暴力の現場で
DV加害をしてしまった男性を対象に、脱暴力や家族、パートナーとの関係修復をサポートする相談室に心理臨床家として携わっている。相談室を訪れる男性たちの職業は、会社員、教員、医師、警察官、学生など様々で、暴力に至ったプロセスにも違いがある。
例えば、父親が亭主関白の家に育ち、父と同じように「ちゃんと家事をこなせていない」という理由で妻を怒鳴りつけるケース、友人が少なく会社でも孤立していて、パートナーに執着するように関わってしまっているケース、貧困世帯で育ち、幼少期から暴力が身近にあって、家でも苛立つことがあると家具を壊してしまうケースなど、あらゆるケースに出会ってきた。皆、多種多様な背景を持ち、それぞれの人生を生きている男性たちだった。
世間では「DV加害者」「モラハラ夫」など紋切り型で捉えられがちだが、そこには個別性があり、決してステレオタイプに落とし込むことはできないと感じる。
一方で、多くの男性たちが相談室に訪れた初期の頃に、共通して示す反応がある。それは「加害者だと見なされたくない」という不安や恐怖である。パートナーシップに何らかの課題があるという認識のもと、彼らは自発的に相談室に訪れる。部分的にでも自分の非を認識し、参加の一歩を踏み出すことは大変重要なことだが、それでも自分が加害をしてしまったということを認めるにはもう一段階壁がある。
相談室ではアセスメントとして数回個人面接を行った後、グループワークへの参加を促しているのだが、中には「グループに入りたくない」という男性も少なくない。互いの経験を語り合うことで自身の課題に気づき、別の参加者のポジティブな取り組みから学びが得られるといった点で、グループワークは大きな意味を持つ。しかし、グループへの参加には大きなためらいが生まれる。
暴力を振るうような男と自分が同じとは思えない。他の「ヤバい」男たちと一緒にしないでほしい…。何の問題もないと思っていた、無色透明だった自己像に汚水が混じり込み、滲んでいくような痛み。自分のアイデンティティを捻じ曲げる烙印をなんとか引き剥がそうとするように、「他の男と自分は違う」という意識が呻きのように溢れてくるのである。
「DV加害者」「モラハラ夫」という類型化された言葉が社会に流布するにつれて、こうした切り離しへの衝動は加速しているように感じる。類型化の言説は、「サイコパス」「認知が歪んでいる」「発達障害」「有害な男性性」などの心理学的な語彙を取り込みながら強度を増す。その一群に属する男性は、自分の衝動をコントロールできない危険な社会不適合者であるという負のイメージが強化されていくのだ。
こうした社会的な風潮が、男性たちの恐怖に強く影響するのではないか。自身の行為を小さく見積もったり、隠蔽したり、棚上げすることで、なんとか自分を無色に保とうとする。しかしそれは責任を引き受けて、問題を解決していく道から自身を遠ざけていってしまう。
#NotAllMenと空虚なジェスチャー
加害者と見なされる不安や恐怖は、加害をしていない男性にまで伝播する。性暴力を犯していなくとも自分も告発されるのではと戦々恐々とする男性や、会社の中で女性社員と関わることを気にするようになり、飲み会に誘うこともためらうようになったという男性、女性への恋愛的なアプローチが暴力的なものになってしまうのではないかと過度に不安を抱く男性の話をこれまで聞いてきた。また、自分の息子が将来性的な暴力行為を犯してしまうのではないかと不安を募らせる親の声も広がってきているように感じる。
男性たちの不安や恐怖がさらに顕在化した形で出現したのが、#NotAllMenというアメリカで起こったハッシュタグムーブメントだろう。性暴力やDVの加害者には相対的に男性が多いというデータがあり、それゆえ男性の加害性の問題が繰り返し指摘されてきた。それに対して、2000年代頃から「すべての男性ではない」という男性たちからの主張が展開されたのである。
哲学者のRobin Zhengは、こうした#NotAllMenの動きを、自分の所属する集団が何らかの責任を問われた際、自分だけ距離を置こうとする「道徳的解離」の一事例として分析している。
