対話が始まるとき、そこには、対話に先行した共同性がある。他者と対話するとき、さしあたり──これが「さしあたり」であることは強調しておきたい──、「私」はその他者とバラバラの個人として関わるのではなく、「私たち」として関わっている。
では、その「私たち」はどのようにして成立するのだろうか。
たとえば、様々な社会的な属性は、そうした共同性の根拠として機能するだろう。国籍がその典型だ。しかし、日常的な対話の場面に焦点を定めるなら、それはあまりにも抽象的な共同性でもある。私たちは、同じ国籍を共有するからといって、いきなり街ですれ違った人と対話できるわけではない。そこには、もっとささやかで不確かな、その場限りの頼りない共同性が生じているはずだ。
では、その頼りない共同性とはいったい何なのか。今回も、ハイデガーとともに考えてみたい。
ハイデガーがこだわったのは、人間存在を日常的な生活のなかで捉えること、それによってそのありのままの姿を分析することだった。伝統的な哲学において自明とされてきた専門用語をすべて排除し、日々の何気ない姿から自ずと明らかになってくる人間のあり方を解明すること──それが、彼の考える現象学のアプローチだ。
その際にハイデガーは、「私」が「存在する bin」を意味するドイツ語が、語源的に、「~の傍らにいる bei」という言葉と通底することに注目する。つまり存在するということは、何かの傍らにいるということなのだ。では、私たちには日常において何の傍らにいるのだろうか。それは、道具に他ならない。
道具は一つでは機能しない。たとえば筆者はいまカフェでアイスコーヒーを飲んでいる。執筆が進まなくなると、プラスチックのストローを指で弾いたりする。さてこのときストローは、筆者の傍らにあるものであり、一つの道具である。カップに突き刺さり、それを吸うことでコーヒーを飲めるからこそ、ストローとして機能する。つまりストローは、カップと関係し、コーヒーと関係するからこそストローとして存在するのだ。もしもこのストローを引き抜き、誰もいない森の中に捨てたら──そんなことを絶対にしてはいけないが──、それはストローではなく、ただのプラスチックの塊でしかない。
ストローは別の道具と関係しなければならない。このことはストローのデザインをも決定している。たとえば穴の大きさは、カップに突き刺すことができ、液体を通すことができるように決定されている。ストローの長さは、カップが置かれるだろうテーブルの高さによって決定されている。そもそもストローの素材は、その中を通過するもの──すなわちコーヒーという液体とその温度──に耐えられるものが選ばれている。
このことは、決して、ストローだけに当てはまることではない。カップはカップでまた、別の道具との関係のなかでしか存在できないし、テーブルもまた同様である。あらゆる道具は、別の道具との関係性のなかで、デザインされ、配置され、使用されるのだ。そのように互いを指示し合う関係を無視して、私たちが道具と関わることなどありえないのである。
ハイデガーは、こうした指示関係の総体を、世界と呼ぶ。世界と聞くと、何か広大な宇宙空間を想像するかも知れない。たしかに、世界は私たちがそのなかにいるところのものではある。しかし、その「なか」とは、決して「箱のなかにある」というときの「なか」の意味ではない。そうではなくそれは、私たちが日常的に接するものを支配する、道具のネットワークに他ならないのである。
道具を考えるときに重要なのは、それを使うことができるのが、「私」だけではないということである。たとえば「私」はストローによってコーヒーを飲むことができるが、「私」以外の人も、同じようにストローを使うことができる。というよりも、むしろ、「みんな」がストローを使えるからこそ、「私」もまたストローを使えるのだ。
このようにして、ストローという道具は、「私」を「みんな」と関係させる。もっとも、ここでいう「みんな」は特定の誰かではない。それは誰でもない誰か、顔も名前もない誰かである。
ハイデガーはこのような意味において世界は同時に公共的なものであると考えた。「公共」という言葉が付されてはいるが、そこで念頭に置かれていることは、決して人々が互いに語り合う言論空間のようなものではない。たとえ部屋で独りぼっちでいても、ストローを使っているとき、「私」は「みんな」と関係している。
この意味において、道具を介した「私」と他者の関係は、「私」が実際に他者と出会うことを必要としない。別の角度から言い換えるなら、実際に他者と会っていなくても、「私」は関わりを断っているということにはならない、ということになる。道具を使う限り、そこに他者が現前していようといまいと、「私」は不可避に他者と関わっているからである。
ハイデガーは、このように道具の使用において「私」が関係する「みんな」を、「世人 das Man」と呼んだ。世人には実体がない。なぜなら、特定の誰かではなく、誰でもない誰かだからである。「私」は世人と対面したり、コミュニケーションしたりすることはない。なぜなら世人は、「私」もまたその一員であるところのものとして、「私」が経験するものであるからである。
