人生相談を哲学する 悩みのレッスン / 森岡正博

人生相談は、人間とは何か?という真理につながる扉。 ひとつの悩みを根っこから掘っていくうちに、思いがけない視点にたどり着いていた…。 哲学の視点で物事をみつめると、そんな奇跡が起こりうる。 その場しのぎの〈処方箋〉から全力で遠ざかり、回答者が右往左往しつつ思索する、前代未聞の人生相談。

一方通行のその先へ

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Q6:相手の意見を否定せずに受け入れることはできますが、自己主張が苦手です。他人からどう思われるか気にしすぎているのかもしれません。自信を持つにはどうすればよいでしょうか。(大学生 女性 20歳)

 

 A6:相手の意見を否定せずに受け入れることができるというのは、すばらしい長所です。あなたは、人の話をよく聴き、その人を尊重しながら、関係を作り上げていくことのできる方なのでしょう。

 ただ、自覚されているように、相手の期待に応えるスキルを磨き続けてきたがゆえに、いまひとつ自己主張をすることが苦手なのですね。

 私は職業柄、いろんな人の前で自己主張をしなければならないことが多いのです。私のような学者でも、自分の意見を押し通していくのは心理的にきついものがあります。なぜかと言えば、自己主張することによって、それまでの良好な人間関係を壊してしまう場合があるからです。

 ひとつの提案ですが、あなたはもっと高いところを目指してみてはいかがでしょうか。つまり、じっくりと聞き役に徹し、その場の雰囲気を壊さないように気を配ったうえで、自分の意見をていねいに伝え、相手に「なるほど」と深く納得してもらえるようにするのです。

 そのためには、普段から、まわりの人たちとのあいだに「信頼関係」を作り上げておくことが大事です。信頼できる人の言うことならば、たとえそれが少々自分の意見とは異なっていたとしても、胸襟きょうきんを開いて受け止めやすくなるというのが人間の心理だからです。意見を否定せずに受け入れることができるというあなたの長所を、まずは信頼関係を築くために使ってみるのがよいと思います。

質問の背景

 質問者は、バイト先で、「あなたは仕事をきちんとできるのだから、もっと自信を持っていい」と言われるのですが、自信を持って自分を主張することができません。どうしても他人のことを気にしすぎてしまうというのです。それに対して、私は、「信頼関係」をまず作り上げてみてはどうかという提案をしましたが、いま読み返してみると、この回答はあまり良くないですね。

 質問者が知りたいのは2点です。ひとつは、どうすれば自己主張することができるようになるかという問いで、もうひとつは、どうすれば自信を持てるようになるかという問いです。質問者は20歳の女性です。おそらく、これまでの環境において受動的な女性役割を身につけてきたのでしょう。そのことを念頭に置きながら、「自己主張」と「自信」について、もういちど考えてみたいと思います。

ふたたびあなたへ

 先の回答でも書いたように、相手の意見を否定せずに受け入れることができるというあなたの長所は、とてもすばらしいものです。その長所を活かしたまま、上手に自己主張をしていけるようになるといいですね。そうすれば、自分に対する自信もしっかりとしたものになってくるでしょう。

 その前に、まず「自己主張」と「自信」について、根本のところから考えてみましょう。

 「自己主張」とは、自分の考えたことや、感じたことや、やりたいことなどを、他人に向かって主張することです。ところが、自己主張をするためには、他人に対して能動的な態度を取らなければなりません。「自分の意見はこうである」と、あからさまに言わないといけないのです。これは、受け身の形でものごとがうまく進んでいってほしいと願っているあなたにとっては、きっと荷が重いことでしょう。でも、いつも受け身では、フラストレーションが溜まってきますよね。

 あなたは「自己主張」というものに、どういうイメージを持っていますか? 声の大きな男性が自分の言いたいことを機関銃のようにしゃべるというような姿でしょうか。たしかに、そのような人は存在します。そしてそのような大きな声によって、まわりの人たちが引きずり回されていく場面もあります。しかしながら、そのような形で行なわれる自己主張は、実は、さほど上手な自己主張ではありません。なぜなら、まわりの人たちは、自分の気持ちや考え方がその大きな声によって上から踏みつぶされたという被害感覚を持ってしまうからです。たしかに表面上は、声の大きな人の自己主張が通ったように見えるのですが、その裏側では、その人に対する怨みや嫌悪感がまわりの人の心に渦巻いているのです。