Zhengによれば、#NotAllMenはこれまで二つの真逆の受け取られ方がなされてきたという。一つは、暴力をふるう男性と違って、暴力をふるわない男性も確かに存在し、フェミニズムが批判しているのは前者の男性である、という好意的な解釈である。そこには男性の中で善と悪を切り分ける明確な境界線が存在する。
もう一つは、#NotAllMenを発信する男性は結局自分の免責を図っているだけではないかという批判的な解釈である。こうした批判的な解釈を展開する論者によれば、彼らは保身だけを気にしていて加害を犯す男性の問題に具体的な対処をすることはなく、それゆえ彼らの声は被害者の訴えを黙らせる効果しか持たない、という。
Zhengは以上のように整理した上で、#NotAllMenが道徳的解離として成功していないという。道徳的な解離を成功させるには、①自分が所属する集団の他のメンバーの行動から離れる、②所属する集団がとる行動に反対するアクションを、わかりやすく明示的な形でとる、という二つの条件を満たす必要がある。「単に内心で自グループの行動について認めないという感情を抱くだけでは不十分」であり、また「空虚なジェスチャーを行うだけでも不十分」だとZhengは言う。内的な態度と外的な表出の両方が存在しなければ、それは解離しきったとは判定されないのだ。その点、具体的なアクションを伴わず、「すべての男性ではない」と表明するだけの#NotAllMenは、まさに空虚なジェスチャーにとどまっていると言えるだろう。
男性の暴力を導く要因
では、「男性は普遍的に加害性を有している」と結論づけられるかと言えば、そこには留保がいる。#NotAllMenをめぐって展開される二つの考え方を改めて検討してみよう。
まず「男性は普遍的に加害性を有している」という考え方について。確かに現行の社会構造において、男性が暴力に接近してしまう要因はいくつかある。例えば、家庭内における収入面や、組織内の役職などの面で、男性は女性に比べてパワーを持ちやすく、結果として女性に対して上のポジションに立つ可能性が相対的に高い。上下関係があるということは、相手をコントロールしやすく、相手がNOを言いにくい状況でもあることから暴力が発生しやすい。
また、親による虐待や教師の体罰、男友達同士の暴力を伴った遊びや絆など、暴力が幼少期から身近だったという男性もいるかもしれない。暴力の文化に親和的な生活を送ってきたゆえに、成長してからも問題解決の選択肢として暴力が選ばれやすいということも考えることができ、これは様々な研究でも指摘されている。
さらに、社会には「男性は性欲がコントロールできないから痴漢しても仕方ない」「仕事のストレスで衝動的に暴力を振るってしまった」など、男性のジェンダーに基づく暴力を正当化する言説が多く存在する。加害行為というのは、様々な要因の組み合わせによって発動する。その中にはどうしようもなく動かしがたい要因もあれば、自分の選択次第で避けられるものもあり、自分の暴力が仕方のないことだったと言い切ることはできない。にもかかわらず、社会の中には男性の暴力を、たった一つの原因に還元して、免責する語彙がたくさんあふれている。それゆえ男性の加害のハードルが下がってしまっているとも考えることができる。
以上のように、社会の構造や文化、流通する言説など様々な要因の組み合わせの中で、男性が暴力の方向に導かれる可能性は高いと言えるだろう。しかしこうした考え方は、男性たち全員が、常に、上記に挙げたような社会的作用の中に取り込まれているということを意味しない。男性は一枚岩ではなく、例えば暴力的な文化から早々に距離を取った男性もいるだろうし、何らかの理由で社会の周辺に追いやられ、権力性を持たない男性もいる。また、暴力的な行為をしてしまった男性が、誰彼構わずずっと暴力をふるい続けているかと言えばそんなことはなくて、場面によっては平和的な関係性を他人と紡いでいる人もいる。自分の問題をきちんと見直して、他者と対等なコミュニケーションをとるよう変化していく男性もいるだろう。男性中心的な社会構造ゆえに男性は全員加害性を有するという理解は、こうした男性の多様性や、可変性を見逃すことにつながってしまう1。
