自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論 / 逆卷しとね

自由、自立、自己決定。「個人」という言葉にはそんなイメージがつきまとう。だが、私たちはむしろ、様々な物事との関係に拘束されながら生きているのではないか? だとすれば、思い通りにならない〈生〉をデフォルトととらえることで、おもいがけない世界が見えてくるかもしれない。在野の研究者による、人間観と身体観を問い直す哲学的試み。  

囚われを生きる(1)

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また、多くの場合わたしたちのあずかり知らぬところで、しかし最終的にはわたしたち自身のために、絶えず形成過程にある任意の「わたしたち」のために、わたしたちは互いに縛りつけられ、受苦を蒙る恐ろしげな提携関係を結んでいる。 ――ジュディス・バトラー1

この生

 『肉体のアナーキズム』の文体に飽きてやおら捨て置き、『世界の共同主観的存在構造』をふと手にとって、そのまま読んでしまう。おもしろければそのまま読み切ってしまうこともあるし、飽きたらまた別の本を手にとり、まるでそれが続編であるかのように読み続ける。1冊の小説雑誌に掲載された全作品をひとつの物語として読んでしまう、ウィリアム・フォークナー『八月の光』のジョー・クリスマスはそうだった。映画でも事情は同じだ。『ロッキー3』でも『未知との遭遇』でも『鬼滅の刃』でもやることは変わらない。ウェブでも文字でも小説でも映像でも人の顔や仕草でも、僕は毎日構造や意味のつらなりを勝手に読み続けている。読むことの連鎖につながれている。

 読み続けていると読むことに倦んでだんだん読めなくなってくる。気分転換が必要なことは重々承知している。けれども僕は、自分の力で読みの世界の外に出ることがどうしても難しい。慣性に従い、同じことを繰り返してしまう。コンテンツやメディアを変えても、事態は変わらない。破綻の兆しを糊塗し続ける左官工事に退屈し、鬱々としてくる。

 きっと趣味を持てば、禁欲的な内部と解放の外部のあいだを適宜往還する、気分転換に秀でることができるだろう。デスクワークや家庭から解放されてゴルフの打ちっぱなしに出かける。アスファルトの照り返しでこんがり焼けた顔をテトリスの世界に没入させる。部下に囲まれた仕事場から脱して、喫茶店でひとりドストエフスキーを読みふける。趣味には、個人に与えられた時空間を公私へと二分する効果がある。仕事とプライベートのあいだに、立ち寄るスナックや立ち読みする書店といったサード・プレイスを挟むのもいいだろう。自分の生活世界全体をいくつかに分けて機能ごとに管理するのが、できるビジネスパーソンのビジネススキルというものだ。

 個人に与えられた時空間をいくつかに分け、これらのあいだを行き来する。そのためには、退屈した自分を少し客観的に突き放して、「倦んだ」瘡蓋かさぶたの内部と「倦み」が押し出されていく外界を分ける境界を設定しなければならないだろう。しかし僕には境界を設定する義務を負うことすら難しい。僕には自分の意志で時空間を内部と外部とに分けることがどうやらできない。気分転換の技術どころか世界を分割する意志まで欠いているのだろうか。同じ場所で反復横跳びを続けているだけなのか。鬱々としてくる。気分を変える方法よりも、まずは話題を変えて、気分が変わる例を挙げたほうがよさそうだ。

 僕は人からの誘いや依頼を断ることが基本的にはできない。なんとなく応じてしまう。すると無理やりにでも鬱々とした気分からいったん引きはがされることになる。たとえば、今がそうだ。書くことは好きではなくむしろ苦手なのに、達成のために必要なエネルギーの残量やそれを補う依頼の熱量にもよるが、頼まれた書き仕事を断ることは滅多にできない。いったん仕事を引き受ければ、読むことから書かされることへと転じざるを得ないから、気分は変わる。

 正確を期すなら、気分が変わるというよりも、僕は後景に退く。書くのは僕ではない。手だ。僕がまったく思いもよらなかったことをこの手は書く。僕は手の機嫌を損ねないように、ときどき将棋を指したり、たまたま手にとった本のたまたま開いたページに目を這わせたり、やおらヘヴィメタルを聞かせたりする。手は気分屋だ。これからどんなことを書き始めるのか僕にはわからない。

