白旗を抱きしめて 〈敗北〉サブカル考 / TVOD

格差社会が当たり前のものとなって久しい。「勝ち組」「負け組」という言葉は、社会背景によってその内実をかえながら、亡霊のように私たちにまとわりついているかのようだ。 音楽、映画、小説、漫画……。サブカルチャーにおいて、挫折や敗北はどのように描かれてきたのか。私たちはそこに何を見出そうとしてきたのか。 ともに1984年に生まれ、ゼロ年代に青年期をすごしたTVODの二人が、往復書簡をとおして自在に語りながら考察する。

ベランダ立って胸をはれーーコメカより

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「自己満足の消費」への批判

 1970年代におけるある種の文化表現には「強く闘い連帯していく、『勝ち』を狙う状態から降りていく、つまり積極的に『負け』を志向する態度」があったのではないか、そしていま現在は、「再び連帯による勝利を狙う時代に突入している」のではないか、というパンス君の手紙、とても面白く読みました。
 ところで2006年に発行された原宏之『バブル文化論』には、70年代についてこんな記述があります。

「六〇年代の社会運動のエネルギーであった(全学連・全共闘/焼け跡・団塊世代の)若者たちは、『怒れる若者』、反逆の若者であった。学生運動の挫折により、(ポスト全共闘/ポスト団塊世代の)シラケの七〇年代がやって来る。『戦後』という枠組みで見ると、NHKの人気番組『プロジェクトX』(二〇〇五年一二月終了)がその叙事詩を語っているように、『経済的繁栄』が最大の目標であった点で軸は変わらない。だが、この七〇年代から八〇年代を迎えるまでに、若者たちはすっかり馴致され、規律訓練され、管理される対象に変わってしまう。『学校化社会』の出現だ」(原宏之『バブル文化論』p.59〜60)

 また原はプレ・バブル期(八〇年代初頭)に流行した竹の子族やロックンロール族に触れ、そうした若者たちを「よい学校、よい大学、よい会社、つまりよきGDP貢献者である学校化社会のエリートたちからはみ出した、不登校児・退学者など『資本主義工場社会』からの脱落者たち」とみなしています。なかでも竹の子族を「七〇年代の『パンク』による反逆ではなくて、≪かわいい≫ものに同一化することで苦境を≪否定せずに肯定的に≫空虚なものにしてしまう新しい兆候」のシンボルのひとつとして捉え、「社会的な矛盾や抑圧に抵抗せずに、自己満足の消費に迷い込む彼らのあり方は、数年後の≪バブル文化≫の特徴のひとつを先取りしている」と述べています(前掲書p.59〜60)。

原宏之『バブル文化論――〈ポスト戦後〉としての一九八〇年代』慶應義塾大学出版会

 「資本主義工場社会からの脱落者」=「負け」を抱えた人々が、「社会的な矛盾や抑圧に抵抗せずに、自己満足の消費に迷い込む」。社会に対して“とっぽい”反抗や反逆を試みるのではなく、“かわいい”消費文化が語りかけてくる「おい、そこの君!」(ルイ・アルチュセールのイデオロギー論における、「interpellation」の概念。イデオロギー装置による「呼びかけ」=儀式としての働きかけに応えた行為を実践することによって、諸個人は「主体化」させられていく)という声を内面化していく=商品群の世界による管理を受け入れていく。そして、やがて来るバブル文化に巻き込まれていく……。原はこのような展開を、いわゆる環境管理型の権力が前景化する前段階、「規律訓練」の時期にあたる歴史として捉えています。「(生活)行為環境と社会機制そのものの設計による支配の前に、学校(『倫理』)から消費生活様式(『市場』)の管理への連続性があったことを忘れてはならない。『アーキテクチャ』による管理は、学校-消費ベースの管理社会の構造を深化させたものであるからだ」(前掲書p.121)。

 「連帯による勝利」から離れ、パーソナルな形で「負け」を志向した人々もいた一方で、消費生活様式管理の受け入れによって、「負け」を自己満足的に空虚化していく人々も大量に生まれていったのが、70年代という時代だった。そしていま現在2024年段階では、こうした「自己満足の消費に迷い込む」ような態度は非政治的であるとして、ウェブ上の日本型リベラル左派及び左翼の側から批判される場面が多いと思います。もちろん、80年代バブル文化のような「規律訓練」的な消費生活の管理構造(クリスマスは恋人とトレンディスポットで過ごさなければならない、というような)は今では弱体化しているわけですが、しかし例えば昨今隆盛を極めている「推し活」と呼ばれるタイプの消費行為・状況が、そのゲーム的な課金構造によって人々における市場原理の内面化を加速させている(=「行為環境と社会機制そのものの設計による支配」)、といった論調で左派から批判されるような場面は、よく見かけます。「自己満足の消費」を脱して「社会的な矛盾や抑圧に抵抗」し、「連帯による勝利を狙う」ような志向が、そうした批判のなかにはあるはずです。

