きのこ狩りの話を続けよう。2010年代に入って、各地の菌友たちに誘われてきのこ狩りに行く機会も増えた。でも、海外となるとなかなかチャンスはない。本格的なきのこ狩りといえば、2012年の夏、ロシア・モスクワ郊外のタラスコヴォ村での体験がほぼ唯一のものだ。
この頃になると、僕のきのこ好きも有名になっていたようで、モスクワでの写真展に合わせて開催された講演会で通訳を務めてくれたエレーナ・トゥタッチコワさんが、タラスコヴォ村在住の友人、セルゲイさんを紹介してくれた。セルゲイさん一家は、馬、ヤギ、7匹の犬、4人の子供たちとともに、かつては集団農場(コルホーズ)の食堂だった家で暮らしていて、きのこにもとても詳しい。ちなみに、エレーナさんはその後日本に来て、東京藝術大学大学院で写真を学び、写真集『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』(torch press、2016年)も刊行している。
その日はよく晴れた気持ちのいい日で、犬を先導にしてセルゲイさん、娘さんたちと草原を抜けて森に入った。ロシアは緯度が高いので、4月の終わり頃からきのこを採ることができる。その日も、すぐにハツタケの一種やヤマドリタケ、ヤマイグチの大物がみつかって大喜びした。ロシアのきのこは日本よりも大きく育つようだ。袋いっぱいになった収穫を家に持ち帰り、野外でソテーにしてワインとおいしいサラダと一緒に食べた。あの味は忘れられない。日が傾くとともに、風が渡って暑さも和らぎ、星が瞬き始める。きのこ狩りそのものも愉しいが、何といってもその醍醐味は、採ったきのこをみんなで食べることだろう。
ところで、セルゲイさんもそうなのだが、ロシア人のマイコフィリア(きのこ愛好症)は世界に冠たるものがある。こんな話を聞いたことがある。きのこの季節になると、ロシア人たちは落ち着きがなくなってくる。ちょうど、日本人が桜が咲く季節になると「お花見、お花見」と浮かれた気分になるのと同じようなことだ。いよいよ、森に入る日が近づくと前の晩からワクワクして眠れない。朝早くから夕方まで歩き回り、籠をきのこで一杯にして家に持ち帰る。その日採れたきのこはすぐに食べることもあるが、瓶詰めにして、ピクルスのような保存食にすることも多い。これは本当かどうか知らないが、若い男女がきのこ狩りで森に一緒に入るということについては、また別の愉しみ(ちょっとエロティックな)もあるのだそうだ。
ロシア人だけでなく、ルーマニア、チェコ、ポーランドのような東欧諸国のスラヴ系の人たちは、総じてきのこ好きの「きのこ民族」といえるだろう。それに対して、イギリス人などアングロ・サクソン系にはマイコフォビア(きのこ嫌悪症)の人が多い。きのこを見つけると、すぐに足で蹴飛ばしたり、踏み潰したりする人たちである。日本人は、どちらかといえばマイコフィリアが多いようだが、なかにはきのこを見るだけでも怖いという人もいる。「きのこ民族」が多い地域といえば、やはり長野県ということになるだろう。長野県人のジコボウ(リコボウともいう。ハナイグチのこと)への愛着はただならぬものがある。「きのこ民族」なのか否かという対照的な性格は、どうやら遺伝子レベルで受け継がれた奥深いもののようだ。
そのことをさまざまな歴史的な文献を渉猟して研究する民族菌類学を打ち立てたのが、アメリカの菌学者、R・ゴードン・ワッソン(R. Gordon Wasson 1898-1986)である。アメリカ・モンタナ州に生まれたワッソンはとても面白い経歴の持ち主で、新聞記者などを経て銀行に勤めるようになった。銀行家としてはとても有能だったようで、1943年には名門のJ・P・モルガン銀行の副頭取にまで登り詰めている。
ところが、1926年にロシア出身の小児科医、ヴァレンティナと結婚したことで、彼の運命は大きく変わる。翌27年に、二人はニューヨーク州キャッツキルで休暇を過ごしていた。ワッソンののんびりとした気分は、新妻が突然森のなかに駆け出したことで打ち破られた。そこにはきのこがたくさん生えていて、彼女は大喜びでそれらを採り、山小屋に持ち帰って料理し、不安そうなワッソンを尻目に一人で全部平らげてしまった。彼は一晩中、「結婚したばかりなのに、次の朝には男やもめになるのではないか」と悶々としていたという。
