なんと、『日々のきのこ』(河出書房新社)という本が出版された。この連載とまったく同じタイトルなのだが、それは偶然ではない。
いま、手元に文芸誌『文學界』(文藝春秋)の2010年2月号がある。その中に高原英理さんの短編小説「日々のきのこ」が掲載されている。まさに「きのこ小説」の極みというべき傑作だ。ちなみに、同じ号にはのちに拙著『フングス・マギクス――精選きのこ文学渉猟』(東洋書林、2012年)に収録した「きのこ文学の方へ」の連載第2回「アリスと魔法のきのこ」も掲載されていて、『文學界』ならぬ『きのこ文学界』と化しているのがなかなか面白い。
実は本連載の開始にあたって、タイトルを「日々のきのこ」と決めた時には、高原さんのその小説のことはまったく失念していた。いいタイトルが浮かんだと喜んでいたのだが、頭の片隅に「日々のきのこ」という言葉が既にインプットされていて、それを無意識に借用していたということなのだろう。『日々のきのこ』が届いて、ようやくそれに気づいた。本来は、高原さんにお断りしなければならないところだったが、申し訳ないことをした。
それはさておき、高原さんはその後も着々ときのこ小説の続編を書き続けていた。このたび刊行された『日々のきのこ』には、「所々のきのこ」「思い思いのきのこ」「時々のきのこ」の3つの連作がおさめられている。このうち「思い思いのきのこ」は、『文學界』(2010年2月号)の掲載作を改題したものだ。
どうやら高原さんは、この連作小説それ自体を、きのこ的な構造を持つものとして捉えているように思える。きのこは土中に菌糸を伸ばし、それらは絡みあい、もつれあいながら、森のさまざまな生きもの、植物や動物や昆虫たちと複雑なネットワークを構成している。連作小説『日々のきのこ』もまさにそのような構造を備えていて、断片的な記述のそれぞれが、他のパートと多層的、多次元的に結びついているのだ。読者は本書を読み進めていくうちに、枝分かれした迷路を手さぐりで進んでいくような気分になるだろう。それは深い森の中で、全身をアンテナにしてきのこを探し求めている時のようでもある。
それでも、3篇の作品を読み終わると、高原さんがこの連作で描き出そうとしたヴィジョンがおぼろげに浮かびあがってくる。どうやらここに描かれているのは、近未来の人類の姿のようだ。『日々のきのこ』は、近未来SFという側面を持つ連作でもある。
菌類の繁殖方法を調査・報告する役職である「遠延」の告げるところによれば、「基準年」と呼ばれる年を境に、「盈眩菌」が世界中に広がっていった。地球外から来た菌のようで、人間のからだに侵入し、繁茂していく。最初のうちは、身体能力を損なうこともなく、苦痛も痒みもないので、人類と菌は共生していた。だがそのうち、脳に達した「盈眩菌」が人間の意識を変えていった。「盈眩菌」に侵された人は、現実と幻影の区別がつかなくなり、半ば夢の中にいるように暮らすようになった。
彼らのからだも変わる。全身の皮膚からきのこ類が生えてきて、動けなくなり、樹木や部屋などと同化し、菌糸から栄養分を吸収して生きるようになる。からだの半分以上を菌に侵された者は「綴じ者」と呼ばれた。やや差別的な言い方なので「菌人」、正式には「内部性菌繁茂症者」と呼ぶこともある。その数は年ごとに増えて、人類全体の80パーセントを超えた。いまや、「無菌人」の方が珍しいほどだ。
このような、きのこ化された世界のあり方を描き出す小説を読んで、ネガティブな反応する読者も多いのではないだろうか。全身からきのこが生えてくるなんて、まるで本連載でも紹介した東宝配給の怪奇映画『マタンゴ』(1963年)のようだと思う方もおられるかもしれない。でも、高原さんが描く「基準年」以降の世界は、逆にとても居心地がよさそうではある。個の意識に囚われ、互いに互いを攻撃することで生き延びてきた「無菌人」たちと違って、「菌人」たちは至って平和で穏やかな人格の持ち主だからだ。
「所々のきのこ」に、全身が菌に覆われた人と「湯の花茸」が無数に浮く「きのこ温泉」に入る件があるが、実に気持ちがよさそうだ。「湯の花茸」は、からだの表面の老廃物を吸収し、「お肌つるつる」になるだけでなく「心つるつる」になっている。「本当にきのこ心が湧くね」とつぶやいてしまう。
