新・植物考 / 藤原辰史

人間は植物よりも高等だと私たちは思っている。だが、それは真実だろうか?  根も葉ももたず、あくせく動き回って疲弊している私たちには、 植物のふるまいに目をとめることが必要なのかもしれない。 歴史学、文学、哲学を横断しつつ、ありうべき植物と人間の関係をさぐる、 ユニークかつ刺激的な試み。隔月連載。

葉について(1)

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「モンステラ王」

 観葉植物を育てている。家にはベンジャミンとパキラとディスキディア、研究室にはモンステラがある。観葉植物のショップに行くたびに思うのだが、名前だけ並べると、なんだかファンタジーアニメのような雰囲気が醸成されるのが不思議だ。あるいは、ロールプレイングゲームの登場人物と言ってもよいかもしれない。パキラ閣下がディスキディア将軍およびベンジャミン大臣と面会し、モンステラ王国への攻撃の戦略を練った、とか、いくらでも創作のプロットが浮かんできそうだ。が、これらの観葉植物を購入した目的はそのためではない。緑の葉っぱを観賞したいからである。

 とりわけモンステラとはつきあいが長い。腐れ縁といってもよいくらいだ。締め切りに追われるとき、私は現実逃避の場所として、喫茶店のほかにホームセンターを選択する場合が少なくない。ホームセンターには、チェンソーとか釘とかスコップとか高枝切り鋏とか、見るだけでワクワクする品物が溢れていて、何時間いても私は飽きない。ここに棚を作れば便利に違いない、と、一度だって作られたことのない手作り棚を思い描き、板をなでなでするだけで心が軽くなる。そうして、締め切りが今晩であることを束の間、忘れることができる。

 モンステラは、大学近くのホームセンターでひときわ目立たない場所で佇んでいたので、その謙虚さに感激して購入し、東に向いた研究室の窓に置いてある。しかし、王の密やかな貫禄は購入後に徐々に崩れていった。日が当たる場所に置き、水もちゃんとやって、たまに声をかけたのだが、葉っぱが黄色くなって死滅し、それを事務用バサミで切っているうちに、王国の領土は小さな葉っぱ3枚に縮小されてしまったことがある。もうこのまま枯れてしまうのか、と思っていたが、ある日を境にV字復活を遂げた。

 私がこよなく愛する大学近くの造園屋さんの無人市でトマトの苗を買い、さらにおまけでついていた鶏糞を入手し、大きめの鉢もついでに購入した。可哀想なモンステラが頭をよぎったからだ。全部で300円にも満たない値段も魅力的だ。

 私は、その大きい茶色い鉢に死滅していた植物の土を入れ、そこにモンステラを植え替えて、引越し祝いに鶏糞の粉をかけてみた。すると、モンステラは数日で息を吹き替えし、これまでの2倍ほどの面積を持つ葉を数枚出してきて、巨大化を始めたのである。しかも、歯の先端からエキスが溢れる。水孔と呼ばれる穴から出るもので、元気な証拠らしい。そのうち、葉っぱに切れ込みが入り、穴があく。なるほど、こうすれば、古株たちの葉っぱに光を当てることができるのか、とその部下の鏡のような葉っぱの姿に、学ぶことも多い。勢い甚だしい若手がわざわざ自分の一部を滅ぼし、古株に光を当ててあげるなんて、なかなかできないだろう。

 モンステラの面白いところは、気根(空気中に露出している根)を生やすこと。次々に気根を伸ばし、ありもしない土壌を求めて、研究室の空中をまさぐる姿は愛おしくさえある。

 今ではモンステラは研究室内でますます存在感を示しつつある。支柱を買ってきて、電子機器のコードを縛っているあの黒いぐねぐねした針金のようなやつで縛りつけた(正式名称は何というのだろう)。隣にある電話機を使うとき、いつも邪魔になるほど、モンステラ王国は安泰だ。来年にはもうひとまわり大きな鉢植えに変えなければならないかも、と思っている。

