非常灯の思考 対話とは何か / 戸谷洋志

別離や喪失の体験は、いとも簡単にそれまでの「当たり前」を無効化してしまう。誰しもそれを避けることはできないが、来るべき日のために、今この瞬間から「当たり前」を問い直してみることはできるかもしれない。そのとき、背中を押してくれるものーーそれが他者の存在だ。数々の哲学カフェを主催してきた著者が、新しい地平へといざなう対話について考察する。

発話に先行する対話──あるいは立食パーティーでの生存戦略について

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 今学期、私は授業のことで頭を悩ませていた。

 十年以上前から、大学教育では、アクティヴ・ラーニングの必要性が叫ばれている。これは、能動的学習とも呼ばれる講義手法の一つで、学生が主体的なアクションを起こすことを組み込んだ授業のスタイルだ。たとえば、グループワークをしたり、授業時間中に何かを書いたりといった作業を課すのが一般的である。今では当たり前のように教員に求められるスキルだ。

 アクティヴ・ラーニングが有効であることは、高等教育学の世界ではすでに常識とされている。ただ受動的に話を聞くのと、自分でアクションを起こして学習内容を習得するのとでは、記憶の定着率に如実に違いが出るからだ。

 かくいう私も、原則的には自分が受け持つすべての授業でアクティヴ・ラーニングを導入している。私が好んで使うのはグループでのディスカッションだ。多くは哲学の授業なので、思考実験を課して話し合ってもらうことが多い。思考実験では、題材にポピュラーカルチャーを使ったり、実際に起きた事件を使ったりと、あの手この手で退屈させないように工夫している。しかし、それでもディスカッションを成立させるのは、なかなか難しい。

 たとえば、友達同士でグループが形成されると、なんとなく雑談をして終わってしまい、議論がうまく進展しないことがある。だから、私は基本的に座席を完全にシャッフルし、見ず知らずの学生とグループを組まざるを得ないようにする。ただし、そうすると別の問題が起きる。誰も自分から話を始めようとせず、結果的に互いに見合ったまま沈黙することになるのだ。

 この沈黙を解消するために、私は必ずアイスブレイクを行う。これは、グループワークの冒頭で、参加者間の緊張を解きほぐすために行われる短いワークやゲームだ。それによって、たしかに、ある程度は和ませることができる。しかし、それでもディスカッションの段階に入るとみんな口を閉ざしてしまう。私の設問に問題があるのかも知れないが、それにしても、この沈黙はなかなか解消できない。

 なぜ、沈黙は起きるのだろうか。ある親しい学生に尋ねたところ、彼女はその理由を次のように分析してくれた。

 「あの沈黙は、話すのが恥ずかしいとか、そういうことではないんです。というよりも、この時間に誰が主導権を握るのか、誰がファシリテートするのか、ということの探り合いなんです。最初に口火を切ってしまったら、その役を担わなければならなくなる。でも、そうするとみんなその人に頼ってしまうから、誰もその役を担いたくない。だから、みんな口火を切るのを避けて、結果的に沈黙が起きるんだと思います」

 大変見事な分析だ。そして、そうであるとしたら、それはそもそもアイスブレイクでは解決できない問題だ。

 アイスブレイクの目的は緊張を解くことである。緊張とは、ある種の防衛反応だ。たとえば私たちは吊り橋を渡るときに緊張する。それは、もしかしたら足を滑らせて下に落ちるのではないか、という可能性を考え、その可能性に対して自分を防衛しようとするからだ。同じように、見ず知らずの人と話すとき、相手のことが分からないからこそ、私たちは相手から批判されるのではないか、無視されるのではないか、と心配し、それに対して自分を防衛する。だから緊張する。

 だが、「主導権を握りたくない」という気持ちは、そうした防衛反応とは別の心情だろう。それは、どちらかといえば、この対話の責任を負いたくない、という気持ちに近いのではないか。仮に緊張が解かれたとしても、責任を負うことへの不安は、依然として残り続けるだろう。そうであるとしたら、グループディスカッションを円滑に進めさせるためには、その不安を学生から取り除かなければならない。

 そういうわけで、私は来年度、グループのなかで司会役を指名しようと思っている。指名された学生は、主導権を握らざるをえなくなる。しかし、その学生が主導権を握るのは、私に使命されたからであって、本人の自由な意志によるものではない。つまり自分の責任ではない。だから、「しょうがなく」司会をやることになる。「司会」と言うと言葉が重すぎるから、「回し役」とか、「振り役」とか、そういうライトな名前を考えたいと思っている。意外とこういうちょっとしたことが大切なのだ。

