白旗を抱きしめて 〈敗北〉サブカル考 / TVOD

格差社会が当たり前のものとなって久しい。「勝ち組」「負け組」という言葉は、社会背景によってその内実をかえながら、亡霊のように私たちにまとわりついているかのようだ。 音楽、映画、小説、漫画……。サブカルチャーにおいて、挫折や敗北はどのように描かれてきたのか。私たちはそこに何を見出そうとしてきたのか。 ともに1984年に生まれ、ゼロ年代に青年期をすごしたTVODの二人が、往復書簡をとおして自在に語りながら考察する。

九条という「やせ我慢」――コメカより

share!

「殺さない」という意志

 パンス君が言う、「日本文化における「勝ち」「負け」について考えるならば、いちばん大きな「負け」として1945年の敗戦が挙げられるのではないか」というのは、まさにその通りですね。そして本連載でぼくが繰り返し考えようとしている、敗者による「やせ我慢」の在り方を、無理やり「デカい話」に繋げるならば。それを繋げる先は、日本国憲法第九条「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という条文なのではないかと考えています。これが自分が捉えようとしている「やせ我慢」の、いわば原型のようなイメージとしてあるのではないかと。敗戦という巨大な「負け」から(さまざまな思惑や意図や願いのなかで)生まれた九条の思想、武力放棄という「やせ我慢」の思想に、生き方の根拠を見出そうとすること。それを金科玉条のごとく絶対的に崇め奉るのではなく、自分の行動や選択のなかで実践できるようにすること。「殺さない」という(本来無理のある)意志を持つために、努力すること。

 これまでに自分が言及した、「あるがままに、自然に生きるのではなく、無理をして自分を越えようとする人間の魅力を、忘れたくないと思った」という山田太一「早春スケッチブック」のセリフや、「ベランダ立って胸を張れ」という岡村靖幸「どぉなっちゃってんだよ」の歌詞は、それぞれにまったく無関係の別ものでありつつ、しかしどちらもやはり戦後日本の、九条を抱えた社会としての戦後日本の実相のなかから、ニョキニョキと生え出てきたものであるように、ぼくには思えます。連載冒頭で「「負ける」ことについて表現すること」と「既存の「勝ち負け」を前提とした世界の外部を見せること」という話がなされましたが、おそらくぼくは前者の方に比較的強い関心の比重が、そしてパンス君は後者の方にそれがあるのではないかと、自分としては思っています。そしてその前者の内実を自分なりに考えていくと、前述のように九条の精神に辿り着く、というような意識を、ぼくは持っています。

 しかし、いま現在2025年の日本社会において、九条をそのような「やせ我慢」の思想として解釈する在り方は、人々におそらく求められていない。現実政治のレベルにおいても、国家安全保障戦略や平和安全法制によって、九条はほとんど空洞化されつつある。そもそも対米従属にひたすら甘んじてきた戦後日本のどこに「やせ我慢」の努力があったのか、というような批判もあるでしょう。

 そして精神性のレベルでも、「負け」よりも「勝ち」が、殺される前に殺せ、という在り方の方が恐らく、現在の日本社会には非常に馴染みやすくなっている。大塚英志が繰り返し指摘しているように、ハリウッド映画的な論理性、つまり主人公が協力者とともに力を合わせて敵に打ち勝つ、というような単純な「物語」の構造が、21世紀に入ったころからさまざまな場面で、世界認識の方法(体系的なイデオロギーが一応はその方法として求められる場面が、20世紀には多かった)としての力を増してしまっているところがある。イラク戦争におけるブッシュのキャラクターの在り方にしても、Qアノン陰謀論におけるトランプのキャラクターの在り方にしても、おそらくそのような説明が当てはまってしまう。日本においてもそのことは例外ではなく、最近の出来事では東京都知事選における石丸伸二や兵庫県知事選における斎藤元彦も、支持者たち(=協力者たち)にとっては、自分たちを抑圧してくる「敵」に打ち勝つ、魅力的な主人公として捉えられていたはずです。

戦後民主主義的感性のリバイバル

 このような「物語」的世界認識=「敵」に打ち勝つことでの成長・成熟を志向するような在り方と正反対の位置に、パンス君が引いた加藤典洋『敗者の想像力』で言及されたような「『脱領域』的な無重力(脱力)的なリゾーム状の『知』的営為」もあったはずだろうと思います。加藤は『敗者の想像力』を考えるにあたって、山口昌男、松岡正剛、片岡義男、植草甚一らによるそのような「リゾーム状の『知』的営為」を一方の極に置き、もう一方の極に吉本隆明や鶴見俊輔のような「戦後思想」を置くような世界図をイメージしたわけですが、それらの両極は、それぞれの形で「誤りを反省し、先進の西洋思想から学ぶことを第一とする『戦後民主主義思想』」(『敗者の想像力』)に抵抗するものとして、彼によって捉えられています。

 ここで批判的に眼差される「戦後民主主義思想」の在り方とはつまり、欧米圏の革新思想や憲法九条を無条件に崇め奉るような姿勢……戦前の八紘一宇と同型の形で機能する、思考停止的・抑圧的な形での戦後民主主義だった、ということだと思います。パンス君が言う「欧米の革新的な思想をかつての『脱亜入欧』ばりに持ち込んで『乗れない奴は遅れている』とする言説がある」という状況においても、そのような抑圧的な形での戦後民主主義的感性が復活していると言えるのではないでしょうか。個々人の私的なものに根差していない、金科玉条として高く掲げられたものとしての戦後民主主義への、回帰。そしてそこでは更新=アップデートされた「綱領」に従うような形で「誤りを反省」することも、盛んに行われている。1980~90年代のある種のサブカルチャーに対する「反省」が各所で繰り返されていることも、戦後民主主義的感性の事実上のリバイバルであると言えるような気がします。