 僕にとって考えるという営みは、手に動かされることだ。手が上機嫌に書き始めると、僕は知らない世界のなかにのめりこんでいく。僕は手が書いていく軌跡を読まされる。手の意図を理解することはできないが、手とのあいだにうっすらとした糸が架かるのを感じる。この妙なる糸に導かれて、自分にはないなにかが引き出されていくように僕は感じる。この糸がどんどん繰り出されていくにしたがい、僕はその糸につながる本や論文を読まざるを得なくなる。

 僕のなかのどこかに魔法の糸玉があって、そこから無限に糸が繰り出されているのだとしたらきっと事態は落着するだろう。錨のように確かな内なる起点があって、しかもロープが自在にどこまでも延びていくのだとしたら、僕は自分で決めた外部をめぐる自由を謳歌することができるだろうからだ。それは気分転換だと断言できる。けれども残念ながら、糸はいつも僕には縁のないはずのところから僕を結びにやってくる。糸の始点などない。

 書かされているときだけではなく、糸は平時から至る所で僕を縛っている。『肉体のアナーキズム』も『世界の共同主観的存在構造』も『ロッキー3』も『未知との遭遇』も『鬼滅の刃』も『うんこの博物学』もマグカップもひざ掛けも度の強い眼鏡さえも全部、粘着性の糸状のしがらみとして僕にまとわりついている。書き仕事をしているとき、僕に手の所有権はない。手は、僕ではないなにものかと僕を結ぶ、ねばねばした蜘蛛の巣の一部になっている。

 ここで便宜的に「糸」と呼んでいるなんらかの奇縁や因縁も、手と同じく僕の所有物ではない。僕はそれを完全にコントロールすることはできない。糸の始点はどこにも存在しない。だからその対蹠たいせきとなる外部と言える場所も存在しない。気分転換が下手なのは、僕が糸に縛られた世界に生きているからだろう。それでもなお気分が変わるのは、それまでの拘束具から完全に切り離されることによって自由を感じるからではなく、思いもよらぬ別の奇縁に結ばれて、それまでとは異なる雁字搦めを生きることになるからだ。「僕」とは畢竟ひっきょう、「しもべ」のことである。

 気分転換が上手にできる人たちは、きっと内気と外気のあいだに調整弁を設けて、開閉を司るスイッチをうまく切り替えることができる、自由な選択の権利を握っていると思っている。けれども、それは本当に自由な個人が有している権利の行使なのだろうか。そして自由や権利を所有することのできる《個人》というモードは、《この生》を生きる上でそれほど万能なのだろうか。

「いのちは所有できない」

 《個人》としての僕も当然存在している。だから、いっぱしの人間味のある所有欲が僕にももしかしたらあるのかもしれない。たとえば、高山宏『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』は2010年頃に古書市場で稀覯本だった頃に手に入れたものだから、重版された今となってもそれなりの愛着はあるし、献本でいただいた著書からは著者それぞれの苦心惨憺のプロセスをリアルに感じるから市販されているものと同じ本でも扱いは違う。なによりも今ここでこの文章を書いているPCにはこれまで収集した論文のpdfファイルや文章、さまざまな手続きに必要な書類のフォーマットなどが一堂に会しているわけで、これを遺失するとなると大変な喪失を味わうことになるだろう。手放したり、奪われたりすることに対する引っかかりを覚えるという時点で、僕はそれを所有している、ということも言えなくもないし、僕以外の人が見たらそう思うのが常識というものだろう。

 けれども、著書やPCをはく奪されることに対する忌避感が、所有の有無に発しているのかどうか、疑わしくもある。もちろん、これらのモノたちはすべて市場で取引されている。なんらかの理由で失ってしまったとしたら、僕は同じものではないかもしれないが代替品を買い求めるだろう。市場にモノが流通していて、いつでも代替できる状態にあるというのは、手元にあるものが唯一のものだったらそれが失われたときには手に負えなくなるからだ。《モナリザ》がズダズダに破壊されたり、平等院鳳凰堂が全焼したりしたら、それは大事件である。なぜならそれらは市場に代替物が存在しないからだ。でも、僕が所有しているものは少なくともお金を払えば同等の情報やスペック、機能を備えた代替品が手に入る、言わば大量生産品である。量産された商品を失ってしまったらがっかりするのは、ふつうに考えれば《個人》として買い直すのにお金がかかるからだろう。だが、僕以外のさまざまなモノやウイルス、ペットと結んでいるこの具体的な《関係》までは、どうしても買い直すことはできない。この《関係》を僕は所有してはいないし、それはできないからだ。ここに僕が囚われている《この生》の問題があるように思う。


