「植物考」のまとめ
これまで合計11回、植物をめぐるエッセイを書いてきた(本連載と、ウェブ春秋はるとあき連載「植物考」)。いよいよ最終回である。「作物」や「生物資源」という概念枠組みでとらえた瞬間に抜け落ちてしまう植物の「植物らしさ」について、そしてその「植物らしさ」が現在の人間社会に与える示唆について、さまざまな文献を読んだり、普段の植物とのつきあいを内省したりして考えてきた。
植物は、人文学的課題に限ったとしても、底なしの深さを持つテーマであることを改めて思い知った。とともに、かつて、ゲーテもルソーも植物をまるで人間の魂や共和政を論じるように論じていた時代があったことを、ある種のノスタルジーとともに振り返っている自分に気づいた。あの知のあり方に、たとえそれに戻ることは著しく困難だとは分かっているとはいえ、私は憧れを禁じえない。先人たちの植物をめぐる思考に触れ、歴史や経済を学ぶ人間が植物について関心をもたない時代こそが、異常な時代なのかも知れないと感じることも少なくなかった。
この連載では、あたりまえのように思えて、しかしながら深く考えられてこなかった次の事実を確認することから始まった。
第一に、植物は動く、ということ。根も葉も茎も動く。もちろん、動物のように捕食しようとダイナミックに四肢を動かすわけではなく、根を張って水分の在処にたどりつき、葉や茎を動かして太陽光を浴び、光合成を活性化させていることを知った。その事実の延長として、動物である人間もまた、腸に流れる「土壌」に根を張って栄養を吸収する、動く植物として考えることができるとも述べた。
第二に、植物が地球の大気を作ったこと。植物がなければ、大気はこんなにも酸素に溢れていなかった。植物がなければ動物は棲めないが、動物がいなくても少なからぬ植物は生存可能である。植物の働きでオゾン層がここまで厚くならなければ、有毒な紫外線が地球上の動物たちをもっと傷つけることになる。植物という「基底」を、私たちがあまりにも意識してこなかった。ちょうどそれは、歴史を学ぶさいに、人間たちが何を食べていたか、とか、どんなふうに寝ていたかを知ることがほとんど重視されないのと同様に、植物はあまりにもあたり前の存在として日々の営みを繰り返してきた。イタリアの哲学者のエマヌエーレ・コッチャは、「浸る」という印象的な言葉で、植物的なものについて説明をした。葉は隙間だらけであり、むしろ空気に浸透している器官であることも確認した。
第三に、植物は色々な生物との共同作業によってその生を営んでいること。ある花は、その上で蜂が羽をバタバタとさせて花粉が雌しべにつくような「舞台」であった。根は、多くの微生物が棲み、土壌中のミネラルを植物に供給する代わりに、植物は光合成したデンプンを根に放出し、生物たちを引き寄せていた。ちょうど、腸内細菌が人間の免疫の働きに大きな影響を与えているように、根圏の微生物もまた植物の働きを閉じられた空間で助けていたのだった。
完全菜食主義者の「植物中心主義」批判
以上のように私の植物をめぐる考えをまとめている最中に、これまで考えてきたことを真っ向から否定するような本が登場した。ここで繰り返し引用してきたイタリアの植物学者ステファノ・マンクーゾとアレッサンドラ・ヴィオラや上記のコッチャをはじめ、ある種の「植物ブーム」に対するヴィーガンの哲学者の強烈なカウターパンチである。
それは、フロランス・ビュルガの『そもそも植物とは何か』(河出書房新社)である。ルソー、メルロ=ポンティ、フッサール、レヴィ=ストロースなどのヨーロッパの哲学者や人類学者を中心に、植物とは何ものなのかを丹念に論じた本である。本書には、植物をめぐる論点が凝縮されているので、ここで考えてみたい。
ビュルガのモチーフはこうだ。現在訪れている植物ブームの背後には、菜食主義者に対するある種の批判がある——動物は苦痛を感じるゆえに肉食をやめるのであれば、あるいは、動物にも権利があると主張するのであれば、どうして植物に苦痛がない、植物に権利を与える必要がないと信じられるのか。植物だって生きものであり、その生命を奪うことでしか私たちは生きていけない。植物と動物のあいだに線を引くのは恣意的ではないか、という批判である。
