自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論 / 逆卷しとね

自由、自立、自己決定。「個人」という言葉にはそんなイメージがつきまとう。だが、私たちはむしろ、様々な物事との関係に拘束されながら生きているのではないか? だとすれば、思い通りにならない〈生〉をデフォルトととらえることで、おもいがけない世界が見えてくるかもしれない。在野の研究者による、人間観と身体観を問い直す哲学的試み。  

わたしたちは遊ぶ

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食べない料理人

 2年前から通知されていた、旧居からの退去の期日が迫っていたため、新居を探し、この9月に引っ越した。生活空間はだいぶ広くなった。畳に座る生活から椅子に座る生活に切り替わるにあたって家具を新調することになり、たくさん家具を組み立てた。椅子はまだしも、スタンディングデスクや本棚、ダイニングテーブルはなかなかの大物で、木ダボをはめ込みねじを締める手がしくしくと痛んだ。急に空間が広くなって、間取りも変わり、どこにどのスイッチがあるのか判然とせず、新居と共に世界をこしらえるのに苦労した。世界は家のなかには限られない。徒歩で20分ほどの距離の引っ越しにもかかわらず、生活圏は一変した。最寄り駅が変わった。街へと直通するバスの路線から遠ざかった。スーパーもコンビニもタバコ屋も新しく探さなければならなかった。自家用車はない。

 もちろん、行きつけの居酒屋を探す必要もあった。あっさり見つかった。食材さえあればなんでもつくれる、少しひねた料理人がやっている居酒屋に一軒目でめぐりあった。「納豆でなにかできますか?」と注文すると、納豆のから揚げをつくってくれる。納豆の臭みが増幅するけれども、心底納豆が好きなのであれば納豆らしさをより味わえる逸品だ。パスタもあれば、焼鳥もおでんも魚の包み焼きもある。ふつうレパートリーがなんでもありになってしまうと、ひとつひとつのクオリティが下がってしまうものだが、ここの料理はどれも独創的でおいしい。「おいしかったですよ」と伝えても「あ、そうですか、それはよかったです」とそっけない。大将は料理をつくることの他になにも興味がない。お酒を飲まないし、趣味はないし、定休日もない。つくることにしか関心はない。常連客はメニュー表など見ていない。「マテ貝ある?」「肉じゃがある?」「この大根でなにかつくって」。常連客の挑発と大将の身裡みうちに棲んでいる出来心が相乗効果を生んで、雑然としたメニュー表が日々つくられている。

 大将は、飲み食いにも関心がない。名店をめぐっては選ばれた食材に技巧を凝らした料理を口に運んで舌を鍛え、自らの仕事にフィードバックするのが料理人、とグルメマンガの影響なのか、僕はそう思いこんでいた。ところが大将は外食をほとんどしない。料理を見たらだいたい味が想像できてしまうのでおもしろくないのだという。自分がつくった料理を食べることにも関心がない。営業中、紙パックに入ったコーヒー風飲料をずっと飲んでいる。

 大将が摂る主な食事はコンビニ弁当だ。健康志向の趨勢に押されて一定の改善が見られるとはいえ、ケミカルな調味料が入っていたり、味付けが濃かったりするという欠点があるというのが一般的なコンビニ弁当の評価だろう。けれども、食事や料理、片づけの寸暇さえ惜しんで子育てと仕事、わずかな余暇の活動に勤しむ現代人の生活環に弁当は欠かせない。時間や味、健康などの要素を加減乗除すると、コンビニ弁当はコスパとタイパにすぐれた有力な食餌として浮上する。だからこそ、コンビニ各社が開発する弁当は激しい競争にさらされている。常に新商品が台頭し、売り上げが伸び悩む商品は淘汰される。そのため、コンビニ弁当の開発には大勢のプロフェッショナルの先端的なアイディアの粋が尽くされることになる。ところが、店頭に並ぶ商品にそのアイディアが十全なかたちで実現されることはない。津々浦々に配送される商品のクオリティを斉一に保つには工場生産が欠かせないし、コストを抑えるためには食材を厳選し、工程を最小限にしなければならない。コンビニ弁当を口に運びながら、大将は、そのような制約をひとつひとつ咀嚼して推理し、工程から省かれた食材と調味料、調理法を特定していく。

