自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論 / 逆卷しとね

自由、自立、自己決定。「個人」という言葉にはそんなイメージがつきまとう。だが、私たちはむしろ、様々な物事との関係に拘束されながら生きているのではないか? だとすれば、思い通りにならない〈生〉をデフォルトととらえることで、おもいがけない世界が見えてくるかもしれない。在野の研究者による、人間観と身体観を問い直す哲学的試み。  

わたしたちを食べる(3)

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食は力なり–力の涵養、寛容の力

環境とはなにか?

 人間であることを諦め、水爆による放射線を浴びた謎の菌類マタンゴと共に孤島の生態系に拘束されながら生きる。その姿が異常な光景に映る、という意見には、人間に擬態しながら生きているこの僕も一応首肯する。だが、『マタンゴ』こそ《個人》の名詞とその集合ではなく、《この生》を拘束するさまざまな動詞が催す奇縁によって「わたしたち」が具体化される例証としてふさわしい。そのとき、わたしたちになにが含まれているのか、これからどうなるのか、どこまでがわたしたちなのか、その限度や行く末の不透明さに「部外者」は慄くことになる。人間をケモノに喩えたり「下等生物」として表象したりする行為を、人間にもとる差別として糾弾するヒューマニズムの世界に安住していれば、バイオホラーに嫌悪感を覚えるのも当然のことだろう。

 前回、僕は、動詞「食べる」を人間性の維持のために制御することは可能か、という問いを中心に、『マタンゴ』を読解してみた。焦点となったのは、『マタンゴ』の視点人物・村井による「人間は環境によって極端に利己主義になる。動物的になる。そういう時にこそ理性的行動ができなければ人間の進歩は終わりだ。何とかみんなの気持ちをまとめなくっちゃ」(65:15 以下、セリフに付したカッコ内数字は冒頭からのおおよその経過時間)という台詞に仮託された、人間を動物化する環境と人間性との角逐だった。南海の孤島という特殊な「環境」に左右されることなく、主語=主体(subject)はヒトとしてのアイデンティティを守り続ける。その成否は、人間という主語=主体の再生産に動詞「食べる」を奉仕させる努力にかかっていた。

 ところが、食べもの(food)に乏しい環境にあって、食べられるもの(the edible)を貪るとき、主語=主体の同一性の問題は雲散霧消する。理念的な主語に実践を沿わせた「ヒトとして・・・生きる」という村井の思想は、動詞による実践を先行させる「食べて生きる」という明子と麻美による誘惑にその場を譲る。マタンゴを頬張っては「おいしいよ」と誘いかけヒトにその享楽を感染させようとする、麻美と明子による異形の相互扶助の前に、「自分が何者であるか」という理念的な問題は蒸発してしまう。絶海の孤島での生き延びを可能にするマタンゴとヒトの共生系の物語は、主語の同一性ではなく、「食べる」という動詞によって生成するのである。

 以上のような、バイオホラー『マタンゴ』におけるマタンゴ-ヒト共生系の生成は、第5回で紹介した湯澤規子が論じていた、自然やコミュニティに思いを馳せつつアイデンティティを維持する《個人》が自由に他者とつながっていく共食とはまったく別の次元にある。とはいえ、ヒトと呼ばれている存在が食の実践を通じてヒトならざる存在へと生成するという物語は断じておとぎ話ではない。

 第4回の「生物都市」におけるテクノロジーとヒトの癒着がそれほど現実離れした妄想ではなかったように、第6回で検討した『マタンゴ』における食をめぐるバイオホラーも決してヒトゴトではない、と僕は思う。そもそもわたしたちは「食べる」の対象を制御できない。光合成はできない従属栄養生物であるヒトは、ヒトならざるものを常に摂取し続けなければならない宿痾しゅくあに飼われている。異質なものを体内に入れる食という実践は、自己同一性を大切にする《個人》にとっての脅威を予めはらんでいる。ヒトという「主体=主語」(subject)が、食べられるものを「対象=目的語」(object)として制御し食べものに変えることができるよう粉骨砕身を重ねてきたのは、まさしく食が《個人》にとっての「他者」と向き合う経験だからだ。

 けれども《個人》による食の制御は理論上に留まる。個別具体的な実践においては、僕が実際に食べている対象は僕の想定をいつも越えている。卑近な例を挙げれば、酢豚のなかに細かく刻まれた白アスパラが忍び込んでいるかもしれない。宍道湖のシジミと謳われていても実は産地偽装されているかもしれない。痩せた舌でバローロを舐めても、二束三文のテーブルワインと錯覚するだけかもしれない。主語ぼく目的語たべものを他者として正しく認識することさえできない。