 そしてぼく個人は戦後民主主義を、むしろ積極的にリバイバルさせようとしてきたわけです。ボトムアップ型の公共性の再構成を社会において試みようというのが、かねてよりの自分の素朴な主張です。「誤りを反省し、先進の西洋思想から学ぶことを第一とする」リベラリストたちと、自分の在り方は表面上はほぼ変わりません。実際、反動的なハラッサーやセクシストが跋扈するような社会よりは、「誤りを反省し、先進の西洋思想から学ぶことを第一とする」ことが志向される社会の方がまったくマシだとぼくは思っています。しかし、そうしたリベラリズムの現状に対する違和感が、正直に言えば自分にはある。端的に言えば、私的なもの、つまり「ボトム」における私的な「負け」や「やせ我慢」が、そうしたリベラリズムにおいては切り捨てられているように思え、そのことに違和感がある。

 上手く言えないのですが、このままの状況を延長させていくと、殺される前に殺せ、というような感性、つまり九条的な「負け」や「やせ我慢」を失った、「勝ちにいく」感性として、戦後民主主義的なものを再生させることになってしまうような気がする。ぼく自身のなかにもおそらく、殺される前に殺せ、というような感性がある。それを如何に「やせ我慢」するか。殺し得る態度=勝ちにいく態度ではなく、殺され得る態度=負けてしまう態度のなかにこそ、自由の契機を見出す。そういうことが、ここ最近自分が考えていることです。自分がトライするべきなのは、もう一度戦後民主主義を金科玉条化させる(ひいては、それをもって「勝ちにいく」)ことではなく、そもそもが敗北と「やせ我慢」をその中心に抱え込んでいたはずの戦後民主主義的感性について、改めて考えることなのではないか。「乗れない奴は遅れている」という勝負に負けること=遅れていくこと自体を含みこんだ戦後民主主義的感性をこそ、組み立て直そうと努力してみるべきなのではないか。自分が持っている「負け」や弱さ(ぼくにとってサブカルチャーはそういう諸々を表現してくれるものです)をしっかり含みこんだ形での、公共性を考えてみるべきなのではないか。

 そして、多様性称揚としての「先進の西洋思想から学ぶことを第一とする」状況と、『Status And Culture』で示されたような「オムニヴォリズム」が全面化していく状況=「みんな違ってみんないい」とされる状況とは、とても相性が良いように感じます。ぼくは例えば2000年代には、アンチ・センスエリート的な動機を持っていました。文化消費の差異化ゲームにおける権威性を解除したいがために、そのゲームにおいて劣位に置かれ疎外される文化=負ける文化のなかにある、価値や情熱について語ろうとした。例えば、ヴィジュアル系ロックがどのような切実さにおいて個々のリスナーに聴かれているか、を考えようとしたりしました。そういうかつての自分から見れば、「オムニヴォリズム」が全面化されていくこともまた喜ばしいことであるはずです。

2020年代の権威主義

 今後は例えばB’zを根拠無く(美的な価値判断という角度から、根拠ある批判をしていた人も一部にはいたとは思いますが)バカにしていたような「誤りを反省」し、「みんな違ってみんないい」という平等なビジョンを、再びの戦後民主主義的感性の下に共有していくような状況になるのでしょう。90年代に当時のJ-POPを「ダサい」とバカにしていたような向きのなかには、それが自覚的であったかどうかは別にして、金科玉条化していた戦後民主主義性(欺瞞的ヒューマニズムと言ってもいい)に対する精一杯の闘争としての側面もあったはずです。しかしそうした闘争が頽落していった=センスエリート的権威主義に頽落していったと考えていた当時の自分は、「報われた」わけです。

 しかし。ここでもやはり、いま現在2020年代の状況に対して、ぼくには違和感がある。「オムニヴォリズム」が全面化していく状況のなかで権威主義はまったく解除されておらず、むしろ「正しさ」やポピュラリティや札束を背景にして、かつてとは異なる形で、かつてよりも見えにくい形で、権威主義はよりしっかりと人々のなかに根を張っている。権威性を背景に「勝ちにいく」ことばかりが求められ、個々の私的な「負け」や切実さを大切にすることは求められていない。ぼくには「オムニヴォリズム」の全面化に自分が何がしか貢献してきた自覚はありますが、しかし権威主義的であれ、と世界に向けて主張してきたつもりはない。個人主義的であれ、と自分は常に言いたい。

 パンス君のように「昔は盛んだったはずなのに今は失われつつあるようなモノや感覚を引っぱり出」すことを通してバランスを取ることだったり、もしくは「正しさ」やポピュラリティや札束とは別の基準によるゲームを再設定することだったり、現状の危うさに対する対応の仕方の可能性というのは、恐らくいろいろあるのだと思います。しかしぼくの場合は、負けること、疎外されること、そしてそれらを「やせ我慢」することを、勝ちに反転させるのではなく、自由に至るための道筋としてもう一度捉えなおすことを、やりたいと思っています。それにはまず、九条が持つ力ではなく無力さこそを、もう一度自分のなかでよくよく考える必要があるのだろうと、思っています。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。