 たいていコンビニ弁当を食べる状況を示すには、主語+動詞から成る「僕は食べる」という一文で記述できる。そこから、動詞「食べる」に内包されていて、その行為をより細かく説明してくれる動詞の集合、たとえば「味わう」「腹を満たす」「魚の小骨が歯に挟まる」といった動詞群が連想されるだろう。しかし大将の場合は、主語「大将」と対になった動詞「食べる」にその営みを還元できない。「使われている素材を吟味する・・・・・」、「省かれている素材を推理する・・・・・」、「使われるはずだった調味料を補完する・・・・・」、「コストの観点から端折られた工程を復元する・・・・・」といった動詞群は、動詞「食べる」にはおよそ収れんしない。

 前回まで、僕はバイオホラーを題材に、動詞「食べる」が生の質を変性(denature)させる過程について考えていた。《個人》は、人間という概念やそのアイデンティティの保全のために、その主語となる名詞が動詞に首輪をつけ、これをしっかりと制動し、その外部にある環境に立ち向かおうとする。《個人》に閉じることができない契機に現れるのが《この生》だった。《この生》においては、《個人》の主語の位置に座る名詞には飼いならすことのできない、生の変質(生成)を動詞が思いがけずもたらす、というのがこれまでに築いた小さな一里塚だ。「食べたものになる」という生成はまだまだ《この生》の序の口に過ぎない。ここからは、生の多重化する(multiplexing)性質について考えてみたいと思っている。《個人》の文法においては、主語は動詞と一対になっているが、《この生》の文法では、動詞群が幾重にもダブっている。そのとき主語となる名詞は、さしずめ動詞群の殺到によって巻き上げられる砂塵状の残像のようなもので、迂闊に自己同定の拠点とするにはあまりに頼りない。

 さて、話を戻そう。コンビニ弁当を食べる大将の逸話に登場した動詞群は、リバース・エンジニアリング(reverse engineering)に類するものとしてひとまずまとめることができるだろうか。反転工学とも呼ばれるこの方法は、設計図をもとに製品をつくるのではなく、完成品を分解してみて設計図まで辿ることによって製品の製造工程を把握する、特許や資金、高度な技術に恵まれていない弱者の戦略のひとつとして古今東西で活用されている。最近の例を挙げると、新型コロナウイルスのワクチン開発において、WHOの支援を受けた南アフリカの製薬企業はこの方法でモデルナ社のワクチンの成分や生産に必要な設備を特定し、独自のワクチン開発を目指している。1 コンビニを経営する大企業が有しているレシピや設備を知らない大将が、それらのエンド・プロダクトに欠けている調理のあらましを特定していく過程は反転工学に似ている。

 とはいえ大将は、市中に出回っている製品を実際に再現するために、製品のレシピや工程を解明しているわけではない。本連載の語法に依って大将を《個人》と捉えるならば、「コンビニ弁当を食べたい」という主語(=主体)の欲望を満たす、あるいは製品を再現するといった目的や意義が、動詞(=行為)よりも先行しているはずだ。しかし、製品のレシピや工程に反映させることができなかった要素や手続きを「吟味し」、「推理し」、「補完し」、「復元する」という動詞群には、主語の主体性に由来する欲望や目的が欠けている。大将はなぜ、なんのためにコンビニ弁当を食べるのか。おいしいからでも、自分でそれをつくって食べたいから、でもない。そこにコンビニ弁当があるから。山じゃあるまいし。いくら弁当を食べたところで見返りはなにもない。これは「遊び」だ。

「なにかスープつくって」という注文に応えて出てきた謎のスープ

 僕の言葉遣いが適切なら、「遊び」とは、主語の欲望の解消や特定の目的に奉仕しない、複数の動詞が多重化する現象である。食べることに興味がない、という大将の言質はとってあるので断言しておこう。大将はコンビニ弁当を食べてはいない。なにを言っているんだ、という怪訝な気配をすでに感じる。だから繰り返そう。動詞「食べる」によって再確認されて再生産されるような、大将の主語=主体、あるいは《個人》は存在しない。その代わりに、「吟味する」・「推理する」・「補完する」・「復元する」といった、探偵や修復師を思わせる動詞群がコンビニ弁当に殺到し多重化している。大将はコンビニ弁当を食べているのではなく、それでいつも遊んでいる。