 藁よりは碩学の知見を掴もう。    

 哲学者・熊野純彦は、生命は所有できない、むしろ生命の方が人を所有する、という論を展開している。

個体的な生としての、私の生のなかで、生そのものと私とのあいだにはたしかに距離は存在しない。生命と私とをへだてる隔たりは、ただ反省によってのみ可能である。そうであるとすれば、「私が生命を所有する」という主張は、ひたすら反省の準位をかいして成立するものなのであって、反省以前の経験のなりたちにあっては、生命の所有についてかたることはできないはずである。――だとすると、ことがらはむしろ逆になるのではないだろうか。つまり、私が生命を所有するのではない、生命が私を所有する。2

 対象化できるほど自分から離れた存在ではない生命は、生きている自分と見分けがつかない。だから「私が生命を所有するのではない」という結論が導き出されている。自分の眼球に走っている毛細血管を見ることができないのと同じことで、距離がゼロのものを人は対象化することができない。だから「わたしがいのちを持っている」と言えるのは、あくまでも主体が自己を対象化する反省(reflection=反射・反映)を介す場合だけだ、と熊野は言う。ただしそこにも限界はある。反省がつくりだす隔たりは、個人と生命のあいだではなく、生きている自己の経験とそれを反省している僕とのあいだに生じる。つまり反省は、個人を二分割するに過ぎず、生命それ自体を対象化できるわけではない。

 しかも「反省以前の経験のなりたち」を問うことが難しいからといって、「生命が私を所有する」というかたちで、生命が主体となり自分は客体になる、という結論にも無理がある。反省がなければ、結局、所有/被所有関係が両者のあいだに成立するほどの距離は生まれようがないからだ。だが、ここで確認しておくべきことは、「生殖や世代の累積」としての生命がわたしを所有するのか、それとも「個々の個体」が生命を所有するのか、という熊野の問いが、所有によって自由を得る《個人》から出発した生命観に依っている、という一点である。

 僕が冒頭で記述したような囚われを生きる《この生》にこだわるなら、果たして《この生》と僕のあいだに所有/被所有の関係は成り立つのか、疑問に思う。たとえば、Covid-19流行下でのリモートワークの一般化は、多くの人たちを《個人》の世界から僕の《この生》の世界のほうにいっそう引き寄せた。3 仕事はこっちでプライベートはあっち、というように、自分の生を自らの意志で切り分け、内と外とを自由に行き来する、器用な《個人》による気分転換はできなくなる。ふだん二次創作の世界に打ち込んでいた私室が、顧客とのやりとりやプロジェクトの進捗状況の確認をする仕事場になる。時空間の閉塞に起因するギスギスは、個人の自由を求める抗議と共同体としての協調性を押しつける糾弾のあいだで起こる紛争を活性化させるかもしれない。しかし自由を求める《個人》の運動が《この生》の拘束にまつわる問題を解決することは恐らくないだろう。

 いみじくもCovid-19の感染爆発に当面した世界のなかで、祖母の大往生を目の当たりにした伊藤亜紗は、所有できないいのちとの共生という問題系を探り当てている。伊藤は、「もうずっと先に行ってしまっている」祖母の体が、「もう私たちには引き止めることのできない自然の力に」「呑み込まれている」と評した上で、いのちを語る。  

うまく言えないのだが、私たちはすでに、いのちと共生しているのではないだろうか。人が生まれ、そして生き、子を作り、死ぬという変化は、根本的には、意志や努力や感情といった人間的な事情とは関係ないところで起こっている。いのちは自然の営みであり、それと併走することはできても、所有することはできない。生まれるとは、いのちの流れにノることであり、死ぬとはいのちに追い越されることなのではないか。私たちはすでに、思い通りにならないものとともにある。4

 「いのち」は「自然の力」と大部分重なりつつも、そこには微妙なずれがあるように見える。自然な力とは異なり、いのちには「生き、子を作り、死ぬという変化」を生きている人間も含まれているからだ。しかしいのちとの関係において人間は、「併走する」こと、「流れにノること」、「追い越されること」しかできない。思い通りにならない流れであるがゆえに、人間はいのちを所有することはできない。