たしかに、マンクーゾとヴィオラは、菜食主義者を批判しているわけではないにせよ、植物には「知性」がある、植物は痛みを感じる、植物の権利について議論を進めよ、これまで貶められてきた植物の名誉を回復せよ、と主張していた。ビュルガは「知性」という人間にしか当てはまらない言葉を、植物を説明するときに用いるのはおかしいと感じている。そもそも、植物には、脳はもちろん神経がない。「痛み」を感じないし、「欲求」を覚えることもないし、「死」というものも存在しない。種子によって増殖できる。植物は、私たちの感覚を超越した存在であり、安易に比喩を用いて説明した気になってはならない。植物にはセンサーはあるが、知覚などなく、動物とは似ても似つかぬ存在だ、だから動物と同じような苦痛を感じるわけもなく、権利など与える必要はない、と主張する(だから人間が食べても良い、とまでは本書では言っていないが、基本的にはそういうことだろう)。
そして、このような植物ブームの影には、動物への無関心が存在するとさえ言う。「実際、環境や自然の保護を訴える哲学者や法律家の多く、そして自然環境保護活動家のほとんどは、『個体としての』野生動物にはまるで関心がない。絶滅危惧種に指定されている動物でも、その種さえ存続されれば、それぞれの個体が苦しもうが殺されようが一向に気にかけない」と。1 また、生命全般を重視する「生命中心主義」を批判する。動物の生命と、植物の生命は異なるから、そこを一緒にすることに懐疑的なのである。
もちろん、ビュルガは植物に関心が薄くて、登場する植物名が著しく少なく、しかも、植物の生理をあまり深く理解していないけれど、憎悪を持っているわけではない。植物と人間のあいだには、「存在論上の断絶」が存在するとはいえ、それは「植物の美しさ」を私たちが経験することで乗り越えられる、と述べている。「もし植物がなければ、この世界から美しいものの大半は消えてなくなってしまうだろう」と嘆く。2
とともに、あの美しさは機能的には説明できない、という。
知覚器官がない植物たちは、互いの姿を見ることができないにもかかわらず、どうしてあれほどまでに美しい外見をしているのだろう? 「虫たちを誘惑するため」「受粉を促進するため」と言う答えでは、あれほどさまざまな形、色合い、香りを持っている説明にはならない。3
つまり、植物の美しさの根源は人間が理解できるものではない。「意味のない美しさ」、無用の美しさだからこそ、その美しさを「経験」するしかない、というのがビュルガの見立てである。
植物の権利
私は、マンクーゾとヴィオラの議論などを参考にしながら、植物を人間の下に見る思考法の批判をしてきたが、二人が考えているように、植物に権利を与えよとまでは論じなかった。かといって、ビュルガのように、動物に権利を与えるべきだとも考えない。大規模畜産に見られるような食肉の機械的大量生産が労働者を傷つけ、本来は食べないトウモロコシを牛に食べさせ胃に潰瘍をもたらしたり、場合によっては肉骨粉を与え狂牛病をもたらしたりしてきたあり方は根源的な見直しが必要であると強く思うが、動物に人間界で通用する権利を与えるべきだ、とまでは考えていない。
それは、「権利を与える」という態度自体が人間の食物連鎖や物質循環に対する傲慢さのあらわれであると思うからである。人間が動物と植物に権利を与えなくても、動物や植物が従う食物連鎖や物質循環の理を尊重することで、それらに権利を与えるよりももっと豊かに残酷な交流が、人間の法的世界の狭さをはるかに越え出るような規模で行われている。それは、これまで私が論じてきたとおりである。
人間はその歴史の中で、奴隷、農奴、女性、障害者、性的マイノリティに権利を与えてきた、と思い込んでいる節がある。その一本線の歴史の延長に、動物や植物をおく、という歴史観は、魅力的に響く。だが、私はそれに与することができない。なぜなら、まず人間の歴史は一本線ではないし、地球上の人間の中で権利を認められている人間の割合は依然として少なく、奴隷的な状態に置かれている人間も依然として増えているにも関わらず、人類は進歩を遂げてきたと思い込んでいる人がいわゆる「経済先進国」に多いからである。その人たちは言うまでもなく、インドネシアのパームやしやフィリピンのバナナの農園にせよ、ブラジルやアルゼンチンの農薬漬けの遺伝子組み換え大豆の畑にせよ、植物や動物を相手にする仕事についている。原発事故によって放射性物質が作業員の体内を傷つけているが、それは周囲の植物や動物たちも同様である。放射性物質の漏洩は、食物連鎖自体の破壊なのである。古河鉱業が渡良瀬川の魚と周囲の水田の稲と住民を同時に破壊したように、あるいは、チッソが魚と猫と漁民の体内に有機水銀を蓄えさせたように、三井金属がカドミウムを神通川の魚介類にも、その水系のイネにも、周囲にすむ住民たちの体にも浸透したように、人間の破壊は必然的に植物や動物に対する破壊をともない、その逆もまた然りである。権利範囲を広げるだけでは、個々の存在が犯された毒性は指摘できても、地球規模の人間とそのほかの生物の同時的破壊の「連関」が、つまり、個々の存在は地球にある物質でしか構成されていないことが、とらえられない。ビュルガのおかげで、私が植物について考えたかったのは植物の権利を主張したいためでなく、植物の作った世界に「浸る」私たちの連関をとらえたかったことを確認できた。