 栄養補給でも食い道楽でも反転工学でもないただの遊び。僕は「遊び」が、メニューに載っていない客の注文に応え、即興的に料理をつくってしまう大将の力を涵養しているのではないか、と思っている。不意に「大将の」と所有格を使ってしまったが、おそらくその力は、レシピ通りに調理をし、作業をこなす《個人》には所有できない。「遊び」に培われた力が発揮されるのは、素材や客とのやりとりに拘束されるなかで《この生》が試され、たまさかなんらかの奇縁が即興料理を生じさせてしまう、また別の「遊び」の場面だろうから。

 ちなみにここの料理はどれもおいしい。

「ブンカイよ、ブンカイ」

 僕の考えでは、「遊び」はアーティストの制作(poiesis)に似ている。通例、アーティストは作品で評価される。ギャラリーや美術館のような空間に作品を展示したり、顧客と売買契約を結んだりしなければ、「あいつは消えた」と言われる世界である。アーティストは他のすべてに優先して作品をつくらなければならない。しかしそんな世界に僕は住んではいない。作品をつくらない者はアーティストではないのだろうか。作品をつくることだけが制作なのだろうか。メニューに載っている料理をつくることだけが制作なのだろうか。コンビニ弁当の向こう側を詮索するその舌の一挙手一投足に動詞群が躍っている最中、つまり「遊び」のときにも制作は行われているのではないだろうか。

 福岡県北九州市にはBABUがいる。ウェブマガジンDOZiNEの連載「《BABU伝》──北九州の聖なるゴミ」(現在#12まで https://hagamag.com/uncategory/8782)で編集人・辻陽介が評しているように、「グラフィティライター、スケーター、タトゥーイスト、ペインター、パフォーマー、現代美術家、デザイナー、スクウォッター、スカベンジャー、アーバンクライマー、違法温泉採掘者」と夥しい数の肩書を冠するBABUの活動は、容易な名詞的定義を許さない。2 BABUをアーティストと呼んでみたところで、切り取り線に沿ってハサミを動かし紙人形を上手に切り離したことにしかならない。だからBABUの《この生》を構成している動詞を地道に拾うことにする。

 BABUの口癖であり、その活動を特徴づける動詞のひとつに「分解する」がある。レコードプレイヤーの機序を精査してつくり上げた、針が進まず延々と同じ数小節をリピートするDJマシーンを見せてくれたときも、BABUは「ブンカイよ、ブンカイ」とこともなげに言った。作品をつくってもたいていは「カンタンよ、カンタン」「30分かな」と言っているBABUが、「50時間よ」とやけに具体的な数字を出していたので、それなりに大変なブンカイだったのだろう、と推測はする。それだけ骨が折れるというのに、ブンカイに熱中できるのは、BABUの骨身にその動詞が染みついている証拠だろう。実際、BABUの作品が飾られ、内装の多くをBABUが手がけた小倉のアパレルショップkabuiの店主ダボは、幼少期のBABUが「よく自宅の家電を分解していたって聞きました。目覚まし時計とか、テレビとか。どうなってんだろうって気になって仕方がなかったみたいです」と証言している。3 機械だけではない。BABUの作品は、まっさらのキャンバスに描かれることはない。どれもこれも廃棄物や廃材、他のアーティストが捨てた絵画を再利用して支持体にしている。とはいえ、最近ではSDGsとやらの風潮に乗り、廃棄物で作品をつくる作家もいることだし、そのこと自体は特に珍しいことではない。

 あまり気の進まないことではあるけれどもBABUの制作を文脈化するのであれば、廃材や粗大ごみをリサイクルするSDGsの文脈よりも、既製品を作品として展示したマルセル・デュシャンや大量生産品を作品に仕立てあげたアンディ・ウォーホルを俎上に載せる、レディメイドの文脈のほうが適切だろうと僕は思う。もちろん、「もったいない」「地球危ないよ」と熱っぽく語るBABUが地球環境を危惧しているという事実を否定はしない。けれども、BABUの制作はゴミのリサイクルや再利用には尽きない。SDGsの言説では、再利用それ自体に意義があるかのように語られる。たとえば、とあるアートの祭典で野外展示されていた、大量の廃棄プラスチックを組み合わせてつくられた動物の彫刻を見たことがある。しかしそのつくり手による自由な・・・再利用では、廃棄されていたプラスチックの製品としての特性はまったく無視されていた。自分の好きなかたちをつくっただけだった。肝心なのは、再利用の方法や過程だ。僕は思う。BABUは、他の誰かがつくり他の誰かが使ったあとに廃棄された既製品を分解してその機序を自家薬籠中のものとしたうえで、その特性を活かし作品やその支持体へとつくり変える。こう考えると、大将のケースと同じく、「ブンカイ」も反転工学に似たプロセスを経ながら、やはり「遊び」へと展開しているように見える。

