雁皮は囁く / 猪瀬浩平

雁皮は、和紙植物として知られる。人間の生活と深く関わりながら、栽培が難しいため人の営みに完全に取り込まれることなく生息してきた、不思議な植物だ。交わり、すれ違い、翻弄し、翻弄され…。雁皮は、調和と征服のあわいで、この世界をしたたかに生きのびる。そのことは一体、何を意味するのだろうか。気鋭の人類学者による、人と雁皮をめぐる探究の〈物語〉。

御成婚の森のヒノ

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 雁皮は、高知県西部の四万十川流域の地域では、ヒノとも言われる。
 2011年から、わたしは1980年代に高知県の西南部に建設が計画されていた原子力発電所の建設反対運動について調査をしていた。反対運動のリーダーの一人である、シマオカさんがわたしの調査を導いてくれた。シマオカさんは、原発反対運動のことだけでなく、原発騒動以前のむらづくりのことや、人びとの生業のことなど、圧倒的な饒舌さでいつも語り続け、そしてわたしを様々な人や現場に引き合わせてくれた1
 
 御成婚の森にヒノがたくさん生えているから、それを見に行こうや、とシマオカさんに言われたのは2017年1月のことだ。居候をさせてもらっているシマオカさんの家から、レンタカーを走らせた。道はやがて四万十川に沿って走る国道になり、シマオカさんの家から40キロ余りを過ぎたころで御成婚の森にたどり着いた。四万十両岸の森は、ほとんどがスギとヒノキの人工林である。ほかの樹種はほとんど生えていない、整備された森が山の斜面いっぱいに広がっている。一方、御成婚の森にはさまざまな木が生えていた。どれもまだ若々しい木だった。四万十川をはさんで、宇和島に向かう国道が見下ろせた。
 そこにはオカモトさんという、1938年生まれのシマオカさんよりも4歳年上の人が待っていた。ずんぐりとしたシマオカさんに対し、オカモトさんは小柄で、作業靴を履き、帽子をかぶり、ヤッケを着、腰には鉈をぶら下げていた。この人はこの森の対岸の集落出身で、営林署で長年勤めていたのだ、とシマオカさんが教えてくれた。
 80歳前後の二人が、山を登り始めた。大した距離登らないのだと思っていたが、そうではなかった。100メートル余りの標高差を登山しながら、ぜえぜえと息を吐き始めているわたしをおいて、オカモトさんはひょいひょいと先に進んでいった。歩く道すがら、二人は雁皮が植わっているのに気づくと、それを「これがヒノ」、「これもヒノ」とわたしに指し示してくれた。シマオカさんは、雁皮が「高級紙幣」になることを教えてくれた。


 御成婚の森と名付けられたその山は、のちに天皇として即位する徳仁皇太子の結婚を祝って、1993年に旧幡多郡十和村によって整備され、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ヤマツツジ、ドウダンツツジ、ヤマボウシが植えられた。次第に管理が行き届かなくなり、草や灌木が生い茂るようになった。2013年にシマオカさんが代表をしているNPO法人朝霧森林倶楽部が町役場に提案し、地元に住むオカモトさんらとともに除伐と、植林をして再整備を始めた。御成婚の森の除伐作業をするうちに、やがてシマオカさんたちは雁皮が山の斜面に何本も生えているのを見つけた。

シマオカさん(撮影:森田友希)

 シマオカさんが、わたしを御成婚の森に案内してくれたのには理由がある。
 その数年前に、わたしもかかわっていた研究プロジェクトで、シマオカさんの家でお話を伺ったことがある。農という営みを再考しようとはじまったそのプロジェクトのメンバーには、研究代表者のカツマタさんの地域の知り合いで、細川紙の継承者である紙漉き職人のタニノさんがいた。カツマタさんにタニノさんを紹介されたシマオカさんは、その後、別の場所でタニノさんと再会することになる。2016年の11月のわたしの授業にゲストとしてやってきたとき、シマオカさんはその足で、埼玉県西部にあるタニノさんの工房を訪れた。珍しく関東で11月に雪が降ったときのことだ。タニノさんは雪の中にやってきたシマオカさんを工房に迎え入れた。さまざまなおしゃべりをする中で、シマオカさんは御成婚の森に雁皮が生えているという話をした。タニノさんはそのことに興味を持ち、雁皮を使って紙を漉く和紙職人の多くが外国産の雁皮に頼っており、国産のものを欲しがるのではないかと語った。
 年が明けてすぐにわたしは四万十町を訪問した。シマオカさんはタニノさんの代わりに、自生する雁皮を見せようとわたしを御成婚の森に案内した。
 