 ところで、「自己主張」とは、けっして人間関係にひずみを生み出したり、和を乱したりするようなものだけではありません。もっとよく練られた自己主張のやり方もあるのです。たとえば、あなたが自分の意見を言うときには、まずまわりのみんなの意見をよく聞いて、彼らが心の中でどんなことを思っているのか、何を望んでいるのかを想像してみましょう。そして、自分がしゃべる番になったら、まず「みなさんはこういうことをお考えなのですよね」と尋ね、それぞれの人たちの思いを確かめます。もし自分の理解が間違っていたら、訂正してもらいます。そして、彼らの思いを尊重したうえで、自分自身の意見を述べてみるのです。たとえ彼らの意見と自分の意見が正面からぶつかるようなときでも、このような手順を踏むだけで、人間関係のひずみは生まれにくくなります。なぜかというと、彼らは、「ああこの人は私たちの意見を受け止めて理解したうえで、それとは別の考え方を述べているのだな」というふうに思ってくれるからです。

 すなわち、みんなの思いを想像して、みんなの意見を確かめてみること、ここにおいてこそ、あなたの「相手の意見を否定せずに受け入れることができる」という能力が活かされるのです。

 もうひとつ大事なのは、「私はこうしたいのだけれど、あなたはどう思う?」というふうにして、ボールをいったん相手にあずけることです。すると、「自己主張している人間がその場を支配するわけではない」というメッセージがみんなに伝わります。ボールを受け取った側は、自分が相手の自己主張の下敷きになったり、犠牲になったりしなくてもいいんだと感じることができます。こうやって私たちは、人間関係をひずませたり、相手の人格を否定したりせずに、自己主張を行なっていけるのです。このような、ほんのちょっとした技術を覚えるだけで、自己主張を行ないやすくなります。

 上手な自己主張とは、相手の意見をブルドーザーのように押しのけて自分を主張していくことではなくて、相手の意見をよく受け止めて理解しながら、相手を包み込むようにして自分の意見を浸透させていくことなのです。もちろん、自分の意見と相手の意見が対立することはありますが、相手に「なるほど、そういう考え方もあるのか」と納得してもらえるように工夫していくことは可能です。


 この種の感覚を育てていくには、いちど「哲学対話」を経験してみるのがいいかもしれませんね。市民団体が主催する「哲学カフェ」がいま注目を集めています。街の喫茶店などに一般市民が10名ほど集まって、なにかの話題をめぐって、自由に意見を交換するのです。最近はオンラインの哲学カフェもあります。たとえば、「友人とは何だろう?」とか、「愛とは何だろう?」というようなテーマをめぐって、参加者たちがそれぞれ自分の思ったことを発言し、考えを深めていきます。そこで行なわれるのは、勝ち負けを競うような討論会ではありません。参加者たちはお互いの発言を否定せず、安全でリラックスした雰囲気のなかで、自分の意見を述べ、他人の意見を聴き、みんなで一緒になって思索を深めていくのです。このようなやり方を「哲学対話」と呼びます。哲学対話では、つねに相手の意見を良く理解して受け止めながら、自分の意見を述べていかなくてはなりません。相手を否定することなく、人間関係をひずませることなく、そのうえで自分の言いたいことを分かりやすく主張していくことが求められます。まさに上手な自己主張のやり方を訓練するのにぴったりの空間なのです。

 おそらく歴史的に見て、哲学というのは、互いを尊重するこのような意見のやりとりから生まれてきたのではないでしょうか。たとえばソクラテスを主人公として繰り広げられるプラトンの対話篇では、けっして議論の勝ち負けが競われているわけではありません。登場人物たちの異なった意見が人々の前で交差し、そこから深い洞察が浮かび上がってきて、議論の場にいた人たちは感動し、我々は登場人物たちに尊敬の念をいだくに至るのです。まさにここにこそ哲学の神髄があります。単に勝ち負けを競ったり、相手を罵倒したりするのは、実は哲学からもっとも遠い行ないなのです。真に哲学的な自己主張は、実はとても謙虚な形をとるのです。相手の思索に対する深い思いやりと尊敬こそが、哲学的な営みの基礎にあると私は思います。


 次に、「自信」について考えてみましょう。自分に自信を持つとはどういうことでしょうか。「自信」とは、自分の意見が正しいと信じることではありません。そうではなくて、課題に取り組んだり、与えられた状況の中で解決方法を模索したりするときに、課題や状況への自分の「向き合い方」が正しいと確信できることです。「向き合い方」が正しければ、たとえそこから導かれた結果が間違っていたとしても、私はそれを誰のせいにもせずに、結果を正面から引き受けたうえで、もう一度はじめからやり直していくことができます。「自信」とは、問いへの「向き合い方」が正しいと確信できることですから、自分に自信がある人は、結果の善し悪しにさほど一喜一憂しません。そして、自分に自信がある人は、もし自分の主張が間違っていることが判明したときには、その間違いを素直に認めます。なぜなら、自分の出した答えは間違っていたかもしれないけれども、問いへの向き合い方は間違っていなかったはずだから、もう一度最初からやり直せばいいし、何度でもやり直せばいいのだと思うことができるからです。このような人は、いわゆる「自信家」のようには見えません。むしろ、自分の過ちを素直に認める謙虚な人物のような印象を与えます。「真に自信のある人は控えめに見える」というのが経験則です。そして真の自信家は聞き上手でもあります。すなわち聞き上手のあなたは、将来的には、自分に真に自信を持てる人間へと成長することのできる素質を持っていると言えるのです。