 「自分が食べものとして認識しているものと実際の対象物とが一致しているアイデンティカルかどうか」という問題くらいならとりたてて騒ぐ必要もないだろう。けれども食の実践において主語が目的語を制御することができないという事実は、存在論的な問題を引き起こす。食べものは、時間をかけて少しずつ別様なものへと変化していく。たとえばキャベツは、生育条件や需給のバランス、流通の過程、人為的な品種改良などの影響による、顧客にはよくわからない微細な変化にさらされている。さまざまな土地で育てられているそれぞれ別の条件にあるキャベツを一様に扱ってよいのかどうかもわからない。しかしそれでも《個人》は、「キャベツ」という同一性を担保してくれる名詞を緑色の塊にあててそれを対象化する。キャベツの存在論は不問に付される。

 微視的な水準で起こる食の対象の存在論的変化は、当然のことながらそれを食べる主体=主語の変容を促すこともありうる。生物学者・福岡伸一はヒトの細胞が日々入れ替わりつつも同じ個体を維持し続ける「動的平衡説」をひとつの生命観として提出している1。全体がそれを構成している部分の総和よりも高次の機能を果たしていると考えるホーリズム(holism)に親和的なその生命観は、全体の自己同一性を体組織の変容に優先させる。しかし移ろいつつも一定の平衡状態を保ちながら生きていると想定してみたとしても、実際の僕は、そのバランスの基準を経時的に違えているし、時間を経て獲得した現在の身体のバランスは10年前のそれと比べると異常であるかもしれない。アイデンティティという機制が《個人》とその集合体である社会が要請する制度であるというのは、第三回で論じたとおりだ。つまり、《個人》としてのアイデンティティが保たれていると言えるのは、あくまでも僕が生まれてから死ぬまで代謝を続けつつも自らを一貫した存在であると信じる慣習の水準での話に過ぎず、そこに身体やそのバランスが存在論的に変容する可能性は含まれていない。

 食の存在論を考慮するには、ヒト以外の種や物質の存在に留意する必要がある。たとえば毎日食べている魚が人知れずなんらかの化学物質を蓄え、僕になんらかの異変をじわじわと生じさせる可能性がある。たとえ僕の生涯という時間スケールで変容が起こらなくとも、数百年、数千年単位のスケールで、人類という主語をこれから食がどう変えてしまうかはわからない。このような変化は、突然自己同一性を保てなくなったり、カフカの小説のようにある日突然僕が毒虫になってしまったりするような突発的事象ではない。たとえば災害や戦争の勃発はある日突然起こるように見えるけれども、プレート運動によるひずみの蓄積や主権国家間の権謀術数は水面下で着々と進行している。わたしたちが変化を突発的なものとして認識してしまうのは、それらが表面化するまでの過程を主語=主体が認識できないからだ。食についても同様だ。気づかないほど些細な物質的変化のプロセスは、摂食の主語=主体が動的平衡を維持しているという幻想をいつも揺さぶってくる。

『マタンゴ』DVD(東宝特撮映画)

 『マタンゴ』における食を契機とした主体や対象の存在論的変容は、わたしたちが生きている《個人》の世界でも決して例外的なことではない。ただし主体や対象、自己と他者といった《個人》の語彙ではどうにも具合が悪い。まるでバラバラの《個人》が予め存在していて、それらの「名詞」を足し合わせると「わたしたち」という集合体になるという感じがする。自己同一性を揺るがし、意図や意志を超えて働く「動詞」の群れを考慮に入れた「わたしたち」を考えるためには異なる語彙が必要だ。だから今回は、人間を「動物」のような「利己的」な存在に変えてしまう外的要因として村井が問題視していた「環境」を前景化しながら、《この生》の食にふさわしい語彙を模索してみたい。

 「人間は環境によって極端に利己主義になる。動物的になる。そういう時にこそ理性的行動ができなければ人間の進歩は終わりだ。何とかみんなの気持ちをまとめなくっちゃ」(65:15)という村井の台詞に出てくる「環境」という語は、文明から遠く離れた自然環境を指している。「主体」である文明人のまわりを苛酷な自然環境がとり巻いている。自然に直接さらされ続けるのはリスクが高いので、人間は食文化という緩衝地帯を設ける。そうして人間は食文化の形成を通じて剥き出しの自然環境に適応(adapt)する。ただし、前回確認したように、適応する上で必ずしも人間のままでいることにこだわる必要はない。人間ではなくなったとしても適応できれば生きのびることができる。ここまではいいだろう。