裂ける葉

 「植物考」の連載(文末URL参照)を始めた当初から繰り返し述べているように、植物は動く。これはモンステラを見ているとよくわかる。モンステラは明らかに窓の方にその葉緑体パネルを向ける。みんな太陽の側に顔を向けるので、観葉植物なのに観葉できないのが残念だ。だから、たまにこちらに顔を向け直す。でもまた数日経つと葉っぱを窓の方向へ向く。観賞できない観葉植物、という矛盾も、悪くない。

 葉が裂けていく様子も日々観察できる。スリットが入る、ということは、人間の手の指が子宮内で作られていくように、指と指のあいだだけ細胞が死滅するように遺伝子が司令を出しているからだろう。死滅しかけた王国を守っていた3枚の葉っぱたちには切れ込みが入る余裕はなく、リッチになった今も頑なに過去の悲劇を忘れまいと同じ形態を保っている。

 繰り返すが、この切れ込みのおかげで、日の当たりが悪い場所でも小さな葉っぱでも日光を浴びることができる。木漏れ日という言葉があるが、光は漏れると美しい。モンステラの葉っぱの強者の方が自分を引き裂き、弱者の方に光を当てる姿もまた、かっこよさを感じる。


 植物主義を唱え、「ベランダー」と自称するいとうせいこうは、みずからを「反観葉植物主義者」だと規定している。観葉植物主義者は「花が咲いたり実がなったりする植物がどうも気に入らないのだそうだ」が、いとうせいこうは「むしろ、花が咲いてみたり、実がなってみたりしないと気にいらない」、「おそらく、貧乏根性が原因だろう」と言う1。私は観葉植物については日和見主義者で、どちらかに決定する勇気を持たないが、検討に値するテーマだと思う。

 インターネットで調べてみると、モンステラはまれに花を咲かせるという。しかもそのまま放っておくと実をつけ、人間でも食べられる甘い果実になる。モンステラの花を観賞し、実を食べる日を夢見て、今日も葉っぱを撫でたい。

 自宅の玄関に最近登場したばかりのパキラ閣下は、2階の主であるベンジャミン大臣とともに今のところ挫折もなく絶好調で、新しい葉を次々につけては私を喜ばしてくれる。パキラは、葉を6枚ほど、手のひらを広げたように放射状につけていく。ベンジャミンは小ぶりな葉っぱをちょっとずつ増やしているように思える。どちらもやはり隙間が生まれ、日光が下の先輩たちに届くようになる。ディスキディア将軍は、サボテンの仲間なので、あまり水をあげすぎないようにして見守っているが、ちょっと葉肉を増殖させただけで、華々しい展開には至っていない。鶏糞をあげたが、それほど反応もよくない。しばらくは、様子見というところだろうか。

食と葉

 さて、しかしながら、私は葉を観賞するだけではものたりない。どうしても食べたくなる。モンステラもパキラも天ぷらにしてみたいと思うこともある。だが美味しくないかもしれないので、そのかわりに、我が家のミニプランターでは大葉、ピーマン、トマトを栽培している。しかし、夏の頃は私にライバルが立ちはだかる。ショウリョウバッタどもが大葉を来襲するのだ。農薬を使いたくないので、毎朝バッタをつかんで、遠くに放り投げることを繰り返してきた。だが、また朝にはバッタがなけなしの大葉を貪り食っている。大食漢だ。ちなみに、鴨川の野草を食べるサークルに入っている京都大学の学生の話を聞いて、なんだか楽しそうだったので、私も、プランターの端から美味しそうな雑草を食べてみたら、とても苦かった。ショウリョウバッタがどうしてこちらを食べないのか、理由がわかって若干敵視の感情を緩めた。ショウリョウバッタもなかなかのグルメなのである。

 ほうれん草、小松菜、レタス、キャベツなどは、「葉物野菜」と呼ばれているように、葉は人間の生活にも欠かせない。人間とは恐ろしいもので、悪臭を放つパクチーも食べることができる。このパクチーにはホルミル基が含まれている。私は最初パクチーが嫌いだったが、ヴェトナム料理で食べているうちに好物になった。ちなみに、ホルミル基は、バニラの甘い香りをもたらすバニリンも、シナモンの香りをもたらすケイヒアルデヒドも、シックハウス症候群の原因であるホルムアルデヒドにも含まれている、という2