 BABUのブンカイは、ある種の完成品としてギャラリーや美術館に展示される作品の制作だけではなく、日常的な遊びのなかでも持続している。

 熊本震災の際、いち早く現地に駆けつけたBABUたちは、瓦礫のなかから廃材を集めてスケートボードをつくり、その売却益を義援金として送るというプロジェクトを展開した。いろんな経緯で我が家にやってきたボードは、そこに書かれた“Skaters must be united”というスローガンから察するに、おそらくはそのときにつくられたもののひとつだろうと思う。幅10㎝長さ50㎝ほどのデッキは、ふつうのボードに見える。ところが板を裏返してみてもウィールがない。向かって右の側面には、ウィールらしきものが見える。

 ウィールらしき物体は、板に外付けされているわけではなく、外縁の内側に引っ込んでいる。つまり、誰かが板の上に乗ってスケーティングしようとしても、この奥ゆかしいウィールは平地には接地しない。なによりこのウィールはデッキの下部ではなく側面についているので、ウィールを何らかの方法で地面に接地させたとしても、デッキを垂直に立て、側面の僅かなスペースに平均台を進むときのような恰好で立たなければならない。キツネにつままれる。

 果たしてこのウィールらしき物体の正体は、なんらかの引き戸の基部に付属し、レールに沿って窓を左右にスライドさせるための戸車だ。この戸車はその構造からして、断面がかまぼこのかたちをした甲丸レールと呼ばれる凸型のレールと組み合わせないと滑らない。BABUがボードとしてつくりあげたこの物体を前に、スケートボーディングの常識は通用しない。廃棄物をただ再利用するだけであれば、引き戸の基底部をデッキにし、戸車は外すか無視するかして、デッキの裏にウィールやトラックをつければいい。BABUは、既製品の構造を無視し素材を手に入れる前の自分の構想にあわせてそれを整形したり作品全体の部品として利用したりはしない。素材を白紙のカンバスに見立てて自由に作品をつくるわけではない。

 かといって、BABUは引き戸の残骸にスローガンだけを書いて、そのまま放り出しているわけでもない。側面にはやすり掛けが施され、縁はゆるやかにカーヴしている。テールには木材が継がれ、補強されている。ノーズからデッキ全体の3分の1ほど下った左側面は大きく湾曲し、土踏まずのような窪みを湛えている。つまり、引き戸の残骸は、ちゃんとスケボーのデッキの体を成している。

 このようにBABUがつくるスケボーは素材本来の機能を残しつつ、ちゃんとスケボーの姿をしている。ただしそこには、パークで滑る健全な青少年スケーターの軌道を大きく踏み外した、BABU独特のスタイルが象られている。このボードを手にした者は、「滑る」、「飛ぶ」、「プッシュする」、「クルージングする」といったスケボーにまつわる動詞群を変調させるよう迫られる。寝そべったまま畳の上で転がす。レールをつくって、縦にしたボードの上に背中を乗せ、ブリッジのような姿勢のまま前後に滑らせる。壁に立てかけて、戸車にミニカーを当てて走らせる。革命的な転回はどこにもない。けれども、共に戯れる過程でスケボーと僕が住まう小さな世界はゆっくり生成する、ような気がする。子どもの頃のように。拾ってきたただの鉄の棒を排水路の蓋に開いている穴に突っ込んでぐにゃりと曲げ、それをゴルフのドライバーに見立て空き缶を痛打して放棄地をラウンドしていた頃のように。

