障害を明らかにした時の
大学生の頃、芸術療法の授業を受けた時のことだ。12色の絵の具を一人ずつ選んで共同で1枚のイラストを描いていくというワークに取り組んでいた。参加した学生たちが「私は黄色で」と、1本ずつチューブをとっていく。それに合わせて私も「じゃあ僕はグレーにします」とチューブをさっと取ると講師の先生が「西井くん、それはピンクですよ」と穏やかに言った。
しまった、と思った。他の学生と先生が私のその「ミス」を微笑ましく見ている。大勢の前で色を塗るということが久しぶりだったから、私は自分の色の見え方が他の人と違うということをうっかり忘れてしまっていた。
日常生活を送るにあたってそれほど不便は感じない。大阪市営地下鉄の、あの異様に複雑な路線図の色を見分けるのに苦労を感じるくらいだ。ただ、小学校の図工の時間で困ったことは何度かあった。赤が抜けて見える性質なので、茶色と緑の判別がつかずに、ひまわりの絵を描く時に土を緑で塗ってクラスメイトに笑われたり、教師に注意されたこともあった。「あなたの色の見え方は間違っている」という、見えている世界を否定されるようなメッセージを受け取る。私はその大学の授業で、この居心地の悪い感覚を久しぶりに思い出したのだった。
色盲だとカムアウトしてしまえば、その感覚から抜け出すことはできたのかもしれない。しかし私はそうはしなかった。おそらく自分の「障害」を伝えれば、先生は謝ってくれただろう。今後色の違いを前提とした授業をすることを見直し、なんらかの配慮を講じてくれたかもしれない。それは「標準」とされる色彩世界に一石を投じることにつながる。しかし、私はそんな考えを全くめぐらすこともなく、ピンクの絵の具をとってすぐに席に戻った。
私は同情と配慮のまなざしが向けられるかもしれないことを強く危惧していた。先生がそのような対応をしたかどうかはわからない。でも私はあの、穏やかでねっとりとした空気が少しでも漂うことを恐れた。
過敏で壊れやすいもののように扱われていることがわかる、あの瞬間。善意に包み込まれて、不満を漏らすこともできない。色を「間違う」私をオブラートに包むこともなくからかう小学校のクラスメイトたちと異なり、「優しい」人たちが包摂のために醸し出す独特の空気。独特の笑顔。あの気まずさから逃れたくて、私は沈黙することを選んだのだった。
同化を迫るパターナリズム
ひきこもり・不登校の当事者活動の現場に、「支援(者)臭」という言葉がある。ひきこもりの当事者活動を調査する石川(2021)によると、①自分の常識や価値観で物事を判断する、②ひきこもりとはこういうものだという思い込みが強い、③助けていることに夢中になり、目の前にいる相手と向き合えていない、④反省的な視線が弱く、それゆえ当事者たちに煙たがられていることにも気づいていない、といった傾向を持つ支援者に対する揶揄として使用されてきたという。
「臭い」とはよく言ったもので、こうした支援者のふるまいははっきりとは見えにくい。しかし、当事者たちから何かしら感じ取られている。
ここには、支援におけるパターナリズムの問題が関わっている。パターナリズムとは、支援をする相手の保護や利益を目的としていたはずが、相手の意思を確認せず、もしくは意思に反して干渉することを意味する。まず、①の「自分の常識や価値観で物事を判断する」ことについて考えてみよう。
2011年に起きた東日本大震災の支援活動に関わっていた時、被災地の方からこんな話を聞いたことがある。あるボランティアのグループが、支援の一貫で高級な肉を使ったバーベキューを仮設住宅で開いてくれた。被災地で贅沢ができない住民たちのためにと、彼らはよかれと思ってやったのだろうが、高齢の住民たちにとって肉の脂が重すぎた。でも、ボランティアたちがせっかく準備してくれたのだから…と無理して食べたのだという。
相手をどう支えるのか、その方針や方法の中には支える側の価値観が入り込みやすい。また、その価値観が社会の中で広く共有されているものであった場合、とりわけその価値観の押し付けが出やすいかもしれない。「家族は仲が良いほうが良い」、「人間関係の対立はなくしたほうが良い」、「人はきっちりと働いて自活できていたほうが良い」…。
しかし人によってはこうした方針がうまく当てはまらないケースもある。例えば、家族とは一旦離れたほうが自己成長につながる場合や、働くよりも前にゆっくりと休んだほうがいい場合もある。
その人にとって何が「良い」のかは、相対的なものだ。にもかかわらず、社会の中で支配的になっている「良い」方針に則って支援をした場合、相手に全く寄与しないどころか、脂ぎった肉のように、相手を追い詰める結果に終わってしまうことが起こりうる。