 あるいは、「そんな風に主導権を握りたくないなどと思うのは甘えだ」と思う人もいるかも知れない。特に同業者からはそう思われるかも知れない。その気持ちも分からないではない。もし私が受け持つ授業が、「実践対話演習」みたいなものだったら、多分、司会を指名したりはしないだろう。しかし、私の授業はあくまでも哲学に関するものであり、主導権を握る能力を育てるものではない。学生たちが、哲学の問題について盛んに議論してくれることの方が、私にとっては大切なのだ。彼女ら、彼らがそれを気持ちよくやれるなら、私はなんだってするのである。


 
 なんだか学生を批判したみたいになってしまった。でもそういう意図は全然ない。私も、対話において主導権を握ることの怖さはよく分かっている。そしてそれに伴う責任を避けたくなる気持ちも、よく分かる。

 唐突だが、私は立食パーティーが嫌いだ。

 哲学の学会では、懇親会として、しばしば立食パーティーが開かれる。基本的に、学会というものは大学で開催される。その場合、大学はいわばホスト役になり、大会期間中に全国から集まってきた会員たちをもてなすことになる。そのため、いかに大会を効率的に運営し、会員に魅力をアピールできるかということが、ホスト大学の関係者にとっては腕の見せ所になる。発表が終わったあとに開かれる懇親会を、いかに豪華にするか、満足度の高いものにするかということも、重要なポイントになる。

 最近は、大学のキャンパス内に、ホテルも顔負けの雰囲気のよいレストランが入っていることがある。そこを貸し切って、立食パーティーが催されると、会員たちの議論にも花が咲く。

 そもそも懇親会が必要か否か、ということはしばしば議論になる問題だ。実際に、ハラスメントが起こることもあるし、家庭の事情や地理的な都合で懇親会に参加できない人が不利益を被ることもあるだろう。そうした問題は解決されるべきだ。しかし、その一方で、懇親会だけが担いうる一定の機能は確かにあったと思う。コロナ禍において、立食形式の懇親会は多くの学会において真っ先に廃止されることになったが、それによって学会が味気ないものになったことは否めない。

 しかし、話を戻すが、私は立食パーティーが苦手である。「それではこれから懇親会を始めます」という宣言がなされるとき、私は砂漠に取り残されたような気持ちになる。なぜだろうか。それは、誰にも話しかけることができず、独りぼっちになるからだ。

 そもそも私には友達が少ない(よく考えたらそれが根本的な問題かも知れない)。立食パーティーが始まるとき、基本的にはいつも一人である。だから、誰か話せる人を見つけないといけない。そういうわけで、キョロキョロしながら徘徊することになるが、そうやって物色している自分の浅ましさに、居たたまれない気持ちにもなる。

 どんどん話しかけていけばいいのかも知れない。しかし、私にとってそれはとても恐ろしいことだ。話しかけたら、そのあとの話の責任を負わなければならないような気がする。特に内容がなく、話が続かなくなってしまったら、相手に不信感を抱かれたり、失望されたりするかも知れない。そのように気負ってしまうと、その重圧に押しつぶされて、とてもではないが話しかける気になれなくなってしまう。

 絶対に逃してはならないタイミングがある。それは乾杯のタイミングだ。テーブルについて、年配の先生にビールを注ぐ。そこで話しかけなければならない。しかし、会話がつづかない。相手が私に興味を持ってくれなければ、大抵の場合、そこで話は終わる。そんな風に、乾杯のタイミングで話の糸口を掴んだのに、勇気を出して話しかけた先生に逃げられて立ち尽くすことが、私にはよくある。

 そういうわけで、立食パーティーにおける私の基本戦略は、「待ち」ということになる。情けない話だ。誰かに話かけてもらうのをひたすら待つのである。そのため私は、立食パーティーにおいて、ひたすら寿司の桶と見つめ合っていることが多い。ときどき寿司を見ながら首を傾げてみる。いや、そんなことをしても(あるいはそんなことをしていると、むしろ)誰も話しかけてはくれないのだけど。


 対話には始まりがある。私たちは始めるために、何らかの主体的な行為をする。だからこそ、始まった対話に対して、責任が発生するように感じる。そしてそのことが、対話すること自体を躊躇わせ、困難にすることもある。

 たしかに話しかけることは大切だ。対話がうまい人は、話しかける人がうまい人なのかも知れない。私は絶対にそんな風になれないからこそ、そうした人は無条件に尊敬できる。しかし、よく考えてみると、話しかけなくても対話が始まることもあるのではないか。