 食べるばかりではない。葉は食べものを包むときにも役立つ。塩漬けした柿の葉を寿司の周りに巻けば、保存が効き、長距離輸送ができる。香りもよく、奈良に出張があると食べることも多い。笹の葉で餅を包めばちまきになり、塩漬けした桜の葉っぱが餅を包めば桜餅となる。ちなみに私は、最近まで、桜餅の葉っぱが食べられることを知らなかった。あの塩味が甘い餡子と絶妙なハーモニーをもたらしている。バナナの葉は巨大で丈夫で香りが良いので、食器になったり、おこわをくるんだり、蒸し菓子や焼き菓子にもお皿にも用いられる。傘にもなるし、偽茎から繊維を取り出し、紡いで布を織り、パピルスのように紙を作ることもできるという3

 反観葉植物主義者のいとうせいこうも、バナナの葉には寛容的だ。「この間、バナナを買ってきた。これが素晴らしくいい。濃い緑の幅広の葉を茂らせ、悠々としている」とひととおり観葉植物的な部分を褒めたあと、しかし「あくまでも俺はバナナの実を収穫するためにそいつに水をやっている」と断りを入れている4

 葉の表面には抗菌作用があるので、先人たちは葉を、食料を包むためにも、尻を拭うためにも用いていた。その繊維質が紙や布に用いられたことを考えれば、「葉っぱの人類史」に登場する葉の種類と用いられ方は無数にありそうだ。

飛翔できない鳥

 そもそも葉とは何か。太陽光を吸収し、葉緑体で光合成を行なうデンプン生産工場であり、葉の裏側に多く、表側にも存在する気孔によって二酸化炭素を吸収したり、排出したりし、水蒸気も放出できる。植物の体温の調整装置でもある。葉脈が張り巡らされ、光合成で得られた養分を茎の維管束に送り込むことができる。

 では、人文学的課題として、葉はどのように語ることができるのか。イタリアの植物の哲学者、コッチャに葉を語ってもらおう。

 ゆるぎなく、不動のまま、大気と渾然一体となるまで大気現象に晒される。中空に宙づりになり、いかなる努力も要さず、筋肉一つ収縮させる必要もないままに。飛翔できなくとも鳥となること。葉とは、いわば陸地を征服したことへの最初の大きな反動、植物の陸生化がもたらした大きな帰結、そして空中生活への植物の渇望の表れであるかもしれない5

 空中生活への渇望の表れである「飛翔できない鳥」、という表現は、ちょっとカッコ良すぎる感が否めないが、詩のような印象的な言葉である。思えば、これだけ薄くて広い器官を作ることができる動物は、鳥くらいかもしれない。ヒラヒラした薄いものをこれだけ生やして風に身を委ねられる植物という生きものは、そうやって突き詰めて考えるととてつもなくグロテスクな存在にも見えてくる。人間にもしも、そのような緑の葉のような器官があれば、その葉はデンプンを生産して血液に送り込んでくれるだろう。風が吹けば音がサラサラと鳴り、トイレに紙がなければちょっと失敬することも可能だ。メモ帳がわりにもなる。服の代わりに利用すれば、それは鳥の羽で身を包んだパパゲーノとパパゲーナになる。意外に暖かくて通気性もよく、便利な服かもしれない。いずれにしても、植物の葉が鳥になりたかった願望の名残だとするならば、植物を地上に束縛する根は、その願望を抑圧するものだ。自由な移動への願望と、定住という諦念。その引っ張り合いによって植物が存在するとすれば、植物の見方が少し変わってくる。

 コッチャはさらにこんなことも述べている。

 葉は、開かれているということを表す範列的なかたちである。すなわちそれは、破壊されることなく世界に侵入されることがありうる生命なのだ。その一方で葉は、とりわけ気候的な実験室、酸素を作り空間へと放出する蒸留器でもある。酸素という元素は、世界を住処とする無限に多様な主体・物体・歴史・存在の、生命・現前・混合を可能にする。
 この惑星に生息し、太陽エネルギーを捕らえる緑の葉身は、いわばコスモスの靱帯をなしてきた。何百万年もの昔から、実に様々な生命に、それぞれが互いに溶解することなく交差し混合する可能性をもたらしてきたのである6