「結局のところ管理社会」の構図

 しかし、ではそのように「自己満足の消費」を批判するようなリベラル左派や左翼において、「“とっぽい”反抗や反逆」によって(主権権力、「規律訓練」的権力、「(生活)行為環境と社会機制そのものの設計による支配」、の複合的な権力性によって構成された)管理社会に抵抗することが強く志向されているかというと、そういうわけでもなさそうです。ウェブやSNSで提唱されている「脱・自己満足の消費」的言説の大概は、消費における新しい規律・倫理の形成(と、それに基づく個々の「主体化」)を強く志向したものになってしまっている。「倫理的な消費者」であることで「社会的な矛盾や抑圧に抵抗」し、「自己満足の消費」を批判する、という構図。市場における消費者であるということ自体には留まる志向が強く、そこから踏み出して管理社会に対しラディカルな「反抗や反逆」を試みるような志向は薄い。実質的に、「倫理的な消費社会・管理社会」を求めるような状態になっている。

 現在のリベラル左派及び左翼が「連帯による勝利を狙う」モードであるとしても、「イデオロギーとしてあった左翼=資本主義否定」的スタンスが回帰してきているわけではなく、「消費生活様式(市場)の管理」がそこでは再び強化されているのではないか。もちろん、社民主義的改良スタンスではなく、資本主義に対するオルタナティブをラディカルに構想するような試みは、ある種の左翼によってずっと実践され続けているとは思います。ただ、そのような社会システムそのものに対する問題意識自体が、「倫理的な消費」を訴えるような層にはあまり共有されなくなってきているのではないか。言説レベルでは「自己満足の消費に迷い込む」ことを否定しながら、しかし実態としては、『オルタカルチャー』で批判的に言及されていたような「都市生活や商品世界を享受」する在り方=「買う」ことばかりに短絡するような在り方に、多くの人が留まっているのではないでしょうか。どのように『コンテンツ』を消費するべきかという規律や倫理コードについての議論ばかりがウェブ・SNS上では過剰に盛り上がりがちになるのも、そのあたりに原因があるように感じられます。
 表象文化と権力の関係に対して批判的視座を持つことや、文化ヘゲモニー闘争について意識的になることは、今も昔ももちろん重要です。しかし、そうした消費生活=日常生活内部での倫理や正義への意識に終止し、資本主義社会に対する革命可能性が意識されること(もしくは、せめてそのことを検討すること)自体が無くなっている。例えば「積極的に『負け』を志向する」ことでそうした管理社会構造そのものから降りるイメージが想像されたりすることも、もはやほとんど無い。「倫理的な消費者」として管理社会内部で「勝つ」=より良い管理を展望することばかりが志向されている。マルクス・ガブリエルが言う「倫理資本主義」のようなビジョンも、そのような視座のなかで積極的に受容・解釈されているような印象があります。

 ところで、いま書いたような在り方は、文化的にはサブカルチャーを受容しながら、政治的にはリベラル左派として生きてきたつもりのぼく自身が、これまで選択してきたものです。急進的な政治革命を求めないという意味で自分は左翼ではないし、80年代以降の日本型サブカルチャー=「都市生活や商品世界を享受」する文化から脱出することではなく、そこにおける倫理を再考することにぼくはモチベーションを持っている。しかしそのような倫理の模索が完全に「勝ち」を狙うことに振り切れること、自己否定的・他者糾弾的な方向に完全に振り切れることにも自分のなかで疑問や抵抗があり、そのあたりで迷い続けているわけですが。ぼくが「負けること」(サブカルチャー表現が描き得る世界像の可能性)について考えたり、「やせ我慢」の思想を模索したりしていることも、そういうところに理由があります。

