みんなの〈青春〉 / 石岡学

「あの頃はよかった」と空を仰ぐ熟年から、「アオハルか!」と即座につっこみたくなる中高生まで。青春という言葉には、世代を問わず、人をうずうずさせる不思議な力が宿っている。理想の自分。かけがえのない人生の1ページ……。そんなイメージがいつの世も生き続けているのは、一体なぜなのか。大衆意識の源にせまるユニークな現代文化考。

いくつになっても逃げられない

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 今回は青春概念の拡張という問題について考えていきたいと思う。

 と書くと堅苦しいけれども、青春をめぐる語りの中にしばしば登場してくる、「第二(第三、第四…)の青春」とか「生涯青春」「一生青春」といった類の言説に注目しようということである。

 ふつう、青春といえば10代を中心とした学生時代のことを思い浮かべる。青春が近代学校教育の展開と密接にかかわるコンセプトであることを考えれば、別にそれはおかしなことではない。では、それが2回目、3回目……と何度も訪れるというのは、いったいどういう意味なのか。さらにそれが生涯にわたって継続するとは、いったいどういうことなのか。そして、そのような物言いがわざわざ繰り返し語られ続けるのはなぜなのか。こういうことを、今回は考えてみたいと思っている。

「青春とは心のありようである」

 2020年9月5日付けの『朝日新聞』に、「青春って年齢で決まるもの?」と題した、非常に興味深い記事が掲載されている。読者アンケートの結果によれば、この疑問に対し「はい」という回答が42%、「いいえ」という回答が58%であったという(回答者数1666人)。正直いうと、「はい」がもっと少ないのではないかと思っていたので、意外に醒めた考えの人もいるのだなという印象ではある。とはいえ、やはり「いいえ」の方が多数派なのは間違いない。

 この「いいえ」と答えた人たちにその理由をたずねると、①「青春とは気持ちの問題」(781)、②「今が楽しければ、それが青春」(419)、③「必ずしも学生時代が楽しいわけじゃない」(336)、④「年をとって熱中できる趣味が見つかった」(227)、⑤「大器晩成の人もいる」(186)、⑥「青春ドラマみたいな青春はいやだ」(101)、⑦「学生時代にいじめに遭っていた」(21)、⑧「学生時代、友達がいなかった」(17)といった回答があがっている(複数回答。カッコ内は回答数)。

 さらに絞り込むならば、これらは大きく二つの理由にまとめることができると思う。一つは、学生時代との関連についてであり、③⑤⑥⑦⑧がこれに該当するだろう。学生時代と青春との結びつきが強固に存在するからこそ、そして実際には学生時代が誰にとっても輝かしい時期ではないからこそ、こういった意見が出てくるのだと思う。そういえば、第5回から第7回にかけての「青春ダークサイド特集」では、この問題を深く掘り下げたのであった。明るい青春であれ暗い青春であれ、青春を表現したり消費したりする行為は、青春を取り戻すことや再体験することを意味している。それが可能だと考えられているのは、青春が年齢にかかわらず経験できるものとして捉えられているからでもある。これらの「いいえ」の理由には、それが反映されているといえる。


 今回さらに深掘りしてみたいのはもう一つの理由の方、つまり残る①②④についてである。端的には①「青春とは気持ちの問題」という表現に集約される考えがそれであり、②④はその内実を示しているとみていいだろう。つまり、何かに熱中し、今を楽しむことができていれば、その気持ちが「青春」なのであり年齢では決まらないと考えられているのだ。

 有名無名を問わず、具体的な語りの中にこのような認識を見出すことはとてもたやすい。まず、新聞投書からみていくことにしよう。たとえば、4月から夜間大学院に通い始めたという44歳の会社員は、次のように語る(「『青春』めざし、5時から学生」『朝日新聞』1991年4月7日)。

街に、校内に、社内に、一見して分かるフレッシュな人たちが目につく季節となりました。
彼らは「青春謳歌」と一般には言われます。しかし、青春とは?私は「青春」とは年齢に関係ないと考えます。その人なりの目標を持ち、その目標をクリアするように努力している時、また、努力することと考えます。
若くても目標を持たずに時を過ごしているならば、そこに青春はないと考えますし、高齢の方々でも、生涯学習等の一環として、趣味や仕事に努力されていれば、それはまさしく「青春」であると考えます。

 ここでは、青春は年齢で決まらないどころか、むしろ「年齢に関係ない」ものとされているのが注目される。目標を持っていること、それに向かって努力していることが、年齢にかかわりなく青春か否かの判定基準になっているのである。