 しかし僕が問題視したいのは、生物とそれが適応することになる環境とを分けて考える二分法だ。進化論の専門書をめくっていっても、シャクトリムシやカタツムリがそれらの周囲にあり刻々と変動していく環境に適応する、という記述は頻繁に見られる。だが、わたしたちは果たして外部環境に対して適応しているのだろうか。《個体》や種が生きる「環境」やそこに対する「適応」という語彙を疑うのは、生物学的には異端だろう。加えて、人間の活動が地質学的に著しい痕跡を残す人新世(Anthropocene)と呼ばれる時代にあって、人間の所業を刻印しその責任を問い直す手がかりとなる環境という語彙に疑義を呈するのは環境倫理的にも正しくはないかもしれない。だが《この生》における食の実践は、環境と人間の分類さえ曖昧にし、環境と人間を運命共同体にする。主体と対象の区分さえおぼつかない動詞的なプロセスへの巻きこみの奇怪さは、生の器として生に適応を要求する環境という概念さえも侵食する。生を可能にする「食べる」の実践は、環境を構成している「食べられるもの」から出発するのだから。

閉じることができない

 ヒトをとり巻く環境は潜在的にはすべて食べることができる。僕はまだ試したことはないが、危険なウイルスを体内に飼っているコウモリも、野菜を育てる土壌も、どこぞの湾で澱んでいるヘドロも、淡白な岩石も、原子力発電所の燃料棒も、危険性を度外視して食べようと思えばいくらでも食べられる。環境にあるものをうかつに食べるとなにか悪いことが起こる蓋然性が高く、また先人が環境から選別し、食べても支障がないという評価が固まっている食べものがすでにふんだんにあるから、わたしたちはふつう、いきなり外部環境に噛みつこうとはしない。試行錯誤の末に認定された食べもののデータの集積である食文化のおかげだ。しかし、食文化の一部として認定されている食べものも、外部環境へと先祖返りすることもある。人間の「可食性のコード」が侵犯され、見慣れた食べものが不気味なものに変態して迫ってくる瞬間だ。

 石牟礼道子『苦海浄土』に登場する「わたくし」は、地元の老婆が売り歩く水俣の有機水銀に毒されたわかめを買い、それを味噌でとじて食べる。そのときのわかめはかつてのわかめと同じではない。

 百間排水口の沖の恋路島の根つけに、またタレソ鰯やわかめが異常繁殖して、採り手が多いということはわたくしの部落の海好きたちに、すぐに伝わるのだ。水俣病わかめといえど春の味覚。そうおもいわたくしは味噌汁を作る。不思議なことがあらわれる。味噌が凝固して味噌とじワカメができあがったのだ。口に含むとその味噌が、ねちゃりと気持わるく歯ぐきにくっついてはなれない。わかめはきしきしとくっつきながらきしみ音を立てる。
 ――会社は晩になると臭か油のごたる物ば海に流すとばい。夜漁のほこ突きに出て、そいつが虜にくっつけば、ねちゃねちゃして皮がちょろりとむけるような気色のするとばい。
漁民たちが奇病発生当時話しあっていた言葉を、わたくしはあんぐりとした口腔の中で思いだす2

 歯茎にくっつく味噌の執拗とへばりつくわかめの軋轢。食べものとしてごく当たり前に楽しまれているはずの味噌とわかめを調理しても、当たり前の味噌汁にならない。「わたくし」はたまさかできあがった「味噌とじワカメ」という前代未聞の片仮名ワカメ料理を味わう。水俣病の症例が出現し始めた頃にチッソが流した廃棄水銀について漁民が語った、「ねちゃねちゃ」というあの粘り気を伴った触感が、「味噌とじワカメ」の食感にへばりつく。公害に晒されながらもそれまでと同じように海産物を食べ続ける水俣の民は、おそらくは病みつつもいまだ漁民の伝統的プロセスを生きている。彼らはまだ「味噌汁」に入ったわかめを季節のサイクルにお馴染みの「春の味覚」として食べているのだろう。だが、彼らとは異なるプロセスを生きている「わたくし」は「味噌とじワカメ」に出会う。それは「春の味覚」というよりは、「ねちゃねちゃ」した海を口腔で再演させる、粘着質の記憶のトリガーである。有機水銀の汚染を経てもそれは依然として食べることができるが、その経験はもう馴染みのものではない。「わたくし」の「口腔の中」には、「ねちゃねちゃ」した環境そのものが広がり、環境と人間のあいだに引かれていた分割線は曖昧になる。