 《この生》もまた、人間の思惑を超えたさまざまなしがらみとともに流れていくものであり、そのなかに生きるものは流されていく存在である。いのちと同じように、《個人》には所有できず、思い通りにならない不自由なものである《この生》は、いつも人間を呑み込んでいる流動体である。所有できない、したがって売買のできない、全貌の不確かなめくるめく関係の糸の運動に拘束された《この生》を生きることは、《個人》で問える自由と不自由の射程を超えている。

 以上のような僕自身の悩みと問いを起点に、本連載では、自由・自立・自己決定・自己責任を志向する《個人》というフィクションを一旦手放す。そして、自由も不自由も自立も自己決定も自己責任もない、個人の思い通りにはならないしがらみと共にある《この生》というフィクションの生き直しを志向してみる。《この生》にふさわしい、拘束された身体の再発明にたどり着けば僥倖ぎょうこうだが、当てはまだない。

個人と所有

 《この生》のほうが《個人》というフィクションよりも優れている、と言いたいわけではもちろんない。僕はある面ではまごうことなき《個人》だからだ。僕は日本国の法律のもとに、一応存在していることになっている。パスポートを賦与され、マイナンバーを割り振られ、保険証を有する、他の個人からはっきりと分けられた個人である。隣の家の誰かと僕の見分けがつかなかったり、手にとったマグカップと僕が異なる存在であることが立証できなかったりすると、大変困ったことになる。僕の免許証を使って隣の人は自由に借金を重ねることができるだろうし、マグカップが割れた瞬間に僕の葬式が挙行されることになるだろう。そうなるといろいろと不都合が生じるから、他の人間やモノ、生物とは異なる最小単位の個人(individual)として僕は、法的に、そして社会慣習上、その地位が保証されている。

 個人という概念はとてもしぶとい。小説家・平野啓一郎は、個人を全体化することなく、複数の自分の集合体として考える。個人や個性について回るただひとつの希少な全人性を貴ぶ世の趨勢に抗い、他者との多様な関係性に応じてその都度引き出される複数の分人(dividual)を平野は前景化した。5 しかし、個人の基礎となる自他関係そのものを平野が退けているわけではないように僕には思える。分人は自分とは異なる他者との関係に応じて生じるとされる。つまり、分人が成立するためには、他人との個人差や個体差、異なる存在を予め前提しなければならない。全人的に表象されがちな個人を内的に分人化することはできても、その分人が立ち現れる場面には自他という予め分けられた関係を前提しなければならない。他者と同じではないわたしという個人が必要になるという事情はあまり変わらない。

 人権を認めたり、過失や加害の責任を問うたり、国家による再分配をしたりするためには、他人とは明確に異なる個人という単位がないと困ることぐらいは僕にもわかる。啓蒙思想の時代から、最小単位としての個人とそれらの集合である共同体を焦点として、自由と社会秩序のバランスをめぐる議論が行われてきたのは、近代的な統治という観点からすれば当然のことだ。

身体の所有

 近代化を生きる自由な個人の根にあったのが所有権だった。たとえばジョン・ロックは、個人は労働を通じて所有の自由を行使すると考えた。労働所有説(labor theory of property)である。法哲学研究者・木原淳によれば、身体の自己所有がこの労働所有説の根拠となっている。

 ロックによれば、身体の自己所有によって個人主義的自由は基礎づけられ、人は身体を利用し、物件に労働を投下するが、そのことで物件は身体の延長として、身体と同質の、不可侵の所有物としての地位を与えられる。この思想は今日、経済的自由への制約に対して無頓着な、現代の社会国家論を批判し、ラディカルな自由を擁護する論者たちの強い論拠となっている。6

私は自己の身体を自由に操作し、他者によるコントロール下に置かれないという意味で、身体を「所有」するといえる。私は自らを肉体的・精神的に鍛え上げるという労力を投入することで、一定の能力を獲得し、その能力を正当に所有し、利用しうる。それによって得られた果実は、自身の労働による私の価値向上部分として、私はその利益を正当に享受できる。その限りで私は自分の身体を所有する。7

 ロックの発想に従えば、僕という言語上の主語は、意識かもしれないし、意志かもしれないし、思惟かもしれないし、自我かもしれない。いずれにしても、物質的なものから切り離されている僕がまず存在していて、それが僕の身体を所有できる、という不思議な原初状態をロックは想定しているようだ。


