このウェブサイト「生きのびるブックス」でこれから月に一度、『人生相談を哲学する』という連載を始めます。それにしても、人生相談を哲学するとは不思議なタイトルですね。「人生」を哲学するというのは分かりやすいですが、なぜ「人生相談」を哲学するというタイトルになっているのでしょうか。
実は、私は2008年から数年間、『朝日新聞』の文化面で「人生相談」の連載を担当していました。「悩みのレッスン」というタイトルで、私を含む3名の執筆者が、若い読者たちからの悩みに答えました。相談をしてくるのは10代から20代の若者たち。友達づきあいの悩みや、生きていく自信がないなどの悩みまで、様々な相談が寄せられました。それらに対して、年長者の経験を生かした回答を書いていたのです。
この「人生相談」は、その後「生きるレッスン」と名前を変えて長く掲載されたので、もしここに『朝日新聞』の読者がおられたら、「ああ、あれか」と思い出していただけるかもしれません。全国で幅広い年代に読まれており、私のところにも読者からの感想がたくさん寄せられました。
新聞連載が終わったあと、回答部分をまとめて本にしようと考え、編集者の篠田里香さんと相談しました。そして回答に大幅な加筆をしていこうということになりました。
しかしですね、実際に新聞に掲載された私の回答を読み返してみると、なんか面白くないのです。なぜかというと、やはり巨大メディアである『朝日新聞』に掲載されるわけですから、どうしても良識の枠内に収まるような回答が多くなってしまっているのです。もちろんたいへんな数の読者がいるわけですから、それは仕方のないことだし、新聞の編集者の方と意見を交わしながらその枠内で質の高いものに仕上げていったという自負はあります(『朝日新聞』の名誉のためにもここに記しておきます)。しかしながら、質問者の気持ちに寄り添いすぎて、私自身の思索をきちんと展開できなかったという面は、たしかにありました。
そして、本の出版のために回答を書き直していくうちに、「そもそも人生相談とはいったい何なのか?」という根本問題にぶつかってしまったのです。人生相談とは、人生の様々な出来事に悩んでいる人が、その解決を求めて相談しに来ることです。そして回答者は、みずからの体験にもとづきながら、相談者にひとつの実践的な解決方法をアドバイスします。ところが興味深いことに、『朝日新聞』の「悩みのレッスン」は、一般的な人生相談とは異なって、相談者の質問に対して実践的な解決を与えることを必ずしも主目的とはしていませんでした。若者たちからの相談事は、日々の具体的な悩みであると同時に、人間が普遍的にかかえこんでしまう哲学的な問いでもあったからです。たとえば、「友達づきあいの仕方が分からない」という相談は、「人間にとって友達とは何なのだろう」という古代ギリシアから延々と続いている哲学の問いそのものです。その相談を受けた私は、「友達とはそもそもどういう人のことを言うのだろう?」と、深く考え込んでしまいました。しかしながら、新聞の回答欄では、そういう悩みを相談者と一緒に根本まで戻って考察していく作業を十分に行なうことはできませんでした。なぜなら、まず文字数の制約がありますし、なによりも回答者自身が思索の深みにはまって右往左往するのは、人生相談のあるべきあり方とは思われなかったからです。
しかし、いまから振り返ってみれば、哲学者が行なうべきは、投げかけられた相談事について、相談者と一緒になって「ああでもない、こうでもない」と悩み、いろんな角度から考察を深め、いままでに考えたこともない新たな思索を発見していくことだと思うのです。相談者から投げられた質問のボールを、きれいにバットで打ち返すという人生相談はどこにでもあります。しかしそれだけのことならば、別に哲学者が回答を担当する必要はないでしょう。哲学者がするべきは、投げこまれた質問のボールを手に取ってじっくりと眺め、他の選手たちを呼んできて意見を聞き、そして相談者にも輪に加わってもらってボールの性質を根本から解明していくことであるはずです。私はこの作業のプロセスをまとめて、一冊の本にしようと思いました。みなさんがいま読んでいるこの連載は、読者からの声を受けてさらに書き直され、「生きのびるブックス」から単行本として出版されます。
「人生相談の哲学」とは、おそらく今回の連載で初めて提唱される概念でしょう。それが具体的にどのようなものになるのかは、次回からのテキストでぜひ確かめてみてください。さきほど、「相談者にも輪に加わってもらって」と書きましたが、実際にはもう相談者の方々に加わってもらうことはできません。そこで、彼らからの相談のエッセンスを私の言葉で書き直して冒頭に置き、それをめぐって思索を広げていくというスタイルを取ることにしました。
たとえば、次回の連載で取り上げる相談は、18歳の大学生から寄せられた「人を喜ばせる努力ばかりするのはもう嫌です」という悩みです。そしてこれに対して、まずは新聞連載のときに掲載した私の回答の文章をそのまま紹介します。新聞連載で私は、他人だけではなく自分を喜ばせることも大事だし、喜びは分かち合うことによって輝くのだと回答しています。しかし、いまから振り返ってみれば、この回答では相談者の悩みの核心的な部分には踏み込めていません。その核心部分にある問いとは、他人からの承認と評価によって振り回される自分の人生とはいったい何なのか、という問いだからです。そのことを、私は恥ずかしながら今回相談を読み直してみてはじめて気づきました。私はなんとぼんやりしていたのでしょう。そこで私は、その問いに焦点を絞って、考察を深めてみることにしました。するとその考察は、それを考えているこの私自身の人生にまで食い込んでくることになったのです。
