「あいつはフツウと違うから」 切り離しのマジョリティ論 / 西井開

注意深く周りを見渡すと、男性が別の男性を「ふつうの人」と「ふつうじゃない人」に振り分けようとするシーンがそこかしこに存在する。同じ男性なのに、他人を「自分と無関係な者」と位置づけてしまう時、私たちの中で何が起こっているのか? 男性問題や加害者臨床に取り組む著者が、日常的な他者との関わりからこの問題にせまる。マジョリティ性をもつすべての人におくる、今読むべき男性論。

趣味をめぐる接点と切断

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レンタルビデオショップでのこと

 2010年頃、大学生だった私は大手レンタルビデオショップにアルバイトとして働きはじめた。

 本当はレンタルビデオを担当したかったが、人員の関係でCD販売部門に配属された。音楽のサブスクリプリプションサービスが勢力を伸ばし始めつつある時期でCDの売上げは下がる一方だったが、それでも一部の客層には需要があって、なんとか販売を続けていた。

 店内は常にがらがらで、特に意味もなくパソコンをいじったり、なんの影響があるかもわからないポップアップを作ってみたり、私たちアルバイトはたいてい無為な時間を過ごした。案の定、それから2年後に私がそのアルバイトを辞めた直後、CD部門は取り潰されて、UFOキャッチャーコーナーになり、その6年後には、店自体も閉じてしまった。

 当時、CD部門の売上を支えていたのはなんと言ってもアイドルグループのシングルやアルバムだった。AKB48が絶頂を極め、発売前から大量の予約が入っていた。「総選挙」のための投票券を狙って何枚も買っていく人もいれば、コレクションのためか通常版、限定版A、限定版B、限定版Cを網羅的に買っていく人もいた。

 購買していく客層は男性が多かったが、そこには幾分多様性があった。いかにも学校でヤンチャしてそうな高校生3人が、「おい、にーちゃん、AKBの新作くれや」とどかどかとカウンターに身を乗り出してくることもあれば、気の弱そうな中年男性が言葉少なに購入していくこともあった。

 こんなことがあった。休日の夕刻、一人の男性客が店に入ってきた。20代前半といったところだろうか。特に何を買う様子もなく彼は30分以上店内をウロウロと歩き回っていた。相変わらず店に客は少なく、その客は嫌でも目についた。店長がそっと私に耳打ちをする。

 「あの客、注意して見とけよ」

 万引きの可能性を疑ったのだろう。表情が不安気で、キョロキョロと視線を動かし、確かに見るからに怪しい。さらに30分後、彼は突如として猛然とカウンターに歩み寄り、大声で言った。

 「AKBの新作の予約できますか!!」

 彼の緊張と勇気に思わず心が震えて、「はい、できます!」と私も威勢よく応えた。

 気弱そうな青年と、ヤンチャな高校生たち。これまでもこれからも彼らが交流する可能性は限りなく薄いだろう。しかし、交わるはずのない二者が、実はこのレンタルビデオショップで同じコンテンツを心待ちにしていることを思うと、人と人の接合点はどこに生まれるかわからないものだなと思った。

『ワイルド・スピード』をほくそ笑む

 一方、コンテンツが関係性の切れ目になることもある。

 レンタルビデオショップにはスタッフルームが設えられていて、アルバイトたちはそこでタイムカードを押し、ミーティングを行う。また6時間以上シフトが入っているときは間に休憩を取らなければならず、私たちはこの部屋で思い思いに時間を過ごしていた。休憩時間は本屋部門やレンタル部門のアルバイトと交流できる機会でもあった。

 私はそのうちの一人、レンタル部門の内村くんと妙に馬が合って、よく映画の話や音楽の話をした。長い休憩時間が重なるときは、近所のCoCo壱番屋にカレーを食べに行ったりもした。

 彼は無類の映画好きで、このレンタルビデオショップは天職だとよく話していた。アルバイトスタッフは、店内にある旧作のDVDやCDを無料で借りることができ、彼は勤務日にはほぼ例外なく何本かの映画のDVDを借りて帰っていた。彼の映画にかんする知識量は膨大で、いつも話していて「こいつにはかなわないな」と思った。

