非常灯の思考 対話とは何か / 戸谷洋志

別離や喪失の体験は、いとも簡単にそれまでの「当たり前」を無効化してしまう。誰しもそれを避けることはできないが、来るべき日のために、今この瞬間から「当たり前」を問い直してみることはできるかもしれない。そのとき、背中を押してくれるものーーそれが他者の存在だ。数々の哲学カフェを主催してきた著者が、新しい地平へといざなう対話について考察する。

『人間の条件』における思考

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 思考とは、自分自身との対話であり、その対話は、他者との友情に根差したものである──それが、思考に対するアーレントの基本的な発想だった。彼女は思考と対話の間に密接な連関を見ていた。どれほど頭の回転が速く、物事を処理する能力が高いのだとしても、他者と、そして自分自身と対話できないなら、それは思考をしていることにはならない。だからこそ彼女は、傑出して優秀な実務能力を有していたアイヒマンは、思考を欠如させていた、と見るのである。
 しかし、ごく普通に考えて、思考と対話はそれぞれ別の営みであるように思える。両者を密接に連関させる彼女の思想は、どのように理論として体系化されるのだろうか。今回はこの問題を、彼女の主著『人間の条件』を参照しながら、検討してみよう。
 『人間の条件』は二つの概念系によって構成されている。一つは、「活動的生活 vita activa」とそれに帰属する三つの活動力の区分であり、もう一つは、私的領域と公的領域の区分である。思考は、この二つの概念系のどこに位置づけられるのかを、検討してみよう。


 
 アーレントは人間の生のあり方を二つに区分する。第一に、観照的生活であり、第二に、活動的生活である。観照的生活とは、真理を直観することを目的とした、それ自体で充足する静的なあり方である。それに対して活動的生活は、人間が世界に対して働きかけるあり方である。活動的生活は、さらに三つの活動力へと区分される。すなわち、「労働 labor」、「仕事 work」、「活動 action」である。
 労働とは、人間の生命過程に対応した営みである。その典型は代謝である。人間は生きるためには食べなければならない。しかも、毎日、繰り返し何かを食べ続けなければならない。このように代謝は際限なく反復する。しかもそれは、代謝する者の生命以外に、何も残さない。ただ食べ物が消費され続けていくだけなのだ。この意味において、代謝の本質は消費である、と彼女は考える。
 食べ物を得るために、給料を求めて雇用主のもとで働くことも、もちろん労働である。賃労働もまた、代謝と同じように反復する。私たちは、食べるために働き、働くために食べる。そして、働いて得たもの──すなわち貨幣──は、食べ物を買うために消費される。労働だけをして生活している限り、労働者はただ生きているだけの存在になる。
 それに対して、仕事という概念でアーレントが説明するのは、何らかの人工物を制作する営みである。たとえば、建築物や芸術作品を作ることが、それに該当する。労働と仕事の最大の違いは次の点にある。すなわち、労働が単なる反復的な消費であるのに対して、仕事は作品の完成という明確な終わりへ向かう営みであり、かつ、その後には作品という成果物を残すことができる、ということだ。そうした成果物は、労働の産物のようにすぐに消費されてしまうことはなく、長期間にわたって使用され続ける耐久性を持っている。たとえば家具は、人間が手入れをすれば、何世代にもわたって使用され続けるし、建築物は何世紀にもわたって存在しうる。 
 アーレントは、こうした様々な人工物によって構成される空間を、「世界 world」と呼ぶ。街のようなものをイメージするとよい。そこには家屋が並び、道路が舗装され、橋が架けられる。それらは何世代にもわたって継承される。人間は、自分が生まれる前から存在する世界に誕生し、自分が死んだあとも、この世界はずっと存続するだろうと期待することができる。それが、世界に対するリアリティの源泉であり、儚く死んでいく人間の運命に、ささやかな慰めを提供すると、彼女は述べる。 
 さて、労働と仕事があくまでも物と関わる行為であるのに対して、活動は、他者とともに営まれるものである。アーレントが活動という言葉で説明しているのは、さしあたり政治的な活動であって、ある目的を達成するために、人々が連帯し、新しい何かを始めることだ。彼女は、活動がこの世界に新しさをもたらすことを強調する。なぜ、人間は新しい活動を始めることができるのか。それは、人間が一人一人異なる存在だからである。彼女は、そうした人間の性質を、複数性を呼ぶ。人間は複数性を持ち、これまで存在した誰とも、いま存在する誰とも、そしてこれから存在するだろう誰とも、異なっている。この意味において人間は誰もが唯一的であり、だからこそ、そうした人間が始める活動は、前例のないものになる。
 このような形で、活動は人間の複数性を顕在化させる活動力なのである。活動のなかで、はじめて人間は自らの個性を発揮し、自分が何者であるかを明らかにする。アーレントによれば、職業や属性をどれだけ挙げても、それはその人間が「何 what」であるかを示すことにしかならない。それに対して、その人間が「誰 who」であるかは、他者の前に姿を現し、そこで何かを語るかによって明らかにされるのである。


