人生相談を哲学する 悩みのレッスン / 森岡正博

人生相談は、人間とは何か?という真理につながる扉。 ひとつの悩みを根っこから掘っていくうちに、思いがけない視点にたどり着いていた…。 哲学の視点で物事をみつめると、そんな奇跡が起こりうる。 その場しのぎの”処方箋“から全力で遠ざかり、回答者が右往左往しつつ思索する、前代未聞の人生相談。

沈黙が運んでくれるもの

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Q4:話すときに実感と本音のギャップがあり、表面的な話しかできません。沈黙が怖くてペラペラしゃべってしまいます。(会社員 男性 28歳)

 A4:うまく話せた実感が持てない原因は、おそらく、あなたがまだ借り物の言葉で考えて、しゃべっているからでしょう。

 自分の気持ちにぴったりくる言葉を頭の中で探すには時間がかかります。そのあいだ、あなたは沈黙してしまうことになるのですが、その沈黙に耐えたあとではじめて、重みのある言葉が「ボソッ」と出てくるのです。会話の中の沈黙はけっして怖いものではありません。むしろそれはすてきな経験になり得るということを、まずは知っておきましょう。

 そのうえで考えてみてほしいのですが、自分の実感が相手にそのまま伝わるなどということが果たしてあるのでしょうか。いくら話し上手な人が自分の実感をしゃべったとしても、人が言葉を聞いて思い浮かべるイメージは様々ですから、心の中の実感がそのまま相手に伝わるなんてことはないのです。

 だとすると、会話とはそもそも何なのでしょう。自分の気持ちをそのまま伝えることができないのなら、会話する意味はないようにも思えます。

 ですが、面白いことに、他人との会話を通して、自分ですら気づいていなかった本当の自分の気持ちを発見できることがあるのです。すなわち会話とは自分の内面にあるものを他人に伝えることではなく、他人との会話の中から本当の自分を発見していくことだとも言えるのです。

 そういう気持ちで他人と言葉を交わしていけば、深く味わいのある会話が自然とできるようになるはずです。

質問の背景

 質問者は、会話をするときに、自分の実感をうまく言葉にしてしゃべることができず、どうしても表面的で薄っぺらい会話になってしまうと悩んでいます。さらに会話の途中で沈黙が訪れるのが怖くて、ペラペラとしゃべり続けてしまうというのです。

 それに対して私は、自分の実感を言葉で伝えるのはそもそも難しいことだという回答をしたのですが、いま読み返してみると、質問者の悩みにまったく応えられていませんね。質問者と回答者がすれ違ってしまった典型的な例だと思います。きっと質問者は私の回答を読んで失望したことでしょう。

 この質問にはいろんな論点が隠されています。そのひとつは「沈黙が怖い」です。この点に注目して、もういちど全体を考え直してみます。

ふたたびあなたへ

 誰かと会話をしているときに、不意に沈黙がやってくるのは怖ろしいものです。沈黙がほんの少しでも続くと、まるで氷の世界がその場を支配するような気がして、なんとか言葉を発して沈黙を食い止めなければならないという気持ちになります。ですから、あなたのおっしゃることは私にもよく分かります。とにかく何かしゃべらなくては、と自分を追い詰めることもありますよね。

 冷静に考えてみれば、そもそも沈黙のない会話というものはほとんどありません。おしゃべりをしている人々を観察してみると、かならずどこかに沈黙の時間が存在しています。おしゃべりがあり、沈黙があって、またおしゃべりが始まる、というふうになっているのです。

 さらには、深い話をするためには沈黙が必要だと言うこともできます。なぜなら、おしゃべりばかりで沈黙がなかったら、相手の言葉を頭の中でゆっくり反芻できなくなります。すると話の内容はどうしても条件反射的なものになり、あなたの言う表面的なものになってしまうからです。

 もちろん、沈黙がずっと続くのはいやなものですよね。しかし会話は相互的なものですから、なにもあなたが沈黙を埋めなくてもかまいません。あなたではなく、相手のほうが沈黙を埋めてくれても問題ないのです。会話の途中でもし沈黙が訪れたら、それを埋めたい気持ちをぐっと抑えて、窓の外の景色でもぼんやりと眺めながら、相手が沈黙を埋めてくれるのを待ってみてはどうでしょう。

 沈黙が怖いという気持ちについては後に回すとして、ここであなたの言う「表面的な」会話について考えてみたいと思います。

 あなたが悩んでいるのは、「雑談」の場面で沈黙が怖くなり、ペラペラとしゃべってしまうことですね。ところで「雑談」とはいったい何でしょうか。それは、ある終着目標に向かって一糸乱れずに進行していくような、整然とした会話のことではありません。「雑談」とは、とくに目指す目的もなく、その場の流れで話があっちへ行ったり、こっちへ戻って来たりしながら時が過ぎていく、そういう会話なのです。「雑談」では結論が出なくても大丈夫ですし、自分の話で相手を面白がらせなくても大丈夫です。

