新・植物考 / 藤原辰史

人間は植物よりも高等だと私たちは思っている。だが、それは真実だろうか?  根も葉ももたず、あくせく動き回って疲弊している私たちには、 植物のふるまいに目をとめることが必要なのかもしれない。 歴史学、文学、哲学を横断しつつ、ありうべき植物と人間の関係をさぐる、 ユニークかつ刺激的な試み。隔月連載。

花について

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花束について

 花屋さんで花束を作るプロセスを見るのは面白い。何より、花屋さんの手さばきがユニークである。華やかな商品を作り上げるために、ある意味で凄惨な行為を素早く繰り返していく、この二重性に惹かれるからだ。花屋さんの道具はハサミである。茎はパチンと切られ、葉っぱは次々に削ぎ落とされ、枯れた花弁もむしりとられる。かわいそうに思うこともあるけれども、茎の切り口が水を含んだ脱脂綿で覆われ、ゴムでグルグルに縛られて、紙やビニールで覆われると、これまでのプロセスが嘘のような、華やかな景色が目の前に出現する。

 この逆説の美学には、「植物とは何か」という問いに向きあうための示唆が隠されている。

 植物への凄惨な行為、と書きながら思い起こすのは、一年間住んだドイツのシュトゥットガルトである。ロベルト・ボッシュ医学史研究所で在外研究をしたのだが、住んだ場所はそこからトラムを乗り継いで40分から1時間くらいかかる葡萄畑の上の看護士寮だった。葡萄畑の丘にあるロベルト・ボッシュ病院からバスに乗って、最寄りの駅のプラークザテルまで出るのだが、バスがなかなか来ないので、私はしばしば葡萄畑を歩いて降りた。よって、葡萄畑の一年を観察することができた。私が驚いたのは、冬のあいだ葡萄の木の枝をかなり切り落とし、縛るということだった。痛めつけるようなこの作業がなければ、春に旺盛に枝を伸ばさないのである。

 ピーマンやナスビを夏に収穫した後、枝をかなり刈り込むと、再び茎がニョキニョキと出てきて、秋に再び実をつける。植物には一定の攻撃を受けると、逆に健康になって、さらに大きく成長するという性質がある。ガーデニングでも「切り戻し」作業が重要なのは、一度大きく刈り込むことで、風通しをよくし、栄養が枝に行き渡りやすいようにして、植物にもう一度元気を与えることができるからである。

 もちろん、花束は死んだ植物を束ねたものに過ぎない。死者を痛めつけているだけだ。けれども、花屋さんのバッサバッサとやっていくその手つきから、何か不思議なテンションを感じとらずにはいられない。死んだはずの植物に不思議な生気が漲ってくるからだ。

 ここで疑問に思う。そもそも、花屋さんで並んでいる切り花は死んでいるのだろうか。花は茎が根から分離された瞬間に「死ぬ」と私はあたり前のように考えてきた。人間が首を切られると、すぐに死ぬように。けれども、植物は摘まれたら死ぬのだろうか。摘まれたあとも葉は光合成をするし、蒸散もする。しばらくは生きたままではないか。根のない花は、茎からでも水を吸い、場合によっては新たに根を生やしなんとか生命を保とうとあがく。動物の生死の枠組みを植物に与えてはならない。

 では、花束を作るとはどんな仕事だろうか。部屋を飾るものや感謝を表す商品を製作することだろうか。いや、それだけではない。死に向かう植物に最後の生気を吹き込み、死のプロセスを彩る行為である。なんだか、食べるという行為にも似ている。根を奪われ、やがて死ぬことが確定していながら、植物は生きており、生きていくことに疑問を抱いていなさそうに、雄しべの葯(やく)から花粉をばらまき、葉っぱの気孔で呼吸をし、水蒸気を放散する。花屋さんは、植物が死ぬことなどないかのように、植物を痛めつけ、人間の目を楽しませるような色どりと形を作る。


 それにしても、花束とは不思議な言葉である。

 なぜなら、花束とは厳密にいえば、花の束ではないからである。葉のついた、あるいは葉を削ぎ落とした茎の束にすぎない。花はそれ自体として束にならない。にもかかわらず、「茎束」ではなく、「花束」と呼ばれる。