 
 『人間の条件』を構成するもう一つの概念区分は、私的領域と公的領域である。アーレントは両者を区別するために、古代ギリシャにおける都市のあり方を手がかりとする。 
 アーレントによれば、私的領域とはさしあたり家計の営まれる場であり、私的な利害に規定された空間だった。そこでは、人々は第一に自分のことを考える。しかし、私的利害に規定されている限り、人間は自由ではない。家計は人間に対して、しなければならないことを課すのであり、人間を必然性へと従属させるからだ。たとえば人間は、家計の一環として、今日の食べ物を獲得しなければならないが、それは食べ物がなければ生きることができないからであり、その点において人間は必要性に支配されているのである。
 そうした必要性から抜け出せない限り、人間には自分の意見を言うことができない。意見は、何よりもまず、自分の意志に基づく自由なものでなければならない。しかし、必要性に支配され、私的利害に拘泥している限り、何を語ろうとも、それは自分の自由な意志を反映したものではないからだ。私的領域において語られる言葉はすべて私的利害に支配されている。だからそうした言葉には誰も耳を貸さない。この意味において、私的領域は公共性を持たないのである。
 それに対して公的領域は、こうした必要性から自由になった人間によって形成される、公共性が発揮される空間である。古代ギリシャにおいて、公的領域に参入することができたのは、奴隷を所有する裕福な市民だった。彼らは、家計については何も心配することがないため、私的利害に左右されることなく、自分の思ったことを自由に意見することができた。そうした公的領域において、はじめて人間は、一人の個人として姿を現すのである。 
 アーレントは、公的領域と私的領域の対立を、光のイメージで説明している。公的領域とは、人間が光に晒される場所である。他者の前で意見を語ることによって、人間は自らの姿を現す。他者にその姿を見られ、その言葉を聞かれることによって、人間の言動はリアリティを獲得する。それに対して、私的領域はそうした光の届かない空間である。家は他者の視線を遮り、プライベートな領域を確保する。私的領域は暗がりなのである。公的領域に参入しようとするものは、まず、私的利害を乗り越えなければならない。それは、暗がりの中から明るい世界へと歩みだすことを意味する。
 ただしこのことは、私的領域が常に劣っていて、公的領域が常に優れている、ということを意味するわけではない。すべてのものを光で照らす公的領域には、特有の残酷さもある。そこでは、人間の姿が容赦なく暴露され、他者から思ってもいないような評価を下されることもあるからだ。私的領域は、一人一人のプライベートな生活を、そうした光から守る場所でもある。人に知られたくないこと、隠しておきたいこと、評価を下されたりなどしたくもないことは、私的領域のなかに匿っておかなければならない。
 しかし、いずれにしても、公共性は公的領域においてはじめて成立する。そして公的領域にとって本質的なのは、そこに自由な個人が姿を現すということである。そこで何が語られるのか、ということよりも、それが誰によって、どのように語られるのかということが、公共性にとっては決定的に重要なのだ。
 アーレントはこれらの概念系を重ね合わせることで、自らの理論を体系化していく。さしあたり、私的領域は労働に対応し、公的領域は活動に対応する。もっとも彼女は、近代において私的領域と公的領域が相互に侵食し合い、そこに「社会」という新たな領域が成立すると主張しているが、それについては割愛しよう。