時おり、男性中心的な社会への批判を「殊勝に」受け取って、男性はすべからく自己犠牲的にふるまわなければならないという男性原罪論を展開する男性もいる。しかし、生来的に男性が罪を背負っているという考えは、結局のところ「男性は変わらない」という結論にたどり着き、繰り返しになるがポジティブな変化の萌芽を摘み取ってしまうことになる。
危険な男か、安全な男か
では、「加害者は男性が多いが男性全員が加害を犯す訳ではない」という考え方についてはどうだろうか。
この言説は、男性たちが決して一枚岩ではないこと、そして男性であるからといって、過剰に自己否定をする必要はないことを示してくれる。また、暴力を振るわない男性が確かにいるという事実は、脱暴力を考えるための材料を与えてくれる。彼らはなぜ暴力を振るわずにいられるのか、その要因を解き明かすことで、暴力を止めるためのヒントが得られるかもしれないからだ。
しかし、前段の言説と同じように、こちらの言説に依拠しすぎることにもやはり問題がある。なぜなら、暴力を振るうのは一部の男性だけで、それ以外の男性は振るわない、と断定することは、「危険な男」と「安全な男」の二項対立を作り出して、問題を「危険な男」のパーソナリティや生育歴などに回収してしまうことになるからだ。それは結果的に前述したような暴力に導きうる社会的要因の影響力を軽視することにつながる。
相対的に女性に対してパワーを持ちやすく、また暴力を正当化する語彙の束があることに気づいていなければ、日常生活の中で暴力的な関係の中に入っていることを見逃してしまうかもしれない。そもそも、ある時点では暴力を振るっていなかったとしても、将来的に暴力を振るう可能性は誰にだってある。
だとすれば、「一部の男性は暴力を振るわない」と言い切ってその位置に自分を置くことは非常に危うい。もし意図せず他者を傷つけてしまった場合、「それは暴力だ」と訴えられてもなかなか認めることができず、ときに反駁をするなどして責任を取ることができなくなってしまうからだ。なぜ暴力に至ったのか整理することができず、また同じような行為を繰り返してしまうかもしれない。
しかし冒頭で紹介した事例のように、「私は暴力を振るうような男とは違う」と、加害の可能性と自身を切り離さなければどうにかなってしまうような焦りが、男性たちにつきまとっている。
アライと縦の切り離し
道徳的解離を意図した男性たちの別の自己表明として最近気になっているのが、「過去に加害をしてしまったかもしれないが、今はもうしない」という主張である。
確かに若い頃は何の知識もなく、差別的な発言をしたこともあった。しかしジェンダーの問題やフェミニズムを学んでからは、女性やマイノリティを傷つけないように注意を払ってきた。私は変わったはずだ…。
こうしたフォーマットに則った男性の(特に性差別的な発言をしてしまったことを咎められた男性の)自己開示をネットで見かけることが増えてきた。その度に、私は虚しさと共感が入り混じった気持ちを抱いた。
古くしなびて、汚れの付着した皮膚をきれいさっぱり剥ぎ取りたくなるような感覚。自分は学びと省察を重ね、そんな問題含みの自己から脱皮することができたのだと高らかに宣言したくなるあの気持ち…。それがとてもよくわかった。
以前、あるイベントの運営に関わっていた際、その広報の文面が女性への抑圧になりうるのではないかと知人から指摘されたことがあった。私はまるで蛇に睨まれたカエルのように縮み上がり、心臓の動悸を抑えることができなくなった。
そして、なぜそんなことを言われなければならないのかという怒りにも似た反発心が沸き起こった。気付けば、「こんなにも自分は性差別のことについて考え、実際に行動にも起こしている、なぜそれをわかってくれないのか」と声に出していた。それは、自分の取り乱しを抑え込み、自分は正しいことをしているというポジションをなんとか取り戻そうとする行動だったと、後から振り返って思った。その後何度か対話を重ねて、その時の態度が不誠実だったことを知人に伝えた。私は自身の問題をすべて過去に追いやってしまいたかったのだ。
「私は加害をするような男性とは違う」という表明が他者と自己を切り離す〈横の切り離し〉だとすれば、「私はもう加害をするような男性ではない」という表明は、過去の自己と現在の自己を切り離す〈縦の切り離し〉と言えるだろう。