 たとえば立食パーティーでテーブルを徘徊していると、ときどき、見たこともない料理に遭遇することがある。それを箸で食べるべきなのか、フォークで食べるべきなのか、あるいは醤油をかけるべきなのか、ソースをかけるべきなのか、判断が付かなくなることも少なくない。特に、海外の学会ではよくあることだ。立ち尽くしていると、いつの間にか、自分の近くにも同じように不思議そうに料理を見つめている人がいることに気づく。そういうときには、私は、しめたと思って、「これどうやって食べるんですかね」と話しかけてみる。するとかなり自然に対話が始まっていく。

 このとき対話は、「これどうやって食べるんですかね」から始まっているように見える。しかし、実際にはそうではない。その未知の料理を一緒に眺め、手を伸ばさずに並んで立ち尽くしているとき、そこにはすでにある種の意思疎通が生じている。つまり対話はそのときすでに始まっているのだ。「これどうやって食べるんですかね」は、そのすでに始まってしまった対話を、言葉で発することでなぞったに過ぎない。

 対話は発話なしに始まることがある。これは常識とかけ離れた考え方かも知れない。対話といえば、お互いに向かい合って、言葉で語り合う営みだと思われているからだ。私たちはこのようにして始まる対話、すなわち言葉が発せられない対話を、どのように理解するべきなのだろうか。

 この問題を考えるとき、二〇世紀ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガーは、重要な手がかりを与えてくれるだろう。彼はその主著『存在と時間』において、人間──彼の定義では「現存在」だが──の根本的な存在のあり方として、「語り」を分析している。

 ハイデガーによれば、「語り」とは、人間によって了解された内容が他者と共有されるための条件である。人間は、常に、何かしらの形でこの世界を了解している。そういうと、大仰に聞こえるかも知れないが、それは日常的な場面に対しても当てはまる。たとえば私たちは、立食パーティーで先端に醤油のついた割り箸が置かれていたら、それはすでに誰かが使ったものだろうと推測する。そして、その割り箸には触れないでおこうと思う。「この箸は使用済みです」とか、「この箸に触らないでください」とかいう指示書きが、たとえ箸に書かれていなくても、私たちにはそのことが自然と「分かる」のである。これが了解である。

 そしてこの了解は、他者と共有することができる。「私」の隣に誰かがいたら、「これってきっと誰かが使った箸ですよね」と、自分の了解を伝えることができる。ある了解をもつということは、少なくとも日常的には、それを他者に伝えられるということを意味する。言葉にできないものを共有することが可能なのは、私たちの了解が「語り」によって構成されているからであり、いわばそのようにフォーマットされているからである。

 反対に、他者に伝えることができない了解は、私たちのフォーマットが壊れてしまっている状態、いわば日常が正常に機能していない状態を意味する。たとえば、ある種の病気にかかり、自分が感じている苦しみを言葉にできないとき、私たちがひどく不安になるのは、それが苦しみをもたらすだけではなく、自分の安心できる日常性が失われてしまったかのように感じるからだろう。

 ハイデガーによれば、こうした「語り」が必ずしも発話である必要はない。発話は、「語り」に基づいて現れてくるものではあるが、しかし発話ではない「語り」が人々に共有されることも起こりえるのである。

 たとえば、仕事場を例に考えると分かりやすい。ドラマで外科医が手術をしているシーンを見ていると、執刀医が手を出しただけで、隣にいる補助医が適切なナイフを手渡すことがある。そのとき補助医は、発話することなく執刀医の求めているものを理解しているのであり、また執刀医も、補助医がそのように自分を理解しているということを分かった上で、手を出しているのだ。たしかにその場では誰も発話していない。しかし、そこに高度なコミュニケーションが成立しているに違いない。
 
 外科医に比べれば、ずいぶんしょぼい話になるが、前述の立食パーティーにおいても同様のことが起きている。私は、自分と同じように未知の料理の前で立ち尽くす隣の人と、発話せずとも語り合っているのである。「どうやって食べるのかわからない」状況という了解を、発話しないままに、共有し合っているのである。その「語り」の事実性を前提にするからこそ、実際に発話が起こっても、スムーズに対話へと移行することができるのだ。


 このようにして始まる対話においては、どちらかが能動的に話しかけているわけではない。そもそも、能動と受動という分割が起こる前に、対話が発生する瞬間があるのだ。そのとき対話は、自然に始まるとしか言いようのない形で、始まることになる。私たちが対話を始めるとき、対話はすでに始まってしまっているのである。

 対話は、しばしば、キャッチボールに譬えられる。一方が他方に対してボールを投げる。それを受け止めることで、キャッチボールは成立する。一般的に、対話もそれと同じ構造だと考えられている。だからこそ、どちらかが話しかけなければ、対話は始まらない。