このバーベキューのエピソードの背景には、相手を自分と同じレベルで把握しようとする問題が関わっている。相手が自分と違う状態にあることや、違う価値観を持っている可能性に気づかずに、自分と同等な存在とみなした時に、支援の限界が生じる。
この〈同化〉の問題を考える際、息子による親の介護を調査した平山(2017)の指摘が参考になる。平山は、息子たちが「親がひとりでもやっていける状態を維持し、その状態に復帰できることを目的として、親の生活に介入する」こと、つまり「親が自分たちの手を必要としなくなるまでの一時的な介入として、ケアを提供する」ことを明らかにした先行研究を取り上げる。当然のことながら親たちは歳を重ねるごとに弱り、他者への依存を深めていかざるをえない。にもかかわらず息子たちは「今」にばかり目を向けて、最小限のケアしか提供せず、親の自律能力を維持することばかりを考えている…。
平山はこうした息子介護の特徴を挙げながら、その背後に「弱者を弱者のまま受け入れることへの否定」があるのではないかと提起する。他者に対して、自分と同じように自律・自立した存在として〈同化〉を迫ることは、一見相手を尊重しているようでいて、抑圧として作動してしまう。相手を自分とは異なる他者(弱者)として尊重する視点の欠如を、平山は息子介護の研究から読み解いている。
名付けの功罪
ここまで自分の価値観を無自覚に相手に押し付ける支援の問題について考えてきた。それは脂ぎった肉を食べさせるような、相手を弱者として受け入れない〈同化〉を迫る圧力からもたらされていた。
では石川の支援者臭にかんする整理において示された、「②ひきこもりとはこういうものだという思い込みが強い」という事態は、どのような問題と考えられるだろうか。
「ひきこもり」に限らず、逸脱的とされるふるまいや生活、身体に対し、特別なカテゴリを付与して、ステレオタイプ的に理解する態度があらゆる場面で繰り返されてきた。学校に長い間通えていないこと、何か一つのことに強いこだわりを持つこと、他者との距離感をうまく測れずにトラブルが頻発すること、大量の酒を飲んで日常生活に支障が出ていること。こうした現象は、精神医学的知識を巻き込みながら(時に精神医学が率先して)「不登校」「発達障害」「境界性パーソナリティ障害」「依存症」など、細かく名前がつけられてきた。
こうした名付けは、これまで十分に問題化されていなかった生きづらさを可視化した点で意味を持ち、当事者が必要なサポートを受けられる契機につながったといえる。上から目線で〈同化〉を迫るのではなく、弱者を弱者としてきちんと認め、その上で必要なサポートを提供するという視座を、名付けは提示したということができるだろう。
しかし、名付けは当事者を特殊な存在として位置づけるラベリングとしても機能する。元々その人の行動や周りの環境を問題の俎上にあげようとしていたはずが、問題がその人の人格にあるという考え方を、名付けはもたらしてもきた。
例えば、「ひきこもり」という用語は、「ひきこもる」という動詞から名詞に活用されるのと連動して、一つのふるまいや生活態度を指す言葉ではなく、特殊な性質を持つ人々の一群を指す言葉として展開されてきた。外に出て活動することができない、社会に適応できない特殊な人々が存在するという認識が、広まってしまったということができる。
重要なのは、逆に現行の社会構造に上手く適応できている人には名付けが存在しない、ということだ。適応できている人は無色透明で、適応できない人にだけ〈しるし〉がつけられている。
この二者の違いを多様性という言葉で表現し、対等な関係にあると判断するのはいささか無邪気すぎるだろう。二者の間には非対称性があり、後者の人々にはラベルが貼られ、特殊化するまなざしが社会の中にすでに横たわっているからだ。
ここには、前章で論じた〈同化〉の問題とはまた異なる問題があると言えるかもしれない。〈同化〉の問題は、弱者を弱者として受け入れないことにその本質があった。一方で、他者にラベルを貼り付けて特殊な存在として把握する態度は、むしろ他者を弱者として見なしすぎているという問題系を浮かび上がらせる。それは、相手をこの社会に生きる対等な存在と認めることを妨げる〈他者化〉の問題ということができるだろう。
ダブルシグナルとしての笑い
名付けは、当事者に否定的なイメージを付与し、その周囲にいる人々の認識枠組みに多かれ少なかれ影響をもたらしていく。仕事ができていないことを非難したり、障害や病気があることを自己責任化したりして相手を高圧的に見下すことは言うまでもなく問題だが、厄介なのは善意を伴って〈他者化〉が行われるケースだ。