 これは何を意味しているのだろうか。おそらく、花に満たされた面に向けて、人間の視線や嗅覚は誘導されるから、そのほとんどが茎束であるにもかかわらず「花束」になるのだろう。花はその植物を代表し、別の部分から花へと関心を促し、昆虫や人間を自分の生殖行為に参画させようとする。

 このような花が放つ魅力は、古今東西様々な文献に書かれている。それは、花束という、奇妙な日本語だけを見ても、十分に理解できるだろう。しかし、花は植物の一生のほんのわずかな時間しか登場しないのだ。

劇場としての花

 植物は、生殖器官を最も目立つ場所に設置している。だが、花は性器であるというよく用いられる比喩には違和感が残る。というのも、雄しべと雌しべという両性の器官が花という場所に置かれているにすぎないからだ。それを何枚かの花弁が覆っている。花はむしろ、生殖の舞台装置である。雄しべと雌しべはその一部に過ぎない。

 花という器官が持つ面白さについて、ウィーン生まれの植物学者ラウル・ハインリッヒ・フランセ(1874-1943)がユニークに表現している。フランセは、すでに19世紀末から20世紀前半にかけて、植物の動き、感覚、知性といったものについて深く論じていた植物学者で、植物と微生物、植物と動物の関係をいち早く強調し、有機農業理論の基礎を作り上げた人物でもある。

 フランセは、バーベリー(西洋メギ)の花を例に、花の重要な特質について論を展開している。ちなみに、バーベリーの実は甘酸っぱく、ドライフルーツにして食べられることが多い。解熱や肝機能の向上などの効果もあり、ケーキの材料として用いられることもある。フランセは、このバーベリーについて、こんな風に述べている。

森の外れなどに茂って居るこの花には、秘密の生命に蔵して居ることを人々は疾くから知っていた。温い四月の風が森の上を渡ると、早やバーベリーは春に魁けて星のような黄色い花を無数に点じて居る。中央にゴシック風の柱があるが、之が即ち雌蕊であって子孫の揺籃である。其周囲に六本の雄蕊があって、花弁が充分に開くと六枚の花弁に一本宛(ずつ)密着する。雄蕊の頭には各々二つの葯があって花粉を一杯に盛っている。又雄蕊の基の方には両側に各々二つの小さな盃があって、濃い橙色の蜜が其盃の底から絶えず湧出て居る。之れは蜂の為に此上もない珍味であるから、太陽の光線が花を照すか照さぬ間に、朝の空気に漂う蜜の香に誘われて、蜂の一群がやって来る。先きを競って蜜の盃に突進すると、俄然、今迄の花弁の上に垂れ掛って居た雄蕊は跳上って、丁度雌蕊と蜂の周囲(ぐるり)に花粉の雲が起る。之は必ずしも蜂を労(わずら)わさなくとも、楊枝の尖をチョいと触れても同じ大活劇を惹起こすことが出来る、地球上によも之れ程感覚の鋭いものはないであろう。吾々の睫毛ですら斯(かく)までに感覚が鋭くはよもあるまい1

 フランセの著作『植物の感覚生活 Das Sinnesleben der Pflanzen』(1905)、日本語では『植物の精神』というタイトルで紹介されたが、この本の翻案者は社会主義者の山川均である。1906年に日本社会党に入党した、20代半ばをすぎたばかりの山川に、堺利彦がこの翻訳の仕事をあてがった2。山川均は翻訳というよりは、翻案を試みているのだが、とても読みやすい日本語に変換している。『植物の精神』は、英語版からの重訳か、ドイツ語からの訳かはわからないが、ひとまず原典であるドイツ語を見ながら、この翻訳を眺めてみたい。

 私が注目した言葉は、「大活劇 ein ergötzliches Schauspiel」である。この言葉が示しているのは、花の自己顕示の有様というよりは、花が有する舞台的性格である。フランセと山川の筆致の中では、花はまるで劇場のように描かれているからだ。山川は、花は蜜の香りで蜂を招き寄せ、少し触れたら花糸がバネのように跳ね上がり、その先端にある葯から花粉をめいっぱい散布して、蜂の全身を花粉まみれにする、という原典の説明に対し、「花粉の雲」を発生させる、というイメージ豊かな言葉を当てている。これはまるで舞台上のスモークのようである。「活劇」という訳語もしっくりくる。