 同じように、目標があることと青春を結びつける54歳のパート主婦は、次のように語る(「目標いっぱい さあ第二の青春よ」『読売新聞』(大阪版)2011年1月1日)。

私の子どもが今年、20歳を迎えます。長かった子育てからやっと解放されると実感し、仕事や家事だけでなく、これからは自分の時間を大切にしたいと思っています。
まず、漢字検定に挑戦です。試験に備えて、もう勉強を始めています。学生時代は英文科だったので、この機会に英会話も身につけたいと思っています。字がうまくなるようにボールペン字も習ってみたいし、少しだけ手がけたことがある点字にも興味があります。
ともあれ、これからが私にとっての第二の青春です。目標に向かって、たっぷり楽しみたいです。

 ここまで真面目なものでなくても、オートバイの免許を取ってから世界が変わったという47歳の主婦は「人間、何かに情熱を燃やしているときが青春なのだ」と書くし(「47歳の青春ライダー」『読売新聞』1993年6月11日)、1年ほど前にシルバー人材センターの野球チームに入ったという65歳男性は「生活に張りが出て」「『青春』を取り戻したような気持ち」であると書いていた(「『青春』取り戻しグラブ磨く毎日」『読売新聞』2001年5月15日)。いずれも、何か新しいことにチャレンジし情熱を傾けていることが「青春」であると捉えられている。他にも、「余生ではない、ずっと青春だ」(『朝日新聞』(大阪版)2003年9月14日)、「43年続けた店閉め、これからが『青春』」(『読売新聞』2009年9月8日)など、同様の投書は時期を問わず多数みつけることができる。

 有名人の語りの中にも、青春は情熱や気の持ちようであるという認識は容易に発見することができる。たとえば、由美かおる(1950年生まれ)はそれを「内面的青春」と表現し、次のように語る(石丸久美子「いつまでも美しい人インタビュー① 由美かおるさん」『日経ヘルス プルミエ』2011年4月号)。

良い呼吸ができると、細胞一つひとつが活性化されて、エネルギーが満ちてきます。心にもゆとりが生まれ、心身ともにいつまでも若々しくいられるの。だから年齢なんて全く気にならないんです。今も青春真っただ中だと思っています。(・・・)もちろん、年を重ねていけば誰でも変化はある。だけど、真の若さというのは心のありようだと私は思うんです。50代からは、内から出る魅力を大切にして輝く“内面的青春”の時代。そのためには、様々なことに挑戦して内面を磨き、日々感動することが大事だと思いますね。

 「真の若さというのは心のありよう」という発言は、ここまで見てきた語りが意味するところとほぼ同じである。これに従えば、単に年齢が若いということは「偽りの若さ」といえるのかもしれない。

 同じようなことを、「青春の巨匠」こと森田健作(1949年生まれ)は、「青春時代と青春は違う」と表現している(森田健作「「青春」はダサくない」『婦人公論』1985年3月号)。

青春時代っていうのは、十五、六歳から二十二、三歳のことでしょ。でも、青春っていうのは各世代にあるんだ。
ただ、ぼくらの世代になると、それが百メートル先にあるか、一キロ先にあるかわからない。でも青春時代のまっただ中にいる人たちにとって、青春はほんの一センチぐらい離れたところ、手を伸ばせばすぐ届くところにある。
でもね、どんな世代でも、自分からその青春ってものをつかまないと、青春を謳歌してるってことにはならない――というのがぼくの考え方。

 もっと若い世代にも、このような感覚は共有されている。たとえば、21歳のときにキックボクシングを始め、24歳でプロになって以降無敗の活躍を続けるぱんちゃん璃奈(1994年生まれ)は、次のように語る(「グラビアインタビュー ぱんちゃん璃奈」」『週刊プレイボーイ』2020年2月10日号)。

ずっと生きる目標を探してたんです。ある日「これだ!」と思って。私、高校で陸上を頑張っていたんですけど、ケガで部活を辞めちゃったんです。で、そのまま高校を中退し、何年もバイトで生活して。引きこもりの時期もありました。そんなつまらない毎日を変えたかったんです。(・・・)本当にいいの?って怖くなるくらい毎日が楽しいし。人より遅いけど、今が青春なんだと思います。

 「人より遅いけど」とあるように、年齢のことを多少気にしながらも、「生きる目標」ができたことがここでは「青春」と捉えられているのがわかる。さきほど見てきたいくつかの語りと、基本的には同じとらえ方である。メディアクリエイターの箭内道彦(1964年生まれ)は「青春がやって来る時期には個人差があって」と話しているが(Masayuki Sawada「INTERVIEWS VOL.8 箭内道彦」『メンズノンノ』2015年8月号)、ぱんちゃん璃奈のケースはこれによく当てはまるように思う。