しかし、だからといって世人がコミュニケーションと関係がない、ということではない。むしろ世人こそが日常的なコミュニケーションを可能にしている。
どういうことだろうか。
たとえば、みんなでキャンプをして、バーベキューをしているところを想像してもらいたい(筆者にはそうした経験がないため、本当に想像するしかない)。ある人は河原で魚を釣り、ある人は花火の準備をし、ある人はバーベキューコンロの前に立ち、金網の上で肉を焼く。肉が焼けてきたら、コンロ係の人は、「焼けたぞ」と言って、周りの人を呼び、トングを渡す。そうして楽しい夕食が始まる。
このとき、コンロ係の人は、「焼けたぞ」とは言うが、何が焼けたかを言ってはいない。もしかしたら金網が焼けたという意味かも知れないし、胸焼けがしてきたという意味かも知れない。しかし、周りの人は、その言葉が間違いなく「肉が焼けた」という意味だと理解する。それはなぜだろうか。
理由は単純だ。それは、コンロが肉を焼くための道具だということを、その場にいる全員が知っているからだ。そして、コンロ係の人が「みんな」と同じようにコンロを使うことができる、と信じられる限りにおいて、「焼けたぞ」という言葉はただちに肉を焼くという行為を指示する。コンロという道具が持つ意味が、それに関する言葉のやり取りを規定しているのである。
また、このときコンロ係の人は、「焼けたぞ」と言いながらトングを渡しているが、何のために渡しているのかは説明していない。しかし、コンロ係が「焼けたぞ」と言い、トングを渡してきたら、それはそのトングで自分の肉を取れ、というメッセージであることを、誰もが理解できる。
なぜなら、コンロは肉を焼くための道具であり、トングは焼けた肉を取るための道具であることを、誰もが了解しているからだ。そのようにして、コンロとトングは連関し、あるネットワークを形成している。「焼けたぞ」は、このネットワークを利用し、二つの道具を結びつけるための言葉なのである。この二つの道具の間には、極めて強固な指示関係がある。だからこそ、「焼けたぞ」という単純な一言を言ってやれば、両者を結びつけることができるのだ。
これは私たちのコミュニケーションのなかで、極端に単純なケースかも知れない。しかし、日常的な会話のほとんどはこのケースと同じ構造を持っている。たとえば、スーパーのレジで「カードをお持ちですか?」と店員に聞かれ、「大丈夫です」と答える行為は、商品の買い方、ポイントカードの機能、店員の役割など、様々なものの指示関係を前提にして成立している。あるいは友達同士でカフェに行き、会計の列に並んでいるとき、友達が「席取って来るね」と言えば、自分たちが座るための席を確保しに行くことだと理解できる。それもやはり、カフェの使い方を「私」と友達がともに理解しているからこそ、成立するコミュニケーションだ。
こうした会話が成立するのは、その会話をしている当事者が、道具の使い方を互いに分かっているから、つまりその道具を使うことができる「みんな」の一員であるからだ。ともに「みんな」に属することが、「私」と他者の会話を可能にするのである。
こうしたハイデガーのコミュニケーションのモデルは、一般的に考えられているものとは異なっている。普通、私たちは、まず「私」と他者が別々に存在していて、その二人が出会い、自分の思っていることを話すことで、コミュニケーションが始まると考える。そして、そのように話がスタートすることによって、はじめて、それまで別の存在だった「私」と他者が、「私たち」になる。つまり、コミュニケーションが人間を「私たち」にし、そこに共同性が成立する、と考える。
ところが、ハイデガーの発想に従うなら、この構造は逆になる。「私」と他者がコミュニケーションできるのは、双方がすでに「みんな」の一員だから、つまりもう「私たち」になっているからだ。もし、双方の間にそうした共同性が存在しないなら、何を話そうとも意思疎通ができない。それはコミュニケーションと呼べるものではなくなってしまう。
ただし、こうしたコミュニケーションのモデルからは、豊かな対話の可能性を導き出すことができない。それはなぜだろうか。
それは、「みんな」が世人として道具に関わる、という点にコミュニケーションの基点が置かれている限り、そのコミュニケーションもやはり道具的なものとなり、「みんな」と同じようにコミュニケーションしなければならなくなるからだ。たとえばバーベキューをしているときに肉が焼けたら、「焼けたぞ」と言わなければならない。かわりに、「タンパク質の分子が化学変化を起こしているぞ」とか「メタバースは仮想空間だぞ」などと言ってはいけないのだ。「みんな」はそうは言わないからだ。
肉が焼けたときに「焼けたぞ」と言うことは、コンロ係をしている以上、避けることのできない業務なのである。そのとき「私」は、「みんな」が言うことを、「みんな」と同じように言わなければならない。それができなければコミュニケーションは成立しないからである。
道具との関係が希薄に思えるコミュニケーションも、同じ構造をしている。