 なぜなら「雑談」とは、表面的な言葉のキャッチボールをしながら、「私はここにいるよ」「私はあなたの話を聞いているよ」「私はあなたをちゃんと見ているよ」「あなたは一人じゃないよ、孤独じゃないよ」というメッセージを、お互いに伝え合うことだからです。私たちは「雑談」をすることによって、自分はこの世に孤立無援に放り出されているわけではないということを互いに確認し合っているのです。

 そして言葉と言葉のあいだに訪れる沈黙の時間こそが、「私はここにいるよ」というメッセージを伝え合うことのできる黄金の時間なのです。私はひとりではないし、あなたもひとりではないということが、優しい沈黙のなかで静かに浮かび上がってきます。この時を大切にしてみましょう。あなたは沈黙が怖くてペラペラしゃべってしまうわけですが、いちどそれを我慢して、「雑談」のあいだに訪れる沈黙を味わってみませんか。そしてその沈黙を、「私はここにいるよ」という相手からのメッセージとして受け取ってみませんか。沈黙を挟みながら、ボソボソと続いていく会話もなかなか味わい深いものですよ。あなたはまだ若いですが、こういうおじいちゃんとおばあちゃんみたいな会話も新鮮で楽しいのではないでしょうか。

 もちろん、人と表面的な話しかできないとなると、それはそれで問題です。本音で会話をしなければならない場面は人生にたびたび訪れます。そういうときは、本音でしゃべっても相手を困らせないようにきちんと場所や環境を設定して、「いまから本音でしゃべりたいんだけど大丈夫?」という雰囲気を相手に伝えて、それから言葉を選んで話をするのがよいと思います。ペラペラしゃべるのは控え、誠実に言葉を選びながら、相手の目を見てゆっくりと話すようにしましょう。


 さて、ここでもう一度「沈黙への怖れ」に戻りたいと思います。そもそも「沈黙への怖れ」とは何でしょうか。

 それは(1)人間関係についての怖れ、(2)私の存在についての怖れ、の二つに分かれます。

 まず人間関係についての怖れですが、それは何かというと、あなたと私は友だち同士だと私は思っていたけれども、ほんとうは全くそうではなくて、ひょっとしたら友だち関係はまったくの見せかけにすぎないのかもしれないという怖れです。すなわち、あなたとは一緒にお茶を飲んだり、遊びに行ったりする仲ではあるのだけれども、ほんとうのところは、あなたの心の中ではこの私はどうでもいい存在であり、いてもいなくてもどっちでもかまわない存在にすぎないかもしれないという疑いが沈黙によってあぶり出されてしまことを怖れているのです。いったんそういう疑いが出てくると、それを理屈で打ち消すのは非常に難しいでしょう。

 これは、自分が「つまらない人間」だと相手に思われてしまうことへの怖れ、と言い換えることもできます。沈黙の時間のあいだに、自分の心の中を見透かされ、自分がつまらない人間であることが相手にバレてしまうことへの怖れと言ってもいいでしょう。いくら相手が私を親友だと呼んでくれたとしても、それは上辺だけの嘘かもしれませんしね。そしてこのことは家族のあいだであっても成り立つのです。親や姉妹兄弟が自分のことを大切にしてくれるのは、単に家族だからそうしているにすぎないのであって、心の底では私のことを「本当につまらないやつだな」と思っているのかもしれません。このような疑いはどこまでも広がっていき、止まるところを知らなくなります。これは非常に怖いことです。信頼していた人間関係がすべて崩れていくような怖ろしさがあります。

 次に、私の存在についての怖れを考えてみます。それは、「私はこの世界のなかで完全に孤独なのではないか」という怖れです。たとえ友人と楽しくしゃべっているときであっても、私はその友人と心身が融合しているわけではないのですから、私はたったひとりでこの世に存在しているのです。たとえ私と友人のあいだに温かい人間関係があったとしても、その友人の存在は、私からは切り離されています。たとえばその友人に心臓発作が起きて死んでしまったとします。友人はもうこの世にはいなくなりますが、私はこの世で存在し続けます。あんなに親しかった友人なのに、その人は消滅し、私だけが生き残るのです。友人と私はやっぱり別の存在として、切り離されていたのです。このように考えてみると、親しい人間が私の周りにいくらたくさんいたとしても、私は彼らからは根源的に切り離されており、私は孤独に存在しているとしか言いようがありません。これは親子であっても恋人であっても成り立ちます。誰と一緒にいたとしても、私は根源的にひとりであり、孤独なのです。

