新・植物考 / 藤原辰史

人間は植物よりも高等だと私たちは思っている。だが、それは真実だろうか?  根も葉ももたず、あくせく動き回って疲弊している私たちには、 植物のふるまいに目をとめることが必要なのかもしれない。 歴史学、文学、哲学を横断しつつ、ありうべき植物と人間の関係をさぐる、 ユニークかつ刺激的な試み。隔月連載。

種について(2)

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バジルの慈悲

 自宅のプランターにバジルの種を蒔いた。最近バジルは苗で売られているから、それを移植すればよいのだが、どうしても種から育てたくなって、近所の種屋で衝動買いした。が、蒔いたあと、用事ができて水をかけることを忘れた。晴天が続いた。乾燥した土壌の上でバジルの種は発芽しない。しばらくして雨が降った。干天の慈雨とはまさにこのこと、とバジルの種は思ったかもしれない。2日後に小さな双葉が芽を出す。発芽まで、私はこの乾燥地帯に種を蒔いたことを忘れていたのである。

 四十半ばのおっさんになっても、発芽した植物を眺めると見惚れてしまう。この気持ちをどう説明しようか。生命の誕生の美しさ、という言葉が思わず口から滑り落ちそうだが、お茶漬けのりのように無機質な袋からサッサッと土にばら撒いた私は、こんな高尚な感想を持つに値しない人間である。しかし、大手種苗メーカーの種を購入し、プラスチック製プランターに盛った土でバジルを育てようとする堕落した人間にさえも、バジルの神は力をお恵みくださった。「蒔く」というには杜撰すぎる行為に対しても、反応してくれた。つまりバジルの慈悲を感じたのである。

 そして、私は、たとえその行為がお茶漬けのりをご飯にかけるようなものであったとしても、自分を「種蒔く人」であると認めたくて悶えているのだ。

『種蒔く人』のなかの植物

 1908年、近江谷こまき、のちの小牧近江は、父親の近江谷栄次に連れられて万国議員会議が開かれる第三共和政期フランスの首都パリに訪れた。近江谷栄次は秋田選出の衆議院議員であった。近江小牧は、それから8年かけてパリ大学で学び、そこでアンリ・バルビュスと出会った。バルビュスは当時、『砲火』など第一次世界大戦を扱った文学で評価された作家で、クラルテ運動を主導していた。1 戦争をやめぬ大国と、大戦を引き起こした資本主義に対する批判を繰り広げていたのだった。

 小牧は、バルビュスの思想と行動に共鳴しクラルテ運動に参加する。日本帰国後、クラルテ運動の種を日本に蒔くために、1921年2月25日(奥付は2月15日)、故郷の秋田県南秋田郡土崎港町(現在の秋田市の北部に位置する)で、土崎小学校の同級生で作家の金子洋文と今野賢三とともに『種蒔く人』を創刊したのだった。ちょうど今年が100周年にあたる。表紙にはミレーの作品「種をまく人」と、「自分は農夫のなかの農夫だ。自分の綱領は労働である」というミレーの言葉を掲げた。プロレタリア芸術運動の先駆である。『種蒔く人』は3号まで刊行され休刊。1921年10月3日に東京版が再刊され、1923年10月まで続いた。文学史から外すことのできないこの出来事は、なぜ、出版の中心である東京ではなく、秋田の土崎港が舞台だったのか。

 2014年9月、私は秋田市の観光案内所のスタッフの「土崎なら自転車でも大丈夫ですよ」という甘言を鵜呑みにし、レンタサイクルを借りて8キロ強離れた土崎港に向かった。東北農村の雑業層を取材して作品を執筆した伊藤永之介と、彼に影響を与えた『種蒔く人』について調べるためである。伊藤は、金子洋文の紹介で東京に出た秋田人である。

 途中からは結構起伏があって、到着したときには服は汗に濡れていた。カウンターの司書に声をかけたところ快く案内してくださり、図書館所蔵の『種蒔く人』に関連する史料の説明もしていただいた。いい雰囲気の図書館である。土崎図書館の道路に面したところにはミレーの『種蒔く人』のレリーフが飾ってあり、2階には『種蒔く人』をめぐる資料の展示室がある。私はそこで流れる汗を拭きながら、『種蒔く人』と土崎港をめぐる資料をじっくり眺める幸運に浸ることができた。

 土崎港には、近江谷栄次が養子に入った豪商の家がある。彼は私財をなげうって、雄物川の土砂が流れやすく底が浅くなりやすい港の改修工事に取り掛かった。また、秋田銀行や土崎信用利用組合の創立、石炭を燃料とする火力発電所の設置に尽力し、秋田に初めて電灯を灯した。地元の名士となった彼が衆議院議員に選出されたことで、息子がパリに留学できるチャンスが生じたのである。

