りではあるのですが、こと日本においてはなかなか独特の道筋をたどったと僕は考えています。1969年の「新宿西口フォークゲリラ」を頂点とする、フォークソングにおける「異議申し立て」や「連帯」(みんなで歌う)的な側面は1970年ごろから徐々に後退し、遠藤賢司や高田渡など、よりパーソナルな表現に移行していく。「よりパーソナルな表現」=「個人性」は、一見政治の忌避であるかのように映るが、実はそこに政治性が宿る。いわばその流れは、1970年代から現在に至る社会運動の個人化(アイデンティティ化)や、より個別具体的な社会問題との向き合いと同期した動きでもあったと捉えるのが良いかと思います。並行して、内ゲバの問題も大きく立ち上がっていたわけですが。

早川義夫『ラブ・ゼネレーション』文遊社

 『ラブ・ゼネレーション』の中の、ジャックス解散の経緯について生々しく記述した文章もドキリとさせられるものですが、それ以上に、同時代の、著者の知り合いでもあるシンガーやバンドについて、軽妙かつ鋭く批評したエッセイの読み応えは抜群です。

「批評家は、すぐさまニュー製品に食らいつき、おいしかったまずかったと感想をもらし、その材料だけはそれはくわしくおしらべになり、歴史的分解はまたおくわしいのでございます。批評家は何を生み出しているのでひょうママか」(早川義夫『ラブ・ゼネレーション』文遊社、32ページ)

 こんな風に言われてしまうと自分としても耳が痛いし、なんだか最近のX(Twitter)タイムラインを思い出してしまうのでもありますが、このような文章も含め、早川義夫自身による切れ味鋭い批評でもあると思います。
 特に歌詞に着目する。フォークソングは特に言葉が際立つ表現なのでこれは極めて妥当です。言及されているミュージシャンを一人一人挙げていけばきりがないのでまとめますと、「むやみに集まるんじゃない、散れ! 散れ!」「別に理由はないのですが、散ろうではありませんか。もっと僕たちは寂しくなるべきです」などといった言葉は、当時のシーンに投げかけられたものですが、いまのSNSに投げたくなるような気も……。
 要点は、フォークソングが持っていた「連帯」の思想。ある目標に向かってみんなで集まって合唱するような風潮への違和感がまずあり、それを誘発するような歌詞(言葉)への分析に繋がっていきます。やっぱりなんとなく今のSNS短文に繋げて考えたくもなってきます。連帯を歌うより、「時代を先取りしたような顔をして、後で捨ててしまうような男心を唄うフォークとロックは、しょせんカタカナであるからして(いわば、そんなへりくつでしか説明できないけれど)とにかく、歌謡曲は一番です」(前掲書、159ページ)として、小林旭などの歌謡曲が称揚される。

春歌を更新する

 これはちょっと込み入っていて、上に挙げた引用だけだと単に守旧的なものを持ち上げているだけ、当世の風潮だと「反動的な」態度に見えなくもないのですが、「中年好みの春歌ではなく、ぼくたちの新しい春歌を」というエッセイを読むと、そのような領域を越えようとしているのがわかります。
 春歌とは日本の人民によって歌い継がれてきた、ワイセツな歌詞の歌(や替え歌)ということですね。ちょっと説明が必要そうですが、例えば大島渚『日本春歌考』などに現れているように、そんな民衆の猥雑さを持ってくることが革命的だという考えが当時はありました。竹中労や寺山修司が歌謡曲を称揚するみたいなことの背景には、うたごえ運動をフィーチャーしていたような戦後の革新派、リベラル派に対して白眼視していた「品のない」音楽をぶつけるような意味合いがあったわけです。
 この辺については個人的に何度もいろんなところで言及しているのですが、元々は輪島裕介『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)で詳細に分析されているのでおすすめです。この辺を押さえておくと、現代の「表現の自由」対リベラル派みたいな構図は逆転しているのか、持続しているのか、みたいな問いにつながってくるわけですが、そこはややこしくなるので置いといて、早川義夫はそんな1970年代初頭の風潮、フォークシンガーなどがラディカル志向で春歌的な(ワイセツな)歌詞を唄うこともどうなのかと苦言を呈し、むしろ直接的な表現は使わずにその領域に至っている存在として遠藤賢司をたたえます。それは早川義夫自身のエッセイや、90年代の復活後の歌唱作にも現れているでしょうし、のちの「サブカル」的なミュージシャンの姿勢を匂わせているように思えます。大槻ケンヂ、峯田和伸……といった名前が浮かびます。

 本連載のテーマに戻って「勝ち負け」の構図に置き換えると、強く闘い連帯していく、「勝ち」を狙う状態から降りていく、つまり積極的に「負け」を志向する態度がこの時代の表現にはあり、早川義夫はさらにその先に突き進もうとしていたのではないか。突き進んだ先が「本屋のおやじさん」であったと捉えることもできるでしょう。
 また、「負け」志向は変遷ののち、サブカル的な表現に多かれ少なかれ受け継がれているのではないか。そして現在では過去のものとなってしまったサブカルが断罪され(ソフトに言えば「見直され」)、再び連帯による勝利を狙う時代に突入しているのだとすれば、このサイクルをどう捉えればいいのか。そんなことを考えてしまうわけです。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。