植物の美
ビュルガが主張する「植物の美」にも違和感が残る。たしかに、植物の美しさは、「有用性」だけではとらえられないところがあるという指摘は正しい。ただ、カール・ブロースフェルトの新即物主義的な植物の写真、たとえば、ダンスをしているような花弁や、トーテムポールのような木の枝などを論じたところでも考えてきたことだが、それは人間界の美の根源と通底するものがあった。それをビュルガのように「安易な比喩だ」と切って捨てるのではなく、それはむしろ、植物と人間の切り離しがたさだと考えることはできないだろうか。植物はそんなにも人間と切り離されている存在なのだろうか、とビュルガの主張を読むと疑問に思う。
ビュルガは、あまりにも植物を自立(あるいは孤立)したものと考えているように思える。これこそ、ビュルガが批判した人間の比喩を植物にあてはめる行為ではないか。植物が、他の昆虫や微生物との共生、もっといえば、生の浸透の仕合でしか成り立たないことは、すでに植物学者たちに指摘されているし、それについて繰り返し述べてきたが、この混交の有様や相互浸透の局面を見つめることこそが、植物を考える、ということではないだろうか。
もっといえば、人間が他人の考えと行動をあえて理解しようとするとき、それがたとえ絶望的な試みだと分かっていても、どちらにも存在する「動物的なもの」を抜きにしてそれができるわけではない。腹が減ったり、喉が乾いたり、眠くなったりするあの感覚がその勇気を駆り立ててきた。それは「植物的なもの」も同様である。ある場所に根を生やそうとする志向、太陽にあたろうとする志向、重力と光を感知するセンサーがお互いにあるだろうという想像が、他人に向かおうとする、あわよくば一緒に生きていこうとする勇気を作り上げてきた。
植物を食べること
ところで、動物にせよ、植物にせよ、私たちは食べものを選べると思い込んできた。ビュルガが動物を食べないことの根拠を探り、植物を食べてもよい根拠を探ることができるのは、そのような選択が可能な立場にあるからである。私もまた、そんな立場に悠然と居座っている一人である。しかし、地球上に生きてきたほとんどの人間にとって食べものは選べなかったし、現在地球上に住んでいるほとんどの人間にとっても、食べものは選べない。食べものはそこにあるから食べざるをえない、というものである。たしかに、実りがいいものと悪いもの、肉付きがいいものと悪いもの、という選別は長い年月をかけて植物を作物へ、動物を家畜へと改良していったのだが、明日は肉食中心で今日は野菜中心と選べる環境にいるのは、歴史的にも地理的にも経済的にも例外だと考えた方がよい。それは必ずしも貧富の差と相関するのではない。選べないということは、その住んでいる環境と人間たちが切り離せない関係にあるとも言えるからだ。
だとすれば、植物は私たちが選択し消化すべきものというよりは、私たちの体内に入ってきて、出ていかざるをえないものであり、そうでなければ、種子が他の場所へ運ばれず、セルロースが大腸内に残って、腸内細菌を増やすこともできず、体から排出したものが次の生物たちの食べものになることはない。それ以前に、私たちが食べる動物は、植物を食べていたかもしれないし、植物を食べていた動物を食べていたかもしれない。動物たちにいたっては、このような植物の環境と抜き差しならない関係にある。
イヌイットにとっての肉がそうであるように、漁民にとっての魚介と海藻がそうであるように、アイヌにとっての鮭や熊がそうであるように、食べものが選ばれる前に、自然の摂理にしたがって、あたかも口の中に入り込んでくることの方が通常である。あらゆる種類の野菜と肉が、季節と関係なく目の前に並び、それを大量に選ぶどころか、大量に食べぬままに捨てて燃やす権利さえ持っている方が、どうして「進歩」と言えるのか、私には理解できない。
食物連鎖から逃れることはできない。その当たり前の事実から出発しなければ、植物について考えることはできない。
