前回周囲の誰かと自分の間に線を引いて、「フツウじゃない」と相手を格下げし、逆に自分を「正常」の位置に置く実践を〈切り離し〉と呼んだ。社会の中でいつのまにか設定されたフツウという基準。そこからこぼれ落ち、「フツウじゃない」とまなざしを向けられることに、多くの人が恐怖を抱いている。(同時に、日常的にそのまなざしを向けられている人たちもいる)。そして、こうした恐怖を感じなくて済むように、巧みに自分を管理する。フツウという基準を満たすために社会的成果を追い求めたり、フツウではない自分の特徴を覆い隠したり、忘れ去ったりする。
まなざしを避ける方法として、最もインスタントに実行できるのが〈切り離し〉である。〈切り離し〉は、具体的な行動として、日常生活の様々なところに現れる。教師が手に負えない子どもを話題にして、特に診断が出ているわけでもないし、今後サポート体制を取る気もないのに、「あの子は発達障害だからな」と同僚の教師につぶやくとき。結婚していない男性社員に対して、上司が「早く良い人をつくらないとな?」と笑いながら声をかけるとき。ひきこもりを特集するテレビ番組を見ながら、親が子どもに「あんなことにならないでほしい」とアドバイスするとき。微妙な形で、私たちは線を引いて、他者を貶めている。
こうした具体的な〈切り離し〉行動のうち、目の前の相手に対してなされる最も典型的な形は「からかい・いじり」である。「からかい・いじり」は集団で話しているとき、ユーモアを生み出したり、お互いの関係性を深めたりするコミュニケーション手段の一つとして捉えられることが多い。実際そうした効果が得られる場合もあるだろう。しかし大きな問題も含んでいる。
からかう側とからかわれる側が入れ替わるような場合や、からかわれるのが嫌な時に「それは嫌だ」と言うことができ、またそれをしっかりと聞きとったうえでからかいを止めることができる場合ならば、まだいい。また、組織や集団の中で実質的な権力を持つ者に差し向けられるからかいは、風刺的な意味を持ちうる。
問題は、そこまで集団で力を持たない個人に対してなされる一方的かつ継続的なからかい、そして集中的になされるからかいである。今回はこうした一方向的になされるからかいの問題について、私が先日体験したことをもとに考えてみたい。
スーパー銭湯でのこと
最近銭湯の魅力に気付いた私は、自宅から自転車で行ける距離にあるスーパー銭湯に、ふた月に1度くらいの割合で通うようになった。京都には、いたるところに大学があって、夕方になると授業を終えた多くの学生たちが、その銭湯に集まってくる。その日はたまたまピークの時間にぶつかってしまって、図らずも私は学生たちにまぎれて風呂に入ることになった。
露天風呂には、岩風呂の他につぼ湯が2つある。そのうちの1つにゆったりと浸かって、身体を伸ばした。もう一方のつぼ湯には、学生と思しき2人組が入っていて、にぎやかに話をしている。1人は茶髪のボブカットで垢抜けた雰囲気を帯び、もう1人は短髪でスポーツマン風だ。どうやら彼らは3人組で来ていたらしく、もうひとり、くせ毛のミディアムヘアの男性が、岩風呂から上がって彼らのつぼ湯に向かって歩いてきた。
何を盛り上がっているのかと思っていたら、どうやら2人はこのくせ毛の彼に向かって、口々に軽口を言っているようだった。「お前ほんま乳首でかいな」「ケツ毛見せんなよ、汚い」などの言葉を次々にぶつけて、笑っている。
くせ毛の彼は力なく笑いながら、彼らのからかいをいなし、そしてそのまま近づいてきて、2人の入っているつぼ湯に入り込んだ。「お前、入ってくんなや!」と短髪の彼ははしゃぎながら、どこか嬉しそうだ。
私はその様子を見て目を見張った(実際に見張ったわけではない)。直径1メートル半くらいのつぼ湯の中に、成人した男性が3人入っているのである。彼らは互いに足を絡み合わせ、肩を組みはじめた。
おお…。親密な雰囲気を帯びたつぼ湯。そこにはエロスさえ感じ取られる。先ほどまでからかわれていたくせ毛の彼もどこか楽しそうだ。
しかし、からかいの波はまだ続いている。「お前マジ童貞やな」「絶対彼女できへんやろ」などと2人は彼をいじり続けている。仲が良いのか悪いのか、よくわからない不思議な光景だと思ったが、私にはどこか既視感もあった。からかう側としても、からかわれる側としても、こうしたコミュニケーション空間に自分もいたことがあったな、と思い出していた。懐かしく、腹立たしい、それでいて後悔を伴うような、複雑な心境になった。
