新・植物考 / 藤原辰史

人間は植物よりも高等だと私たちは思っている。だが、それは真実だろうか?  根も葉ももたず、あくせく動き回って疲弊している私たちには、 植物のふるまいに目をとめることが必要なのかもしれない。 歴史学、文学、哲学を横断しつつ、ありうべき植物と人間の関係をさぐる、 ユニークかつ刺激的な試み。隔月連載。

葉について(2)

share!

冷却装置としての葉

 植物は、その誕生時には葉を持っていなかった。葉緑体は茎の細胞に組み込まれていたから必ずしも葉を持っている必要はなかった。茎と根を中心とする形状で、その「配管システム」が植物の中心である。つまり、初期の植物は、いわば分岐するチューブの形態だったわけだ。発見された化石によって、古い植物アルカエオプテリスは「地中1メートルも」根が伸びていたと考えられている。植物は、葉を持つまでに4000万年から5000万年も時間をかけた。デイヴィット・ビアリングの『植物が出現し、気候を変えた』によると、この進化の遅さは、どうやら、大気中の二酸化炭素の濃度と関係があるらしい。

 植物が葉という器官を持ち始めるのは、空気中の二酸化炭素濃度が減少し始める頃である。ビアリングの仮説によれば、それまでずっと二酸化炭素の濃度が高く、葉を拡大する障壁となっていたが、二酸化炭素の濃度が下がり始めると、植物は光合成に必要な二酸化炭素を求めて葉を大きくしようする。他方でそれは、直射日光が葉にあたりやすくなり、変温動物のように植物の温度が上昇するリスクを伴う。熱で死ぬリスクが葉の進化を妨げた。しかし、葉の裏側に唇のような気孔をたくさん配置し、そこから体内の水分を排出して「体」を冷やすこともできる。あのヒラヒラと風にそよぐ平べったい器官は冷却装置でもあるのだ。かといって葉が大きくなりすぎると太陽熱をキャッチしすぎて体内温度が上昇し、最悪の場合は植物体を構成するタンパク質が変質してしまうから、慎重に時間をかけてほど良い大きさを求めているうちに、場所に応じて色々な大きさの葉っぱを持つ植物が生まれた、ということらしい。

 葉は、植物が進化の途中で得ることができた器官だった。植物の本質のような顔をしていて、新参者だったというのは驚きである。茎や根の方が「古株」だったのだ。葉は植物に欠かせないものではない。むしろ、植物の「根幹」は、大地から栄養を吸引するために根と茎を貫く管であり、葉は文字通り「枝葉」にすぎない。根幹と枝葉。言葉とは本当によくできている。

 では、改めて問いたい。葉とは何か。植物とは何かを考える上で、葉は枝葉末節の領域に甘んじてしかるべきなのか。

ゲーテにとっての葉

 きっと文学研究者は、いつこの文章の書き手はゲーテを登場させるだろうか、と思っていたに違いない。ゲーテはあのナチスでさえまともに批判できなかった(というより、ゲーテを賞賛していたナチも多い)ドイツ文化の結晶のような詩人であり、しかも科学者でもあり、エリート官僚でもある。私は天邪鬼の性質が多分にありこんな出来すぎた人間を引用することにためらいがないわけではないが、ここは素直にゲーテに向かいたいと思う。なぜなら、ゲーテは、植物の原型は葉にあると言った人だからだ。

 ビアリングの葉っぱ新参者仮説は、ゲーテの「すべては葉である」1という仮説と相反するように思える。が、そもそもビアリングはゲーテの植物学研究を高く評価している節がある。18世紀の植物学者リンネのように植物の違いを明らかにし、分類していくだけではなく、形態を観察し、そこから相似するものを発見し、総合的に植物の構造と本質を把握しようとする態度である。

 ゲーテは、リンネのような分類学的手法から多くを学んだ上で、それに飽き足らなくなって、葉からがくや花弁へとメタモルフォーゼ、つまり変態を遂げる様子を克明に描くようになる。ゲーテにとって、植物の真理を探究することと、人間の真理を探究することは連動していた。