まさにこの点にこそ、「人生相談の哲学」の醍醐味があると言えるでしょう。相談者が発した人生相談は、それに回答を与えようとしているこの私の人生にまで侵入してくるのです。そして私は自分自身の人生を抜きにしてそれに答えることはできないと気づくのです。回答者の人生にまで入り込んでくるこの「侵入的な力」を正面から吟味していくことが、「人生相談の哲学」の本質であると言うこともできます。この「侵入的な力」は、連載の各回において様々な形をとるわけですが、私はあるときはそれをスムーズに処理しながらも、別のときにはもろに刺されてしまって死にそうになります。実はまだ連載の最後まで原稿を書ききっていないので、この作業がどのように展開していくのかまったく予想できません。読者のみなさんは、そのプロセスを楽しみつつ、同時に相談の内容を自分自身の場合に置き換えて、ぜひ思索を深めてみてください。
「人生相談の哲学」という概念はこれまでなかったと書きました。それはおそらくそのとおりなのですが、しかし哲学の営みの中心に「人生相談」的な部分があったのは確かなことです。たとえば古代ギリシアの哲学者プラトンは、自分の先生であったソクラテスが裁判で死刑とされ投獄されていたときの出来事を『クリトン』で描写しています。死刑執行が迫ったある日、ソクラテスの旧友のクリトンがこっそりと牢屋に忍び込み、ソクラテスを説得して脱獄させようとします。しかしソクラテスは、自分が法を破って脱獄することがほんとうに正しいことなのかとクリトンに問い、二人は獄中で哲学対話を始めるのです。裁判が間違っていたのだと説得するクリトンに対してソクラテスは、自分はこの国を離れようと思えばこれまでいつでも離れるチャンスはあった、しかしそれをせずにいままでこの国にとどまってきたと言います。そうすることによって自分はこの国の法を支持してきたことになるのだから、たとえそれが悪法であったとしても自分はそれを破る生き方をしてはならないとソクラテスは答えるのです(註:「悪法も法なり」という名言は『クリトン』には直接には出てきません)。それを聞いてクリトンは納得し、ソクラテスの意見を尊重しました。この箇所は法と正義の難問をめぐる哲学対話として有名ですが、それと同時に、ソクラテスの人生をめぐるクリトンからの人生相談を、この二人が共同して哲学している様子としてとらえることもできます。
たとえばソクラテスはクリトンの脱獄の勧めに答えて、次のように言っています。
ソクラテス
一緒にそれを検討してみようじゃないか。そしてもし、きみが、ぼくの言うことに反論できれば、その反論を示してくれたまえ。そうすれば、ぼくはそれに従うことにする。しかしそうでなければ、どうか、もう、ぼくに同じことを何度も繰り返して、アテナイ人の同意なしにここを立ち去ることを勧めるのは、やめにしてほしいのだよ(三嶋輝夫・田中享英訳『ソクラテスの弁明・クリトン』講談社学術文庫、139頁)。
これはまさに人生相談そのものですし、このあとに二人のあいだで繰り広げられる驚くべき対話は、「人生相談の哲学」そのものの遂行であると言ってもいいでしょう。こうやって考えてみると、古代ギリシアの時代から、哲学は「人生相談」とともにあったと言うことができそうです。そしてとくにソクラテスの哲学は「人生相談」として開始されたとすら言うことができるかもしれません。
古代ギリシアの哲学は、世界や宇宙を成り立たせているものはいったい何なのかを問う自然哲学として展開されますが、そこに楔を打ち込むようにしてソクラテスが現われ、哲学のテーマを外部自然から人間精神の内面性へと移行させました。そしてその内面世界への移行の契機として、「人生を良く生きる」とはどういうことかをめぐる「人生相談」の哲学があったと見ることもできます。人生を良く生きるためには、一人で部屋に閉じこもって人生の概念を沈思黙考していてもダメなのです。そのためには、自分自身の実人生について、それがどうあるべきかを友人たちと語り合い、正しい道を見つけていくことが必要だとソクラテスは考えました。そして彼は実際にアテナイのあちこちで友人や青年たちと哲学対話をしていたのです。
次回から連載の本論が始まります。若い相談者たちからの悩み相談は、愛情について、他人を助けることについて、自分のコンプレックスについて、自己主張について、成長についてなど多岐にわたりますが、それらはすべて「生きる意味とは何か?」という大きな問いのまわりを回っているようにも思います。「私はなぜ生きているのか?」「私は何のために生きているのか?」という問いは、古来より哲学の中心的課題として延々と考え続けられてきました。「人生相談の哲学」もまた、この大きな問いをめぐって深められていくことになるでしょう。
新型コロナウィルスの流行で、私たちはいままで当然のように享受してきた日常を、何の予告もなく奪われてしまいました。友達と誘い合って楽しくお店でおしゃべりをしながらご飯を食べたり、公共交通機関を使って気兼ねなく遠くまで旅行したり、ライブに行って大声を出したりすることができなくなりました。大学に入学した一年生は、いまだキャンパスに行くこともできず、同級生の顔も知りません。実家のおじいちゃんやおばあちゃんに会うことすら簡単ではなくなりました。このような変化のなかで、人間にとっていちばん大切なことは何なのか、人間にとって幸福とは何なのかという問いが、私たちに否応なく突き付けられています。現在の激変する生活のなかで私たちが感じ取っている不安は、実は哲学的な次元の不安であるのかもしれません。いままで見えることのなかった人生の無根拠や脆さが露呈してきています。
であるからこそ、いま「人生相談の哲学」を開始することには大きな意味があると私は考えます。人間にとっていちばん大切なこと、幸福、愛情、生きることの意味、そのようなテーマについてこれからじっくりと考えていきましょう。相談を寄せてくださった若者たちだけではなく、人生を長く経験した熟練の読者の方々にも味読していただける内容になっていると確信します。
それでは次回よりどうぞ本編をお楽しみください。
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*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。