 おそらくは僕と言える人格さえ存在すれば、身体はなんであれ構わない。右手が竹やりで、左手は菜箸であろうが、僕は身体を所有していることになる。そして僕はその身体を活用して労働する。右手の竹やりでイタチを刺し抜き、左手の菜箸で釜のなかのスパゲッティをかき混ぜる。身体をもって行われた労働の結果、皮を剥ごうが食そうが自由のイタチと茹でられてやわらかくなったスパゲッティを、僕は身体の延長として所有することができるようになる。

 「労働所有説とは、所有の正当化根拠を示すものというよりも、労働により生み出された価値や利益の享受を正当化するテーゼといえる」と木原が論じているように、ロックの目論見は、労働が生む新たな価値を労働者以外のなにものかに不当に簒奪さんだつされないように人権を確保することにあり、所有それ自体の根拠を問うのが目的ではない。8 身体の所有は、あくまでも市民の権利を正当化するためのフィクションである。しかし、封建制を脱して近代的市民の自由を肯定するためには、このフィクションは欠かせないものだった。

世界の中の住処

 ロックから時代は下り、20世紀に入っても、所有は自由な個人の基礎であり続けている。たとえばロックを批判するハンナ・アレントは、必要に応じてなされる労働ではなく、公的領域をつくっていく活動(action)こそが自由の行使であると考えた。

 しかし政治・社会思想史研究者の井上達郎によれば、そのアレントも、私的領域に「世界の中の住処(worldly home)」を確保する、私有財産(private property)という制度にこだわっている。9 「個人が私的に所有していた『財産』が、社会全体の経済発展に寄与する『資本』と見做され収奪の対象とされていく際限のない『プロセス』」10 である「徴用」(expropriation)をアレントは指弾する。だから、公的領域における活動も、個人が所有する世界の中の住処のはく奪(deprivation)に対する批判と連動することになる。

「私有財産」を所有すること、つまり政治的共同体の中で特定の場所を占有することは、「法(Gesetz)」の保護を享受することを意味したということである。「公的なものの内部では、私的なものは、境界を引かれ塀で囲まれたものとして現われるのであり、そうした塀と境界を保つことが、公的共同体の責務なのである」(Va: 78=77)。アレントは都市国家の「法」を、家々を隔てる「境界線(Grenzen)」ないし「塀(Zäune)」と捉えており、この「塀である法」が「公的領域」と「私的領域」の双方を分離し保護していたと理解している。彼女にとって「私有財産」とは、「境界線」ないし「壁」として機能する「法」による保護を通して、「世界の中の私的な居場所」として、別の著作で見られる彼女の印象的な表現で言えば、「世界の中の住処(worldly home)」(BPF 146=199)という本来の役割を果たす。「私的領域」を保障することで政治的共同体を安定させてきた「制度」として、アレントは「私有財産」を重視しているのである。11

 私有財産は、私的領域に引きこもっているだけでは達成できない。たとえば僕のなけなしの預貯金が僕のものとして認定されているのは、僕が「これは僕のものである」と認識し、家の中でそう宣言したからではない。私有財産を保護する法律があって、僕以外のすべての人が、僕の預貯金を僕のものとして尊重するという暗黙の合意が働いているからだ。私有財産は、ごく個人的な関係でつくられる私的領域を世界の中の住処として承認するためにおこなわれてきた公的な活動の遺産であると同時に、今もなお市場経済のなかに組み入れられないよう公的活動によって守り続けなければならない制度である。12

 預貯金だけではない。私有財産には、お金や家だけではなく、大切で親密な人間関係に対して振り向けられるやりがいややさしさ、笑顔まで含まれる。これら親密な関係で培われ、お金に換算されない情動だったはずの愛や友愛が、「スマイル0円」や家族のふりをした会社への献身に動員される。世界の中の住処を形成するために発揮されていた個人の資質が徴用され、社会関係資本やコミュニケーション資本として競争の焦点となるという、昨今見慣れた民営化や感情労働に私有財産の考察は寄与するだろう。

 アレントに倣うなら、公と私を分離する壁の機能不全は、公が後退したのではなく、壁が壊れて公が肥大し、私をはく奪する側に回ってしまっている状況として説明することが可能だろうか。13