BABUのアトリエに置いてあったスケボー

 今のところ、僕には「ふつうのスケボー」はできない。けれども、スケーターたちがするように、ボードと一緒に世界をつくる過程はこうして僕にも経験できる。BABUの遊戯的制作は、引き戸をレールに沿って滑らせるという戸車の機械的な機能を一旦解除はするけれども、戸車を動かす運動方向に抗して働く操作抵抗力はそのまま温存する。変わるのは力の用途だ。使用者はその力を別様に使うことを学ぶ。すると、身裡から動詞群が溢れてくる。無数の動詞が多重化しながら生成する世界は、いつも筋違いの方法で制作される。スケボーは本来、プッシュやトリックの運動のなかで身の回りにあるものをなんでもバンクやランプへと生成させてしまう、豊かな世界制作の遊びだということを思い出す。4

「OMA meeting」 Vol.2 (2022年9月18日~25日)で、BABUとその相棒MASSAがつくったスケボーの障害物。もともと地面に穿たれていた穴を利用してつくられている

 料理はすぐになくなってしまう儚いものだからそれを味わう側にそれほど遊ぶ余地は残されていない。けれども作品はそんなにすぐには消えてしまわない。そのせいでBABUの作品の受け手は遊びに巻きこまれる。遊びは伝染する。

遊びを誘発する遊びを遊ぶ

 既製品や廃棄物を支持体として使うことのおもしろさは、それが「白紙」ではないところにあるように思う。制作者という主体が「白紙」という対象に絵を描くのではなく、すでになんらかの機能を備え、力を帯びている物体に触発されながら一緒に戯れる。もちろん、原理的には制作に「白紙」は存在しない。一から張った画布も、それ自体が矩形の木枠や膠、塗料などの既製品の混成体であり、制作に際してそれらの物質的しがらみを無視することはできない。けれども、画布には制作者の絵を描くという目的がひとまず設定されている一方で、BABUが使うのは役目を終えた廃棄物だ。そこが決定的に違う。BABUは、美術系の学校の廃材置き場に捨てられた「失敗作」を頻繁に支持体にしている。今もなお一般的に信じられている、「ゼロからの創造」というキラキラした神話はそこにはない。廃棄され、目的を失った既製品を拾ってきて分解し、美術の世界で規範的に働いている動詞群の作用を別様の運動へと捻じ曲げる。用途を失い打ち棄てられたものがBABUの反転工学と遊び心に溢れた捻りを経てつくりかえられるとき、その受け手も作品の使用目的の再設定(repurposing)を試行錯誤する遊びへと巻きこまれる。心地よいへらへらした笑いと共に。

LOVERS’ COVER 《LOVERS’ COVER》 2016年/写真提供:花田伸一

 2018年のVOCA展に出展されたLOVERS’ COVER名義の《LOVERS’ COVER》は、白紙状態からの創造という神話が端から通用しない協働制作作品だと言えるだろうか。支持体は北九州を拠点に活動した反芸術運動体「集団蜘蛛」の元首謀者・森山安英が1980年代後半に制作した絵画だ。5 2016年にBABUは、このクロームシルバーのオーバーオールにクリアラッカーのエアロゾルを吹きかけたのだという。当然のことながらBABUの関与は肉眼で視認できない。

 平面芸術の新進作家を顕彰するVOCA展にBABUを推薦した佐賀大学芸術地域デザイン学科准教授・花田伸一は、1950年代終わり頃から10年ほど活動した前衛芸術家集団「九州派」の美術家・菊畑茂久馬の版画を無断で新たに刷り増しし、「集団蜘蛛」という署名を書き入れ、これを二束三文で売りさばいた森山の過去を《LOVERS’ COVER》に重ねる。6 BABUは既製品に対する反転工学的な態度で、音楽におけるカヴァーのように、先行する作品を「カヴァー」していることになる。しかしこの笑い話は北九州という一地域の芸術史には尽きない。日本各地、そして世界各地の街角や廃墟に落書きグラフィティを繰り返してきたBABUのプロファイルに鑑みれば、どんな理由であれエアロゾルを吹きかける行為に公共物破壊活動ヴァンダリズム(vandalism)の気配がつきまとうのは避けられない。7

フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ展望台に向かう途中、クーポラ内壁面に書かれた落書き

博多駅高架下。ヴァンダリズムとジェントリフィケーションが同居している

 タグと呼ばれる各自固有のアイコンを地下鉄の車両に描きつけていった1970年代ニューヨークの若者たちに由来するグラフィティは、もちろん違法行為だ。行政や警察からすれば、派手なタグは割れ窓理論に則って治安の悪化の象徴のように毛嫌いされ、たちまち粛清の標的になる。90年代以降ニューヨークの地下鉄からグラフィティが消えていったのは、必然の帰結だった。だが、粛清は加速し、公共空間を縮小させる方向に向かう。路上生活者の管理、長時間の滞在や横臥しての使用を不可能にする排除ベンチ、公園を始めとする公共空間における遊びの規制。悪所は次々と小ぎれいなビルへとリノベーションされていく。グラフィティの弾圧は、道徳的な主体に見合う動詞以外を排除する、悪所浄化ジェントリフィケーションの端緒のひとつだった。だから、カラカラと跳ね回る攪拌玉を内蔵しエアロゾルを吐き出すラッカー缶とそのノズルのボタンを押し込む指には、パブリック・エネミーとして吊るしあげられる資格が十分にある。8

車いすとラッカー缶。BABU個展「障害+ART 50-0」@Gallery Soap

 高名な美術品をターゲットにトマトスープをぶちまけたり、体の一部を接着させたりする、環境運動家たちの行為の是非を問うニュースで賑わう昨今だが、一連の騒動が騒動たりうるのも、伝統的に美術品は厳重な保護と手厚いケアの対象であり、不可逆的な変質を起こしかねない要素は作品からできるだけ遠ざける、という常識に世間が執着しているからに他ならない。9 だからこそ、作品に対し直に接触して質的変化をもたらすスプレーの噴射は、グラフィティに染みついた公共物破壊活動ヴァンダリズムのイメージを強力に喚起する。美術の世界に親しんでいればいるほど、モダニズムの平面芸術的な量塊マッス感を強く押し出している森山の絵画にスプレーを吹きつけるというBABUの行いに対し、ほとんど生理的と言ってもよい破戒の感情が条件反射的に発動してしまう。

 だが、絵画に噴射されているのが顔料の入っていないクリアラッカーの場合、破戒の感情とはまるで質の異なる、なんとも言えない笑いがこみあげてくるのを禁じ得ない。それはなぜだろう。まず無色透明の塗料だと、塗装の形跡が見えない。だからその侵襲性も視認できない。目に見えないものは目に映るどんなものよりも恐ろしい。一幅の絵画に見えない塗料が振りかけられているとしたら、他のどの作品にもBABUの透明な署名が入っていてもおかしくはない。クリアラッカーによるグラフィティは至る所で繁殖しているのかもしれない。見えないのだから、そういう可能性は絶対に消えない。見えない痕跡は視認できない以上、消されることはないし、たとえビルの改修工事で壁面が塗り直されたとしても、クリアラッカーの塗料が消えたことに誰も気づかない。立ち小便を浴びる場末の壁にも、商業ビルの屋上で吹きさらしになっている広告スペースにも、ギャラリーや美術館のきれいな壁面・天井・床にも、ピカソにもマティスにもレオナルドにも、すべての物体の上に等しくBABUのスプレーが重ねられてカヴァーいるかもしれない。視認できないからこそ、その侵襲性はセンサーに引っ掛からず、そのイメージが際限なくあらゆるものに侵襲する。見えないものが最高のいたずらだ。僕は、この野放図を思っていつも笑ってしまう。

 笑ってしまう理由としてそれ以上に肝要なのは、クリアラッカー本来の用途だ。クリアラッカーは、木材・金属製の材料や製品の仕上げに使われる。プラモデルの仕上げに艶出しのために使われるのも無色透明のトップコートだ。クリアラッカーの業者は、塗装面の保護、光沢の付加によるプラスチックの質感の隠蔽、真鍮の経年変色の抑制といった効果を謳っている。いずれも、製品の完成度を上げたり、完成された状態をできるだけ維持したりするという用途は共通している。実際、《LOVERS’ COVER》に使用された画材の項目に「クリアー(透明保護剤)」という記述がある。10 つまり、《LOVERS’ COVER》制作の際に行われたBABUによる噴霧行為は、絵画の汚損ではなく、むしろ劣化を防止するようこれを覆ってカヴァー保護するケアを志向していることになる。11

クリアラッカーを使ったグラフィティ(BABU+MASSA《0-50》より https://www.youtube.com/watch?v=0KBYlOVrvW0&t=262s