 環境とヒトの区分が食べる行為を介して消失するという現象を、文学の表現に限ることはできない。それは化学的事実でもある。ふつう、水銀は体内に吸収されることなく排出されていく。ところが水俣の事例のように、水銀が炭素原子と結合した有機水銀になると事情は異なる。生物は炭素原子を中心とした分子によって構成されている。ヒトも例外ではない。ひとたび有機水銀を摂取してしまうと、水銀は同じ炭素系で構成されている人体にたちまち溶け込んでくる。この意味において、ヒトは環境をその外部に設定できる「部外者」ではなく、環境中に遍く存在する有機化合物の一種である。

 農学部出身の文化研究者/小説家の遠藤徹は、《この生》の化学的次元から伝統的な人間観を覆して見せる。

ヴァルネラブルな身体、「開けっぱなし」の身体。炭素原子を中心とする有機物質として化学的開放系の世界に存在する人間。口、鼻、皮膚などの開口部をその世界に向けて開き、呼吸、飲食、接触を通して、世界から物質を取り込むことでしか生きられない人間。人間とは、閉じることができない存在なのである3

 《個人》が望みのアイデンティティを維持することができないのは、ヒトという存在が《この生》の次元で開かれてしまっているからだ。「開けっぱなし」と言うと、自由で選択肢が豊富であるように、あるいは反対にあらゆる害悪に対して無防備な不自由な存在であるように、聞こえてしまうかもしれない。しかしここでの「開けっぱなし」は、引用末尾に出てくる「閉じることができない」という否定形で理解しなければならない。自己として閉じることができないから、外部環境とのあいだで自分に都合のよい境界線を画定させることができず、時には生存上の危険やヒトではなくなってしまう可能性にさえ曝されてしまう。「呼吸、飲食、接触」という自己と環境の分割線を蹂躙する動詞群の力に従順な有機化学物質的存在は、「人間」や「環境」と呼ばれる観念でつくられた防護壁をいつもやすやすと突き破る。

 有機化学系の一部として人間を眺めてみると、「食は人なり」という慣用句は少々異なるニュアンスを帯びてくるだろう。炭素系の生物や物質を摂取するヒトは、主体=主語の地位を確保できない。かといって、ヒトが無抵抗のまま環境に捕食されているわけでもない。飢餓に駆られマタンゴを食べると、ヒトでもキノコでもないハイブリッドな異形になるように、「食べる」という動詞に拘束されている《この生》は、ヒトでありつつ同時にそれをとり巻く環境でもあるような、曖昧なところをいつも揺れ動いているように見える。アイデンティティにこだわる村井は人間と環境を対立するものとして考えていた。しかし人間と環境のあいだに境界線が実在していて、その境界線を越境したり侵犯したりすると考えるよりも、さまざまな動詞に、ここではとりわけ動詞「食べる」に揺さぶられる「わたしたち」の動性について考えたほうが《この生》はおもしろくなるだろう。

 遠藤は「ぼくたちは食べたものになるのである」と書いている。「食は人なり」を地で行く、可食性のコードによって規定された「食べものになる」わけではない、という点は看過できない。それが食べものであろうがなかろうが、しもべは結果的に口に入れた「食べたものになる」のである。わたしたちはなんであれ食べることができる。ただし、それが放射線に汚染された変異種のキノコであれ、有機水銀を含んだ「味噌とじワカメ」であれ、食べたあとどうなっていくかはわからない。病気になるかもしれない。死ぬかもしれない。現時点でまったく影響はないように見えるかもしれないが、数万年単位の進化のスケールで見るとこれは種としての人間離れの第一歩かもしれない。食べるときの僕は、環境から切り離された自己を維持しつつ他者を摂取するという物語を反復しない。僕は自己/他者で割り切ることのできないフィクションに開かれる。「食べること、消化することは、そのままぼくたちの変容過程となる。ひと噛みごとに、ひと呑みごとにぼくたちは新しい変化へ向けて踏み出しているのだ」4。「食べたものになる」わたしたちは、人間と環境がないまぜになった「わたしたち」という生態系を食べている。