 コッチャによれば、「飛翔できない鳥」は、空気に存在する水や風と浸透しあいながらも、自分を壊すことなく、それらと混合しあえる「場」であるという。葉の「開かれ」こそが、気候と一体となって世界を作り上げるのだ。

 そして、これはよく言われるように、酸素を生み出すことができる稀有な生きものである。酸素の濃度は極めて重要だ。酸素濃度が急激に減ると、植物はもちろん、動物も酸欠で苦しみ、死に至る。酸素を一定の濃度に保ち、私たちをこの空気に浸らせているのは、ほからならぬ植物の葉の功績が大きいのである。

 コッチャの「飛翔できない鳥」という奇抜な表現から私たちが受け取るべきイメージは、おそらく、輪郭のある植物や構造化された植物ではない。むしろ、植物が、葉や枝や根を通して空気や太陽と、あるいは、昆虫や微生物と複雑に絡み合っており、輪郭がぼやけていること。気候と植物と動物が一義的に、しかもなだらかに連結していることである。

植物性の青い針

 とはいえ、植物の葉は薄く広いばかりではない。針葉樹の葉は尖っている針の集合体である。松は浮世絵に登場するトップスターの一つだし、竹や梅とともに、めでたい植物の一つである。

 とともに、宮沢賢治が、死にゆく妹のとし子を描写した詩「松の針」(1922年11月27日)の冒頭に、こんな一節があることを思い浮かべてもよいだろう。

  さつきのみぞれをとつてきた
  あのきれいな松のえだだよ
おお おまへはまるでとびつくやうに
そのみどりの葉にあつい頬をあてる
そんな植物性の青い針のなかに
はげしく頬を刺させることは
むさぼるやうにさへすることは
どんなにわたくしたちをおどろかすことか
そんなにまでもおまへは林に行きたかつたのだ
[後略]7

 有名な「永訣の朝」(1922年11月27日)にもあるように、賢治は妹の側にいて、自分と妹の心の動きを読み解いていく。「あめゆじゆとてちてけんじや」と言うとし子に持ってきたみぞれ雪は、もともと松の枝の上に乗っかっていたものである。

  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさひはいをかけてねがふ8

 「みぞれ」と「松の針」と「頰」が一体となる描写が読者に緊張感をもたらす。松の針が、気象現象と人間の生命現象のあいだに横たわる輪郭をぼやけさせるからである。

 さきほどまでみぞれを受け止めていた松の針は、今度は、妹の熱い頰も受け止めている。「けふのうちにとほくへさらうとするいもうと」の、林に行きたいという願望は、もちろん満たされないわけだが、外気で冷たくなった青い針がいもうとの痩せた頰を刺すことで、いもうとは外気と混淆することができる。妹は、天上と地上の境界、植物性と人間性の境界、物質性と溶解性の境界にさまよう。葉が気象と人間のあわいに存在すると、葉を礼賛したコッチャの心象ともつながりそうだ。

 その心象は、賢治の色彩描写によって、さらに光を帯びる。それは、みぞれの「白」と松の「緑」といもうとの頰の青白い肌色のコントラストだけではない。「みどり」であった松の葉っぱの集合体が、妹の病気で熱くほてった頰に押し付けられると「青」に変わっていることだ。

 もともと、日本語の体系のなかで、青と緑の波長はしばしば混線する。信号の色も、遠くの山脈も、緑でも青でも表現できる。青に黄を混ぜると緑になるように、緑は青よりも色温度(光の色を数値化したもの)が高い。では、なぜ、妹の頰に刺さることで松の葉は青色に変化を遂げたのだろうか。

 賢治がどう思っていたのかは、いまとなってはわからない。読者の解釈も無限に生まれうるだろう。科学的にいえば、遠くの山脈が青く見えるのは、空気が青色を反射して、山脈の緑の光がこちらに届かないからである。緑が青になるのは空気がそのあいだに存在するからだ。だが、「松の葉」という心象スケッチでは、頰と松の針が接した瞬間に青くなっている。よって、「青い山脈」効果は認められない。