 「大活劇」とは、雄しべと雌しべの一対一のラブシーンではない。バーベリーは、光合成で得たブドウ糖の一部を、自分の栄養ではなく、わざわざ愛の成就の媒体者をもてなすための蜜の製造に用いる。蜂は、蜜の香りや花の色に誘引され、単に蜜を吸いにきたに過ぎないが、植物からすれば、蜂は葯に収納されている花粉の「雲」に自動的に覆われ、羽をばたつかせることで、雌しべの柱頭に配達する運び手である。この「運び」を植物学の用語で「送粉」と呼び、運び手を「送粉者」と呼ぶ。

 私は植物学の専門家ではないので、塚谷裕一と荒木崇が編集した放送大学の教科書『改定版 植物の科学』をよく参照するが3、この本で「動物との相互作用〜食害、送粉、種子散布〜」という章を執筆している加藤真によれば、「送粉者には、甲虫、ハナアブ、ハエ、ハナバチ、チョウ、ガ、鳥、コウモリ、哺乳類など」が知られているが、植物はそれらの送粉者の性質に応じて、「花の色や匂い、花蜜の濃度や量、開花の時間帯」などを決める。コウモリが送粉者の場合、花はブラシ状か漏斗状あるいは筒状の花であり、夜間に開花して、粘性のある花蜜を分泌することが多い、という4

 また、加藤は蜜を盗む動物についても、とても魅力的に説明している。

訪花者の中には、花蜜を利用するけれども送粉を果さない盗蜜者がしばしば混じっている。すると花は花蜜を盗蜜者から守るために、花冠を筒状にしたり、距(きょ)を長くすることによって、蜜源を深くしていった。訪花者はそれに対抗して口ふんを長くすることでそれに対抗する。このような花と訪花者(盗蜜者と送粉者を含む)の共進化は軍拡競争の様相を呈し、花冠や距が著しく長い花や口ふんが著しく長い訪花者が進化した5

 花を舞台に繰り広げられる異種を交えた生殖の劇は、盗賊も登場し、「軍拡競争」があり、世代を超えた「共進化」という「歴史的背景」も見られる。時間的にも舞台的にもかなり縦横無尽な展開を遂げる。しかも、蜜の味という味覚的要素、蜜の香りという嗅覚的要素、花弁の色彩という視覚的要素、接触という触覚的要素、昆虫の羽の音という聴覚的要素がどれも関わる。すべての感覚に訴えるような、性愛劇、歴史劇、喜劇などさまざまな性格が混交した劇ということもできよう。

 花とは場である。花弁と生殖器官とで構成される空間である。その空間でダンスを披露するのは、ハチ、鳥、コウモリ、そして風であることも。ジャンルを超えた登場生物たちと自然現象を巻き込んだ公開の性行為は、人間社会では演じるのが極めて困難な題目である。

理性としての花

 植物の哲学者であるエマヌエーレ・コッチャは、とくに被子植物の花を念頭に置きつつ、花という器官の不思議について詳しく論じている。コッチャによれば、花は「誘引剤」であり、「世界に出向いていく代わりに、花は自分のほうへと世界を引き寄せる」と哲学者的な言い回しで述べている。また、「異なる存在同士、つまり数の上で異なる存在(同じ種のオスやメスなど)だけでなく、種、生息域、存在領域において異なる存在(植物と昆虫、犬、人間など)を、ただ交流させればそれでよいのだ」、「花においては、かたちは結合の実験場、種々雑多なものが混合する空間なのだといえる」と、かなり大胆に花の意味をまとめている。コッチャは花を実験場と呼ぶ。実験場で起こる偶然性を強調している一方で、私は花のストーリー性を強調しているという違いはあるものの、基本的には花が「場所」であるという見方ではほぼ一致していると言える6

 さらに、コッチャは議論を進めていく。植物の生殖行為は、人間のように隠されていない。オープンである。むしろオープンでなければならない。なぜなら、「生殖行為を完遂するには世界を介さなくてはならない」からである。また、「類・種・生息域のいずれにおいても、アイデンティティーのうちに閉じこもることなど不可能だ。しかも性とは、アイデンティティーの弛緩という原初の営為だといえる」7

