前回、対話と共同性の構造を、ハイデガーの『存在と時間』を手がかりに分析した。しかし、彼は同書のなかで、必ずしも対話の問題を積極的に取り上げているわけではない。というよりも、むしろ、そこでは他者とのコミュニケーションそのものが、どちらかといえば消極的なものとして論じられている。
同書においてハイデガーは、人間の存在のあり方を、本来性と非本来性に区別する。本来性とは、自分自身の本来の可能性に従って自分を理解している状態を指す状態であり、それに対して非本来性とは、自分自身ではない可能性から自分を理解している状態である。その上で、ハイデガーは、人間は日常において基本的に非本来的に生きている、と指摘する。そうした非本来性の現れ方の一つが、「みんな」に流された対話なのだ。ハイデガーはそうした対話を、「世間話」と呼ぶ。その特徴は次のように説明される。
話すことが話題の存在者への第一義的な存在連絡を失っており、あるいはまだ取得していないために、それの伝達もこの存在者の根源的領得というありさまでおこなわれず、吹聴と受け売りをつうじておこなわれることになる。話された話は次第に広い範囲に波及し、権威的性格を帯びてくる。物事は、ひとがそう言うから、そうなのだ、と断定される。このような受け売りや吹聴によって、もともと土着性が欠けていたものが完全な無根さへ募っていくが、こういう話のなかで構成されるものが世間話である。1
ハイデガーが世間話の特徴として強調しているのは、「存在連絡」、すなわち語りの地盤となった根源的な世界との関わり──体験と呼んでもいいかも知れない──が、語られることによって漂白され、薄められ、ついにはその地盤そのものを失ってしまう、ということだ。なぜ、世間話は地盤の喪失をもたらすのか。それは、言葉に置き換えられるからではない。人々の間で語られた言葉は、一人歩きをはじめ、「受け売りや吹聴」と化していくからである。
たとえば日本には、リクルートスーツという就活用のスーツが普及している。大学生は三年生になると、誰もが同じようなリクルートスーツを購入する。企業の側は、採用条件にリクルートスーツの着用などを明示していないのに、学生たちはみんな同じスーツを着用する。なぜだろうか。それは、「就活ではリクルートスーツを着るものだ」と語られているからだ。そうした語りが、たとえば就活サイトで、あるいは就活を始めた学生同士の間で、盛んに交わされるようになる。
このとき、就活をする学生たちは、リクルートスーツに深いこだわりがあり、その──ハイデガー的に言えば──「根源的領得」を目指しているのではない。たとえばスーツの歴史に造詣が深く、リクルートスーツを初めて仕立てたデザイナーに心酔し、その世界観のなかで自らを表現しようと思ってリクルートスーツを着ているなら、それは非本来的ではないかも知れない。問題なのは、ただ、「就活ではリクルートスーツを着るものだから」と言われているから着ている、ということなのだ。そのとき就活生は、リクルートスーツに何の思い入れもないし、それがどんな歴史を持ち、どんな人物によってデザインされたのかということに、まったく関心を持たないのである。
繰り返しになるが、ハイデガーは、体験が言語化されること自体がその地盤を喪失させることになる、と言っているのではない。そうではなく、語られたことを軽薄に流布しようとする人間の傾向によって、言葉はその地盤から抉り出されてしまうのだ。ハイデガーがコミュニケーションに低い評価を与えるのは、人間が言葉を弄び、また言葉に弄ばれる存在だからである。
人は対話するとき、「みんな」が何を言っているのかに引きずられる。それはなぜなのだろうか。
ハイデガーによれば、それは人間が自分自身と向かい合うことを避けているからだ。世間話に陥ることを回避する語りがあるとすれば、それは、「私」に固有の可能性に基づいて何かを語ること、つまり「私」自身の本来的な体験を語ることだろう。しかし、そうした体験は決して一般化できない。「私」にしか語ることができないものがあるとしたら、それを保証するのは、「私」が「私」であること以外に何もない。
しかし、「私」が「私」であることに理由などない。だからこそ「私」は不安になる。「私」は、何の理由もなく、ただ偶然に「私」なのである。その不安から目を背けるために、人間は「みんな」の一人であろうとする。そうすれば、「私」が「私」であることの偶然性を、忘れることができるからである。