吉本と埴谷による論争

 ともかく、現在では「資本主義工場社会からの脱落者」たちにも、「倫理的な消費者」になることで「勝ち」に行く=「連帯による勝利を狙う」道が引かれているとするなら、迷い込む先が「自己満足の消費」であるか「倫理的な消費」であるかの違いだけで、現在リベラルなものとして提示されている文化状況の内実は、バブル時代の文化状況と結局は構造的に相似形なのではないかと、自分は感じています。
 ところでバブル時代に入る直前の1985年、『海燕』誌上で展開された吉本隆明と埴谷雄高による論争において、資本主義と倫理についての議論がありました。埴谷と大岡昇平の対談内で、大岡が自分について「デマゴギイ」を唱えた、と吉本が訂正を求めたことに端を発したこの論争のなかで、埴谷は吉本が雑誌『an an』にコム・デ・ギャルソンを着て登場したことを批判します。「このような『ぶったくり商品』のCM画像に、『現代思想界をリードする吉本隆明』がなってくれることに、吾国の高度資本主義は、まことに『後光』が射す思いを懐いたことでしょう。/吾国の資本主義は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争の血の上に『火事場泥棒』のボロ儲けを重ねに重ねたあげく、高度な技術と設備を整えて、つぎには、『ぶったくり商品』の『進出』によって『収奪』を積みあげに積みあげる高度成長なるものをとげました」(埴谷雄高「政治と文学と・補足」)。
 これに対して吉本は、「貴方はスターリン主義の誤った教義を脱しきれずに、高度成長して西欧型の先進資本制に突入している日本の資本制を、単色に悪魔の貌に仕立てようとしていますが、それはまやかしの擬装倫理以外の何ものでもありません」(吉本隆明『重層的な非決定へ』p.68)と反論します。「やがて『アンアン』の読者である中学出や高校出のOLたち(先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち)が、自ら獲得した感性と叡知によって、貴方や理念的な同類たちが、ただ原罪があると思い込んだ旧いタイプの知識人を恫喝し、無垢の大衆に誤謬の理念を植付けるためにだけ行使しているまやかしの倫理を乗り超えて、自分たちを解放する方位を確定してゆくでありましょう。それは『現在』すでに潜在的には、招来されつつあると私は考えております」(吉本隆明『重層的な非決定へ』p.67)。

 「火事場泥棒」や「収奪」を積み重ねるものとして戦後日本の資本主義=消費文化を倫理的に否定しようとした埴谷と、スターリニズム的な「まやかしの倫理」からの解放を人々にもたらすものとして戦後日本の資本主義=消費文化を自由主義的に肯定しようとした吉本の対立が、ここでは浮き彫りになった。しかし翻っていま現在を眺めてみると、ひとりの人間が左手で日本の資本制の原罪を倫理的に糾弾しつつ、しかし右手では日本の資本制による解放的な消費生活を謳歌するような、かつて埴谷・吉本がそれぞれに表明した態度のアマルガムのような在り方が、左派において広まっているように感じます。そうした構え方を消費者側の能動性の発露として評価することもできるのかもしれませんが、しかしやはり、どこかに無理があるような気がする。ぼく自身はそのことを、他人事ではなく自らの問題として捉えなければいけないわけですが。

微妙な違和感とともに

 倫理的な消費文化否定に傾くことにも、消費文化による「解放」の肯定に傾くことにも、それらを折衷し自己正当化することにも、どれに対しても自分はどこかで微妙に違和感を感じる。バブル期真っ只中の1990年に発表された岡村靖幸の楽曲「どぉなっちゃってんだよ」を聴いていると、その違和感の原型イメージのようなものを、そこに見出すことができるような気がしてきます。「どぉなっちゃってんだよ人生がんばってんだよ 一生懸命って素敵そうじゃん どぉなっちゃってんだよ人生がんばってんだよ ベランダ立って胸をはれ」(岡村靖幸「どぉなっちゃってんだよ」)。Aメロ・Bメロでバブル文化的な「苦境を≪否定せず肯定的に≫空虚なものにしてしまう」ような若者の消費生活を描きつつ、しかしそこでの「負け」の予感(「俺なんかもっと頑張ればきっと 女なんかジャンジャンもてまくり」。実際にはまだもてておらず、「俺はまだ本気出してないだけ」的感覚がここにはある)が歌われたあと、サビで突然このフレーズがやってきます。「どぉなっちゃってんだよ人生がんばってんだよ」。資本主義=消費文化的な「解放」のなかで自由を謳歌しているはずが、どうにもならない違和感やフラストレーションが自分のなかでグツグツ煮えたぎってしまっているような感覚。しかしその違和感・フラストレーションが倫理的な否定性として社会に対して発動されるわけでもなく、そしてもちろんそれらを都合よく使い分けるわけでもなく、「ベランダ立って胸をはれ」という小さく個的なアクションにだけ辿り着く。違和感のイメージをバサッと断ち切るこの「胸をはれ」という言葉に、ぼくは「やせ我慢」の思想を見出してしまうのですが、このあたりについては正直まだ、考えが上手くまとまっていません。

 つらつらと書いてきましたが、結果的に80年代といま現在をそれぞれに眺めながら考えた内容になった気がします。今回はこのあたりで……。それでは!

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。