 たしかに、人間という性行為を他者から隠す動物でさえ、精子と卵子という、通常の細胞の染色体よりも半減した染色体しか持たない媒体物を必要とする。もしも遺伝子が生物のアイデンティティー、すなわち、この生きものであってそれ以外の生きものではありません、ということを証明する生物学的証拠だとするならば、精子も卵子も、花粉も胚珠の中の卵細胞も、アイデンティティーを半分しか満たしていない。だからこそ、それらは絡まり合って結合することが期待される。数あるうちの約一つの片割れが、もう一つの片割れに付着して、新しい生が誕生する。しかも、それを媒体するのは、風、水、虫、哺乳類である。いくら花粉が準備してあっても、どれほど雌しべが発達しても、どれほど鮮やかな色を身にまとった花弁が柱頭を誇示していても、種を超越したアクターたちが自由に振る舞える劇場がなければ、受精は成立しない。

 コッチャは、花にロマンティシズムをほとんど感じ取っていない。「生命と技術、物質とイマジネーション、精神と空間的広がり」の合致だと言う8。そして、以上のような込み入った議論の末に、コッチャは次のような結論に行き着く。「理性とは花である」。合理的なものはすべて性的であり、性的なものはすべて合理的である、と。なぜなら、外観の領域に力を注ぐ「考える」行為は、「異なる存在同士の交感を図るため」になされる行為だからだ9
理性は花? 飛躍のある結論だ。コッチャがいったいどんなことを言おうとしているのか、正確に理解することは難しい。しかし、何度も繰り返し読んでみると、次のような問いに近く。考えるとは、いったいどんな行為なのか。

 「考えること」とは本来、人間固有の特権的な行為だと人間は信じてきた。けれども、「考えること」は、そんな単純な行為ではない。世界を世界のままに感じることは「考える」ことではない。コッチャは、考えるとは切り詰めることだととらえている。無限の世界を思考の小さな箱の中に縮減していくことが、考えることである。だから当然、思考から除外するものが圧倒的に多い。コッチャのいう「理性」とは、花粉や卵細胞の遺伝子地図に縮減されたものは、花という場所で、その外観の導きにしたがって交わる。異なる存在同士は、そのままの姿でなんら飾り立てることなく交感することはできない。仮面を被らなければならない。人間同士の交感が、言葉や身振りというコードがある程度理解されている場所でようやく、お互いに自分の情報を一気に言葉や身振りに縮めてから出さなければ始まらないように、花という異種混交的な場所でもまた、それぞれのアクターの無限の存在の背景が「役」に縮減されなければ、受精には到達しない。

「自己放棄」やそれに類する言葉が、しばしば人間の交わりをあらわすのにふさわしいのは、おそらく、花という場を支配する「理性」と「合理性」に由来するからかもしれない。

 ここで植物の全体像を見直してみよう。植物の根が、ちょうど、光合成で生み出したデンプンを無数の地下の微生物に施すことで、「理性」によって必ずしも切り離すことができない、複数の生きものが自由に存在する根圏を可能にしているのと全く逆に、植物の花は、光合成で生み出したデンプンを昆虫や鳥に与えることで、「理性」によって縮減されたもの同士を交わらせている。

 根は、細胞を更新しながら、植物が生きているあいだずっと地中に存在しているが、花という存在は、植物の一生の中で、ほんのいっときしかあらわれない、というのは示唆的である。花は、期間限定の理性の劇場である。年中「理性」の行使を強要される近代人間社会にとっては、これは怠慢に見えるけれども、それが怠慢に見えるのは、花という場があることの希少性を理解していないからなのかもしれない。

* 本稿の姉妹連載にあたる「植物考」が、春秋社ウェブマガジン「はるとあき」で閲覧できます。https://haruaki.shunjusha.co.jp/

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 堺利彦編、山川均述『平民科学第二編 植物の精神』有楽社、1907年、38-40頁。なお、旧字体は新字体に、旧仮名遣いは新仮名遣いにした。
  2. 黒岩比佐子『パンとペン——社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社文庫、2013年)に、このあたりの事情が書かれてある。
  3. 塚谷裕一+荒木崇『改定版 植物の科学』放送大学教育振興会、2015年。
  4. 同上、177・178頁。
  5. 同上、179頁。
  6. エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学——混合の形而上学』嶋崎正樹訳、山内志朗解説、勁草書房、2019年、139頁。
  7. 同上、140頁。
  8. 同上、143頁。
  9. 同上、152頁。