「みんな」の一人として自己を理解し、語ること。それが、ハイデガーの考える、自分自身ではない可能性から自分を理解することとしての、非本来性である。注意するべきなのは、彼がそれを決して道徳的に非難しているわけではない、ということだ。むしろ、人間は誰であっても日常においてそうした状態に陥っている。それが人間の通常のあり方なのである。
しかし、人間には非本来性を脱出する可能性もまた備わっている。それは、人間が不安に対してあえて向かい合うことに他ならない。彼は次のように説明する。
不安は現存在をおのれのひとごとでない世界=内=存在へ孤独化し、そしてこの世界=内=存在は、了解的なるがゆえに、本質的にさまざまな可能性へむかって自己を投企するのである。したがって不安は、自分が何を案じて不安を抱くのかを開示するとともに、現存在を存在可能として──しかも孤独化において孤独化されたものとしての現存在がひとえにおのれ自身によってのみ存在することのできる可能存在として──開示するのである。2
ハイデガーによれば、不安は人間を「孤独化」させる。すなわちそれは、「みんな」の一人として自分を理解することを、強制的に停止させるのである。
不安に苛まれるとき、「みんなこうしているから大丈夫だ」と自分に言い聞かせても、無駄である。なぜなら、たとえ「みんな」がどのように存在しているのであろうと、「私」は「私」であり、そこには何の理由もないからである。この意味において、不安は人間を「みんな」から切断するのであり、そこに不安の脅威がある。しかしハイデガーはそれを消極的に評価しているわけではない。むしろ、そのように「みんな」から切断されるからこそ、「みんな」の一人として自分を理解しているときには見えてこなかった、新しい可能性が開かれもする。彼はそれを、人間が「可能存在として」開示されることとして説明する。
可能存在とは、言い換えるなら、別でもありえる存在として、今ここに存在する、ということだ。「私」がいま「みんな」の一人であり、「みんな」と同じように存在することを強いられているのだとしても──たとえばリクルートスーツを着ることを強制されているのだとしても──「私」にはそうしないことができる。そして、そしてそうしなかったとしても、自分が損なわれることはない。不安はそうした自己理解の可能性を開くのである。
人間が世間話をしてしまうのは、「みんな」の一人であろうとし、自分自身の不安から目を背けようとしているからだ。それは非本来的な状態である。それに対して、本来的に生きることがありえるとしたら、それは、不安から目を背けず、不安に向かい合おうとすること以外にはない。そのように孤独化した人間が世間話を弄することはありえないだろう。むしろ、そのとき人間は、余計なことを何も語らなくなるはずである。
ハイデガーは、このような観点から、本来的に存在する人間は沈黙すると述べる。
現存在が本来的に自己であるのは、沈黙せる、不安を辞せざる覚悟性の根源的な孤独化においてである。本来的な自己存在は、黙止するものであるから、かえって《私が、私が……》と言いつづけず、沈黙のうちに、おのれがそれとして本来的に存在しうる被投的存在者を《存在している》のである。覚悟せる実存の沈黙があらわにする自己こそ、《自我》の存在への問いのための根源的な現象的基盤なのである。3
注意するべきことがある。それは、ハイデガーにとって沈黙は、語りを否定することではない、ということだ。なぜなら沈黙は、本来的な自己を「露呈」させるから、つまり何も語らないという形で、自分自身が何者であるかを明らかにするからである。したがって、本来的に存在する人間は、世間話を弄することはないが、しかし何も語らないわけではない。沈黙という形で、自分が何者であるかを呈示し、その呈示もまた、一つの語りであるからだ。
ただし、たとえ沈黙が一つの語りであるのだとしても、やはりそれは言葉として他者と何かを共有することではない。本来的に存在する人間が、他者と対話することは、やはりありえないだろう。他者と対話することを避け、ただ黙することを選択するはずである。ここにハイデガーの哲学──特に『存在と時間』──における、対話への消極的な評価が明確に示されている。彼にとって対話は、人間をその本来の姿から逸脱させるものであり、自分自身と向かい合うことを妨げるものなのだ。