 展示されている手紙によると、1919年11月小牧近江は別れ際にバルビュスから「日本へ帰ったら、クラルテ運動を忘れるな」と、ぎゅっと手を握られたという。「帰っても」ではなく「帰ったら」と小牧が記しているのは、帰ってからこそが本番である、という彼の意識のあらわれなのかもしれない。

 『種蒔く人』が日本文学史に果たした役割については膨大な研究蓄積がすでに存在する。本稿の課題はそこではない。私には素朴な疑問があった。『種蒔く人』と名乗る以上、雑誌の中に「種を蒔く」とはどういう行為なのかについての論考や創作があるのだろうか、という疑問である。職場である京都大学人文科学研究所の図書室で『種蒔く人』の土崎港版と東京版の全巻を借り、探してみたのであった。

 資本主義の暴威、労働組合、戦争、軍国主義、ロシア革命、アナーキズム、頭脳労働、農村問題、婦人の解放、朝鮮人の苦境などのさまざまなテーマが、色々な国の作家や思想家の翻訳とともに掲載されている。少なからぬ作品が全文削除されたり、組版の段階で鉛の活字がごっそり削り取られていたりしている。検閲の物理的な痕跡が痛ましい。私は、文章を国家による検閲を受けずに書くことができるが、このような検閲の爪痕を古本で読むたびに、どれだけの書く緊張感を『種蒔く人』の同人たちと共有できているか、どこまで自己検閲に抗っているかを自問しながら読む。

 さて、読んでみたところ、ただ一つの例外をのぞいて、『種蒔く人』が蒔きたい「種」とはいかなる種かについての思索は見つけられなかった。農民を特集した号もあるが、農民の苦境を抽象的に訴えるもので、具体的な農作業の様子などは書かれていない。「貴社の種が裏日本にも届きました」という鳥取の読者の声は載せられているものの、そこから『種蒔く人』の思想が広がった、という以上の意味を読み取ることは難しい。

理草花

 では、「ただ一つの例外」とは何か。

 1889年にロシア帝国のウクライナに生まれた盲目の詩人、エロシェンコの日本語の作品、『理草花』である。1922年の2月号に掲載された。エスペランティストのエロシェンコは、1912年から日本総領事館の紹介で日本語を学び始めており、1914年に中村精男を頼って日本に訪れ、日本のエスペランティストをはじめとする作家や芸術家たちと交流を深めていく。1921年には『種蒔く人』の執筆者となった。『種蒔く人』もエスペランティストが多く参加しており、表紙にも「LA SEMANTO」(「種蒔く人」のエスぺラント語訳)とある。『理草花』は日本語の作品である。この作品を、『種蒔く人』、植物考の文脈から考えてみたい。

 『理草花』は、話者が「坊っちゃん」に「寒い国」について語る、という設定である。寒い国はとにかく寒く、「寒さの生まれ故郷のような国」だ。しかも、「心の凍った人」たちばかり住んでいた。

 寒い国なのだが、植物は育つ。寒い国の人たちは競草や闘草などの種子を主食として食べていた。「そう」という日本語に比較的多く存在する音に「草」をあてる韻の踏み方が楽しい。植物はそれだけではない。「また、その国のひとびとは戦草という花を集めては、それをうまそうに飲んでいました。戦草の実からも一種のパンをこしらえて食べているひとびとがすくなくはありませんでした」(181頁)。「寒い国」は「戦草」も飯の種にして暮らしていたのである。

 また、「寒い国」の公園や学校の花園には無愛草花、武草花が年中咲き誇っていたし、寺院や教会には、空草花、夢草花、幻草花などが植っていた。その主な花の色は鉛色や灰色であり、「血なまぐさいにおいか、古い腐った墓のにおい、または酒や阿片のにおい」がした。その隣の国では、「寒い国」よりももっとたくさんの花が咲いていた。感草花や思草花などである。また、別の国では、独草や瞑草、黙草などの花が敬われた。


 植物の中で唯一「どこの国でも愛された尊い花」があった。それが理草花である。理草花はしかし一度も咲いたことがない。花が咲けば「世界はたちまち幸福になる」という言い伝えがあり、その花を咲かせた国は世界第一の国になる、という予言もあった。しかし、どの国も栽培に失敗する。