 しかし、実際にはそうではない。発話に先行する対話も、私たちにとっては、同じくらいに日常的なものであるはずだ。しかし、キャッチボールをモデルにして考える限り、こうした対話を説明することもイメージすることもできない。それはなぜだろうか。

 おそらくそれは、対話という営みと、それに参加する人間を、どのように理解するのかという問題と関わっている。対話をキャッチボールと見なす発想は、対話に参加する者がそれぞれ分離された個人であることを前提にしている。すなわち、もともとは対話に参加していない独立した二人の人間が、交わることなく存在することを前提にしている。そのように分離した個人が、ある種の分離を維持したまま言葉を交わす営みとして理解されるのが、キャッチボール的な対話だろう。

 しかし、発話に先行する対話が起きているとき、私たちはすでに対話のなかに飲み込まれている。「私」は、自分自身や他者の存在を、同じ対話のなかに帰属しているものとして発見する。その限りにおいて、他者は「私」から分離した存在としてではなく、「私」と同じものに帰属する何かとして、いわばすでに「私」との共同性を有するものとして、現れる。その共同性こそが、ハイデガーの概念を応用するなら、「語り」の可能性の条件なのだ。 

 もっと平たく、次のように言うこともできるかも知れない。対話とは、それぞれ独立した個人が、互いの意見を交わし合うことではなく、すでに「私たち」として「私」を見いだす者同士が、その「私たち」性を根拠に交わす意思疎通である。

 もっとも、共同性とか、「私たち」とか言うと、まるで非常に強固で抜け出しがたいコミュニティを想起させるかも知れない。家族とか、国民国家とか、そういうものが頭をよぎる人もいるだろう。しかし対話が始まるためにそうした強い共同性は必要ない。未知の料理を前にするとき、「私」と、その隣にいる人は、「未知の料理を前にしている者同士」というカテゴリーによって、すでにある種の「私たち」なのである。たしかに、その共同性は脆弱だし、一過性のものに過ぎないかも知れない。花火のようにはかない関係である。しかし、その一時的な「私たち」性が、その場で自然に言葉を交わすために役立つのだ。少なくとも、ぐいぐい話しかけることができない私のような人間にとって、そうした共同性をいかに掴めるかは、重要なポイントなのである。


 では、話しかける前から対話が始まっているのだとしたら、その対話の始まりはどこにあったのだろうか。

 おそらくそれは、「私」と他者の間に共同性が形成されたとき、すなわちそれまで個であった「私」が、いつの間にか「私たち」になったときだろう。それは自己理解の一つの変容なのだ。そうした変容が、対話を始動させるのだ。

 しかし、これはちょっと気持ち悪い話だ。特に、このような観点から、「じゃあどうやって他者と自然に『私たち』になるか?」という方向で考えていくなら、それはむしろ対話しようとする者の態度ではないように思える。なぜならそうした態度は、他者に対して自己変容を強いること、自己変容せざるをえない状況へと追い立てることを意味するからだ。それは支配的・洗脳的な態度であり、他者との対等な関係を尊重するものではない。

 たとえば、「すみません、いま目が合ったので話しかけました」と声をかけられたら、なんとなく作為を感じないだろうか。そうした語りは、「目が合う」という出来事を、あたかも自然発生的な出来事であるかのように語り、それによって自分と相手がすでに一定の共同性に巻き込まれていること、すなわち既成事実的に「私たち」であることを訴える。それによって、自分と相手が対話することが、すでに一定の必然性を持っていて、仕方のないことだと相手に感じさせようとする。こうした切り出し方は、何よりもまず、相手に対して対話を拒否させないようにすること、断りづらくすることを意図している。声をかけた側は、どのように話しかければ相手が断れなくなるか、つまり相手の自由を奪うことができるかを思案しているのだ。相手の自由を尊重せず、必然性によって支配される対象として、いわば技術的に操作される対象として相手を扱っているのである。

 したがって、たとえ対話が自己変容によって始まるのだとしても、対話を始めるために相手に自己変容を強制することはできない。それは相手の自由を否定することであり、対話の条件を掘り崩すことになる。

 では、対話を始めるために私たちには何もできないのだろうか。対話は、突然降り出す雨のように、自然に発生するのを待つしかないものなのか。あるいは、対話が始まるとき、私たちは何も主体的な選択をしていないことになるのだろうか。対話が自然に発生するのだとしたら、対話という行為自体に、参加者はなんの責任も負わないのだろうか。

 次回は、こうした問題を考えていこう。

 

 

 

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