この体験をきっかけに、ワッソンはスラヴ系のヴァレンティナ夫人と、アングロ・サクソン系の自分のきのこに対する反応が、なぜここまで違うのかと疑問を持つようになる。彼はその「奇妙な文化の食い違い」について、ヴァレンティナ夫人の協力も得て研究を開始した。インド・ヨーロッパ語族における神話、伝説、伝承、スラング、伝統工芸品や芸術作品にあらわれるきのこのイメージについて調査し、インド・ヨーロッパ語族は、はっきりと「きのこ民族」と「非きのこ民族」に分かれることがわかった。ロシア人のようなスラヴ系の民族、カタロニア人などは「きのこ民族」、古代ギリシア人、ケルト族、そしてアングロ・サクソン系の人たちは「非きのこ民族」である。
ワッソンによれば、その違いを生み出したのは、シャーマニズムの伝統だった。古代社会では、神と人間の世界をつなぐシャーマン(呪術師)が重要な役目を果たしていた。そしてシャーマンが神の声を聞く儀式に、いわゆるマジック・マッシュルームが使われてきたことが研究によってわかった。たとえば、シベリアでは19世紀ごろまで、シャーマンたちが宗教的な儀式にベニテングタケのような幻覚性のきのこを用いて、人々をトランス状態に導いていた。このようなシャーマニズムの伝統や、きのこを好んで食べる食文化、きのこ狩りの愉しみの共有などが、マイコフィリアとマイコフォビアの分かれ道になったというのだ。
1950年代になると、ワッソンの民族菌類学は大きく進展する。メキシコ南部の山岳地帯、マサテコ族の居住地で、いまだにマジック・マッシュルームを使った儀式がおこなわれているという情報を得たのだ。ワッソンと写真家のアラン・リチャードソンはインディオの案内人に導かれて村に入り、シャーマンのエヴァ・メンデス(のちにマリア・サビーナという名前で有名になる)と出会う。その儀式に参加した二人は、サイロシビン系の幻覚成分を含むきのこによる、驚くべき視覚的体験を経験する。ワッソンはその時の「外壁に宝石のような石がきらきら輝く豪壮な邸宅」や「神話に出てくる動物が四輪馬車を引いていた」といった幻覚を詳しく記録し、「魔法のきのこを求めて(Seeking the Magic Mushroom)」というタイトルで『ライフ』(1957年5月13日号)に発表する。この記事は大反響を巻き起こした。
ここでもう一度、ロシア人ときのこ狩りとの、深く、熱く、長く続く関係に戻ることにしよう。それはむろん、文学や美術や音楽などのジャンルにも、色濃く影を落としている。トルストイの『アンナ・カレーニナ』にはきのこ狩りの描写があるし、チェーホフの妹のマリアは『兄チェーホフ 遠い過去から』(牧原純訳、筑摩書房、1991年)で、一家でキノコ狩りを愉しんでいたことを書いている。ムソルグスキーは「きのこ狩りの歌」(毒きのこを食べてのたうちまわるという過激な内容)を作曲しているし、チャイコフスキーもきのこ狩りが大好きで、特にヤマドリタケには目がなかった。
ここでは、『ドクトル・ジバゴ』で1958年にノーベル文学賞を授与(本人は辞退)されたボリス・パステルナークの詩集『晴れよう時』(1959年)におさめられた「茸とり」と題する詩を紹介しておくことにしよう。この詩には、ロシア人のきのこ狩りに寄せる思いが凝縮して表現されている。その愉しさ、昂揚感とともに、秋の短い一日の終わりの、一抹の寂しさが印象深い。なお、詩中に出てくるグルスチはチチタケ、ヴォルヌシカはハラタケ、ボロヴィクはヤマドリタケのことである。
茸とりにさまよい歩く
ひとすじの街道 森 側溝
道しるべの杭が
ひだりにみぎに広い街道を下り
森の暗がりの中に歩いて行く
くるぶしまで霧に濡れ
てんでに迷い込むわたしたち灌木の下の
グルスチやヴォルヌシカのうえに
とっぷりと暗い密林ごしに
太陽は森の端から光を投げてよこす茸は切株の陰にかくれている
切株に一羽の小鳥が止まっている
わたしたちの影は――
道に迷わないようにと道しるべになる九月の時間は尻尾がみじかく
萎んでいる
夕焼け空は茂みごしに
やっとわたしたちのところまでとどく小さい編籠は茸で一杯
大きな手籠も満杯
ボロヴィクだけで
たっぷり半分ほどさあわたしたちは帰る
動かない森は背後で壁になる
一日が大地の美しさにつつまれ
あっというまに燃え尽きてしまった(工藤正広・訳『パステルナーク詩集』[双書・20世紀の詩人]小澤書店、1994年)
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。