ただしこのことは、本来的に存在する現存在が、他者との関わりを捨て去り、世捨て人としてたった一人で生きる、ということを意味するわけではない。ハイデガーの哲学において、それはそもそも不可能な想定である。なぜなら、人間は常に世界のなかで存在し、世界のなかで存在する以上、他者と関わらざるをえないからだ。それが、人間を「世界=内=存在」と呼称する、彼の基本的な人間観なのである。
では、本来的に生きる人間は、どのように他者と関わるのだろうか。さしあたり、そうした関係として想定されるのは、道具を介した関わりである。本来的に生きる人間であっても、服は着ているだろう。服は「私」一人のために作られたものではなく、同じような体型の人が誰でも着られるように、仕立てられている。だから、その服に袖を通すとき、「私」は潜在的にその服を着ることができる他者たちと関わっている。
同じことは、街に対しても言える。街には道路がある。道路は、「私」一人のために作られているのではなく、「私」以外の他者──「私」と同じような身体的特徴を持った人々──が利用できるように設計されている。だから街を歩いているとき、「私」はそうした他者たちと潜在的に関わっているのだ。
もっとも、こうした関わり方は、他者との実際的なコミュニケーションを伴うものではない。少なくとも、本来的に生きる人間は、世間話するという形で他者と関わることはないだろう。では、そうした人間は他者と一切コミュニケーションを取らなくなってしまうのだろうか。
ハイデガーは、そうではないと考えていた。自らの本来性に覚醒した人間もまた、他者とコミュニケーションをすることがありえる。ただしそれは、繰り返しになるが、世間話という形によってではない。ではどのようにしてか。
『存在と時間』において、世界に対する人間の関わり方は、大きく分けて二つに類別される。第一に、道具への関わりであり、これは「配慮」と呼ばれる。それに対して、第二に、他者への関わりは「待遇」と呼ばれ、配慮から区別される。
配慮とは、道具を必要な仕方で使用するという関わり方である。それに対して、待遇とはどのような関わり方なのだろうか。ハイデガーは待遇をさらに二つに分ける。
一つは、「相手の身代わり」をするような待遇だ。それは、他者が何かに困っているとき、その問題に相手が自分で向かい合うことを免除するような関わり方である。具体的には、他者の相談に乗るような事態が想定される。
他者から相談を持ちかけられたとき、多くの場合、人々はその問題の解決を目指そうとする。ここで言う解決とは、根本的な問題を解消することではなく、その他者が問題を抱えずにすむことは、その問題に悩むこと事態がなくなるように仕向けることである。だからこそ、相談に乗る人は、世間で言われている一般論を持ち出し、「みんなそういう悩みを抱えるよね」などと言い、悩んでいること自体をやめさせようとする。それがハイデガーの言う「身代わり」なのである。
このように「身代わり」されることで、相談をしてきた者は、相談に乗ってくれた者に依存するようになり、支配される。しかも、そうした依存と支配の関係は、必ずしも表面化しない。そうした関係性に飲み込まれている限り、相談をしてきた者は、自分自身の問題と向かい合うことができなくなる。それは、ハイデガーの概念系に従って考えるなら、非本来的な状態に留まり続ける、ということを意味する。
このように、他者を非本来性から抜け出せなくする待遇に対して、ハイデガーは別のコミュニケーションのあり方を提案している。それは次のようなものである。
これに対してもうひとつの待遇の様態は、相手に代わって飛び入りをするというよりも、むしろその実存的な存在可能において相手に率先するものである。それも、相手の「苦労」を取り除いてやるためではなくて、むしろそれを本当の意味で「配慮」すべきこととしてあらためて彼に返還してやるためである。この待遇は、本質上、相手の本来的な関心事、すなわち彼の実存にかかわるものであって、相手が配慮するものごとにかかわるのではないから、彼がその関心において透視的になり、それへむかって自由になるのを助ける。4