 彼に見くびられたくなくて、知らない作品が話題に上がったときは知ったかぶりをして話を合わせたりもしていた。焦りもあり、映画の知識を増やそうとして、無料レンタルに私も精を出した。DVDがぎっしりと詰まった棚を見て回り、気になる作品が合ったら取り出して背表紙のあらすじをチェックする。それだけでも満足できたが、「名作」とされている作品を片っ端から借りて観ていった。

 その日もアルバイトが終わると、何本か借りて帰ろうとレンタルコーナーをうろうろと見て回っていた。前から来る客に見覚えがあるなと思ったら中学校のときのクラスメイトだった。5年ぶりくらいの再会だった。声をかけて、簡単に近況をやりとりした。

 高校を出て専門学校に通っているという。あまり会話は弾まず、私は話題をふくらませるために何かDVDを借りにきたのかと尋ねた。『ワイルド・スピード』の新作を借りに来たのだという。

 『ワイルド・スピード』…!

 私は内心ほくそ笑んだ。ガチムチヤンキーたちが別のヤンキーと車を走らせて争い、レーシングテクニックを競い合うアレか…。これまで網羅してきた映画作品たちに比べれば明らかに低俗だと思った。

 それでも私はその軽視をおくびにも出さないようにして、「〇〇が出演してるやつやんな」と関心のある素振りをして話を合わせ、少しばかり言葉をかわしてから彼と別れた。おそらく連絡を取り合うことはないだろうなと思ったし、実際そのとおりになった。

趣味による切り離し

 社会学者ブルデューが言うように、趣味を持つことは、同時に相手の趣味への否定性を内包する。『ワイルド・スピード』を楽しむような人たちと自分は違う。自分はもっと“通”な世界に所属していて、映画のなんたるかをわかっている…。こうした優越感を抱いたことのある人は少なくないだろう。

 「ブランドものばかり買う人は低俗で、隠れた逸品を探し当てるのが真のおしゃれだ」とか、「ラウンドワンで遊ぶリア充に比べて、青春18きっぷで一人旅する自分のほうが尊い」とか、「チェーンの居酒屋ばかり行っているあいつのセンスはどうなんだ」とか…。

 内的な拒否を介して相手を見下し、自分と相手の間に目に見えない境界線を引いていく。この自分と他者の〈差異化〉は、自分が高尚な文化を味わう集団に所属できているという安心感や優越感を提供するのである。

 差異化という営み自体は否定されるものではないだろう。相手より自分のほうが、という意識の中で、作品や知識は生み出されていくものだろうから。

 ただ、この差異化によってネガティブな結果が生み出されることもありうる。ひとつは排除の問題で、「あいつの趣味はおかしい」と言って少数派の趣味を持つ者が多数派によって軽視され、排除されることがしばしば起こる。

 もうひとつは、孤立の問題だ。細かな差異にばかり目を向け、「私はこいつらなんかとは違う」と切り離し続けた結果、本来あり得た関係性がどんどん切断されていく事態。

 映画『イニシェリン島の精霊』はこうした関係性の途切れを丹念に描写した作品である。(ここでまたマイナーな映画を引き合いに出そうとするところがまた「いかにも」な気がするが、もう少し付き合っていただきたい…。)

 アイルランドの架空の島を舞台にした本作では、二人の男性の友情と亀裂が描かれる。
一人は酪農家のパードリックである。パードリックは穏やかで退屈なイニシェリン島から一度も出たことがなく、ロバや馬や牛などの動物たち、そして妹と変わらない日々を過ごしている。もう一人はコルムという初老の男性である。彼は異文化への知識も豊富で、音楽にも長じており、ヴァイオリンを弾くこともできる。

 二人は仲が良く、仕事が終わるとパブへ飲みに行くことが日課になっていた。ところが突然コルムはパードリックに絶交したいと突きつける。お前の無教養な話にはついていけない。これからはお前との関係を絶ち、思索や作曲の時間に充てたいのだ、と…。パードリックは唐突な宣言に戸惑い、友人を説得しようとするが、コルムは一切耳を貸さず、島に遊びに来ている音大の学生たちと交遊するようになる。そしてこれ以上自分に関わって煩わせるようなら、自分の指を一本ずつ切り落とすとパードリックに宣言する…。

 この狂気的にも見えるコルムのふるまいは、趣味を介した切り離しの極地だろう。彼は馬の話ばかりするパードリックの価値観を否定し、そして作曲活動や読書をより優れた営みと位置づけている。コルムは「このまま年をとるのが怖い」「何も成し遂げずに死ぬのか?」と言って、パードリックとの会話を「無駄」だと突き放す。