隣の狭いつぼ湯の中で、今度はボブカットの彼がスポーツマンに話題を投げかけていた。話を聞いている限り、どうやらこのボブカットが3人の中で最も恋愛経験や性経験を豊富に持っているらしかった。
「お前は最近どうなん?」
「まあ彼女はできてないけどな。でもキスはしたで。…いや、ほんまやって! 小学校の同級生の女の子やって」
スポーツマンが必死に自分の恋愛経験をアピールする。そこで、くせ毛の彼が「うそやろ」と、茶化した。
「は? なんでやねん! お前調子乗んなよ!」
スポーツマンが声を荒立てて、くせ毛の彼をなじり、頭を小突いた。ボブカットは、その様子をニヤニヤしながら見て、しばらくしてようやく「やりすぎやぞ」と言ってくせ毛の頭をよしよしとなでていた。
身体接触を伴った親密な空間であるにもかかわらず、展開されている会話は不穏なものが漂う。そのやりとりから、彼らの間にある序列関係がうっすらと読み取れるし、会話を通してその序列をさらに強化しているようにも思われた。そこには〈切り離し〉もある。相手の身体的特徴や性経験の有無をあげつらって攻撃を加えることで、相手を自分より下の存在であるという格付けを行っているからだ。
「ホモソーシャル」という概念がある。アメリカの文学者であるイヴ・セジウィックが『男同士の絆』という著書の中で提示した概念だが、現代の日本でかなりの認知度を持つ言葉となった。それは多くの場合、「女性や同性愛男性を排除し、異性愛男性同士で競争し合う悪しき集団」といったニュアンスで使用されていることが多いように思う。その捉え方は部分的に合っているが、この概念が指し示す別の側面を見逃してしまっている。
確かにセジウィックは、男性たちが女性の人格を無視して家の中に囲い込み、公的な領域から排除すること、そうした女性の所有を介して、男性同士の関係性を築くことに着目した。が、同時に彼女はその関係性が実は同性愛的な関係性と地続きになっていることを強調してもいた。ホモソーシャルな男性同士のつながりと、ホモセクシュアル(同性愛)としての男性のつながりは、一見して見分けることができない。つまりこの2つの欲望が潜在的に連続体をなしている。ホモソーシャルとは、この複雑な男性の関係性の取り方や、欲望のあり方を説明する概念なのである。
さらに、地続きにあるホモセクシュアルとホモソーシャルを切断するものとして、ホモフォビア(同性愛嫌悪)がはたらく、とセジウィックは説明する。ホモセクシュアルだと見なされれば、社会における「正常」とされるルートから弾かれ、時に暴力の対象になりかねない。その恐怖から、「正常」に縋りつく男性は、同性愛だと見なされないよう強迫的に自己を演出する。
例えば、他の男性との情緒的なつながりを持つことを否定し、女性との性愛関係を強調する。異性愛を中心とした規範に違反したものを炙り出して「おかま」とからかって、自分を「正常」の位置に置く、などである。ホモフォビアは、同性愛の男性を虐げるだけでなく、異性愛の男性のふるまいをも制限し、誘導する。
セジウィックは、過去のイギリス文学をもとに、以上の議論を展開したわけだが、スーパー銭湯の例を見ると、どこか似たような現象が現代の日本でも起きている。
男性同士の親密性と序列化は同居する。からかわれている最中、苦笑いをするか、無表情になるか、どちらにせよ喜んでいるようには全く見えないくせ毛の彼は、つぼ湯に迎え入れられた瞬間、どこか安堵の表情を浮かべていた。彼は格下げされつつ、同時に包摂されて、その場に居続けたのである。この矛盾する機微の中に、男性同士の関係性をめぐる複雑さがある。
一方、くせ毛の彼をからかうスポーツマンも、このやりとりの中で独特の駆け引きを強いられている。「彼女できた?」という問いかけに対し、彼は「キスはした」という出来事を持ち出すことで、その場を凌ごうとする。そこで、「何もない」と言ってしまえば、くせ毛の彼の性愛経験のなさをいじった自分と、自己矛盾を起こしてしまうし、もしかしたらくせ毛と同じように自分もいじられてしまうかもしれない。〈切り離し〉を行うものは、切り離されてしまう恐怖と隣り合わせにいる。
脱衣所で、またこの3人組と鉢合わせた。いち早く服を着終わったボブカットが、「今度また遊ぼうや」と2人に提案している。まだ着替えている最中のくせ毛が、「行こうかな…」とおずおずと口にすると、スポーツマンが「行こうかなちゃうやろ! こいや!」と言って、くせ毛を小突いていた。
からかいの特徴