たとえば、友達が恋人の愚痴を言っていたら、聞くのが辛くても「そうだよね、わかるよ」と言わなければならない。なぜなら、友達が愚痴を言い始めたら、「みんな」それに対してそう言うのが当たり前だからだ。「私」自身が、個人として、どう思うかは問題ではない。「みんな」と同じように振る舞うことが重要なのである。
愚痴を聞くということも、よくよく考えてみれば、ある種の道具的な指示関係のなかにある。もちろんそこには物体としての道具は介在していないかも知れない。しかし、友達との関係性を維持することによって、学校で勉強を教え合い、よい点数を取ることができるかも知れないし、眠れないときに話し相手になってもらえたら安眠できるかも知れず、ひいては睡眠時間を確保できたことによって健康を維持し、日常を支障なく送ることができるかも知れない。
このことは、友情をやましいものにするわけではない。たとえば私たちが辛い気持ちになったとき、「友達だったら愚痴を聞いてくれるだろう」と思って、愚痴を言うとする。おそらくそれは、友達に期待してよいことの範囲内にあることだろう。しかしそのとき、「私」は友達自身が、個人として、「私」の愚痴をどう受け止めるかを考えているのではなく、「友達」という関係性がその行為を許容できるかを考えている。もし、その友達が「私」の愚痴を一切聞くことを拒否する人物なら、よほど特別な理由がない限り、その人とそもそも友達にはならないだろう。
たとえばそれが職場の友達なら、友情を維持することはもっと実用的なものになるに違いない。情報を交換する、忙しいときに助け合う、ストレスを発散するなど、友情はより道具的な性質を帯びる。そして、そうした道具的な友情は、必然的に道具の指示関係のなかに飲み込まれる。つまり「みんな」が言うことを、「みんな」と同じように言うことを、強いられてゆくのだ。
「みんな」が言うことを、「みんな」と同じように言うこと──それは、「空気を読む」という行為によく似ている。
たとえば「私」が友達から愚痴を聞いたとしよう。その友達は、恋人が自分のことを適当に扱っているように思えて、そのことが辛い、と言ってきたとする。友達が「私」に期待していることは、ただ黙って聞くことであり、共感することだろう。しかし、それに対して「私」が、「そんな人と恋人でい続けるなんて時間の無駄じゃない?」「なんで早く別れないのか理解できない」と、突き放したようなことを言うとしよう。それを聞いた友達は、たとえ「私」の助言が正しかったとしても、その言葉に違和感を抱くに違いない。
なぜ友達は違和感を抱くのだろうか。それは「私」が、友達として果たすべき役割、いわば機能を果たすことができていないからだ。「みんな」が友達に期待していること、友達だったら誰でも同じようにできることを、「私」がしないからだ。要するに「私」は「みんな」から逸脱するからである。
こうした逸脱を犯す人は「空気が読めない人」と呼ばれる。そうである以上、世人として、「私たち」の一員としてコミュニケーションすることは、空気を読むことと同義なのである。空気とは、その場を支配する指示関係に他ならない。
ただし、注意するべきことがある。たとえ「私たち」の一員としてコミュニケーションすることが空気を読むことだとしても、具体的に何を語るかまで決まっているわけではない。これが、ハイデガーの哲学の面白いところである。
ハイデガーは、世人はある種の規範として機能すると考えたが、しかしその規範は、私たちが直接意識できるような対象として現れてくるわけではない。つまり、「みんな」が言うこと、「みんな」と同じように言うことが求められているにもかかわらず、何を言うべきかがあらかじめ決まっているわけではない。むしろ、その規範から逸脱する者、空気を読めない者が顕在化され、それが排除されることによって、逸脱ではない範囲が規範として緩やかに輪郭づけられるのである。つまり、どこからが逸脱で、どこからが逸脱ではないかは、あらかじめ規範によって画定されているのではなく、誰かが逸脱することで初めて意識されるのである。
たとえば友達とのコミュニケーションにおいて、何が空気を読んだ言動で、何が空気を読まない言動かは──言い換えるなら、その場を支配する空気とはいかなるものであるかは、空気を読まない言動が行われたときに初めて明瞭になる。空気は、それが逸脱されるまでははっきりと確認することができない。だからこそ、それを「読む」──すなわち、推量することが必要になるのである。
ハイデガーは世人の規範性がもつこうした性質を、「懸隔性」と呼んだ。「みんな」の一員としてコミュニケーションすることは、こうした懸隔性に支配された会話を営むことである。常に、この場において何が逸脱と見なされるのか、どんな言動が空気を読まないと評価されるのかを意識しながら、語り合うことである。