 私は何の根拠もなくここに存在している。そして私は孤独というどうしようもない穴ぼこの底に落ちている。そのことが怖くて大声で叫んでも、誰も助けに来てくれないのではないか。誰かが助けに来ようとしても、他人と自分のあいだに存在する深淵が私の存在への接近を不可能にするのではないか。そういう孤独感が、会話の沈黙のなかでふと心の中に湧いてきたとしたらどうでしょうか。そこから目をそむけたくなりますよね。それを避けるために、あなたはペラペラとしゃべり続け、ひたすら沈黙を埋めようとしているのかもしれません。いま私は大げさなことを言っているように思えますが、実はこのような不安の感覚に、人は生きるなかで襲われることがあります。それをくっきりと言語化して自覚することがいままでなかっただけで、ほんとうは私が言おうとしていることを、あなたはすでに心の中でよく理解しているのではないでしょうか。

 なぜ他人と私は根源的に切り離されて存在しているのか。親しい人と一緒にいるときでさえ、なぜ私は孤独な形で存在しているのか。なぜ私はそういう孤独な状態で生きなければならないのか。これらは哲学の根本問題です。このような問題に気づくことは、たしかに怖いことです。なぜなら、その問いへの簡単な答えはないですし、答えをまさにひとりで孤独に探していかないといけないように感じられるからです。しかし、これらの問いを粘り強く考えてきた人たちは昔からたくさんいました。その思索の軌跡は、様々な古典となって現代まで残されています。たとえば17世紀の哲学者・数学者であるブレーズ・パスカルの『パンセ』は、人間が孤独に存在することの意味を考え抜こうとした名著です。パスカルは、宇宙の中にひとりで投げ出された人間の孤独について、次のように書いています。

わたしの人生の短い期間が、その前後に続く永遠の中に呑みこまれており、わたしの占めるこの小さな空間、わたしの目に映るこの小さな空間が、わたしを知りもせず、またわたしにも知りわけられぬ空間の無限の広がりの中に沈みこまれているさまを、つくづくと眺めてみるとき、わたしは、他の場所でなく、この場所にこうしている自分の姿が見えてきて、恐れと驚きを感じる。なぜ、他の場所でなくこの場所にいるのか、なぜ、あの時でなく、この現在にいるのか、まったくその理由がないのだからである。(田辺保訳『パンセ』教文館、2013年、48~49頁、断章68)。

 無限の宇宙の中で、ぽつんとひとりだけ孤独に存在している自分の姿に、怖れと驚きを感じるとパスカルは言います。この孤独感覚は、次の断章に凝縮して表現されています。

この無限の空間の永遠の沈黙が、わたしを怖れさせる。(森岡試訳。「怖れさせる」はeffrayer。田辺の直訳版では「この無限空間の永遠の沈黙が、わたしをぞっとさせる」。159頁、断章201)

 私は他人と切り離されて存在しているだけではなく、宇宙からも永遠の沈黙という形で完全に突き放されてしまっているというのです。ここまで追い詰められた孤独な私は、どうすればいいのでしょうか。パスカルは、人間の「考える」力に希望を見出します。

人間は一本の葦でしかない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことはなにも知らない。/だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。……だから、正しく考えるように努めようではないか。いかに生きるかの根底はここにある。(田辺訳、159頁、断章200)

 「人間は考える葦である」という言葉は有名ですが、それはこのような文脈で語られる思想なのです。宇宙の無限と強大さに比べれば、私は徹底的に小さく、強風に揺れる一本の葦のような、かよわく孤独な存在にすぎない。なぜこんなに孤独なかたちで存在させられているのか私は理解できないし、恐怖を感じる。しかしそのようなちっぽけな人間に残された最後の砦が「考える力」である。考えること、そこにのみ、孤独に投げ出されて存在する人間の唯一の尊厳があるのだ。パスカルはこのようなことを表現しようとしています。人間の怖れの心に対する、哲学からのひとつの解答だと言えるでしょう。パスカルはここからさらにキリスト教の神の擁護に向かいます。

 理論的な哲学書としては、エドムント・フッサールの『デカルト的省察』があります。フッサールは、この世界で他人が私と同じくらい深いところに根を下ろして存在していることをどうしたら理論的に説明できるのかを考え抜きました。その試みは失敗したと言われますが、彼の思索は現象学という哲学となり、現在に至るまで多くの人々にインスピレーションを与え続けています。

 もしあなたが「沈黙への怖れ」について考えてみたいのなら、哲学や宗教の古典をじっくりと読んでみることをお勧めします。それらの書物に書かれているのはけっして表面的なことではありません。あなたは本を片手に沈思黙考し、過去の著者と対話を繰り返すことになります。このような深い沈黙の時間を経ることによって、あなたは沈黙への怖れを自分の内側から少しずつ溶かしていくことができるでしょう。そして自分が考えたことを、ゆっくりボソボソと話すことのできる友だちを見つけたいと思うようになるでしょう。

  

  

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