 
 では、こうした概念の配置のなかで、思考はどこに位置づけられるのだろうか。
 まず考えるべきことは、思考が観照的生活に属するのか、活動的生活に属するのか、ということである。アーレントはさしあたり、それは前者である、と考えていたようだ。彼女は次のように述べる。
 

一方に、この世界の物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式があり、他方に、究極的には観照に至る純粋な思考があって、この二つは、人間のまったく異なる二つの中心的関心に対応している。このことは、「思考の人と活動の人とが異なった道を辿り始め」てから、いいかえると、ソクラテス学派に政治思想が生まれて以来、いろいろな形で現われてきた。1

 アーレントによれば、思考は最終的には観照へと至る。すなわちそれは真理の直観を目指し、静的な態度をとるものなのだ。それは、活動的生活から区別されるという点で、「この世界の物に対する積極的な係わり方」を放棄する。思考することは、世界から距離を取り、物事の移ろいに左右されないあり方を、私たちに要求する。したがって思考することは、労働でも、仕事でも、活動でもない。
 では、私的領域か公的領域か、という区分で考えたらどうだろうか。アーレントによれば、この区分において、思考は私的領域に属する。

知への愛と善への愛は、それぞれ哲学する活動力と善行をなす活動力に変わる。しかし、人間は賢人であり・・うるし、善人であり・・うると仮定される途端に、それらの愛はただちに終りとなり、いわば自らを打ち消してしまうという点で共通している。行為が行なわれる束の間の瞬間だけしか存続できないものをそれ以上に存続させようという試みは、これまでになくはなかったが、いつでもその結果は不条理であった。自分が賢人であり・・たいと願った古代後期の哲学者たちは、有名なファラレスの牡牛〔紀元前六世紀のシチリアの暴君ファラレスが作った青銅の牛で腹中に人を入れ焼き殺した〕で生きながら火焙りにされたとき幸福であると主張したが、それは不条理であった。2

 アーレントはここで、「知への愛」に基づく思考を、「善への愛」と並行させながら、両者をともに公的領域では存在しえないものと見なしている。なぜならそれは、他者から見られたり聞かれたりすることが、そもそも願いえないものであるからだ。公的領域において思考するということは──それが仮に試みられるとしたら──他者から思考する者だと思われたい、ということを意味する。つまり、他者に、自分が思考している姿を見てほしい、ということだ。しかしそれは真に思考することを意味しない。彼女はそのようにして思考の本質を裏切る者として、自己欺瞞のなかで処刑された「自分が賢人でありたいと願った古代後期の哲学者たち」を挙げている。
 したがって思考は、私的領域で行われる観照的生活である、と考えることができる。ただし、思考は対話と密接に連関するものであった。そうした対話的性格が、思考に対して与えられるこうした概念的配置を、自ら揺るがしていくことになる。


 
 先ほどの引用に続けて、アーレントは次のように述べる。

しかし、善への愛から生まれる活動力と知への愛から生まれる活動力が似ているのは、ここまでである。たしかに、この両者とも公的領域にたいして一定の対立関係にある。しかしその点では、善の方がはるかに極端であり、したがって私たちの文脈ではいっそう重要である。滅ぼされないためには絶対的に隠され、あらゆる現われを避けなければならないのは、善だけである。哲学者のほうは、たとえプラトンのように人間事象の「洞窟」を去ろうと決意する場合でさえ、自分の眼から隠れる必要はない。むしろ、プラトンはイデアの大空のもとで存在する一切の物の真の本質を発見するばかりか、「私と私自身」(eme emautō)の間に交わされる対話の中に彼自身をも発見するのである。そして、明らかに、プラトンは、この対話の中に思考の本質があると見ていた。独居にあるということは自分自身とともにあるという意味であるから、思考は、たしかにあらゆる活動力のうちで最も独居的なものではあるが、けっして同伴者や仲間を欠いているわけではない。3