 BABUはストリートにおいてもしばしば、透明のラッカーを用いたライティング活動を行っている。花田によれば、かのバンクシーのグラフィティにクリアラッカーを噴射したこともあるという。12 先述したように、パブリック・エネミーとしてのグラフィティは行政によって消されてしまう可能性が高い。幸運にもある程度の名声を得て残ることになった作品も、風化による経年劣化は避けられない。こうなってくると、クリアラッカーによるライティング行為はBABUのやさしさであるようにも思えてくる。壁であれバンクシーのグラフィティであれ森山の絵画であれ、そこにあるモノを保護カヴァーするクリアラッカーのやさしさ。これもグラフィティ文化の酸いも甘いも噛み分けたBABUによる、反転工学的制作の帰結のひとつかもしれない。

 「ケアする」と「侵襲する」という常識的には正反対に見える動詞たちが矛盾も統合も亀裂もなく、《LOVERS’ COVER》のなかでダブって戯れている。いたずらに巻きこまれ、遊びは伝染する。受け手の僕は哄笑する。この哄笑も、BABUの遊戯的な制作行為のなかで多重化していた動詞群のひとつである。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. NewSphere「アフリカでモデルナのコピーワクチン開発、WHO援助 途上国との格差是正へ」(Oct 27, 2021 https://newsphere.jp/national/20211027-1/)。
  2. 辻陽介《BABU伝》#01「金網の破れ目をくぐって」(https://hagamag.com/uncategory/8782)。
  3. 辻陽介《BABU伝》#02「残骸と瓦礫の街で」(https://hagamag.com/uncategory/8987)。
  4. BABUが自作したスケボーについては『Ollie』、2017年11月号、26-35頁を参照。サーファーが米国西海岸のプールに障害物をつくって始めたというスケートボーディングの起源については、イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市 身体と建築』(齋藤雅子+中川美穂+矢部恒彦訳、新曜社、2006年)を参照。
  5. 森山安英については、北九州市立美術館監修の図録『森山安英——解体と再生』(grambooks、2018年)、及び黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(grambooks、2010年)の439-58頁を参照。
  6. 花田伸一「BABU」(図録『VOCA2018 現代美術の展望——新しい平面の作家たち』、60頁)。森山と並んでその影響を公言しているアーティスト・宮川敬一の《昼下がりの自画像》もBABUはカヴァーしているかもしれない。僕の対談連載『ガイアの子どもたち』の「#05 BUMMING AROUND UNIDENTIFIED LANDSCAPES──宮川敬一はどこの馬の骨かわからない「風景」を放浪する」(https://hagamag.com/series/ss0066/8576)を参照。集団蜘蛛による菊畑の版画奪用パフォーマンスについては、黒ダ『肉体のアナーキズム』448頁を参照。
  7. ライターとしてのBABUの活動の詳細については、前出の辻《BABU伝》を参照。
  8. グラフィティの歴史については、大山エンリコイサム『アゲインスト・リテラシー──グラフィティ文化論』(LIXIL出版、2015年)、第二部「都市と落書きの文化史」(97-162頁)と『美術手帖』2017年6月号「SIGNALS! 共振するグラフィティの想像力」77-83頁を参照。なお、キース・ヘリングやジャン=ミシェル・バスキアのように美術の世界で評価されるようになったライター出身のアーティストはいるし、行政がストリート・アートとしてお墨付きを与えた壁画をライターたちに街中で展開させ、ジェントリフィケーションと観光地化を進める事例もある。違法行為であるグラフィティと公共との関係はもっと複雑である。
  9. たとえば、ウェブ版美術手帖「環境活動家がゴッホの《ひまわり》にトマトスープを投げつけ。作品は無傷」(https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26167)を参照。「ナショナル・ギャラリーはこの事件後即座に声明を出し、額縁に若干の損傷があるものの、作品自体は無傷であることを発表」とあるように、作品が無傷のまま保たれているかどうかが美術関係者にとって最大の関心事となる。
  10. 図録『VOCA2018 現代美術の展望——新しい平面の作家たち』、61頁。
  11. 日本を代表するスケーター・森田貴宏の所属するFESNが監修した写真集とDVDのセット『My Friend “BABU”』には、BABUが刷毛のついたスケートボードに乗って街の掃除をする映像作品が収められている。
  12. 前出の花田「BABU」を参照。