「時々のきのこ」には、「災害で家族を失っ」た者が、人里を離れ、巨大きのこが生える森の中のバンガローで、「夥しい舞茸のような子実体に覆われて」寝台に横たわったままの「先客」と一緒に暮らす話がある。全身のほとんどがきのこと化した「ジンレイ」との暮らしは快適だったが、10日ほど過ぎた頃に性的な夢を見て、股間を怒張させてしまう。それを知った「ジンレイ」は、「わたしの躰にある穴を使ってくれてよいよ」と告げる。「ジンレイ」のからだには、女性器を思わせる穴がいくつかあいていて、それを使うと「よく濡れていて温かく、塩梅がよい」。放出した精液は「ジンレイ」にとっては養分であり、「おやつをいただいた気分」でもある。この奇妙な、でもどことなくユーモラスで温かみのあるSEXの描写も、やはりとても魅力的だった。
もしかすると『日々のきのこ』は、マイコフィリア(きのこ愛好症)とマイコフォビア(きのこ恐怖症)を分別する踏み絵の役割を果たす小説かもしれない。マイコフォビアの人たちにとっては、悪夢じみたディストピアに思えるかもしれないが、僕を含めた(むろん高原さんもそうだろう)マイコフォリアにとっては、いちいち「そうそう」と肯いてしまう箇所が多かった。「地上が茸に覆われ、個というものが僅かにしかなくなった地球は、さぞ静かで安らかだろう」と高原さんは書いているが、これにもまったく同感である。
それにしても、『日々のきのこ』に登場してくるきのこたちについての、多彩かつリアルな描写は驚くべきものだ。「オニフスベ」や「ベニテングタケ」のような実在するきのこも描かれているが、大部分は高原さんが想像=創造した架空の菌類である。たとえば、以下のようなきのこたちだ。
ノモホコリタケ:「ぱふんぱふん」と踏みつけると、白、茶、黄、赤、青、紫、緑、黒などのさまざまな色の胞子が漂う。「ぱふ屋」という「きのこ踏み」専門の職業もある。
流星茸:一列に生えて、流星の飛んでいった方向を示す。その果てに隕石が落ちている。
時茸:時を超えて、過去あるいは未来に菌糸を伸ばすきのこ。
一夜茸:妻の首の後ろから生えてくる。人差し指で「ゆいゆい」と撫でてやると「うむんむ」と喜ぶ。独特の匂いがある。
鳴き茸:「しーむしーむ」と鳴く。
目玉茸:抉り出された目玉そっくりで、鴨居などから吊り下がっている。食用になる。
這い茸:楕円の半球形で、石の上を這う。表面に突起があり、粘液でねばついている。食用。振動を好む。
黒傘茸:動物の死体に生え、臭気が強い。月の夜、死体を包み込むようにして移動する。その様は、まるで踊っているようだ。
オオクベ菌:木の内部に入り込んだ菌が増殖し、丸く膨らんだ青黒い茄子のように枝からぶら下がる。
気泡茸:内部に水素ガスを含み、空中に浮き上がる。
茸袋:巨大なオニフスベのようなきのこで、その中で暮らすことができる。老廃物、排泄物はすぐに菌膜が吸収してしまう。
初めの頃は、多少違和感を覚えてはいたのだが、読み進めていくうちにあまり気にならなくなってきた。それどころか、だんだん目や耳に馴染んできて、実際に「目玉茸」や「黒傘茸」のようなきのこがありそうにさえ思えてきた。ネーミングが絶妙で、きのこたちの性質や特徴もよく吟味されているからだろう。『日々のきのこ』だけでなく、他のきのこ文学作品も丁寧に当たってみて、『架空きのこ図鑑』といった本を編集するのも面白そうだ。
文体も重要だと思う。『日々のきのこ』には、普通の日本語とは思えない記述がよく出てくる。その中でも「思い思いのきのこ」の、「潰れたようにガードレールに付着していた半分人間を終えた人」がつぶやく言葉は圧巻である。
ほろりだか、ころりだか、もっと軽く、耳、耳の穴、耳の、穴から、右の、空気に、ほろ落ちる速さのゆがみ緩むほどの軽さで、かかわらず、球の、塊の、粒の、芯にはごろごろと、こくこくと、したのが潜んで、そんな白い、白毛包みの、白く包まれた小さい、白の毛玉のようなな塊、出るわ、耳から、今日は三つ、右からばかり。あの、なんとかのチーズ、あの白いくにゅりと中の柔らかい、あの周りに生える、ちょうどそんな、白くて細くてやわらいですべっと滑らかな、白い毛の細かい[以下略]。
書き写していると、これはもはや人間が発する言語というよりは、「きのこのことば」そのものに思える。高原さんはどうやら『日々のきのこ』を書き継いでいるうちに、次第に「きのこのことば」を聞きとり、それを記述することができるようになってきているらしい。『日々のきのこ』は、まだ日本語がベースになっているが、これがもう少し進んでいくと、全編が「きのこのことば」で書かれた、まさに「純粋きのこ小説」になっていくのかもしれない。高原さん自身が「菌人」と化しつつあるようにも思える。そうなると、もはや小説の範疇を超えてしまい、読者が理解することはほとんどできないだろう。でも、そこまで突き進んでもらいたいという気持ちも僕にはある。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。