スキン・プランツ
星野智幸の作品に『植物忌』というものがある。その中に、「スキン・プランツ」という気味の悪い小品がある。この物語は、次のように始まる。
最初はワンポイント・タトゥーの代わりから始まったと言います。誰もが思いつかない独創的なタトゥーを入れたいと望んだやんきーが、唐草模様を彫る代わりに本物の草を生やしてみようと思いつき、一念発起。農業大学に入って何十年も研究を重ねた末、人のDNAを草のDNAを融合させることに成功、「タトゥー・プラント」と名づけて小さなアイビーを肩から生やしてみせたのです。4
「かつら会社」がこれに目を付ける。「頭に、庭。」「緑の黒髪は地球にやさしい」といったコピーが広告に載る。頭にさまざまな植物を「プラント」するファッションが流行する。さらに、頭にカイワレやサトイモを育てようとする人も出てくる。ただ、この「自給自足」は議論を呼ぶ。それは、自分を食べることだからだ。
それなら他人の頭に生えた草を食べればいいのか、それは他人の人肉を食べたことにならないか、などと議論は沸騰し、「いったいどこまでが人間か」「〈私〉とは草か」といった哲学的な問いにまで踏み込んでいったのでした。5
しかし、ここから、話は意外な方向へと向かう。スキン・プランツで頭に花を咲かせた人間は、性的に不能になるということが明らかになったのである。だが、頭に咲かせる花はあまりにも美しく、多くの人びとがこの誘惑に勝てず、生殖よりも花を咲かせることを選ぶ。こうして、人間は絶滅の道を選ぶのだ。だが、その花が種をつけ、胎児が育ち、赤ちゃんが生まれることが分かった。人類はその事実に涙する。だが、その子どもにはもはや生殖機能はない。また、花を咲かせ、種をつけ、次世代の赤ちゃんを育てる。そうして、徐々に人間から人間らしさが消え、一世代の寿命は短くなり、植物らしく変わっていく。いや、移動する植物という新しい種類の生物になるかもしれない。やがて地球上がそんな植物の花で彩られるだろう、という「希望」が、植物化していく一人の人間によって語られ、物語は閉じられる。
この人間の植物への変身譚から、自分の体をピアスとタトゥーで埋め尽くす若者の身体の象徴ととらえる人もいるだろう。少子化と引きこもりが進む日本社会の病理を想起する人もいるかもしれない。ロボットが世界中に普及してすべての手仕事を任せているうちに人間が性的に不能になる未来を戯曲に描いたチャペックを想起するのも面白い。種から赤ちゃんが生まれるところから、クローン人間の培養をイメージすることも可能だろう。私もまた、「スキン・プランツ」が、人間が植物へと「進化」するというヴィジョンを物語の作者が悲壮感なく語っているところに、戦慄を覚えるが、かすかに心躍る。それは、現在、地球上に存在する植物が全て昔は人間だったという、人間観が揺さぶられる読みを誘発するからだけではない。それ以上に、私たちが根を生やしてそこから水とミネラルを吸い取ったり、光合成をしてデンプンを生産したり、可憐な花を咲かせたりすることにあこがれるよりも、チーターのように速く進み、鳥のように空高く飛び、モグラのように地下に穴を掘り、イルカのように海を泳ぐことに憧れ、実際にそのように文明を発達してきた歴史を疑問に思いたくなるからだ。無料である太陽の恵みをうまくつかいつつ、土壌の湿度と団粒構造を見極め、美しいものをもっと時間をかけて愛するような人間世界の建設の代わりに、新幹線と飛行機と高速船と地下鉄が跋扈する世界をどうして目指そうとしてきたのかを、根本的に考えたくなるからである。
「植物を考える」とは、その担い手が、これまで起こらなかった世界を考えることである。自分を、今の自分から少しだけ離したところに置き直してみることである。つまり、植物を考えるとは、自分自身を考えることなのだ。
*ご愛読ありがとうございました。本連載を加筆訂正し書下ろしを加え、書籍化する予定です。ぜひお楽しみに。
*本稿の姉妹連載にあたる「植物考」が、春秋社ウェブマガジン「はるとあき」で閲覧できます。https://haruaki.shunjusha.co.jp/
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。
- フロランス・ビュルガ『そもそも植物とは何か』田中裕子訳、河出書房新社、2021年、165頁。
- 同上、135頁。
- 同上、136頁。
- 星野智幸『植物忌』朝日新聞出版、2020年、84頁。
- 同上、87頁。