「そういう男性っていますよね(笑)」。学生の課外活動をパネル展示するという大学主催のイベントに、発表者として参加した時のことだ。2016年のことだったと思う。当時大学院生だった私は、〈男らしさ〉にまつわる問題について男性同士で語り合うグループを開いていて、イベントではその活動について紹介した。〈男らしさ〉は男性に様々な影響をもたらし、深い悩みを抱える人が来ることもある…。そのように話すと、パネルを見に来たひとりの男子学生からこの言葉を投げかけられた。そんな反応があることを、予想していなかったわけではない。活動を続けている中で、周りの人から「怪しい」「カルトっぽい」と噂されたこともあった。それでも、面と向かって言われると、胸の奥がざわっと毛羽立つような感覚に襲われた。私と、グループの参加者たちが、特殊な位置に置かれたような気がしたからだ。
そういう男性。冷静に考えると興味深い言い回しだなと思う。自分が苦悩を抱えている、もしくは今後抱える可能性が消し去られ、遠い世界の存在のようになっている。男性が別の男性のことを完全に他人事にしてしまう、こうしたふるまいを〈切り離し〉と呼んで関心を持ってきた。
男性の語り合いグループを開くという活動はその頃からずっと継続していて、今は主にふたつの実践に関わっている。ひとつは非モテ(=モテない悩み)をテーマに掲げた市民活動グループ「ぼくらの非モテ研究会」で、大学院生の頃、このグループをフィールドにして博士論文を書き上げた。現在も月1回の例会に数名の男性が集って、自分たちの経験や考えを語り合っている。もうひとつはドメスティック・バイオレンス(DV)をしてしまった男性のカウンセリンググループで、こちらは心理臨床家として関わり、脱暴力やパートナーとの関係修復のサポートを行っている。
ほぼ毎日「男性」のことを考える奇妙な日常を送っているが、こうした男性問題に取り組みだしてから、切り離しを経験することが何度かあった。例えば、DVをしてしまった男性の心理的なサポートをしていると話すと、必ずといっていいほど「どんな人たちなんですか?」という質問を投げかけられる。それ以外にも、「どんな仕事の人が多い?」「性格的な特徴は?」など、彼らの傾向を尋ねられる。まるで、なんとか特殊な「性質」を見つけだそうとするかのようだ。
しかし実際に関わっていると、加害をした男性たちに決まった「性質」のようなものはなく、背景も人それぞれで、「こんな人たち」と一言では語り尽くせない。それに彼らの話を聞いていると、自分も他人事ではないな、と思う。似たようなことを考えたことがあるし、また自分もしてしまったことがあるからだ。様々な要因の組み合わせによって、誰もが暴力をふるう側になってしまうのだと痛感する。にもかかわらず、自分とは全く関係のない異端者として、加害者はイメージされることが多い。だから、意図せずした行為が周りから「加害だ」と指摘されたときに、激しく動揺する人が多いのかもしれない。自分が加害者になるとは微塵も思っていないからだ。
メディアの記者はもっと露骨だ。「非モテ」と男性性を主題にした単著を出版してから、新聞やテレビ、週刊誌などから取材依頼が数多く舞い込んだ。キャッチーなテーマだったのだろう。ただ、取材方針に首をかしげたくなるようなこともあって、中でもひどかったのは「非モテに悩む男性が抱える心の闇…」というタイトルの企画書を送ってきた雑誌だ。唖然として話を聞く前に断った。
国際男性デーに合わせて取材したいという問い合わせも少なからずある。男性が抱える問題は日常的にあるので、わざわざ年1回思い出したかのように喧伝するのは妙だなと思って毎回断っているが、ある新聞社の男性記者から、「男性の生きづらさの特集を組みたいので生きづらい男性を紹介してください」という奇妙な依頼がきたことがあった。そんな馬鹿な…。「わざわざ私に言わなくとも、あなたの周りにもいるのでは」と返信したら、「それはそうなんですが…」と煮えきらない返事がきた。なんとか「生きづらい男性」というカテゴリーを作り出して、客体化したかったんだろうなと思った。