 ここで、石原あえか『科学する詩人ゲーテ』が参考になる。私が持続的に刺激を受けている愛読書である。本書を読むと、ゲーテの異常ともいえる知的好奇心ばかりでなく、病床で医者に悪態をついたり、誰にも言わずに公務を放り出してイタリア旅行に出かけたり、戻ってきたらみんなから信頼を失っていたり、「寂しがり屋のうえに神経過敏で気難しく几帳面」2だったり、人間っぽい点もしっかり描かれていて、なんだかほっとする。とともに、高校生で受験のために文系か理系かを決められたことを根に持ち未だに理系書の読書をやめられない私のような諦めの悪い人間には、ゲーテの知的好奇心が赴く自由奔放さは、なんだか悔しいけれど心地よい。

 石原は、ゲーテの植物への関心を示す具体的な事例を2点あげている。

 第一に、ドイツで「ゲーテ草」と呼ばれるセイロンベンケイ草である。葉をシャーレに浮かべておくと、葉の縁から新しい小さな葉がどんどんと息吹く植物だ。これを石原は、ゲーテの原植物(Urpflanze)、つまり植物の原型に最も近いと述べている。

 第二に、ヴァイマルにある「庭の家 Gartenhaus」である。支えていた青年君主カール=アウグストに下賜されたイルム河畔の家である。そもそも勤務先である城や離宮などの庭園整備の仕事に従事していたこともあり、家の庭を観察する中で彼は植物の面白さに取り憑かれていく。家の庭仕事を担当していたのが、一目惚れの末に庭の家で密会して未婚のまま彼の子どもを産んだ彼の伴侶クリスティアーネである。従来の研究ではゲーテの華麗な経歴の汚点、あるいは「無教養な醜女」として彼女の存在が意識的に除外されてきたらしいが、ジェンダー研究の進歩からようやく最近評価されるようになったと、石原は述べている。アスパラガスやジャガイモを育てて家計の足しにしたり、庭のリンゴからジャムやムースを作ったりした快活なクリスティアーネの存在は、気難しいゲーテを朗らかな気持ちにしたのかもしれない、これはゲーテの母親の気質と似ている、という指摘も興味深い。

 2011年7月、私もこの「庭の家」に訪れたことがある。実は、『ナチスのキッチン』の執筆過程で台所の近代化を調べるために、ハウス・アム・ホルンを訪れる予定だった。この仮設住宅のようなモダニズム建築の場所を旅行案内書で確認していたら、近くにゲーテの家があったというのでミーハーな気持ちで道草してみた、という程度である。緑に囲まれた美しい白い壁の家で、これが別荘かよ本宅じゃなくて、とやや不貞腐れ気味に中に入った気がする。庭には菜園が再現されていたように記憶しているが、定かではない。いずれにしても、ヴァイマルという小さな街は、ゲーテの家があったがゆえにドイツ文化の象徴であり、第一次世界大戦後にベルリンから逃れてきた国会が開催されたことで、後に「ヴァイマル共和国」と呼ばれる黄金の民主主義時代のシンボルとなった場所であり、また、バウハウスが拠点を構えたモダニズムの中心地だったこともあった。ゲーテとバウハウスは、空間的には実はお隣なのである。

ゲーテが過ごした「庭の家」(著者撮影)

教訓詩『植物のメタモルフォーゼ』

 さて話をもとに戻そう。一七九八年、ゲーテは「植物のメタモルフォーゼMetamorphose der Pflanzen」という詩を完成させている。植物の器官の形態的類似性を論じた同名の論文を教訓詩(Lehrgedicht)、すなわち知識や真理を韻律に載せた詩にして、妻のクリスティアーネに捧げたのである。全文は『ゲーテ形態学論集 植物篇』で読むことができるが、ここでは石原の訳から一部を引用したい。

葉脈やギザギザの縁を持つ葉が生い茂り、分厚い表面で
豊かな衝動は奔放に、無限に続くように見える。
ところがここで全能なる自然はその手で成長を止め、
ゆっくり、より完全なものに導いていく。
[……]
交互についた葉の狭い台座で、花が揺れ動く。
だが、この素晴らしい眺めすら、新たな創造の知らせ。
色づいた葉は、神の御手が触れるのを感じ、
とっさに身をすくめる。すると最も繊細な形が二つ、
いずれ一つのものとなるために、勢いよく伸びてくる。
それは愛らしいつがいとなって寄り添い、
数え切れないほどの番が、聖なる婚礼の祭壇を取り囲む。3