 初老にさしかかり、イニシェリン島という片田舎で、歴史に名前を残すこともなく死んでいくことの不安がもたげてきたのだろうか。それにしたって、昨日まで一緒に酒を飲んでいたのに、次の日には絶交を宣言するというのはあまりに唐突すぎる。それに、パードリックとの関係を切ったからといって、意義ある人生を送れるかどうかはわからない。

 そもそも何を達成すれば「成し遂げた」ことになるのだろうか。現状がうまくいっていないと感じる時ほど、「何者かになりたい」という欲望がせり上がってくるが、どこまで至れば「何者」になったことになるのか。その条件ははっきりとしていない。

 今が何か間違っているということはわかる。ここではないどこかに行けば問題が解決されるような気がする。しかし、具体的に何をしたらいいかがわからない…。こんな曖昧な状況下に置かれたとき、わかりやすく選択できるのが、自分の周囲の環境や日常的に関わる人々を否定し、拒否するという行動である。

 コルムは、こちら側の世界、つまりパードリックと生きる世界を手放せば、向こう側の世界にいけるかのような夢想を抱いているように見える。いわば、「何者にもなれない」という漠然とした不安を拭い去るための象徴的な手段として、関係性の切断が選び取られているのである。

切り離しと孤立

 この作品が描くような趣味をもとにした差異化は際限なく繰り返されることがあり、そのふるまいが最終的に行き着くのは孤立である。優位性を維持するための切り離しは、自分を高めるようでいて、他者とのネットワークという自身の資本を食い破っていく。

 さらに、差異化と関係性切断の因果関係が逆になることもある。つまり、趣味の否定の結果として関係性が途切れていくのではなく、関係性が途切れつつあるとき、その状況が差異化によって正当化される場合がある。

 例えば、私が進めている男性の社会的孤立の調査において、ジロウさんという男性はインタビューで以下のように語っている。

 高校時代友達がいなかったんですよ。ゼロやったんです。中学までは友達いたんですけど、結構賢い感じの友達が多かったんですね。自分はあまり勉強できなかったんですけど…。あんまり賢くない感じの高校に入ったんですけど、あんまり話が合わなくて馴染めない。じゃあまあいいや、俺は友達を作らずに行くぜという覚悟はあったように思いますね。

―ジロウさんの方が学力的には上だったんですか?

 他の子らと? そんなこともないんです。僕は中の上ぐらいですね。でも、あんまりみんなインテリジェンスな話をしてなかった。中学時代、周り(にいるのは)めっちゃ賢い友達やったんですよ、僕と仲良かったの。すごい名門みたいな感じの。そういう感じの子ども達といた。高校、大学よりは満たされてたんです。でもそれでもちょっと違うという気持ちもあった。高校でそれに出会えるんだと思ってました。

―高校の時のそのインテリジェンスじゃない会話っていうのはどういう会話やったんですか?

 何なんやろうね、難しいですね…。今パッと思い浮かんだのはオタク気質っていう感じかな。ある好きな事を掘り下げていくというか。中学まで僕陸上部に入ってたんですよ、その仲良かった子も陸上部で。高校は部活に入らなかったんですよ。

―なんでやったんですか?

 いやここでは友達をつくらないと決めてたから。

―じゃ結構序盤で友達をつくらないって決めたんですか?

 高1で決めました。インテリジェンスという言葉はその時は使ってなかったですけど、こいつらじゃないというか…。失礼ながら。

―こいつらと自分は違うと思うその決めて根拠は何だったのか…。

 やっぱり話が合わない。話が合わなかったですね。

―じゃあ高校3年間ずっと一人?