 「寒い国」が野心や傲慢を育てていく一方で、隣りの小さな国に「偉い王子」が生まれた。「世にも幸福な星の下に生れあわせてきたひと」であり、星を調べた学者によると、この王子は世界でいちばん偉い王子になる、ということだった。もちろん、他国は黙っていない。軍備拡張が始まる。ついに、「寒い国」はその国を征服したいあまりに、次のような「最後通牒」をつきつけたのである。

 「偉い王子」は、自分の国民に感草や思草の実からこしらえたパンを食わせて、国民の体質の次第に劣悪に赴くのをすこしも意としないばかりでなく、それがいちばんいいことだと称してさかんに外国にまでもこれを紹介し、宣伝しつつある。[……]「寒い国」は、ひとつには「偉い王子」の国自体のために、かつまた二つには全人類の健康と幸福のために、いやいやながら「偉い王子」の国に宣戦布告しなければならない。2

 「寒い国」は戦争に勝利し、「偉い王子」は姿を消す。深い山に隠れ、一心不乱に理草花の世話をする。どんなに努力をしても、どんなに夜空にまたたく星々に尋ねても、理草花は育たない。最後、星に向けて最後のお願いをする。「最も幸福な星の下に生まれてきたということのあかし」を示してくれと。「偉い王子」は、畑の真ん中で自分の胸を切り開き、「燃えるような紅い血潮」で、理草花の葉も茎も、あたりの土も美しく染めた。東の空を染める朝日が畑を照らしたとき、そこには地球ではじめて理草花の花が咲いていたのだった。「そのそばには胸深く、ほとんど心臓までとどくほど鋭い傷を抱いて」、『偉い王子』は安らかな永久の眠り」に入った。語り手は坊っちゃんに「その方法を忘れないでください」と語り、全人類の幸福のために理草花を咲かせる「偉い坊っちゃん」が出てくるのを待っている、と叫んでこの物語は終わる。

思想を食べる

 第一次世界大戦とロシア革命を経た1922年に発表されたことをかんがみても、ありふれたヒューマニズムと平和主義、そして、自己犠牲の美を説いた通俗話として読み捨てられたとしても不思議ではない。「戦争」をすることで利益を得る「武装」国家に対し、「感想」や「独創」こそが人間の糧だと考える文化国家が戦争で負けてしまうが、人類の「理想」は武装国家ではなく文化国家の心の奥底にこそ育っていく、というメッセージを読み取ることは難しくない。ここで、1939年の『危機の二十年』で、第一次世界大戦から第二次世界大戦の戦間期を、理想主義と現実主義、ユートピアンとリアリストの緊張を伴う対峙として描いたE・H・カーを思い浮かべてもよいかもしれない。3

 けれども、「理草花」のポテンシャルはこれだけではない。戦争も理想も「植物」に喩えることで、いまなお新鮮でありつづける世界を私たちに見せた。戦争や武装や思想や理想が、茎を伸ばし、葉を広げ、花を咲かせるだけではなく、その種を結実させるという世界、そして、種をコメやパンのように人間たちが「食べる」世界である。

 思考のふるまいは古今東西、種のふるまいにたとえられてきた。もっともわかりやすい事例が「セミナー」もしくは、日本語ではしばしば「ゼミ」と省略される「ゼミナール」という言葉である。周知のとおり、seminarの語源は、ラテン語のseminariumであり、この意味は苗床、温床、研究室、神学校という意味があり、種子を意味するsemenから派生した言葉である。semenは、ドイツ語ではSamenとなり、種子や精液(それゆえに、日本語で精液を「ザーメン」とよぶ)を意味する。ちなみに、ラテン語のsatorは、種をまく人、創始者、著者という意味がある。

 ラテン語では、苗床に種を蒔いて育苗するように、研究室で若者を育てるというイメージが符合する。さらに種を蒔くという行為は、本を書くという行為とも符合する。小牧近江や金子洋文たちが考えた『種蒔く人』というメッセージには、まさにこのような西欧言語のルーツが関係していたはずである。

 しかし、エロシェンコは、上記の語源学的な「種」の定義に満足していない。

 第一に、種は、結実したとしても、それが広がるだけではなく、食べられなければならない。

 第二に、種は、蒔いても発芽するとは限らない。理草花は、どんなに科学者たちが悪戦苦闘しても花を咲かせなかった。

 第三に、「理想」は、若い人間の「血」と地球の表皮である「土」が呼応することで発芽するのではないか、という「血と土」をモットーに掲げたナチスを想起させるような、背筋が凍るテーゼである。