元ネタの影響力

 元V6で俳優の岡田准一(1980年生まれ)の発言にも注目してみよう。岡田は、自身の主演した映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』(2006年公開)にまつわるインタビューで、次のように語る(「LOVE&PEOPLE 岡田准一」『OZmagazine』2006年11月6日号)。これも、ここまで繰り返し見てきた語りと内容的にほとんど変わらないので、くどくどしい解説は不要であろう。

今年の高校野球を見たときにも感じたんだけど、青春って“本気”が出せるかどうかだと思うんです。大人になると、例えば対人関係とかでもいろいろ余計なことを考えすぎて、なかなか“本気”を出せないじゃないですか。もちろん遠慮することや和を大事にすることも必要なんだけど、人間って“本気”なものに惹き付けられるんだなと思う。結局青春って、年齢じゃないんですよね。

 これだけ似たような語りが多く見つけられるのには、何か理由があるのではないだろうか。それこそ、元ネタのようなものがあるのではないだろうか。そう思う読者の方もおられるに違いない。実はその通りで、元ネタが存在するのである。いま見た岡田のインタビュー記事には、引用部分の前に「岡田さんが好きだというサミュエル・ウルマンの『青春の詩』という詩の一節、“青春とは人生のある期間をいうのではなく、心の様相をいうのだ”」という文章がある。そう、これが元ネタなのである。

 これはよく知られた詩で、「青春は心のありようである」という主張に、付随して引き合いに出されることが頻繁にある。新聞の投書でも、「私もこの詩に出合うまでは、青春とは若者にのみ冠せられる言葉だと思い、年相応の生き方しか許されなくなっていく中年になるのをとても悲観していた。それだけに、首相も書かれた「青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう」――この一節に触れた時、深く感動したものである」(「青春真っ盛り、首相にエール」『読売新聞』1994年8月25日。51歳主婦による投書)1 とか、「サムエル・ウルマンの名詩『青春』のいうとおりだ。『人間は年を重ねた時老いるのではない。理想をなくした時老いるのである』『希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである』。年は取ったけど、心は青春時代だと思っている私である」(「90歳過ぎても心は『青春時代』」『読売新聞』2010年9月11日。91歳主婦による投書)などといった具合だ。


 この詩を書いたサムエル・ウルマン(Samuel Ullman, 1840-1924年)は、ドイツ生まれのユダヤ人で、11歳のときに米国に移住し、20代では南北戦争で南軍に従軍。戦争終結後は、ビジネスの傍ら教育委員会の委員を務めユダヤ教の指導にあたるなどした人物である2。さきほどから話題に出ている「詩」とは、原題を“Youth”といい、彼の80歳の記念に家族や知人が編集し私家版として出版した詩集の冒頭に載っていたものである。

 この経歴をみてもわかるように、彼はそこまで知名度の高かった人物ではなく、死後は急速に忘れられていったともいう。では、なぜこの詩が日本でこれほど知られるようになったのか。それは、かのダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964年)がこの詩を座右とし、GHQの執務室に飾っていたことに端を発する。これに感動した岡田義夫(1891-1968年。日本の羊毛工業界の発展に寄与)が翻訳し、それを親友の森平三郎(米沢工業専門学校長)が後年郷里の新聞で紹介したことが反響を呼び、日本中に広まっていった。特に財界人がこの詩に熱烈な反応を示し、松永安左エ門・松下幸之助・伊藤忠兵衛・宇野収・石田退三といった面々が、この詩を非常に気に入っていたという(ちなみに、いま筆者の手元にある角川文庫版の帯にも、「ビジネスマンに愛されて累計10万部!!」とある)。

 マッカーサーがきっかけであったこと、財界人が好んだことなどを考え合わせると、この詩のコンセプトは復興そして高度経済成長といった戦後日本の雰囲気に非常にマッチしていたことがわかる。しかし、この詩について詳しく調査した作家の新井満(1946-2021年)によれば、マッカーサー版はウルマンの原文を半分以上「改変」したものであって、その「改変」されたものが日本語に訳されて広まったのだという。このあたりの経緯は非常に面白いのだが、紙幅の関係で詳細は新井の著作に譲ることとしたい。ただ、いずれにせよ、詩の冒頭にある“Youth is not a time of life; it is a state of mind”は同じである。この詩が今回見てきた「青春とは心のありようである」という語りをもたらしたこと、つまり日本社会における「青春」観に多大な影響を与えてきたのは明らかだろう。