ハイデガーによれば、このもう一つの待遇は、「率先する」という形のコミュニケーションである。それは、相手の問題を解消するのではなく、むしろ相手が自分の本来のあり方を考えるように仕向け、自分自身と向き合うように誘う。こうした待遇において、他者との関係性は決して非本来的ではなく、むしろ本来性を志向するものとして理解される。
「率先する」という形で他者と関わることは、果たして、どのようなコミュニケーションなのだろうか。一目して明らかなことは、それが対等な関係ではない、ということだ。「率先する」待遇において関わりあう二人は、一方が導く側であり、他方は導かれる側である。導く側は、導かれる側を「手助け」するが、導かれる側は導く側に対して何も寄与しない。したがってそれは一方的に与えられる関係である。
このような関係性としてイメージできるのは、教師と学生の関係、あるいは親と子供の関係である。導く側は明らかに強者であり、導かれる側は明らかに弱者である。ハイデガーは次のように述べる。
覚悟せる現存在は、みずから選びとった存在可能の《主旨》にもとづいて、自己をおのれの世界へむかって明け渡す。おのれ自身への覚悟性こそ、共同存在するほかの人びとをひとごとでない彼ら自身の存在可能において《存在》させ、この存在可能を率先的=解放的な待遇において共同開示するという可能性のなかへ、現存在をはじめて引き入れるものなのである。覚悟せる現存在は、ほかの人々の《良心》となることができる。各自が覚悟性において本来的に自己であることによって、はじめて本来的な相互存在が発源するのであって、世間のなかで世間の人びとが経営しようとする事業について、曖昧な嫉みぶかい約束や言葉たくみな友好関係から真の相互存在が生ずるわけではない。5
「率先する」ということが意味しているのは、要するに、いまだ非本来性に留まっている他者に対して、自らが先に本来性を取り戻し、自分と同じように他者を本来性へと導く、そうした仕方で他者に範を示す、ということだろう。ハイデガーは、このような形で他者と関わることを、自らが他者の「良心」になる、という事態として説明している。
したがって、世人への同調を否定し、孤独性のうちに本来性の獲得を見出したからといって、ハイデガーが他者との関係を否定した、という見方は間違っている。むしろ彼は、本来性を取り戻した人間が他者と取り結ぶ関係を、クリアに提示しようとしているのだ。
とはいえ、たとえそうであったとしても、それはやはり対等な関係ではない。それに、本来性を取り戻すというプロセスそのものは、他者との関わりから切断された次元において行われる。「率先する」待遇は、結局のところ、他者よりも先に、他者から孤独化することによって実現する。この意味において、やはりハイデガーの議論のなかで、他者との関係は消極的に評価されており、それよりも一人であることの方に価値が置かれているようである。
もう少し単純化して、こう言っても大きな間違いではないだろう。すなわちハイデガーの哲学は、コミュニケーションよりも孤独を、対話よりも沈黙を重視する思想である。しかし、なぜ彼はそうした態度を取るのだろうか。おそらくその理由は、その哲学において、他者が「世人」という形でしか明示的に語られず、顔と名前を持った具体的な他者との関係が、ほとんど論じられていないからだ。つまり彼の哲学は、世人に同調するか、孤独に生きるかの、二択を迫るものなのである。ハイデガーにとって対話は、あくまでも前者に帰属するものだった。だからこそそれは肯定的な理論的機能を果たすことができないのである。
『存在と時間』の理論の枠組みのなかで考えるなら、ハイデガーの哲学において対話が重視されていないということは、大きな問題ではない。それは、彼の哲学の首尾一貫性を否定するものではないからだ。しかし、視点をその外側に設定するなら、もちろんそれは批判される余地を持つ。
マールブルク大学においてハイデガーに学んだ、政治思想家のハンナ・アーレントは、『存在と時間』における本来性の議論に、鋭い批判を寄せた。彼女は次のように述べる。
自己の最も本質的な特性は、その絶対的な自己中心性、それがすべての仲間から根底的に分離していることである。この本質的な特性を規定するためにハイデガーが導入したのが、実存論的なものとしての死への先駆けだった。というのも、死のうちでこそ、人間は絶対的な個体化の原理を自覚するからである。ひとり死のみが、人間をその仲間たる人びと──「世人」として彼が自己であることをたえず妨げる者たち──との結びつきから引き離す。6