少し意地悪に書いてきたけれど、こうしたことが本当にたくさんあって、しかも切り離しを行ってくるのは多くの場合男性だった。切り離しは、他の男性の身に起きたことを他人事にしてしまうだけでなく、「正常な男性」と、そこから「逸脱した男性」という二項対立を生み出し、切り離しを行った者を「正常な男性」というポジションに置く効果を持っている。つまり、切り離しをすることによって、自分は男性として生きづらさを抱えることも、モテないことで苦悩することも、暴力をふるうこともない人間であると演出することができる。
ここまで挙げた事例はどこか他の男性を軽視するようないやらしさを感じさせるものだったが、もう少しわかりにくい形で切り離しが行われる場合もある。
友人からこんなエピソードを聞いたことがある。ある日、気の合う職場の同僚と恋愛トークをしていて、思いを寄せる相手のことを互いに話し合って盛り上がった。ところが「アプローチしないの?」と聞かれ、返答に困ってしまった。彼は女性と恋愛したいという気持ちはあるけれど性的な関心は持ったことがなく、そのことにコンプレックスを抱いていた。いつか恋人になれたとしても、相手から性的なふれあいを求められた時に、うまく対応できる自信がなかったからだ。少しためらいはあったものの、思い切ってその悩みを同僚に打ち明けてみた。同僚は、彼の話に口を挟まず最後まで聞いてくれたが、「ふつうぼくたちって恋愛的な感情と性的な感情を同時に持つと思うんだけど、〇〇くんのような場合もあるんだね」と応えたのだという。
同僚の応答は、一見相手のセクシュアリティを受け止めているように思える。実際、友人のことを尊重する気持ちもあっただろう。ただ、いくつかの疑問も湧いてくる。
例えば「ぼくたち」とは一体誰のことを指すのだろうか。同僚の彼は、恋愛的な感情と性的な感情を同時に持つことが当たり前だという前提で話をしているが、セクシュアリティがそこにぴったりと当てはまる人がどれだけいるだろうか。実際には人によって違いがあり、性的な感情を持たない人もいれば、恋愛的な感情を持たない人もいる。どちらもないという人もいる。性的・恋愛的な感情を持つ場合も、0か100かというわけではなく、そこにはグラデーションがある。
またさらっと言葉にされているけれど、「ぼくたち」が「ふつう」であると、なぜ言えるのだろうか。セクシュアリティとは本来人によって様々なもので、絶対的な基準が定められているわけではない。だとすると「ふつうは…」という枕詞はかなりうっかりしたものなのだけれど、性にまつわる社会規範が後ろ盾になっているために大きな力を持つ。まるで「正しい性のあり方」を信じる無数の人たちが、背後に控えているように感じられる。実際、同僚にそう応答された友人は、もやっとしたものの何も言い返すことができず、曖昧に話題を終わらせたのだという。「正しい」と思い込んでいる人に、抵抗の言葉を紡ぐことは難しいし、下手をしたら彼との関係性に波風を立たせてしまうかもしれない。結果、彼の違和感は埋もれ、同僚が生み出した非対称もなかったことになっていく。
このエピソード、専門家然として分析しているけれど、偉そうなことは言えない。「ふつうは…でしょ」といって相手を説得しようとしてしまうことが、結構な頻度で私にもあるからだ。それが起こるのはたいてい会話していて自分の都合が悪くなったとき、もしくは他者の価値観や文化に出会い、自分が信じていた世界が揺さぶられるような感覚が生じたときだった。どうしても自分の世界を守りたくなってしまって、〈揺さぶられ〉を収めようとするときに、「ふつうは…」という言葉を伝家の宝刀のように出してしまうのだ。
ここにもやはり緩やかな切り離しが生じている。「ふつう」と「ふつうでないもの」を区切って、相手を低い位置に置いているからだ。しかし、「わたし」と「そういう男性」は本当に違う世界に生きているのだろうか。