6月9日の朝日新聞の記事に、研究者で脳性マヒの当事者でもある野崎(2024)が示唆的なコメントを寄せている。
車椅子に乗ってスーパーのレジに並ぶと、店員が声をかけるのは店を利用する自分ではなく介助者の方。一人で外出した時も店員に「おつりはこれだけね、ありがとう」とまるで子どもに話すように応対されることがあったのだという。
見えない存在、もしくは「大人の」コミュニケーションにそぐわない劣った存在として扱われる。店員に悪意はないかもしれない。しかしその態度は相手を確実に貶め、そして「健常者」と「障害者」の非対称な関係を強化してもいる。
こうした意図しないメッセージの問題について、心理学者のアーノルド・ミンデルが紹介する「ダブルシグナル」という概念をもとにさらに考えてみよう。ミンデル(2022)は、著書『対立の炎にとどまる』の中で興味深いエピソードを紹介している。
アメリカ、オレゴン州で行われたある集会で、同性愛のことが話題にのぼった。そこに参加していた白いシャツにネクタイを締めた60代の白人男性は、微笑みながらこう言った。「ゲイは神とのつながりを失い、迷っているのです。彼らは救われる必要があるのです。」
レズビアンの女性がその発言を批判したところ、彼は相変わらず微笑みをたたえながら「なぜあなたは私に対していらついているのですか? あなたはとても感情的になっている!」と応えたのだという。
ミンデルは、意図されて伝えられるメッセージを「一次シグナル」、意図せず相手に伝わってしまう暗黙のメッセージを「ダブルシグナル」と呼び、この白人男性の場合、「ゲイは精神的な問題を抱えているはずだ」という発信が一次シグナル、そして彼の「笑顔」がダブルシグナルにあたるという。彼の余裕たっぷりの笑顔は、「自分こそが多数派であり何も間違っていない」という優越性を相手に伝え、それが相手の苛立ちを引き起こしたのだ。
「真理」を知る私があなたたちを助けてあげようという姿勢。ある部類のパターナリズムは笑顔とともにやってくる。
ここまでわかりやすい例でなくとも、マジョリティ性を有する人がマイノリティ性を持つ人に対してサポートを行おうとした時に、「特有の生きづらさを抱えている人だからこそ慎重に、丁重に、優しさをもって扱わなければならない」という意識を持つことは少なくない。
支援においてそうした配慮は重要である一方、相手を「自分と対等にコミュニケーションをとれない人」と判断する危うい考えと紙一重であることを見逃してはならない。その考えは、笑顔や子ども扱いする言葉遣い=ダブルシグナルとして、外に漏れ出しているかもしれないからだ。
対話の断念と重み付けの剥奪
「自分と対等にコミュニケーションをとれない人」と判断すること。それは無意識に表出されて相手を貶めるという問題を持ち、また、実際のコミュニケーションにも負の作用をもたらす。
まず、相手に対する諦めの問題がある。この人には何を伝えても仕方がない、という対話の〈断念〉。野崎のエピソードのように、対話を行う前から対話を止めてしまっている場合もあれば、対話の途中で〈断念〉が生じる場合もある。
特に支援を行ったり共に生活したりするなど、密な関係を構築していく場合、相手の状況やニーズや悩みをきちんと把握し、同時に自分の気持ちや限界を相手に伝えることが必要になってくる。それは長く、労力のかかる相互理解のプロセスといってもいいだろう。
その負担に耐えきれなくなった時、人は簡単に〈断念〉の溝に入り込む。この人は発達障害だから人の気持ちがわからないんだろう、妻は更年期障害なので冷静に話を聞くことができないんだろう、といったように〈他者化〉を繰り出すことで、対話の道を自ら閉ざしていく。「あいつは〇〇障害だから仕方ないのだ」と相手を名付ける、もしくはその名付けを前景化することで、対等なコミュニケーションと相互理解の努力を止めることが正当化されるのである。
自分の思いを理解してもらうことを諦める〈断念〉の問題に加え、相手を「自分と対等にコミュニケーションをとれない人」と見なすことは、相手の思いを理解することも妨げる。正確に言うと、相手が自分に話していることを情報として理解することはできるかもしれない。しかし、その表明がどのような文脈で、どれほどの切実さでなされているかを理解しようとしない、理解できないという問題が発生する。
心理臨床の場面で、クライエントからセラピストに対してなされる批判を、セラピストが軽く受け流してしまうという事態が起こることが、アメリカのマイクロアグレッション研究で報告されている。