アーレントによれば、ハイデガーの哲学における「自己の最も本質的な特性」は、「仲間」からの「分離」である。なぜなら、その哲学において、「仲間」と見なされうるものは、「世人」と名付けられ、「自己であることをたえず妨げる者たち」としてしか位置付けられないからだ。そうした「世人」から分離されること、「世人」から独立し、ただ一人で存在することを決意することこそが、人間の本来のあり方として説明されるのである。
アーレントによるハイデガーへの批判の根本にあるのは、他者が──すなわち、彼女の視点に立つなら、「仲間」と呼びうる他者までもが──「世人」としてしか説明されない、ということへの疑念である。彼の哲学にとどまる限り、人間は「仲間」と出会うことができない。そこにあるのは、世人としての他者に邪魔をされながら存在するか、そうした他者との関わりを絶って自分らしく生きるかの、二択なのである。
しかし、アーレントはなぜこのように「仲間」の存在を否定するハイデガーを、批判するのだろうか。それは、「仲間」から切り離され、孤独に生きることを強いられるとき、人間には脅威が忍び寄るからである。彼女は次のように説明する。
自らと同じ類の他者とともにこの地上に住まうことがもし人間の概念には含まれないとしたら、人間に残されるのはただ、原子化された自己たちにそれらの本性には本質的に疎遠な共通の基盤を提供する機械的な和解だけである。そのことから帰結しうるのはただ、決意によって受け入れた根本的な責めをなんとか行為へと移すために、もっぱら自ら自身に没入している自己たちを一つの超—自己へと組織化することでしかない。7
少し細かく解釈していこう。アーレントによれば、ハイデガーの哲学において、人間は「仲間」から切り離されている。それは、言い換えるなら、人間が「原子化」されているということである。そうであるとしたら、自己と他者を繋ぐ回路は、自己が他者と作り上げる関係性ではなく、自己と他者が共有する「本性」の同一性でしかない。しかしその同一性は対話によって形成されるものではない。言い換えるなら、自己と他者はその同一性へと「機械的」に「和解」させられる。
この同一性とは何だろうか。ハイデガーの哲学に従うなら、それは現存在の存在構造をめぐる体系的な説明に他ならないだろう。彼の哲学のなかで、その存在構造は有無を言わせぬものとして前提とされているのであり、人々が対話によって変更できるものではない。したがって、それは個々の「自己」を超えたもの、すなわち「一つの超―自我」なのである。結局のところ、ハイデガーが本来的な待遇として挙げていた、相手に「率先する」待遇は、他者をこうした超自我へと「組織化」することでしかない。
このような観点から、アーレントはハイデガーを批判する。そしてそれは、あくまでも対話のなかで人間は自らの本来の姿を呈示するという、彼女の哲学への導火線となっていくのである。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。
- マルティン・ハイデガー『存在と時間』上、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、三六〇頁
- マルティン・ハイデガー『存在と時間』上、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、三九六頁
- マルティン・ハイデガー『存在と時間』下、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、二〇五頁
- マルティン・ハイデガー『存在と時間』上、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、二六七ー二六八頁
- マルティン・ハイデガー『存在と時間』下、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、一五八ー一五九頁
- ハンナ・アーレント『アーレント政治思想集成 1 組織的な罪と普遍的な責任』齋藤純一ほか訳、みすず書房、二四五頁
- ハンナ・アーレント『アーレント政治思想集成 1 組織的な罪と普遍的な責任』齋藤純一ほか訳、みすず書房、二四六頁