 もう少し読んでみたい。前後の言葉を拾うと、色のほかに、葉が針に変化していることがわかる。松の木の枝から切り取られたみどりの葉が、「植物性の青い針」に変化している。つまり、最後の命を燃やさんとしているいもうとの頰で、植物もまた物質化している光景が描かれているのだ。青色は、その物質性を帯びたシグナルかもしれない。人間も植物も生命活動をやめるということは、熱を失っていくことだ。いもうとの体に起こるあいだ、近代農学を学んだ兄は、霊や魂という言葉を一度も用いなかった。「永訣の朝」でも、いもうとは病室の緑色のかやの中で「やさしくあをじろく燃えてゐる」。物質化せんとする植物と人間の変化の呼応を、賢治は冷静に描いているように私には思えるのだ。「松の針」の最後で、賢治は松の枝を緑色のかやの上にも置く。そこから雫が落ち、「terpentineターペンティンの匂もするだろう」と結んでいる。terpentineとは松脂を蒸留することで得られる精油である。松の香りがきっといもうとの死を包み込むことを祈って、賢治はいもうとが遠くへ消えていく様子を受け入れようとしているのである。そして星空で青い光を放つ星々のイメージとも重なっていく。

 繰り返すが、葉は植物の両義性を象徴する。天と地、空気と土、物質と生命。その中に溶け込むことができる植物の融通無碍さを、「飛翔できない鳥」である広葉樹の葉のみならず、硬質の青い松の針も、宮沢賢治の視線を借りるのであれば、しっかりと表現しているのだ。

葉のない植物

 そういえば、京都の出町柳駅の近くで橋が工事中にもかかわらず今日も元気に橋の石の隙間から顔を覗かせていた「根性松先生」(連載「植物考」植物的組織論。文末URL参照)も、あのタワシのように密集して生えている松葉のトゲの隙間に青空や鴨川の水の色が溶け込んでいる。あの刺々しい葉がなければ、松は松とはいえない。

出町柳の根性松

 賢治にせよ、コッチャにせよ、植物にとって葉は欠かせないものであるどころか、植物性を象徴する存在として描いている。しかしながら最近読んだデイヴィット・ビアリングの『植物が出現し、気候を変えた9』(2015年) には、驚くべき事実が書かれてあった。4億2500万年前の岩から出土した世界最古の陸上植物の化石である「クックソニア」には、葉がなかったのである。考古学では常識である事実を、私は知らぬままに、植物について語ってきたらしい。しかも、ビアリングによると、実はそれから4000万年から5000万年以上かかって、ようやく葉を増やし始めたというのだ。霊長類から人類が進化する時間の10倍の時間がかかっている。

 植物にとって葉をつけていることは必然ではない。ならば、どうして、このヒラヒラした光合成パネルを、「飛翔できない鳥」を、植物は身につける羽目に陥ってしまったのだろうか。ここで枚数が尽きてきたので、次回は、ビアリングの本や、「すべては葉である」といったゲーテを参考にしつつ、葉とはいったいどういうものなのかを引き続き考えていきたい。

 

 

* 本稿の姉妹連載にあたる「植物考」が、春秋社ウェブマガジン「はるとあき」で閲覧できます。https://haruaki.shunjusha.co.jp/

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. いとうせいこう『ボタニカル・ライフーー植物生活』新潮文庫、1999年、91頁。
  2. 黒栁正典『植物 奇跡の化学工場――光合成,、菌との共生から有毒物質まで』築地書館、2018年、55-56頁。
  3. 石井正子編著『甘いバナナの苦い現実』コモンズ、2020年、18-19頁。
  4. いとうせいこう『ボタニカル・ライフ』94頁。
  5. エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学―-混合の形而上学』嶋崎正樹訳、山内志朗解説、勁草書房、2019年、35頁。
  6. 同上、38-39頁。
  7. 『宮沢賢治全集 Ⅰ』ちくま文庫、1986年、160-161頁。
  8. 同右、159頁。
  9. デイヴィッド・ビアリング『植物が出現し、気候を変えた』西田佐知子訳、みすず書房、2015年。