 
 御成婚の森の斜面に、雁皮を見出したのは、雁皮取りを生業として経験したことのある人たちの記憶によっている2
 シマオカさんと、オカモトさんは、「和紙植物」として雁皮を知っていたが、ボランティアで作業する人たちの多くは、雁皮を知らず、除伐作業では、他の灌木とともに、雑木・雑草として刈り取ってしまっていた。雁皮は大きく育つ木ではない。樹皮は独特の深い焦げ茶色をしているが、サクラや、ツツジなどの苗木を守る作業をしていれば、その生育を邪魔する雑木にしか見えない。
 シマオカさんは、1938年に生まれた。故郷の四万十川上流の村では稲刈りの後、秋の終わりが雁皮刈りの季節だった。学校帰りに山にはいり、自分だけが知っている秘密の場所を回って雁皮を集めた。集めた雁皮は竹のヘラで皮をはいだ。はいだ皮はつるしておいて、業者が買いに来ると、売って小銭を稼いだ。紙漉き職人のタニノさんは雁皮の採取は皮がまだ柔らかく、剥ぐのが簡単な新緑の五月頃ではないかと考えているが、幹の太くなる秋のほうが良いのだとシマオカさんは語る。戦後に植林されたスギ・ヒノキが育つと、子どもたちの秋の山遊びの習慣はなくなった。やがて雁皮は雑木の一つとなって、その価値は忘れられた。
 四万十町の旧窪川地区で雁皮集めを経験していた1950年代前半に生まれた男の子たちの遊び場は、夏は川、冬は山だった。山の遊びの一つに雁皮集めがあり、皮を剥ぎ、買い付けにきた「おんちゃん」(子どもたちは業者をこう呼んだ)に売ったお金でインスタントラーメンを買うのが楽しみだった。しかし、1965年頃に買い付けに来る人がいなくなった。1940年代前半に生まれた男性も、1960年になる頃まで収穫していたけれど、それ以降は買い付け人がこなくなったという3
 一方、オカモトさんは雁皮の存在は知っていたが、紙幣の原料になる植物であり、勝手に採っていいものではないと考えてきたという4

 暗い森には雁皮は生えない。だから、スギ、ヒノキの針葉樹が育った人工林では、雁皮は育たたない。
 光が入る山の尾根や雑木林、木が台風によって倒れたり、伐採されたりして光が入るようになった土地で、雁皮は芽生え、育ち、そして種を飛ばして少しずつ増えていく。2012年に四万十町まで開通した高知自動車道の法面にも、たくさんの雁皮が生えた。
 雁皮を見出す人がいなければ、雁皮はそのほかの灌木と同様に、静かに育ち続け、そして時に管理作業において雑木の一種として刈り取られる。

満蒙開拓の記憶を紐づける

 シマオカさんは、いつも圧倒的に語る。車で移動途中も、通過している地域で起きた出来事や歴史、そこに暮らす人びとの過去や現在について、語りが止まることはない。原発反対運動のリーダーとしてシマオカさんと出会ったわたしは、そうやってシマオカさんが語ることのなかから原発反対運動にかかわる部分を取り出すことや、シマオカさんの語りそれ自体を、原発反対運動のほうに引き戻すことを意識していた。シマオカさんの語りを延々と聞きながら――そこには何度も何度も聞く話もたくさんあった――、やがてわたしは気づいた。そういうわたしの態度こそ、シマオカさんの生きてきた世界を、原発反対運動につながる部分以外は切り捨ててしまうことに他ならないと。そして、シマオカさんが圧倒的に語る事柄をただ聞き、記憶・記録し、その意味を何度も反芻しながら考えるようになった。


 
 シマオカさんは、繊細に語らなければならないとわたしが感じることを、ぶっきらぼうに語り始める。この日もそうだった。
 御成婚の森の山を下りて平地につくと、シマオカさんはおもむろに、オカモトさんが満州分村移民を経験していることを語った。「お父さんは現地で亡くなって、この人は10歳という年齢でかえってきちゅう。大変なことよ」と。シマオカさんの語りにうながされて、オカモトさんは口を開いた。

 おやじが浜江省で亡くなったのは、昭和20年の9月。高知県下で、半強制的に分村せえといわれたのは、その当時の十川そんと、江川崎村。わたしが中国にいったのは小学4年のときじゃけんね。昭和19年にいった。20年に終戦じゃけん。帰ってきたのが21年の9月じゃけん。いうてみたら、逃亡生活が1年あったね。十川村で、農地が少ないけん、2反未満の農家は全部いきなさいというかんじだった。おやじは村の役をしょったもんで、そんなひとが先頭にたたんで誰がいくということになっただがよ。