近年LGBTQの人権擁護のための活動が全国的に広まっていくにしたがって、「アライ」という言葉が認知されるようになった。実際にアライを名乗る人も増えてきたように思う。社会の中で抑圧され、暴力にさらされやすい人々のために率先して活動し、その権利擁護を訴える活動は非常に重要だ。これまで当事者ばかりが社会変革を訴えるコストを支払ってきたことを思えば、非当事者がそうした活動を展開することは大きな意味を持つ。
しかし、アライが権利擁護のための活動を行ったからといって、当事者に対して抑圧的なふるまいをしない保証にはなり得ない。むしろアライは当事者と身近に関わるのだから、マイクロアグレッションなど直接的な形で当事者を傷つけるリスクは高まっているとも言えるだろう。どれだけ活動を共にし、学習を深めようとも、意識していないところで当事者に心的なダメージを与えたり、力を奪ったりしうるという意識をアライは常に持っておく必要がある。
しかし、「マイノリティのために尽くしている」という自負を強く持っているアライほど、「自分は大丈夫」という自己認識を形成し、〈縦の切り離し〉を起こしやすい。そして〈縦の切り離し〉が起きたアライは、先ほど書いた私の事例のように、周囲から問題を指摘された時に強い抵抗を起こしてしまう。
アライの活動は本来当事者をエンパワメントするためのものである。活動の結果、当事者をサポートすることができたという自信を得ることはある。しかし「善良なマジョリティ」としてのアイデンティティを得ることが第一の目的になってしまえば、こうした落とし穴に簡単にはまってしまうことになる。
仮置きとして
ここまで、男性と加害、マジョリティと差別の関連について論じてきた。男性は、相対的にパワーを握りやすいこと、暴力の文化に親和的になりうること、暴力を正当化する言葉を持っていることなど、いくつかの要因によって加害的な行動に水路づけられることがある。
しかし、それは男性が全般的かつ本質的に加害的な存在であることを意味しない。男性は常に暴力的であるはずがなく、また、たとえ加害行為をしてしまっても変化することができるからだ。その変化に向かうためには、自身の暴力がどのように駆動するのかを整理することが大切であり、先程挙げた三つの要因がその参照軸になる。
一方で、加害をする男性と加害をしない男性とをバッサリと切り分けて、自分は加害をしないと結論づける〈横の切り離し〉を行うのも危うい。誰しもが将来的に暴力を振るう可能性を持っており、例えば上記の三つの要因などの作用によって男性は、暴力に近づいてしまうことがあるからだ。
そうした状況に陥る可能性をなんとか自分からふるい落としたくて、男性はときに「今の自分は昔とは違う」と〈縦の切り離し〉に向かう。確かにジェンダー論や多様性の議論に触れて、自分の立場性や持っている偏見を見直し、脱暴力や社会的公正に進み始めるということはありうるし、それは望ましいことだと思う。
しかし、その前進はある特定の条件を満たせば終わるというものではない。学びと自己省察は一つの通過点であり、仮置きの状況だ。変化の道のりは長く、ずっと続くプロセスのように思う。
ただ、その歩みは「どうしようもなく自分は加害的な存在だ」と自身の全存在を否定し続けることではない。第一そんなやり方は辛くて続かない。変化したということに居直らず、しかし過度に反省しつづけるのでもない。男性(マジョリティ)は加害的であるという言説に近づきすぎず、また完全に切り離しもしない。そうした暴力との向き合い方があるように思う。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。
参考文献
Robin Zheng, 2020, “#NotAllMen and #NotMyPresident: The Limits of Moral Disassociation ”, EURAMERICA,50(4): 783-822.
- 「男性個人ではなく男性中心的な社会構造を批判しているのに、自分が批判されていると男性たちが勝手に勘違いしている」という指摘があるかもしれない。しかし、個人は社会における規範を少なからず受け取って生活し、またその規範にも影響を与える。社会と個人は簡単に切り分けられるものではない。こうした指摘は、社会と個人が構造的に持つ曖昧さを見逃している。