 前回述べたように、アーレントは思考を自分自身との対話として捉えている。そうした発想はこの引用のなかでも一貫している。思考は「私と私自身」の間の対話である。思考をするためには、人間は公的領域から退き、私的領域において一人にならなければならない。つまり、「独居」しなければならない。しかし独居は完全な孤独ではない。なぜならそれは「自分自身とともにある」ということを意味するからだ。
 引用中の「洞窟」とは、プラトンの哲学における洞窟の比喩を指している。プラトンによれば、人間は日常において洞窟のなかの影を見ているが、哲学者は信じるを知るために、洞窟を離れて太陽を目指す。それは、洞窟のなかでともに暮らす人々から離れること、つまり孤独になることを意味している。しかしアーレントは、そのように仲間のもとを離れるときでさえ、私たちは孤独になるわけではない、と訴えるのである。
 それに対して、善にはそうした独居さえも許されない。私たちが道徳的に善良な行為をなすのは、自分自身に対していかなる吟味も加えずに、善い行いをするときだけであるからだ。
 思考と善の違いは、記憶の観点からも説明できる。思考することは、自分が行ったことを記憶し、そのように記憶される自分と付き合い続ける、ということだ。それに対して善は、行われた瞬間に、忘れられなければならない。自分がした善いことをいつまでも記憶し、それを思い出しては悦に浸る者は、善良な人間ではない。しかし、思考はそうではない。自分の言動を絶えず思い出し、それを批判的に吟味し続けることは、思考にとって本質的な営みである。
 そうであるとすると、同じように公的領域からの退却を必要とする営みであるのだとしても、思考と善の間には違いがある。善は、公的領域から完全に切断されている。それに対して思考は、それが自分自身との対話であるという点において、少なくとも善よりは、公的領域に近接した要素を持っている。なぜなら思考は、たとえそれが自分自身であったとしても、「同伴者や仲間」を必要とする営みであるからである。
 このような思考をめぐるアーレントの議論は、歯切れが悪い。一方において、思考は公的領域から排除されている。しかし、他方において、それは公的領域に近接してもいる。この意味で思考は、公的領域と私的領域の中間にあるもの、いわば両者の境界にあるものとして、位置づけられる。そのうえ、そうしたあいまいな位置づけをもたらしているのは、ひとえに、彼女が思考を対話に基づくものとして捉えながら、しかしそれが、公的領域におけるコミュニケーションとは一線を画したものである、と考えているからに他ならない。
 私たちは彼女にこう問いかける余地を持つだろう。いったい、公的領域の対話と、思考の根拠となる対話の間に、どんな違いがあるのだろうか。なぜ公的領域の対話は思考の基礎とならないのだろうか。なぜ思考の根拠となる対話は、公的領域へと参入していかないのだろうか。


 
 思考は、私的領域と公的領域の区分をあいまいにする。それは、私たちに一人であることを要求しながら、しかし同時に、公的領域へと私たちを近接させる。そしてこのことによって、思考のもう一つの特徴、つまり観照的生活であるという点にも、揺さぶりをかける。アーレントは次のように述べる。

伝統的に、思考というのは、真理の観照を導く最も直接的で重要な方法だと考えられていた。プラトン以来──おそらくはソクラテス以来──思考とは、人間が自分自身とかわす内部的対話であると考えられてきた。(プラトンの対話篇でよく使われている句を思い起こせば、「私を私自身に」係わらせるのである。)そしてこの対話は外部への現われを一切欠き、他の活動力をすべて多かれ少なかれ中断することさえ必要とする。しかし本来、それは極めて活動的な状態である。だから、外見上は不活発であるが、それは、真理が最後に人間に現われる受動性、完全な静けさとはっきり区別されるものである。4