変わりゆく生態系を生きる

 過去の自分との同一性や集団への帰属意識を担保するアイデンティティ、それから自由な主体として選択をしているという自意識は、実は抗不安薬デパスのようなものに過ぎない。実際になにかを食べるとき、わたしたちは《個人》とは無関係に、人間とも環境ともつかない《この生》の変容過程をあてどなくつくる営みに参加している。その過程では能力や身体が変容する。筋肉がついて足が速くなったり、脂肪がついて服のサイズが変わったりする《個人》の変化だけではない。今まで食べてきたものが食べられなくなったり、これまで食べられなかったものが食べられるようになったりする。それどころかわたしたちは未だ存在したことがないものをつくりだして食べるようにさえなる。遺伝子組み換え食品や培養肉、ゲノムを三セット備えた養殖魚の三倍体5。『マタンゴ』にひきつけて言うならば、植物に放射線を照射し突然変異を引き起こして品種改良に努める、放射線育種もそのなかに入る6。わたしたちはヒトを変性させる可能性のあるマタンゴの「同位体(isotope)」を人工的につくりだしているとも言えるし、それらを実際に食しているわたしたちは以前に比べればどんどん人間離れした存在になっているとも言える。少なくとも江戸時代の人間と21世紀を生きるわたしたちはまったく異なる技術的身体を生きている。この時間的懸隔を無視して同じ人間として同定するのは難しい7

 さまざまな人為的要因が複雑に干渉しあうことによって、ヒトの身体は「人類みな兄弟」というご託宣を真に受けることができないほど経時的に変容する。それは共時的に見ても同じことだ。解読が終了したヒトゲノムのデータは、ライフサイエンス分野で活用されている。しかし、ヒトはさまざまな状況に巻きこまれながらそれぞれの生のプロセスを紡いできたために、ゲノムの配列には無視できないばらつきがあり、そのままでは使えない。最大公約数的なモデルを構築しないと変異の誤検出や見落としが発生し、基礎研究や応用はままならない。そのため国際基準ゲノム配列(参照配列)のみならず、より細かな民族集団に応じたモデル(日本ではJG1というモデルがある)がつくられていく8。つまり、分子生物学におけるモデル種としてのヒトはひとつではなく、さまざまなヴァージョンがありうる。新型コロナウイルスに対するワクチンの反応が人それぞれであるように、それぞれが生きている状況とそれらに対する応答は一様ではなく、まだら状に分布している。

 遺伝子の発現にかかわる表現型まで含めればヒトのありようは百鬼夜行のごとくおぞましく賑々しい。さまざまな状況で生きてきたヒトを、通時的にも共時的にも「単一の自然な人間」としてそれが住まうとされる環境から独立させることはできない。環境の中からヒトにとって不都合なものを排除すればその対象がつくりだしている未知の関係を失うことになり、いずれ不測の事態が起こることを覚悟しなければならない。本連載の用語法に置き換えるなら、このような事態は、環境を別個のものとして認識する《個人》のフェーズとは別の次元で起こる。《この生》は人間でも環境でもなく、いつも、なにかとなにかのあいだで作用するひとつの生態系(ecosystem)であり、さらには同時に異なる生態系どうしが輻輳ふくそうするみぎわのごときエコトーン(ecotone)のようでもある。わたしたちがさまざまなアクションの堆積として存在している限り、人間や人類というカテゴリーのなかに閉じることはできない。わたしたちはアクションの応酬に応じて移ろう生態系のなかで、生態系として生きる。そして「食べる」。

トラブル、寛容の力、力の涵養

 「食べる」という動詞を鍵語にここまで辿ってきた僕のか細い糸は、こうして環境と個体を截然と切り分けることはできないという、《この生》に内在するトラブルに絡みついた。《この生》の生態系に、動的平衡のようなバランスや基準点はない。生態系のバランスという語は、ヒトが「環境」に見出す理想状態を指している。だが、とりわけ第六の絶滅期が迫るこの時代に生態系のバランスはどこにあるのか定かではない。人類学者アナ・チンがマツタケとヒトのかかわり方を題材に論じたように、ヒトの行為も含むさまざまな撹乱(disturbance)のトラブルに曝されつつ、常に別様の存在として生成していく生態系を考えた方が遥かに実践的だろう9。もっともトラブルに身を委ねているだけでは身がもたない。トラブルに耐える力が必要だ。「食べる」という動詞には、人外へと向かうトラブルを招く一方で同時に、偶然という暴力に慣れる力を涵養する側面があるように僕は思う。ちょうど『マタンゴ』の村井や吉田のような《個人》のフィクションの枠組みで考えると、「力」は権力や圧力のように、敵を殲滅したり支配下に置いたりする戦争や諍いの物語を強化するようにも見えるかもしれない。ここで僕がこだわりたい力は、《個人》による「他者」の征服や保護にかかわる力ではなく、麻美や明子のように、利害関係や打算なくトラブルを享楽する力の涵養であり、理解できない存在や先行きの見えない状態を巻きこんでしまっても生のプロセスを止めない《この生》の寛容の力である10