「いつまでも青春だと思うのはバカげている」

 ウルマンの詩を出発点として、現代の日本社会では「気持ち次第で何歳になっても青春」という考えが広く受け容れられているように思える。しかし、もちろんこのような考えに反発するような語りも見出すことはできる。

 たとえば、劇作家の池田政之(1958年生まれ)は、若さにこだわる日本人を皮肉まじりに「真面目」と揶揄し、次のように語る(池田政之「幻の旬(特集・青春 その甘き香りと影)」『テアトロ』1995年2月号、傍点は原文のまま)。

中年以上の人がよく言う。「俺は五十過ぎだが心は二十代だよ」――つまり若いと言っている訳だ。若さとは中身だと本当に信じている真面目な日本人・・・・・・・のなんと多い事か。ダメだね。若さってのは見てくれ・・・・。中身がジジィでも見てくれが二十代なら二十代で通る。少なくとも僕はそう信じている。まぁ僕だけかも知れないけれど。
青春も同じ事。「俺は今が青春」「生涯青春」――いいなぁ、そう言える人は。
青春は青春が似合う瞬間しかない。十六から十九くらいかなぁ。それを過ぎた大人が、たとえどんなに燃えていても、似合わない見てくれ・・・・で何をホザいてんだか。

 池田は、「十六から十九くらい」という年齢でなければ青春は当てはまらないと明言する。要するに、年相応になれない人間はかえって見苦しいというわけだ。そう言いたい気持ちもわからなくはないが、何とも手厳しい。

 アニメーション作家の押井守(1951年生まれ)も、「青春にしがみついているものは本当に愚か」だという。戦争がなくなった世界で戦争ショーを演じさせられる子どもたちを描いた『スカイ・クロラ』(2008年公開)をめぐるインタビューで、押井は次のように語る(「待望の新作『スカイ・クロラ』公開! 押井守のアンタッチャブル」『テレビブロス』2008年8月2日号)。

確かに主人公のキルドレたちは思春期の少年少女だけど、だからといって彼らの青春を描いたつもりはまったくない。なぜなら彼らには青春がないから。青春は大人になるという前提があってこそ成り立つもので、永遠に大人にならない彼らに青春は存在してない。
それは今どきの若者と同じだと思う。みんな大人になりたくなくて、ずーっと青春を続けていたいと考えている。いくつになっても実家にいて親にパラサイトして生きている。(・・・)でも、本当に自由になりたいんだったら大人にならなきゃ。彼らが満喫している自由は“何かをするため”のものじゃない。なぜなら結婚する自由、好きな仕事をする自由……そういう自由を何も選んでいない。彼らの自由は行為や状態にしか過ぎなくて、明らかに自由を勘違いしている。

 この発言をみると、不思議に思う人もいるかもしれない。押井といえば、伝説の作品『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年公開)で、タイムループにより繰り返される文化祭前夜の高揚を描いたことで有名だからだ 3。彼は、永遠に続く青春を肯定していたのではなかったか。

 これについて、押井は端的に「あのときは若かったせいなんだろう」という。50歳を過ぎてからは、「前夜祭が繰り返されると、それはたとえて言うなら葬式の準備のようなものになることが判った。お祭りは年に一度だから楽しいけれど、毎日だと葬式の準備みたいに楽しくもなく陰うつなものになる。果たしてそれを青春と呼べるのか」と思うようになったという。青春は最終的に大人になるという到達点がなければ青春ではない、過渡期だからこそ意味があるのだ、というわけだ。これはむしろ、第2回や第3回でみた「かつての青春」の概念に近い。

 青春は若者にだけ許されたものであり「生涯青春」などというのはおかしい、というこのような言説は、数としてはそれほど多くみられるものではない。しかし、冒頭で紹介した朝日新聞の読者アンケートでも42%が青春は年齢で決まると回答していたように、実際はこのような考え方が極めて少数意見というわけでもなさそうだ。青春にこだわりがない人があまり青春について語らないのと同様に(第7回参照)、青春は若い時だけの話だと考えている人にとっては、それをあえて口に出す必要性もないということなのかもしれない。

なぜ、最後に(笑)がつくのか

 しかし、「生涯青春」などという人々は、本当にそれを信じ込んで言っているのだろうか。さきにみた池田政之は、そのような「真面目な日本人」の多さを嘆いていたが、実際どうなのだろうか。

 このことを考えるにあたって、今回のテーマに関わる資料を読み込んでいくと、一つ興味深いことに気づいた。それは、30代以上の青春語りには往々にして「(笑)」がついてくるということである。

 たとえば、66歳から水泳を始めたというある女性は、次のように語る(「女の新聞 ライフワーク 66歳から水泳を始めた高井信子さん」『クロワッサン』1996年6月25日号)。