男性同士の語り合いグループでは、様々な気付きや発見が生まれてくる。まず目につくのは、参加者たちの立場や経験の違いである。例えばモテないという悩みを抱いている、抱いてきたという男性同士でも、その悩みの質や悩みを抱いた経緯は異なる。これまで女性と全く関わったことがなく、関わりたいと思う男性もいれば、関わりたいとは特に思わないけれど、関わっていないことを周囲から馬鹿にされていると悩む男性もいる。女性と関わらなかった時期よりも、失恋を経た今のほうが辛いという男性もいる。
また、悩みが生じた状況も人それぞれで、周囲の友人にからかわれて劣等感を深めていたという人もいれば、そもそも学校に友人が全くおらず、一人孤独だったという人もいる。それ以外にも、ひきこもりの状況にある/あった、発達障害がある、低収入である、性的マイノリティである、日本以外の国にルーツがあるなど、社会的背景の違いが表れる。それに伴って、語り合いグループに参加している人の中には、全く異なる経験にふれる驚き、わかり合えないという落胆、自分よりも良い境遇にいることへの嫉妬、などが溢れてくる。
しかしその一方で、他の参加者が語る言葉に深い共感が寄せられることがある。男性として一人前ではないという感覚を抱いてきたこと、女性に対して過度な期待を抱いてしまったこと、なかなか弱音を吐けずに苦しんできたこと。その経験をしているのは自分だけだと思っていたのに、似たような悩みや痛みを抱いてきた人は他にもいて、彼らと経験を共有することで、目の前の男性と確かにつながっているのだと、はっと気付かされる。
グループに参加する男性たちは、当然違いもあるけれど、私を含めて、モテないことで悩んできた、そして何より男性として生きてきた経験において、部分的にだけれど共通する部分をもっている。
こうした差異と類似性を同時に抱えるというのはグループに参加する個人に限った話ではないだろう。現代社会を生きる誰しもが、多かれ少なかれ他者と部分的に共通するものを持つし、自分には関係ないと思っていたことを思いがけず経験することもある。
自分と相手の間に、明確な境界線は実はないのかもしれない。にもかかわらず、「自分たち」とは違う異端な人々がいるという価値観が広く共有されていて、当然のように切り離しが行われる現状がある。
しかし、ここまで見てきたように切り離しは恣意的なものであり、その営みによって、正しいものと正しくないものが分けられ、序列がつけられている。集団の中でより中心に陣取る者と、周縁に追いやられていく者が生み出されていく。そして中心近くにいる男性ほど、切り離されないようにうまく自分をコントロールし、同時に他の男性を切り離すことが多い。それは時に暴力や差別を呼び込むこともある。あいつはフツウと違うから、軽視してもかまわない。あいつはフツウと違うから、周りよりも不遇な目にあっていても仕方ない。といったように。
こうした現象は男性にだけ起こることではないかもしれない。「私は彼らとは違う」という焦りのような感覚が排除を生み出す場面はよく見かけるし、それはシスジェンダーやヘテロセクシュアル、日本人、健常者、富裕層、高学歴、都市圏出身者というマジョリティとしての属性を持つ人によって日常的になされている。
とは言え、ひとまず本連載では男性たちの相互行為に焦点を当てて、切り離しという現象について詳しく見ていきたい。私が日常的に関わるのは男性であり、また私自身も男性としてのマジョリティ性について日頃思い悩んでいるからだ。排除や差別ほど強い力学がそこにはたらいているわけではないけれど、個人と個人の間に亀裂を入れるその現象から、マジョリティ性をめぐる問題にかんして、新たな視点を導き出そうと思う。
具体的には、私が見聞きしたエピソードをもとに、切り離しはどのように起こり、それはなぜ見えにくいのか、といった点について事例研究を行っていく。また、切り離しは本当にだめなものなのか、逆に必要な場合はないのかという問いについても深めてみたい。「私は彼らとは違う」と考えることは否定的な側面しか持ち得ないのだろうか。その間にある境界を、しっかりと設定して関わることも、時には必要かもしれない。あらゆる側面から切り離しを眺めてみる。それが本連載の目的だ。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。