 STS(科学技術社会論)研究者・鈴木和歌奈が論じる、ウルシ職人とウルシによる「わたしたちの具体化」は、食を通じた寛容の力の涵養を考えていく際に示唆を与えてくれる11。職人は、ウルシの幹に傷をつける。傷をつけられたウルシは、患部を治療しさらなる攻撃から身を守るべく樹液を分泌する(「障害反応」と呼ばれている)。職人はそこから樹液を掻き取り、これを精製することによって天然塗料をつくる。だが、職人も無傷ではいられない。すなわち職人は樹液によって皮膚のかぶれという害を蒙る。

 このようなウルシと職人の害をなしあう関係を《個人》の物語で語ることは難しい。まずウルシの需要は漸減傾向にあり、植物のウルシもウルシ職人も絶滅危惧種としての状況を共にしている。ウルシは職人のケアを受けなければ存続できない。他方、職人のほうもその生計の行方とそれまで蓄積した技術をウルシとの関係に依存している。両者は、単に異なる種(名詞)や人間と環境というかたちで別個に存在しているのではなく、ウルシに傷をつける職人の「掻き取り」と、職人の皮膚にかぶれをもたらしつつ塗料の原材料を生みだす、ウルシの「障害反応」という動詞の応酬のただ中で、《この生》を生成させているのである。

 「ウルシを傷つける→ウルシの障害反応→ヒトのかぶれ」という害を与えあう応答の連鎖のなかで、ウルシ職人は時にはウルシを文字通り食べることまでして、ウルシにかぶれない身体をつくっていく。ウルシオールという物質に対する人間のアレルギー反応が消えていくメカニズムは、腸内細菌叢が複雑に絡み合った免疫寛容(immune tolerance)と呼ばれている。免疫寛容が生じるプロセスのなかで、職人はウルシと共に生きるための力を涵養し、ウルシもまた職人の介入によって絶滅を免れ、生きる力を涵養していく。

 同様の力の涵養は、プラスチック分解能を備えた微生物にも当てはまる。人間と環境とを切り分ける《個人》のフィクションにおいては、マイクロプラスチックの言説に顕著なように、資本主義によってドライヴされた人間の環境への悪影響を止める術はなく世界の終わりを座して待つのみという黙示録的論調に陥る。だが、プラスチックとの絡まりあいのなかで《この生》を生きざるをえない微生物は、それらを食べられるものに変える力を不意に引き出されてしまう。

 石油などからつくられるポリエステル樹脂のなかでも、ペットボトルや衣服の製造に使われているPET(ポリエチレンテフレタラート)と呼ばれる樹脂は、その環境負荷の懸念から削減が叫ばれている。そんな中、スウェーデン、チャルマース工科大学のアレクセイ・ゼレズニアック教授らのチームの研究によって、「自然環境から採取された2億以上のDNAサンプルが調査され、10種類のプラスチックを分解する、3万種もの酵素が見つかった」12。主役は細菌である。その他にもたとえば、大阪府堺市のリサイクル施設にあるごみの山に棲むイデオネラ・サカイエンシスという細菌は、植物の葉に含まれるポリエステルだけではなく、PETも分解する。細菌はPETaseと命名されたプラスチック分解酵素を生成するが、研究者たちはこの酵素の分解能を高めるべく、人為的な改良に取り組んでいる13。さらに、カナダのブランドン大学研究チームは「通常はハチの巣に住み、ミツロウ(ハチが巣をつくるために分泌する物質)を食べる」ワックスワームと呼ばれる幼虫が、ポリエチレンのみを餌に1年以上生存できることを発見した。分解のカギとなるのは幼虫の腸内細菌である。しかし腸内細菌だけを分離すると分解能に低下がみられた。目下、「宿主であるワックスワームと腸内細菌との間にプラスチックの生分解を促進する何らかの相乗作用がある」と考えられている14