 今回は、自己主張をできるためにはどうすればいいか、そして自信を持つにはどうすればいいかを考えてみました。ここまで述べてきたことは、おおよそ正しいと私は考えています。けれども、なぜ私は自分の回答がおおよそ正しいなどという自信を持っているのでしょうか。いま書いた文章を読み返してみると、私は「向き合い方」ではなくて、自分の出した「答えそのもの」をおおよそ正しいと信じているわけですから、私は真の意味で自分に自信を持っているのではなく、偽物の自信家にすぎないということになってしまいそうです。では、私は、質問者に対する自分の「向き合い方」についてはどう思っているのでしょうか。あらためて考えてみると、私は質問者に対して、自分の数十年の人生で得られた経験や知識を総動員して答えているわけなのですが、しかしその経験や知識の幅はさほど広いとは言えません。なにしろ私はずっと大学の世界の内側にいるのであり、そこから外に出たことなど一度もないのです。そんな私が、質問者のみなさんの多様な生のあり方やその背景をきちんと理解できるはずはありません。私がここで述べてきたことは、私が狭い世界の中で経験してきた出来事を素材として、過去の賢者や偉人たちが書き残してくれた知恵を参照しながら、なんとなく正しそうな一般論を出してきたという、そのようなものでしかないとも言えるのです。

 あまり偽悪的になっても良くないのですが、今回の質問に回答していて、そのようなことが脳裏から離れなくなりました。哲学者で大学教授という立場を利用して、高みから読者に託宣を垂れているという面は確実にあるのです。そもそも人生相談とは何でしょうか。人生相談に答えるとは何をすることなのでしょうか。それは質問者に対して、「このように問いを解決してはどうか」とアドバイスすることであってはならないような気がしてきました。人生相談に答えるとは、回答者が自分の回答のいかがわしさを直視し、そのような回答をする自分とはいったい何者なのかをあらためて考え、実際に質問者のような状況になったとしたら自分はどのようにふるまってしまうのか、そしてそこで自分は何をすべきなのかを、いまここで考え抜くことではないかとも思えてきました。

 少なくとも人生相談に対して哲学的に応対するとは、そのようなことを意味するのではないでしょうか。哲学の基本姿勢は「汝自身を知れ」です。回答者である私は、質問者をではなく、自分自身を知るべく模索しなければならないのです。哲学者による回答は、質問者に向かってアドバイスすることではなく、哲学者自身を掘り下げることでなくてはならない。そうじゃないと、哲学者が回答している意味がない。文化人が新聞の人生相談で気のきいた回答をして読者を喜ばせるようなことが、私に求められているわけではないのだ。哲学者ならば別の道を選ぶべきだ。そう気づきました。今回の質問によって、「人生相談を契機にした自己の探究」という新しい地平が見えてきたように思います。しかしこのような側面をあまり強調すると、今度は、私が自分自身を掘り下げるために、質問者からの問いを自分のための道具として利用するという悪に陥ってしまうような気がします。哲学者のカントは、他人をけっして単に手段として使用してはならないと考え、これを実践の最高の原理だとしました。(「汝の人格やほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように行為せよ」。カント『道徳形而上学の基礎づけ』(宇都宮芳明訳、以文社、1998年、129頁)。ここでの「人間性」はMenschheit。尊厳をもった人間の核のようなものです)。すなわち、人はけっして他人を自分の個人的な目的を達成するための単なる踏み台として使ってはならないという意味です。ここに近代的な倫理の根本が見事に表明されていると言っていいでしょう。だとすると、私が質問者からの問いを利用して自分の哲学を深めるのは、カントが戒めたような、他人を「単なる手段」として扱うことになる危険性があるのです。ああ、これからこの連載企画はどこに向かって進んでいけばいいのでしょうか。いずれにせよ、質問者の方には深くお礼を申し上げたいと思います。

  

  

* 本連載のご感想、質問をぜひお寄せください。また、本連載をもとに哲学カフェや読書会、学校での授業などを開催される際もお知らせくださいますと幸いです。「連載・人生相談を哲学する」という件名で、ikinobirubooks@moshbooks.jpにメールをお願いいたします。

  

  

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。