水泳を始めてから、高かった血圧が薬を飲まなくても低い値で安定するようになったし、プール通いのために自転車に乗れるようになったの。性格も積極的になったし、いいことずくめ。毎日元気で暮らしていれば、子ども孝行にもなるし、私、いまが自分の青春だと思ってるんです(笑)。

 この、最後の「(笑)」がポイントなのだ。


 有名人の語りについても、同様である。たとえば『キン肉マン』の原作者として有名なゆでたまごの一人嶋田隆司(1960年生まれ)は、高校卒業後すぐに同作が始まり27歳まで連載に追われていたため、30代になってやっと遊ぶ余裕ができたことを、「僕の三十代は、遅れてやってきた青春時代かもしれません(笑)」と語っている(「成功する30代、失敗する30代 第84回 嶋田隆司/ゆでたまご」『THE21』2008年12月号)。やはり、最後は「(笑)」である。

 ほかにも、「20代のころは考えすぎていたのかも。とりあえずやってみようと思うようになって、30代のいまのほうが青春しているかも(笑)」(「Cinema interview 観月ありさ」『シュシュ』2009年5月28日号)と語る観月ありさ(1976年生まれ)や、「だから青春にホンマは年とか関係なくて。何歳になっても前向きな気持ちでいれば、ずっと第2の青春でいられるんだよ、私みたいに(笑)」(「激論!青春時代をどう生きるか? モーニング娘。のアンチ優等生宣言」『JUNON』1999年4月号)という中澤裕子(1973年生まれ)、「いくつになろうと『これは青春やな』と言ってしまえば、きっとそれは青春になるんだと思います。私のこういう活動にしたって、70歳くらいになったらきっと『あれは青春やったな』って思うだろうし。うん、今はまだまだ青春中ですね(笑)」(あいみょん「いつだって青春いつまでも青春」『クイック・ジャパン』2017年9月号)と語るあいみょん(1995年生まれ)など、「(笑)」で締めくくられる同種の語りはかなり多くみられる。

 いったい、この「(笑)」は何を意味するのか。端的に言ってしまえば、これは「照れ隠し」であろう。つまり、本当はもう「青春」などという年齢ではないのだが……という若干のためらいが、ここには表れているように思う。だから、「第二の青春」「生涯青春」などというのは、本気でそう信じ込んでいるというよりは、実際はそうではないがそう思いたい、というある種のいじらしさの発露なのではないだろうか。

 あるいは、そう思わされているといった方がいいのかもしれない。「若さ」というものに高い価値を置き、現状に満足せず常に進歩・発展の途上であることを善とする近代社会においては、ある意味で人は青春から逃れられない(成熟は「老化」「劣化」と言われてしまう。「アンチエイジング」という言葉を想起せよ)。ここにはやはり、「青春の近代性」という問題が強く反映されている。

 今回みてきた言説を振り返ってみると、情熱をもつこと、チャレンジ精神、ワクワクする感情といった要素が、年齢に関係なく青春を成立させるものとして語られていた。もともとは、「青春時代(=若いころ)とはそういった要素を併せ持つもの」としてあったと考えられるが、それが反転して、「こういう要素があれば青春である」に変換されているのである。これらの要素が年齢に関わりなく善きこととされているからこそ、「青春的」であることが善きこととして認識される。だから、われわれは「生涯青春」と思わざるを得ない状況に置かれているというべきなのかもしれない。

 このテーマを書き出す前は、正直なところ、筆者自身も「中高年が生涯青春などというのは見苦しい、くだらない」と考えていた。けれども、ここまで考察を進めてくると、そんなに単純でもないのだなという気がしてきたから、不思議なものである。だいたい、青春についてこれだけ色々と調べあげ書き連ねている私自身が、青春について多くを語る中年そのものではないか!

 そう思うと、青春とは本当におそろしく魔力的な概念だなと感じる次第である。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 中に「首相」とあるのは、当時の村山富市総理大臣(1924年生まれ)のことである。村山は首相在任時、演説のたびに引用するほどウルマンの詩を気に入っていたという(早野透「首相と青春の詩 『新党へ尽力』貫けるか」『朝日新聞』1995年11月15日)。
  2. 以下、ウルマンの経歴および“Youth”の日本における受容については、新井満『青春とは』(講談社、2005年)を参照した。
  3. ちなみに筆者はこの作品を小学6年生のとき修学旅行のバス車内で初めて見て、あまり意味はわからなかったが何とも言えない不気味で怖い感じがやたら印象に残ったことを覚えている。