 もう週に2回会議し、それの繰り返し。1年半くらいそれをやっているね。その記録は、集落の区長の日記がそのままのこっておったがよ。十川村でのこったのは、うちの集落だけ。

 快晴のその日、風はビュービューと吹いていた。オカモトさんは語りながら、山で抜いてきた雁皮を手でもてあそんでいた5

 わたしの目の前で、雁皮をめぐって起こるオカモトさんやシマオカさんの営みと、オカモトさんの満州移民の経験がどこかでつながっているようにわたしが感じているのは、雁皮の生えている状況を確認することとオカモトさんの経験を聴くことが途切れずにあったこと、そしてオカモトさんが雁皮をさわりながら、自分の経験を語っていたことによるのだ、と思う。

 シマオカさんは御成婚の森だけでなく、自分の所有している山や、自分の暮らす地区の小学校の学校林の中に、雁皮をふたたび、見出していった。シマオカさんはわたしに、タニノさんに持っていってほしいと、根を残して切った雁皮を託そうとした。わたしは持てるものだけを手荷物として持ち帰ることにしたが、残りはタニノさんの工房に送ってもらうことになった。その中には苗木も含まれていた。わたしはそのうちの一本をシマオカさんに許可をとってもらった。
 その時の苗木は、一年ももたずに枯れてしまった。


 ふたたび、わたしが御成婚の森を訪ねたのは、2018年3月のことだ。
 この日は雨で、山には入らず、対岸の茶店から御成婚の森を眺めた。オカモトさんもやってきて、開拓団の団員だった田辺末隆さんが著した『戦争の狂気 万山十川開拓団難民移動状況絵図』を見せてくれた。中には、オカモトさん親が開拓団と別れていくときの描写があった6

 二十年九月三日 雲一つない晴天であった
 後をすぎた大陸の高野に照りつける
 太陽はきびしかった 一面波いちめんばの収容所
 を出るときから下痢をしていた私には、
 人並に歩くことが一番つらかった
 少し休んで行くというので荷物だけ
 弟にたのむ ソ連軍に追いたてられ
 ても団員は遠くにはなれて行く
 現場は海林の西山道である
      岡本敬太郎最後
 
 自由になる身であるならば
 現場まで引返して見とどけ
 るものを我の身であって
 我が身でないこのつらさ
 これが最後になろうとは
      当時53、4才

 やがて、茶店で酒宴がはじまり、日本酒を返杯しながら飲んだ。話題は雁皮で漉いた紙で何をするのかになった。酒を飲まないシマオカさんは、地元の子どもたちの卒業証書を雁皮紙で漉くという着想を語った。その話にうなずきながら、わたしは雁皮紙の保存性が高いことを思い、満蒙開拓の記録を何らかの形で雁皮紙に残すということも考えられるのではと話した。
 その時だ。オカモトさんが「そうじゃ」とはじかれたように応じた。
 それまで静かに語っていたオカモトさんの感情に、初めて強くふれた瞬間だった。

 雁皮の特性は、繊維が細く、長く、そして強靭な点にある。それを利用して日本列島に暮らす人びとは、古くから紙を漉いてきた。漉かれた紙は、繊維の細かさゆえに極めて薄くきめの細かい紙となり、文字や絵の繊細な表現を可能にした。さらに雁皮の強靭さと、獣や虫に好まれない匂いは、漉かれた紙の保存性を高めた。
 雁皮の強靭さは、決して忘れてはならないことをこの世に留めようとする、オカモトさんの意志と重なるようにわたしは感じた。

 その日の宿であるシマオカさんの家に帰り、赤い冊子を読んだ。道の途中で、四万十町の十和地区振興センターで『万山十川開拓団史資料集』を手に入れた。オカモトさん親子が参加した、開拓団の記録である。赤い表紙のこの冊子には、1980年に、村の氏神神社からみつかった部落総会の議事録や生きて帰った人たちの記録をもとに、開拓団員が決まり、移民するまでの過程や、ソ連軍の侵攻から、帰国するまでの様子が克明に記されている。

 ハルピン収容所から移った阿城収容所には1945年の秋以降食糧がほとんどなく、また緑のものは全くない。「来る年に望みはなくても早く春が来て草でもよい緑がほしかった。みんなが青い物に飢えている。来る日も来る日も息をひきとって行く。幾千里もはなれた異国の土地で飢えと寒さで……」という言葉が布団に入っても頭を離れなかった。
 荒天とうってかわって青い空が広がる翌朝、障子をあけると、シマオカさんの家の庭や田畑にも、その向こうの山にも緑が溢れていた。