 このように、《個人》のフィクションでは環境を毀損するとされているプラスチック素材が、「食べる」という動詞を介すといつの間にかなんらかの共生系を生みだすこともある。食べられなかったものが「食べる」力によって食べられるものとして生成し、食べたものが(《個人》ではなく)未だかつてない「わたしたち」を合成する。偶然に。

 もちろん《この生》はただ楽天的に自由を謳歌しているのではなく、生存の可否にかかわる厳しく辛い力にさらされる状況に拘束されている。現に力の作用を害として蒙るばかりで巧みに応答することができず、絶滅していく生物はあまたいる。だが、力のサバイバルを軍拡競争や生存競争として語る(疑似)進化論の口吻を真似て、絶滅した者たちが環境に適応できない敗残者であり、残された者たちが適応能力に優れた勝者であるかのように語ることはできない。《この生》のサバイバルは、優れているとされる能力をもった主語=主体の目的論的な「生きのこり」ではない。優れた能力は状況の変化に応じて変わるし、劣った能力がいつの間にか命綱を縷々と繕うこともある。《この生》においてサバイバルとは、苛烈な困難が降りかかる最中、どこまで含まれるのか見当もつかない「わたしたち」が、なんらかの力を引き出しあいながらたまたま命脈をつなぐ、動詞とそれに育生される力の「生きのび」のプロセスである。「食べる」は主語には統御できない、たまたまの「生きのび」を志向する動詞のひとつだ。名詞として同定されるさまざまな個体や種が絶滅していったとしても、「食べる」という動詞とそれによって涵養されたトラブルを寛容する力は、主語を変えて「生きのびる」。暴力を含むさまざまな力にいつも拘束されている《この生》は、「食べる」を始めとするさまざまな動詞に引きずられるようにして、さまざまな胡乱な力との折衝を重ね、やがて「共に」生きのびる力として生きのびる15

 食は力なり。《この生》はヒトには所有することができない暴力にさらされつつ、その暴力に耐えうる寛容と生きのびる力の涵養に開かれている。それは観客をキノコ恐怖症(mycophobia)に感染させる『マタンゴ』のような《個人》のホラーの経験でもあるだろう16。しかしアイデンティティ喪失のホラーとは異なる、苦境にありつつ変性(denaturalization)の余地を不気味に言祝ぐバイオホラーからしか触発されない力もまた存在する。数万年・数十万年単位の進化論的時間に照らせば、動詞「食べる」は現状の身体や生態になんらかの変性を生じさせる。それは楽観とも絶望とも無縁である。なにかを食べるとき、「わたしたちの具体化」はしもべの生をあらぬ方へ旅させるだろう。身震いしつつ同時に哄笑する、わたしたちの旅する膂力りょりょくを、心胆寒からしめるバイオホラーは涵養する17