 概ね。たまに仲良くしたがる人は出てきましたけどそっけない態度を…。

―その時周りより自分が特別だっていう感覚があったってことなんですかね。

 それはありましたね。でもそれは無根拠ですね…。あえて言うなら、その、知識ですかね。色々な知識。サブカルチャーとか…。「俺はお前らが知らんこんなこと知ってるんやぞ」とか、「ガンダム全部見てんねやぞ」とか…。「『ひぐらし(のなく頃に)』とかチャラチャラしやがって」とか思ってた記憶がありますね。

―『ひぐらし』はチャラチャラしてるんや(笑)。

 今流行ってるものに飛びついてる、わかってない奴らみたいな見方をしてた記憶がありますね。

―なるほど面白い。その結果として3年間ほぼ一人…。

 そうですね。0か100みたいな感じですよね。恋愛もそうですけど、100%分かり合える人間関係を求めていて、でもそれに至らないこいつらは0だと。

―なるほど。でもそれしんどくなかったんですか、高校生活過ごすの。

 なんかそれはそれで心地よかったですね。まず人間関係がないですからね。いじめとかがない。しんどくなかったことはなかったですけど…。イベントの時はしんどかったですけどね。文化祭とか。僕ずっとトイレにこもってました。なんかでもずっと本読んで自分の世界にこもってる感じでしたね。飢えを感じながらかなあ、100を求めて…。

同化を迫る集団の力学

 なぜか学校のクラスメイトや、サークルの仲間たちに馴染めない。この現象の原因を探るのは非常に困難であり、様々な要因が考えられる。もちろん趣味が合わないということもあれば、暮らしてきた文化圏が異なるということもある。

 また、クラスのグループ、同僚の集まりなど、組織の中で形成される集団には多くの場合マジョリティ的な要素を持つ者が所属しやすい規則が張り巡らされていて、それに乗り切れずに馴染めないということもある。特定の話題が称揚されたり、その話題にうまく乗ることが求められたり、またタイミングを掴みながら言葉を発する能力が試されたりする。つまり、マジョリティのルールが敷かれている集団では、強い同化圧力が働いていて、それゆえ差異が強調される仕組みになっている。その規則にうまく適合できない者、話題についていけない者、外見的にマジョリティ的な身体と異なる者をあぶり出し、明確に、時にわかりにくい形でそれとなく排除するのである。

 例えば、クラスメイトがこちらに背中を向けて他のクラスメイトに向かってばかり話している、自分の話をグループ内の誰もが心ここにあらずという感じで聞き流している、自分が話をするとどこか空気が白けている…といった具合に。

 こうした目に見えない関係性の障壁にぶつかった時、ジロウさんのように、後付け的に「あいつらは趣味が悪いから自分とは合わないのだ」という解釈がなされる場合がある。説明のつかない理不尽さを、自分が傷つかない形で、なんとか理解可能なものに落とし込むための解釈。

 もちろん他者を排除する集団には問題があるし、この解釈はままならない現実をなんとかやっていくための手段であると言えるだろう。しかし、「あいつは自分とは合わない」と早々に断じることは、まだどう転ぶかわからない他者との関係性に明確な亀裂を入れることにもつながる。その時、趣味は関係性を切断する鋏として機能する。趣味を理由に自らさらに相手と距離をとり、孤立を完全なものにしてしまうのである。


 冒頭で述べたように、趣味は個人と個人をつなぐ接合点にもなりうる。よくよく話を聞いていったら、思わぬ共通点があって話が盛り上がったというケースは少なくないだろう。しかしここまで見てきたように、同化を迫る集団の力学、集団からの排除、自分を傷つけない解釈、「何者かになりたい」という欲望などが複雑に絡み合い、できたかもしれないつながりを阻害してしまうことがある。

 人間関係の構築や維持をことさら持ち上げる必要はないと思うが、それでも見切りをつけるのが早すぎる事態は避けてもいいはずだ。

 『イニシェリン島の精霊』で、コルムはパードリックとの会話を「無駄だ」と断じていたが、本当にそうだったのか。楽しく笑いあった瞬間は一度もなかったのだろうか。「こいつとは合わない」と判断した相手のことを、本当に私たちは十分にわかっているだろうか。否定的な側面ばかり見ていたが、別の面を掘り起こせば、実は通じ合う/通じ合っていた可能性もあるかもしれない。

 この記事を書くにあたって、シリーズ1作目で観るのを止めてしまった『ワイルド・スピード』を、続きから見はじめた。やはりあいかわらずストーリーもへったくれもない、ヤンキーたちのカーバトルの繰り返しだ。さらに5作目になると主人公ともう一人ハゲマッチョが出てきて、二人でボカボカ殴り合っている。どうしようもないなと思いながら、私はすぐに次作品を再生し始めた。


参考文献
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン―社会的判断力批判Ⅰ[普及版]』石井洋二郎訳、藤原出版、2020年。

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。