『万山十川開拓団史資料集』

 翌朝、シマオカさんの雁皮畑を見せてもらった。シマオカさんは、森林保全グループで管理する地元の学校林でも雁皮を見つけ、その苗を採取し、それを自分の畑に植えた。苗は順調に生育した。やがてシマオカさんと仲間たちは、雁皮の種を採取し、実生での栽培をはじめた。その責任者であるハマダさんは、福井県農業試験場で勤務していた技術者の雁皮栽培法の研究から多くのことを学んだ。技術者との交流には、越前市で鳥の子紙保存に取り組む共同組合の人が仲立ちをした。
 そうやって、育った苗は、御成婚の森だけでなく、対岸にあるオカモトさんの暮らす集落の中の畑でも栽培されるようになった。オカモトさんの話では、自分の暮らす集落で雁皮が自生していたことはなかった(楮や三椏は栽培されていた)。今、オカモトさんの集落で雁皮栽培に参加する人たちが、少しずつ増えている。栽培の過程で発生した様々な問題を改良しながら、生育率をあげている。雁皮栽培も、苗の栽培方法にあたって発生した問題を受けて改良しながら、生育率をあげている。

 わたしの家に育っている雁皮は、そうやってハマダさんが実生で育てた苗の中の一つであり、オカモトさんたちがむらで育てる苗たちや、御成婚の森で育つ苗たちのきょうだいである。

 

 

参考文献
猪瀬浩平2015『むらと原発――窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』農山漁村文化協会
春日直樹2001『太平洋のラスプーチン――ヴィチ・カンバニ運動の歴史人類学』世界思想社

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

 

 

  1. シマオカさんの語りからわたしが、原発騒動を越えて生きていく窪川の人びとを描こうとしたのが猪瀬(2015)である。この本において、シマオカさんのことを春日直樹(2001)の社会史的個人という概念を参照にしながら、地域史的個人と呼んだ。
  2. 御成婚の森で最初にガンピを見つけた人は、シマオカさんよりも若いが、やはり子どもの頃にガンピ集めをした経験を持つ。
  3. この男性は、ガンピの販路として和紙ではなく、謄写版原紙としての活用が主であり、謄写版原紙の需要が低迷するなかで、ガンピの需要も低迷したと理解していた。
  4. ガンピを含めた和紙植物は、戦中、統制品になり、自由な売買を禁止されていた。和紙は風船爆弾や、軍票、地図、指令書として利用された。父親がガンピの仲買をしていた男性の話によれば、戦中、父親が警察に指導された記憶があるという。その理由は定かではないが、統制作物であるガンピの売買をしていたことが理由の可能性もある。オカモトさんの、雁皮は知っていたが、勝手にとってはいけないという認識は、このような背景のなかで検討すべきなのかもしれない。
  5. 農村の過剰人口を満州に送り出すために進められた国の「分村計画」によって1942年大東亜省は高知県に、高知県は幡多郡に、幡多郡は十川村(1957年に昭和村と合併して十和村)の分村を指定した。十川村は、万山十川開拓団を結団し、1943(昭和18)年3月から、1945(昭和20)年3月まで、547名の村民をハルピン近くの葦河県万山に送り出した。もはや開拓団の熱気も冷めた時期であり、たとえ「適正農家建設」の国策があったとしても、団員になりたがる人はいなかった。会合は幾度ももたれ、時には夜を徹した議論も行われ、団員選びのためのくじ引きもあった。川口部落氏神神社の宝物殿に保存されていた『部落総会議事録』は当時の様子を克明に記録している。それがもとになって編まれたのが、団員の一人だった田辺末隆さんが編集し、1981年に刊行された『満州国第十二次集団万山十川開拓団史資料集』である。高知新聞記者の楠瀬慶太さんの手によって、2016年に再版された。ここには、高知新聞の1983年の連載「その軌跡 万山十川開拓団」が掲載されているとともに、現地で亡くなった361名の団員の名簿がある。赤い装丁のその冊子は、私の手元にある。十川村の他の集落では、記録は散逸してしまっている。
  6. 絵図には、「置き去りにされた子供と老母」、「山越えの途中 服毒した母を見納める嫁さん 今も脳裏をはなれない」「一日でも 生きのびることを願い子供を満人にあづける 悲しき別れ」「帰国を前に凍傷にかかり服毒する少年」といった言葉が付記れている。