このスーパー銭湯の事例で見られたような、一方向的、集中的な言葉の暴力としてのからかい。以前私は男性たちが経験するからかいについて分析したことがあった。その中で、中学や高校において、一部の男子生徒たちが本当に数多くのからかいを受けている実態が見えてきた。
「ヘタレ」「おかま」「ガイジン」「チビ」「デブ」「ハゲ」「ムッツリスケベ」などの侮蔑的な単語をあてがわれることもあれば、背が低いこと、声が高いこと、オタク的な趣味や「女性的」な趣味を持っていること、運動神経が悪いこと、恋人がいないこと、友だちが少ないこと、どもっていること、といった特徴を取り上げられて、「キモい」「ダサい」「ブサイク」といった形容と共にからかわれることもある。
こうしたからかいには、いくつかの特徴があり、それらが問題を複雑にしている。まずその不透明性が挙げられる。からかいには、相手を下に見る、もしくは異常なものだと見なす貶めの意味が含みこまれているにもかかわらず、明確な攻撃のようにはなかなか見えない。それは時に「遊び」として、「コミュニケーションの緩和剤」として、「アドバイス」として発される。
上述した銭湯の3人の間で繰り広げられたからかいについて、発する側の2人はまさに「遊び」として発していただろうし、また周囲の人間もそれを「遊び」として解釈する場合が少なくない。それゆえ、発する側は悪びれることなく相手に攻撃的な言葉を投げかけるし、時に善意で投げかけることさえあって、受けた者は無下に退けることができない。そもそもその貶めに気付かないこともあるかもしれない。からかいとは非常に曖昧な形で繰り出される暴力なのである。
特徴の2つ目は回避の困難性である。厄介なことに攻撃としてのからかいは生活の細部に入り込んでいる。そのため簡単に回避することができないし、それを当たり前のものとして受け止めてしまっていることさえある。例えば銭湯の彼らは、からかいをベースとしたコミュニケーションを当然のように行い、またそのコミュニケーションを通して互いの親密性を確かめあっていた。
それ以外にも、上司が指導という体で部下を馬鹿にしたり、親が子どもへの愛という形で「なんでこんなこともできないの?」とけなしたりすることもある。私たちはこうした攻撃性が組み込まれたやりとりを通じて、社会的なつながりをつくってしまっている。そして、そのコミュニケーションに乗り切ることができなければ、そのコミュニティに属す資格を失って疎外される危険性もある。だからこそ、からかわれた側は、自分の痛みを申し立てることができず、逃れることも難しい。
また、別の理由で回避が難しいからかいの形態もある。例えば、教室で目立つ生徒グループがクスクスと笑いながらこちらを横目で見てくる、そんな陰湿なパターンである。映画『桐島、部活やめるってよ』の中で、映画オタクの生徒がひとり映画雑誌を読んでいると、クラスの女子グループからひそひそと噂されているのに気付くシーンがある。今まで盛り上がって話していたくせに、急にしんと静まり返ったかと思うと、コソコソと何かを話している。嘲笑のようなものも混じっている。確かにこちらを意識しながらその話題が展開されているのがわかる。いたたまれなくなって教室を出ると、それまでひそやかだった話し声が一気に大きくなり、爆笑さえ聞こえてくる。そんな一幕である。
これはおそらく普段直接コミュニケーションを取ることが少ない集団から投げかけられるタイプのからかいだろう。直接的な否定性を伴わないものの、差し向けられた側には大きなダメージが加えられる。しかも申し立てもしにくい。相手は集団で、しかもクラスの中心的な存在である場合も多い。その上、たとえ申し立てたとしても、「別にあなたのことは言ってない」「自意識過剰なんじゃ?」と返されるリスクもある。そうして、侮辱された悔しさや痛みが降り積もっていく。
「不透明性」と「回避の困難性」の結果、3つ目の特徴である「継続性」という事態が発生する。見えにくく、また逃れがたい攻撃を受けた者は、言い返すことも無視することもできずに黙って受け入れ、継続的に貶められることになる。場合によっては、自分が間違っている、自分がおかしいのかもしれないという否定的な自己評価を募らせていくかもしれない。その繰り返しの先で、覆し難い上下関係が形成され、さらなる暴力の温床となる。
からかいによる排除
からかいをベースにしたコミュニケーションは、からかいの対象者を貶めるだけでなく、また別の他者を排除する結果をもたらすこともある。社会学者の佐藤裕の著書『差別論』の中で紹介されている、以下のような事例を考えてみたい。