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 「絶え間なく動き、入れ替わりながらも全体として恒常性が保たれていること。人間の社会でいえば、会社組織とか学校とか、人が常に入れ替わっているのにブランドが保たれている、そういうものをイメージしてもらってもいい。」(「『動的平衡』を書いた福岡伸一氏(青山学院大学教授・分子生物学者)に聞く」、『東洋経済オンライン』2009/04/14、https://toyokeizai.net/articles/-/10108)。詳しくは、福岡伸一『新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(小学館、2017年)と『生物と無生物のあいだ』(講談社、2007年)を参照。
  2. 石牟礼道子『苦海浄土全三部』(藤原書店、初版2016年、2021年)218-19頁。
  3. 遠藤徹『ケミカル・メタモルフォーシス』(河出書房新社、2005年)45頁。
  4. 遠藤170頁、171頁。
  5. ニジマスの三倍体については、動物文学研究会第3回例会(2021年12月12日オンライン)における福永真弓「サーモンになる魚たち――人新世の魚の美学」より知見を得た。関連して、ブランドン・ケイム「重さ22キロの特大ニジマスと、養殖魚の遺伝子操作」(『Wired』2009年9月17日、 江藤千夏+合原弘子訳https://wired.jp/2009/09/17/%E9%87%8D%E3%81%9522%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%A4%A7%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%80%81%E9%A4%8A%E6%AE%96%E9%AD%9A%E3%81%AE%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E6%93%8D%E4%BD%9C/)を参照。
  6. 鵜飼保雄『植物が語る放射線の表と裏』(培風館、2007年)を参照。原爆投下後、長崎では育種学者・永松土巳を中心に、広島では植物学者を中心に植物が蒙った放射線の影響が研究された。本連載でも論じた水爆実験場となったビキニ環礁では、米国の遺伝学者が極めて大雑把なものではあるが、植物への影響を調査している。同書164-77頁を参照。
  7. たとえば、日本の17歳の平均身長は明治33年には男子157.9㎝/女子147.0㎝だったが、令和2年には男子170.7㎝/女子157.9㎝へと推移している。「学校保健統計調査」(年齢別 平均身長の推移 明治33年度~令和2年度)(https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00400002&tstat=000001011648&cycle=0&tclass1=000001020135&tclass2val=0)を参照。この高身長化の最大の要因は、高たんぱく・高栄養の食事を安定的に摂ることのできる状況をもたらした、食文化の変化だろう。
  8. 高山順「各国ですすむ基準ゲノム構築プロジェクト」(『ようこそゲノムの世界へ』、2019年6月17日、https://www.megabank.tohoku.ac.jp/genome/archives/tag/%E5%8F%82%E7%85%A7%E9%85%8D%E5%88%97)を参照。
  9. アナ・チン『マツタケ 不確定な時代を生きる術』(赤嶺淳訳、みすず書房、2019年)。
  10. ロマン派の英国詩人ジョン・キーツが提唱した「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、以下で論じる寛容の力に関係する。ネガティヴ・ケイパビリティとは、「短気に事実や理由を手に入れようとはせず、不確かさや、神秘的なこと、疑惑ある状態の中に人が留まることができるときに表れる能力」のこと。小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)48頁。同書18-19頁も参照。
  11. 鈴木和歌奈「ウルシと共に生きる 関西の二つの山村地域から」(近藤祉秋+吉田真理子編『食う、食われる、食いあう マルチスピーシーズ民族誌の思考』、青土社、2021年、169-95頁)。
  12. ダミアン・キャリントン「世界中の微生物が『プラスチック』を食べられるよう進化している」(『クーリエ・ジャポン』、2021年12月17日、https://courrier.jp/news/archives/271577/?cx_testId=17&cx_testVariant=cx_1&cx_artPos=0#cxrecs_s)。
  13. メアリー・ハルトン「プラスチックを『食べる』酵素に賭ける リサイクルの未来」(『BBC.com』、2018年4月17日、https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43794828)。
  14. クリューガー量子「プラスチックを食べる幼虫をカナダの大学が発見。マイクロプラ除去システム開発に貢献か」(『Ideas for Good』、2020年3月26日、https://ideasforgood.jp/2020/03/26/wax-worm/)。
  15. 殺虫剤や除草剤、抗菌薬、抗ウイルス薬が有効性を失っていく問題があるように、あらゆる生物は、化学物質に対する一定の耐性を獲得していく。淡水生態系におけるミジンコの殺虫剤に対する耐性を研究対象とした集団遺伝学のモニタリングの例として、田中嘉成「化学物質の生態リスクを耐性の進化から探る」(『国立環境研究所ニュース』29巻1号、2010年4月、https://www.nies.go.jp/kanko/news/29/29-1/29-1-02.html)を参照。
  16. Pヴァインより刊行されているオリン・グレイ+シルヴィア・モレーノ=ガルシア編、野村芳夫訳『FUNGI——菌類小説選集 第Iコロニー』(2017年)と『FUNGI——菌類小説選集 第II コロニー』(2018年)は海外における『マタンゴ』の感染力を示す一例である。
  17. 本節の議論に関連する書籍として、石川伸一『「食べること」の進化史 培養肉・昆虫食・3Dフードプリンタ』(光文社、2019年)、ポール・シャピロ『クリーンミート 培養肉が世界を変える』(鈴木素子訳、日経BP、2020年)、マイケル・ポーラン『欲望の植物誌 人をあやつる4つの植物』(西田佐知子訳、八坂書房、2012年)などがある。また、本連載第4回から第7回までのバイオホラー論、とりわけ第6回のマタンゴ論は、「来る、きっと来る――Jホラー批評の可能性をめぐって」(座談会、佐々木友輔+逆卷しとね+黒嵜想+仲山ひふみ、『アーギュメンツ #3』、渋家株式会社/たまらん/M(加藤学)、2018年、38-59頁)で語った内容に対する現時点での応答である。