 ゲーテは、植物の形態変化の過程の中に、人間の番が愛情を育んでいく形態を見出し、人間と植物に横たわる境を消しながら、同時に描いていく。

 私が注目したいのは「衝動 Trieb」という言葉である。この詩に何度か登場する。この植物に内包される何かに突き動かされるような力の湧出は、植物個体の生長をもたらし、植物を活気づける。

 だが、その衝動は無限に続かない。神はその衝動を抑え、葉は色づいて地面に落ちる。そうして、葉は花の中の生殖に身を譲る。断絶を入れ、有限を無限に繰り返すことで生命をつなぐ。壮大な世代交代劇を色っぽく描く詩だ。

 生い茂り、色づき、重力の法則に基づいて地面に落ちる葉は植物の生長、人間に例えれば、一世一代で生を燃やす人間の生きざまの象徴である一方で、花弁の中の雄しべや雌しべの結実は、世代をつなぐ生命現象の象徴である。
 
 『源氏物語』では、葉は薄くて地面に落ちるので、むしろ「はかない命の象徴」だというのは『古典基礎語辞典』の解説である。4たしかに、秋に葉がハラハラと落ちる姿に無常の美を感じるのは日本の古典に多いような気がする。同じ葉という器官でも、印象が大きく異なることは興味深い。少なくともゲーテは、さすがの観察眼によってその「はかなさ」を見落とさなかったけれども、基本的には、葉の繁茂し、別の器官に変態を遂げるような「衝動」に魅せられていたように思える。

空気間隙

 ここで3つの葉のイメージが生まれている。

 光合成の中心的な器官で、気孔を通じて呼吸をし、さらに水分を排出して体を冷やすというビアリングの生物学的イメージ。植物の原型であり、生命体の生長の世代交代の象徴であるゲーテの形態学的イメージ。それから、前回の連載で紹介した「飛翔できない鳥」「大気に開かれた存在」というエマヌエーレ・コッチャの哲学的イメージ。

 ちょうど動物の歴史における人間の脳のように、植物が後天的に入手した葉という器官を一言でまとめるのは容易ではない。大気に開いていて、形態学的には植物の特質をぎゅっと凝縮していて、しかも世界に向けて開かれている、という3つの観察結果を総合的に語ることはできないだろうか。西洋的でも東洋的でもなく、葉というものが持つ植物性を探ることはできないだろうか。


 ここから1時間、悩みに悩みながら本棚を見ているうち私の目に飛び込んできたのは、植物学者の原襄の『植物形態学』である。パラパラとページを繰っていると、植物学の教科書に相応しくない、とても文学的な表現に目が止まった。

植物体内のかなり多くの細胞は、つねに気体に接して生きているのである。とくに葉の中の葉肉の細胞間には空気間隙が多量に存在し、また、細胞の表面が空気間隙の気体に直接に接している面積は大きい。ときとして動物の体内と混同して、植物でも細胞間につねに水のような液体が満たされていると誤解することがあるが、そのような理解は大変な誤りである。陸上の動物は、個体としては気体の中で生活するが、植物の場合は、その多くの細胞の一つ一つが気体に触れて生活している。
もし、植物体内の細胞間隙が水で満たされてしまうとしたら、木々の葉は重々しく垂れ下がり、植物体の地上部は全体としてきわめて重くなり、現在の樹木の強度では直立していることはできなくなるだろう。光合成の能率も、空気間隙による急速な気体の交換がなければ大変低いものになってしまうだろう。微風で空気が攪拌されて植物体外の気体と体内の気体が円滑に交換されるようになっているのも、空気間隙に気体があってはじめて可能なことである。5

 私はこの文章に接するまで、植物がここまで風通しのよい生命体だとは思っていなかった。葉は奥の方まで微細な風の通り道が確保されている。そして、すでに述べたように、葉の裏には無数に存在する微小な口、つまり気孔が散りばめられている。気候の数は種類だけでなく、個体によって異なるが、一辺1ミリメートルの正方形に50から200個存在するという。ならば、一枚25センチ平方メートルの葉の広さならば2500倍、つまり約12万から50万個の気孔が存在することになる。気孔は光合成のために二酸化炭素を取り込み、酸素を排出するだけではなく、呼吸のために二酸化炭素を排出し酸素を取り込むこともある。また、すでに述べているように蒸散をして体内の水分を逃がすこともできる。葉っぱとは、そして葉っぱに代表される植物は、要するに、いたるところ穴だらけ、隙間だらけのスポンジみたいな存在ということになる。