たとえば、3人以上の男性がいる場で、そのうちの1人に「なんだ、お前、“おかま”かよ」というからかいがなされたとする。「おかま」という言葉そのものがまず侮蔑的な意味を持つし、からかいをする者は、からかいの受け手を含めて、その場に同性愛男性がいるとは夢にも思っていない場合が多い。「おかま」というからかいは、当事者を貶めるという点に加え、その存在をないものとして扱う点において、二重に問題を含んでいる。
さらに、このからかいは「相手を「おかま」ではないことを前提に、相手にそれを否定させることを意図」してなされている。そして、周囲の人には、そのからかいをきっかけとして笑うことが期待されている。そうして男性的、異性愛主義的な価値規範への同調を強制するのである。もしこの場に同性愛男性がいたとしたら、彼は無理やり異性愛主義の「共犯者」に仕立て上げられ、同時に「被差別者」になるという「引き裂かれた状態」を体験することになる。からかいは間接的にも人を傷つけうるのである。こうした、当事者を否定的に語りつつ、同時に「ここには存在しない」ことを前提とする差別実践のことを、佐藤は「否定・不在の用法」と名付けている。
「否定・不在の用法」を食い止めるのはかなり困難かもしれない。それは差別じゃないか、と指摘しても「別に同性愛者の人がいないから問題ない」とかわされる可能性が高いからだ。自ら同性愛者であることを明かして申し立てをすれば、そのレトリックを崩すことができるけれど、そうすると今度は周りから奇異の目で見られたり、集団から排除されるリスクにさらされてしまう。これは「ガイジン」という侮辱語でも同じ現象が起きるだろう。
とかく私たちはそこに当事者がいないという前提で話をしてしまいがちだ。先のスーパー銭湯の事例でも、彼らは異性愛を前提として会話を行っていた。異性愛を前提とした会話は、非異性愛者に居心地の悪さや圧迫感、恐怖感をもたらす場合がある。その話題にうまく乗れなければ、白い目で見られるかもしれないし、といってそこに乗っていくことは、自分のセクシュアリティを裏切ることになってしまうからだ。そうして非異性愛の人が結果的に集団から去ってしまうこともあるだろう。
このように、直接的に侮蔑を向けずに、やんわりと排除を進めるコミュニケーションは他にもある。例えば、コミュニケーションにうまく乗れない男性に対して「なんでここにいるの?」という困惑した表情を向ける、障害を持つ人をアンタッチャブルな存在として扱うなどである。こうした見えにくい排除の形を「緩い排除」と呼んでいる。
以上、〈切り離し〉の一形態として、からかいの問題を今回は主に扱ってきた。〈切り離し〉は、具体的な行動としてなされた時、暴力や排除として現出する。侮辱したり、集団から疎外したり、そもそも「いないもの」として扱ったりして、相手の自尊心を傷つけていく。そのふるまいは時に意図して行われないものもあるので、余計に対処が難しい。
攻撃的なからかいは、人と人の間に線を引いていく。線のこっち側は正常で、向こう側は異常だとする線だ。その線は、異性愛/非異性愛、日本人/外国人など、その非対称性にかんする議論が、(十分とは言いづらいが)すでになされている分野だけに存在するわけではない。身体の違い、経験の違いなど、細い線が私たちの間には繰り返し引かれ、細かな序列を作り、関係性の歪みをもたらしている。
しかし、私たちはその力動からなかなか抜け出すことができない。自ら望んで参入してしまうことさえある。自分をからかう男たちが入っているつぼ湯に、自分から入っていくように。わかりやすい敵を想定して立ち向かうという図式そのものが立ち上がらない、ままならない日常を私たちは生きているように思う。
参考文献
Sedgwick, Eve Kosofsky,1985,Between Men:English Literature and Male Homosocial Desire,New York:Columbia University Press.(上原早苗・亀澤美由紀共訳『男同士の絆』名古屋大学出版会、2001年)
佐藤裕『新版 差別論―偏見理論批判』明石書店、2018年。
江原由美子『女性解放という思想』勁草書房、2013年。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。