懸隔性は、多くの場合、暴力的な排除として立ち現れる。たとえば教室におけるいじめがその典型だ。ある日、誰かが恣意的に、「空気を読めないやつ」というレッテルを貼られ、いじめが始まる。すると、いじめられている生徒はその教室の逸脱者となり、そこから反照されるようにして、教室のなかの規範的な振る舞いが画定される。いじめられている生徒と同じ振る舞いをしないことが、空気として醸成されていく。しかし、その空気に従って行動することは、いじめに加担し、そのいじめを強化し、再生産するように機能する。
とはいえ、懸隔性が常に暴力として作動するとは限らない。逸脱者は、必ずしも蔑まれ、馬鹿にされる対象とは限らないからだ。
たとえば、音楽アーティストがそうである。筆者は邦楽のロックが好きで、ときどきライブに参戦することがある。ライブの醍醐味は、生の演奏だけではなく、観客たちが作り出すその場の熱気と興奮だ。特に、ライブで人気のアーティストに共通しているのはトークが巧いという点だ。彼らは観客の一人一人に向けて、特別な親密さを込めて、共感を誘いながら、自分の思いを語る。その言葉は、場合によっては、とても情熱的で、普通の状況で対面して聞いていたら赤面してしまうようなものであることもある。日常において、私たちが決して口にしないような言葉を、アーティストは平気で語る。その言葉が観客を一つにするのだ。
このとき、アーティストは明らかに逸脱者である。空気を読まず、私たちが日常において行うのとは異なる言動を、あえて行っている。しかし、だからこそ私たちは、その会場において一つの「私たち」という実感を得るのではないだろうか。アーティストが「私たち」を破る存在だからこそ、その言葉に接することで、観客は「私たち」になるのではないか。
ライブにおいて立ちあらわれる、観客同士の異様なまでの親密感は、明らかにアーティストのコミュニケーションによって作り出されるものである。しかし、アーティストは空気を読んではいない。むしろ空気を破っている。「みんな」としてではなく、一人の個人として、自分以外の誰でもない自分として、語る。その言葉が、そこにいる人々の間に共同性を創出するのだ。
もっとも、それを可能にするためには、アーティストは観客の心を深く理解していなければならない。つまり、観客に共感しながらも、観客がなしえないことをし、観客が従う規範を破らなければならないのだ。ここに、ただ空気を読めない人と、あえて空気を破るアーティストとの根本的な違いがある。つまりアーティストは、人々を「私たち」にするために、「私たち」を逸脱する言動をするが、それが可能なのは「私たち」を深く理解しているからなのだ。
このことは、「型破り」という概念を考えると分かりやすい。型を理解せずに行われる行為は、たとえ結果的に型から逸脱したものであったとしても、「型なし」と評価されるに留まる。それに対して、「型破り」という積極的な評価を得るためには、型を身に着けていなければならないのである。
この意味で、型破りな言動ができる逸脱者には、いまだ顕在化していない空気を察知するという、特別な能力が求められる。それは、ある意味では、誰よりも繊細に空気を読む能力である。型破りな言動をするアーティストが、実は非常に繊細であることはよくあるが、それはむしろ当然のことなのだ。
いずれにせよ、対話に先行した共同性があるとしたら、それを形作っているのは、その共同性を破る存在、「私たち」ではない逸脱者である。たとえ、そこに目に見える形で逸脱者が存在しないとしても、「私たち」は常に、「私たちではないもの」に支えられている。もしもそうした逸脱者が存在しなければ、「私」と相手の間に共同性は成立しないし、そこで何を語るべきか、語るべきではないかを、了解することもできない──少なくとも、それがハイデガーの哲学から読み取れる、対話のあり方だ。
このような対話のモデルはどこか消極的に見えるかも知れない。実際ハイデガー自身も、世人に従ったコミュニケーションを「おしゃべり」と呼び、人間の頽落した姿の一側面として説明した。そのようにして形成される対話は、常に表面的なものに留まり、人間同士の本来的な関係性を構築することには資さない。なぜなら、対話する相手が誰であるか、自分が何者として語るのかは、本質的にどうでもよいからだ。「みんな」が言うことを、「みんな」と同じように語ることが要求されるとき、語る人間が誰であるかは問題ではなくなるのである。
だからこそ、ハイデガーは人間が本来性を回復するために、他者との関係から自らを切断することが必要だと考えた。すなわち彼は、人間が本来の自分であるために、他者とミュニケーションすることを止め、孤立することが必要だと考えたのだ。
彼の哲学の枠組みに従うなら、確かにそうなるだろう。しかし、それは結局のところ、対話そのものの否定なのではないか。
誰かと対話するためには、その誰かと共同性を交わさなければならない。しかしその共同性は「私」を「みんな」の一員にし、非本来的にする。この矛盾を乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。次回、この「みんな」の問題を少し別の角度から考えてみよう。
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