植物の多孔性

 高校の生物の教科書で気孔の写真を見て驚いた記憶がある。最初の印象は人間の「たらこ唇」にそっくりだ、ということである。孔辺細胞に挟まれた隙間から空気を出し入れする。葉とは、形態学的に捉えるならば50万個の口とも言える。なんとも気味悪いたとえで恐縮だが、植物からすれば人間の口の数は少なすぎると思うだろうから、おあいこだろう。

気孔の顕微鏡写真(ユリ属)
Photomicrograph of a Lilium leaf with stoma. Scale=0.1mm.Jon Houseman and Matthew Ford

 人間の口が食べものや飲みものの補給口であり、空気を出し入れする入り口であるように、葉も、光合成によってデンプンを生産して植物全体に流し込む入り口だし、気孔を通じて空気の出し入れをする窓だ。ただ、人間にとって口は、言語を発する器官であるのだが、葉にはそれができない。できないけれども、気孔や空気間隙を通って、植物は外の世界へと直接につながっていることは確かである。いやむしろ、外の世界と浸透しあっていると言ってもよい。私たちが「植物」と呼んでいるのは、実はかなりの部分が空気でできている。ちょうどアイスクリームや綿飴が美味しいのは、そのほとんどが空気で満たされているからであるように。

 いとうせいこうは、光嶋裕介との対談の中で、光嶋が毎晩描いている空想の建築物のドローイングに、「穴」がたくさん見えたことを指摘し、その関連で、「多孔性」について次のように述べている。

時間がどうして進むのかってことを考えたときに、僕は多孔性って言葉がひとつ大事な問題になってくると思う。つまり、欠落があるからものはドライブしていくっていうか、つまり、なぜ人が時間を感じるかっていうと、変化が起こるからなんですよ。6

 私もこのドローイングを見たとき、ここで「かくれんぼがしたいな」と思ったことを記憶している。実際そう口走ったかもしれない。それくらい多孔的だった。

 いとうの語る「ドライブ」は、ゲーテの言葉を借りれば「衝動 Trieb」である。ゲーテは植物の多孔性については論じてはいないが、植物の変化自在へんげじざいなメタモルフォーゼの前提に、多数の穴を前提とした「ドライブ」があるとするならば、ここでビアリングとゲーテとコッチャのそれぞれの植物観が交錯する。植物の葉に散らばる無数の口とそこでなされる空気と水分と熱の入れ替えは、動物の呼吸器系とは異なって微小で可視化しづらいけれども、それだけいっそう複雑に世界と相互浸透しており、言葉のキャッチボールよりもきめ細やかでスピーディーな「対話」とさえ言えるのかもしれない。

 植物が後で身につけた器官である葉は、しかし、植物の世渡り術をちゃんと結晶化した器官であった。植物の他力本願性、相互浸透性、移動不可能性、そしてその裏返しとしての外界との頻繁かつダイナミックなダンスのような動き。隙間だらけだからこそ得られた軽さが、風とのダンスにキレをもたらす。原襄は、葉のダンスを次のように描写している。

少し強い風で、葉がそよぎ、葉の形が多少なりとも変形を受けてはもとに戻るという過程の繰り返しであることも、葉の中の気体の交換には大変有効に働いていると考えてよいだろう。7

 植物が恐る恐る進化させた葉という器官は、大きくしすぎると熱が溜まるかなりリスキーな器官だが、風に吹かれてヒラヒラとなびけば、空気と戯れることができる。人間がおよそダンスをやめられないのは、ダンスが人間以外の動物へのメタモルフォーゼであるだけではなく、植物へのメタモルフォーゼでもあるからなのかもしれない。

 

 

*本稿の姉妹連載にあたる「植物考」が、春秋社ウェブマガジン「はるとあき」で閲覧できます。https://haruaki.shunjusha.co.jp/

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. ゲーテ「植物学断章」木村直司編訳『ゲーテ形態学論集 植物篇』ちくま学芸文庫、2009年、303頁。
  2. 石原あえか『科学する詩人ゲーテ』慶應義塾大学出版会、2010年、51頁。
  3. 同上、53-54頁。
  4. 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年、960頁。
  5. 原襄『植物形態学』朝倉書店、1994年、68頁。
  6. 光嶋裕介『つくるをひらく』ミシマ社、2021年、89頁。
  7. 原『植物形態学』、68頁。