吸水と酵素

 まず、第一と第二の点について考えたい。

 種は蒔くだけではなく、食べなければ生きていけない。普段の生活の中で、コメ粒、大豆、小豆、ゴマが種子であると意識することは少ない。しかも、種子の表皮は分解しにくい。消化器官を通って排泄物に潜り込み、別の場所に自分を運搬させるためだ。さらに、種子に含まれているデンプンはそれだけでは植物の栄養にはならない。吸水後に、酵素が速やかに作用して、デンプンを分解して糖にしなければならない。鈴木善弘『種子生物学』によると、「オオムギ種子の発芽過程の進行と胚乳中のデンプン分解をみると、暗黒20℃で吸水後3日頃からデンプンが胚盤に接する部分から分解し始め、6~7日後には約50%、10日後では約90%以上のデンプンが消失する」4とあるように、種子はそれだけではまだ食べものではないのだ。適当な気温と水がなければ、種子は貯蔵している養分を消化できない。

 この機能を用いて種子を水気から守り、保存することで人類は発展してきた。人類も、デンプンをそのまま食べることはできない。食べる場合は、熱を加えるか微生物に発酵させて、デンプンを糖やアルコールに変えねばならない。生のコメ粒を唾液中のアミラーゼで糖に分解させるためには、かなり時間がかかってしまう。

 では、思想という種にとって、温度、水、そして、酵素とは何だろうか。思想という種を美味しく食べるためには何が必要なのか。来るべき「種蒔く人」にはこうした課題が存在する。

 思想という種子にとって温度とは人びとの文化の厚みであり、水は編集と出版であり、言葉が集う場所である、と私は考える。「著者」は種を実らせることしかできない。それが発芽する条件を整えるのは出版人の仕事である。だからこそ、『種蒔く人』は小牧や金子や今野の故郷である秋田の土崎港で刊行されたとも言える。

 では、思想にとって酵素は何か。種を蒔く側があらかじめ仕込んでおくものは何か。時限爆弾のように、水が吸収された瞬間に溶け出すような酵素とは何か。

 私は、酵素こそが「文」ではないかと思う。文に水、すなわち編集、出版などの言葉が集う場所が加わることで休眠している思想が解凍される。文は音、もしくは拍子である。音読でも黙読でもやはり音や拍子を感じなければ文は理解できない。羅列された言葉に音を当てることで、思想はオオムギの種子のように長い時間をかけて身体の中で分解されていく。

 目の見えないエロシェンコは、しばしば自作を朗読したといわれている。「理草花」という作品も、音読され、「そう」のリズムに身を任せることで読者の中で発芽していく作品ではないだろうか。そして、そういう文を書く人こそが「種蒔く人」であることを、彼は同人たちに伝えたのではないか。

血と土を超えて

 では、どうしてエロシェンコは「偉い王子」に、自分の胸を切り裂かせなくてはならなかったか。なぜ、理草花は、水ではなく、清らかな少年の血を欲したのだろうか。いうまでもなく、エロシェンコの作品はヒトラーが表舞台に登場する前に発表されている。「血と土」というスローガンもナチ党の前身であるドイツ労働者党にさえ存在しない。

 いく通りもの解釈が可能だろう。第一次世界大戦で多くの若者の血を吸った戦場の土を想起できるだろうし、エスペランティストの世界平和の理想を実現する困難さと、理想を実現するための自己犠牲の尊さを訴えているとも捉えられるだろう。だが、私はあえて別の読み方をしてみたい。思想という種が血を吸収するとはどういうことか。それは思想を「食べる」ことだ。酵素によって分解され、血液に取り込まれることで、ようやく種の発芽を迎えることができるのではないか、という読み方である。デンプンから糖に変化させ、栄養分を小腸の柔毛から吸収し、血に流す。そしてようやく体を巡ることができる、ということを私は考える。

 もちろん、血液にまで流れるような思想を生み出すことは、マルクス主義の観念論の批判として、さまざまな陣営で主張されたことだし、ナチスの「血と土」にも当然、エロシェンコ的な考え方と親和性がある。ただ、エロシェンコはナチスを彷彿するような「寒い国」をあらかじめ創作することができた。「寒い国」は戦争の種を食べ、理想や感想を軽視している。「寒い国」が本当に到来するより先に、種を蒔くだけではなく、種をきちんと分解して血液に吸収できるようにすることもできたはずなのだ。もちろん、エロシェンコのこの予感が結局的中してしまうことは、その後の歴史が示すとおりである。


 『種蒔く人』の創刊後70年以上たって、作家ポール・フライシュマンが、『種をまく人 Seedfolks』というタイトルの物語を出版した。5 アメリカ北東部のオハイオ州クリーヴランド市の貧困者の住む地域が舞台である。そこのゴミ捨て場では、生ゴミをつめたビニール袋や壊れた家具などが捨てられていて、ネズミが残飯を漁っている。