マイクロアグレッションとは、日常的に起こる直接的な差別を意味し、明確な悪意をもってなされるヘイトスピーチと異なり、加害者が意図せず(ときには善意で)行ってしまう事態も射程に入れている概念である。例えば、心理カウンセリングの際に人種的なマイノリティ性を持つクライエントが自身の生きづらさを人種差別の問題と関連させて語っているのに対して、セラピストが急に話題を変える、「大変そうですね」とだけ言って話題を終わらせる、などが例として挙げられている。セラピストは意図していなかったかもしれないが、人種問題を軽視するダブルシグナルが相手に伝わってしまうのだ。
こうした事態が繰り返された結果、クライエントはセラピストに不信感を抱き、カウンセリングに負担を感じて来なくなってしまうという事態が少なくないという。ただ、ときにクライエント側からセラピストのマイクロアグレッションに対して批判が寄せられる場合がある。それは問題に気づいてもらいたいという、クライエントからセラピストへの重いメッセージとも言えるだろう。
しかし、それはなかなかセラピストに届かない。「考えすぎだよ、落ち着きなさい。そんなことはしていない」と返されてしまう。それどころか、「あなたはそう思うんですね」と、まるでクライエントの感じ方に問題があるかのようにすり替えられてしまう。
自分に対する相手の切実な言葉を、真正面から受け止めない。相手に何らかの心理的問題があるか、背景になんらかの傷つきがあって、だからこの人は怒りを示しているのだろう、と考えてしまう。相手を過度に弱者化して、自分に対する批判を真摯に聞かずに、困った人の困った発言として笑顔でいなしてしまうような現象。
こうしてまた対等なコミュニケーションは成り立たなくなっていく。〈他者化〉は他者化された個人の発言の重み付けを奪っていくのである。
さいごに―二つのサスペクト
ここまで整理して思ったけれど、支援という営みにおいて、支援者は二度自分に対して疑いの目を向けないといけないのかもしれない。
第一に、相手の状況やニーズを無視して、自分の、そして社会の価値観を押し付ける〈同化〉の問題があり、その乗り越えが支援者には求められる。自分のとる方針は本当に「良い」のか、それは社会的に作られただけのものではないか、と疑ってみた先に、自分とは異なる価値観や世界を持つ他者への尊重が生まれる。
しかし、相手を理解しようとしてもなかなかうまく進まないことも多い。言っていることが前と違う、言っていることとやっていることが違う、など振り回されることもあるかもしれないし、怒りを表明されても何に怒っているのかわからないということもあるかもしれない。
相手はどこまでいっても他者であり、完全に理解しきることはできない。その不安定性に耐えきれなかった時、支援者は〈他者化〉の溝にはまり、安易な名付けに走りたくなる。障害名や疾患名は、不透明な視界を一気に開ける光のように感じられるからだ。そのカテゴライズは他者を知るための情報のいち断片でしかないのだが、にもかかわらず、その情報だけで相手を判断してしまいたくなってしまう。そうして支援者は、相手のことを無意識のうちに見下し、「わかっている」かのように臭い笑顔を浮かべてしまうのだ。
それがコミュニケーションの不和を生み出すのであれば、支援者は自分が〈他者化〉の欲望を持っていることに対しても疑いの目を向けるべきだろう。相手は他者であり、ときに弱者であり、また同時に対等な対話を求める者でもある(もちろん支援者と被支援者に立場性の違いはあるが)。相手のことはどこまでいってもわからないという不安にとどまりつつ、それでも対話を諦めないこと。理解できないことはより深く聞いてみたらいいし、限界を感じたならそれを表明してもいい。これらは相手への配慮と並列できるものだ。こうしたやりとりの先で、支援者の臭いは脱臭されていくのかもしれない。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。
参考文献
アーノルド・ミンデル『対立の炎にとどまる―自他のあらゆる側面と向き合い、未来を共に変えるエルダーシップ』松村憲・西田徹訳、英治出版、2022年。
平山亮『介護する息子たち―男性性の死角とケアのジェンダー分析』勁草書房、2017年。
石川良子『「ひきこもり」から考える―〈聴く〉から始める支援論』ちくま新書、2021年。
野崎泰伸「フォーラム マンスプレイニングって? 『できない』偏見―もっと接する機会増えれば」朝日新聞、2024年6月9日付朝刊。