 ここでアーレントは、やはり、思考を対話に基づくものであると主張する。しかし、そうであるがゆえに、それは純粋な観照的生活ではない、と言う。たしかに思考は観照的生活へ至ることを目指す。しかし、その過程において、それは決して静的なものではない。なぜなら思考することは自分自身と対話することであるからだ。だからそれは「活動的な状態」なのである。
 しかしそうであるとしたら、思考は、実は観照的生活ではなかった、ということになる。このことは、『人間の条件』の最後が次のような言葉で締めくくられていることからも、明らかである。少し長いが、そのまま引用しよう。

最後に思考についていえば、私たちは前近代と近代の伝統に従って、〈活動的生活〉を考察する場合にそれを取り除いておいた。ともあれ、この思考も、人びとが政治的自由の中に生きているところでは、まだ可能であり、疑いもなく現存している。〔…〕活動的であることの経験だけが、また純粋な活動力の尺度だけが〈活動的生活〉内部のさまざまな活動力に用いられるものであるとするならば、思考は当然それらの活動力よりもすぐれているであろう。この点でなんらかの経験をしている人なら、カトーの次のような言葉がいかに正しかったか判るであろう。「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」。5

 ここでのアーレントの主張は、複雑に入り組んでいる。少し丁寧に読み解いてみよう。
 彼女によれば、思考は、人間が「政治的自由」のなかで存在している場合には、まだ可能である。このことが示唆しているのは──彼女がそう明言しているわけではないが──政治的自由が存在しないとき、思考もまた不可能になる、あるいは少なくとも脅威にさらされる、ということだろう。この点でも、彼女のなかで思考の位置づけは、活動的生活に近接していることがわかる。
 思考は「少数者」に独占されるものではない。一部の、突出して思慮深い人たち、たとえば古代の賢人たちのみが、思考できるわけではない。ここに示唆されているのは、むしろ思考が、万人に──少なくとも、それなりに多くの人々に──開かれたものである、ということだ。
 そのうえ彼女は、「なにもしないこそが最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」というカトーの言葉を引用している。ここに示唆されているのは、思考は何らかの意味で私たちにとって活動する力である、すなわち活動力の一種である、ということだ。したがって、純粋に図式的に考えるなら、思考は、労働・仕事・活動に並ぶ活動力の一つに数え入れられるということである。

 もっとも、『人間の条件』で思考──特に、活動力としての思考──は必ずしも主題的に論じられているわけではない。同書において、彼女の思考論の全貌が明らかになっているとは、とうてい言えない。しかし、少なくとも、それが人間の活動的生活にとって、無縁であったり、周縁的なテーマであったりすることはない。それは、同書の最後の文章が、思考の可能性を──見方によってはいささか過度なほどに──強調していることからも、明らかだろう。
 いずれにしても、思考は、同書の基本的な概念系を乱すようなものとして、論じられる。観照的生活と活動的生活、労働・仕事・活動、私的領域と公的領域という、一見すると見事なまでに幾何学的に構成された彼女の線引きを、思考という概念はずらしてくのだ。
 なぜ、そんなことが起きているのだろう。それは彼女が、あくまでも思考を、対話に基づくものとして捉えているからだ。もしも思考が対話と無縁であったら、思考は何の問題もなく観照的生活に基づく私的領域へと帰属していただろう。そうであれば彼女の議論はずっと見通しやすかったはずだ。
 見方を変えれば、そうした体系的な整合性を犠牲にしてまで、思考における対話の側面を注視しようとした。それは彼女にとって対話的な性格が、どうしても除去することができない、思考の必然的な条件だった、ということを意味しているに違いない。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、三二頁
  2. 前掲書、一〇六頁
  3. 前掲書、一〇六ー一〇七頁
  4. 前掲書、四五九頁
  5. 前掲書、五〇三ー五〇四頁