 ところが、その近くに住むヴェトナム移民の少女が父親の命日の翌日に、捨てられた冷蔵庫の陰で、台所から持ってきたスプーンで穴を堀るところから、このゴミ捨て場が変貌を遂げていく。少女は、父が死んでから8ヶ月後に生まれた。家族で自分だけが父を覚えていないことに悔しさを覚えながら、マメを蒔く。ヴェトナムにいたとき父は農民だったからだ。「蒔いて、じょうずに育てたら、父さんは気がついてくれる。そんな気がしました」。「あたしも父さんみたいな畑がつくれる。あたしが父さんの娘だということをわかってもらわなくちゃ」と念じる。

 すると、それを窓から見ていた近所の人が怪しく思って、掘り返す。しかし、そこにマメがうわっていたことを知って、慌てて戻し、この少女をなんとか援助しようとする。これを見ていた別の人も新しい畑を作って、ゴミ置き場がいつの間にか農園に変わっていく。本書に登場するどの「種蒔く人」も、解放奴隷の子孫だったり、強制収容所の生き抜いた人だったりして、それぞれの差別された思い出や失った恋人の面影や故郷を捨てた喪失感を抱えてこのゴミ捨て場にやってくる。老人ホームに通う車椅子の老人も通りがけに急に目を輝かせて、ケースワーカーに手伝ってもらって作物の種を蒔き、生育を見守る。めいめいが好き勝手に農園を作っていきながら、いつの間にかお互いに顔見知りになり、会話が生まれていく。これが、「種をまく人」が複数形である理由である。

 メキシコからの「不法移民」である16歳の少女マリセーラの話は印象的だ。彼女は望まぬ妊娠を強いられ、流産を望んでいる。誰か銃で撃ち殺して欲しい、とさえ願う。彼女の面倒を見ているのが「妊娠したティーンエイジャーのためのプログラム」の世話係。彼はマリセーラたちをゴミ溜めに連れてきて農業の真似事をさせるが、気が乗らない。みんなが心配して野菜を持ってくるけれど、別にありがたくも思わない。ところが、ある日、畑で作業しているとき、雷が落ちてあたり一帯が停電する。畑じゅうが静かになった。そこにきていた黒人の少女リオーナ(電話を関係当局にかけて、不法に捨てられたゴミをこの農園から撤去させた)が、「停電すると町はなんでもかんでも止まっちゃうけど、畑はいつもとおんなじね」と話しかける。そして、こう続けるのだ。

 植物は、電気も時計もいらないのよ。自然界のものは、みんなそう。自然の生命はお日様と、雨と、季節で動いているの。あなたもわたしも、実はそういう自然の一部なんですよ。6

 マリセーラは頭がガーンとなる。どういうことだ、自分が自然の一部であるとは。

 あたしは、だまってカボチャ畑を見てた。そしたら、ここに不思議な世界がある――そんな気がした。葉っぱが伸びて、花が咲いて、種ができる――そういうのが見えるような気がした。頭が変にぼーっとして、そのときだけ、「あたしの赤ん坊なんか死んじゃえばいい」と思ってなかったわ。7

 この後、マリセーラが無事に子どもを産んだのかどうかは物語に書かれていない。たとえ産んだとしても、厳しい現実が待っていることは、この物語の語り手たち自身が証明している。ただ、生物学的に人間が増殖しなくても、思想はここで偶然の助けを借りて発芽しているという事実までは否定できない。種蒔く場所があれば、何かが発芽するかもしれないということこそが、おそらく少なからぬ人たちが、思想を種と考えることに取り憑かれてきた理由のひとつなのだと考える。

 そして、このような農園のあり方こそ、私はゼミナールと呼びたい。

 

 

*本稿の姉妹連載にあたる「植物考」が、春秋社ウェブマガジン「はるとあき」で閲覧できます。https://haruaki.shunjusha.co.jp/

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. バルビュスなどの第一次世界大戦期のフランスの戦争文学については、久保昭博『表象の傷――第一次世界大戦からみるフランス文学史』(人文書院、2011年)を参照。
  2. 高杉一郎編『エロシェンコ全集1』みすず書房、1959年、187頁。なお、初出は、エロシェンコ「理想花」『種蒔く人 行動と批評』第2年第2巻第5号、1922年、135-144頁。
  3. E・H・カー『危機の二十年 1919-1939』井上茂訳、岩波文庫、1996年。
  4. 鈴木善弘『種子生物学』東北大学出版会、2003年。
  5. ポール・フライシュマン『種をまく人』片岡しのぶ訳、あすなろ書房、1998年。
  6. 同上、76頁。
  7. 同上。