 碩学の思考をなぞって自由な個人というフィクションの源が所有(possession)にあるとすれば、当然それははく奪(dispossession)にも関係する。

 たとえば18世紀から19世紀にかけての世紀転換期におけるフェミニズム運動の多くは、男性が独占していた相続権や財産権が女性からはく奪されている現実に発していた。以後も女性たちが、公共の場で発言する権利や投票権、被選挙権など、さまざまなはく奪を「発見」していった経緯についてはフェミニズムの歴史書を紐解けばどこにでも書いてある。14 アメリカ黒人の反人種主義運動は、奴隷という境遇における人間的身体や権利のはく奪の告発に始まり、その後も白人が持っているのに自分たちが奪われている権利の回復、はく奪を促進する差別的な法律の撤廃に力を注いでいる。15 祖先が生きていた土地を強制的に追われ、今もなお埋蔵資源の発見などの事情で移住や迫害に見舞われている北米先住民の苦境も、(彼らの伝統である大地とのつながりはなかなか扱われないまま)近代的な制度の手続きに従って土地所有権の問題として処理される。16

 世界の中の住処のはく奪は歴史を駆動させる。しかし、それだけで本当にいいのだろうか。そう疑ってみることが、《この生》の問いの始まりにはある。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. Butler, Judith. Notes Toward a Performative Theory of Assembly (Harvard UP, 2015)、121頁の拙訳。邦訳ジュディス・バトラー『アセンブリ 行為遂行性・複数性・政治』(初版 佐藤嘉幸+清水知子訳 青土社 2018年)の159-60頁を参考にしている。「受苦を蒙る」と訳出したpassionateは、本書中「傷つきやすい」vulnerableとセットで数回用いられている。「受動的」passiveの語感と「受難」passionを念頭において訳出した。専門家の批判を仰ぎたい。
  2. 熊野純彦「所有と非所有との〈あわい〉で(上) 生命と身体の自己所有をめぐる断章」(『思想』922 2001:4-29)、19-20頁。同論稿は、熊野純彦『差異と隔たり 他なるものへの倫理』(岩波書店 2003年)の一部として刊行されている。
  3. 災禍の以前以後を分断し、それ以前に回帰しようとする言説の支配はいつの時代も強い。これもまた、認識や存在を切り分ける傾向にある《個人》のパラダイムの一形態なのかもしえない。だが《この生》は不可逆であり、決して元には戻らないという厳然たる事実は変わらない。Corvid-19流行と相まって生じた問いを総覧した上で、集合的忘却、情報の氾濫、生態系への意識の三点にまとめ、歴史学者の観点からまとめた北條勝貴「忘却と変質の相克 Covid-19下の歴史実践の行方」(歴史学研究会編『コロナの時代の歴史学』 績文堂出版 2020年)を参照。その他、浜田明範「ようこそケアの世界へ 2つのノスタルジアから環境の改編へ」(2020年3月29日オンラインラウンドテーブル「COVID-19と文化人類学」発表資料や奥野克巳他編『コロナ禍をどう読むか 16の知性による8つの対話』(亜紀書房 2021年)を参照。
  4. 奥野克巳+吉村萬壱+伊藤亜紗『ひび割れた日常』(亜紀書房 2020年)139頁。
  5. 平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社 2012年)。分人論は人類学や哲学でも研究対象となっている。たとえば、中空萌+田口陽子「人類学における「分人」概念の展開 比較の様式と概念生成の過程をめぐって」(『文化人類学』81.1 2016: 80-92)、藤田尚志「現代社会における愛・性・家族のゆくえ ドゥルーズの「分人」概念から出発して」(岩野卓司編『共にあることの哲学と現実 家族・社会・文学・政治(フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉2 実践・状況編)』 書肆心水 2017 39-83)がある。
  6. 木原淳「生命と所有 身体利用の権原をめぐる一考察」(『富大経済論集』60 2015: 1-26)2頁。以下、木原からの引用は、読点の種類を拙稿のフォーマットに従って変更している。
  7. 木原 21頁。
  8. 木原21頁。
  9. 井上達郎「アレント思想における『私的領域』概念の存立意義 『私有財産』論に着目して」(『現代社会学理論研究』11 2017: 81-93)84頁。「アレントによれば『私有財産』とは、『私的に所有された世界の断片(piece of privately owned world)』であって、財産を所有するということは、『世界の特定の部分に自分の場所(one’s location)を占めること』を意味していた」(83)。
  10. 井上87頁。
  11. 井上84頁。
  12. 井上は『人間の条件』の議論を引いた上で、「本来的に『欠如している』(privative)という意味をもつ『私的』(private)という言葉が『財産』と関連づけられると、その否定的な意味を失い、公的領域(「政治体」)にとって『最も重要だと考えられていた一定の特質』を帯びたものとして肯定的な意味を獲得する」(83)とまとめている。政治的生活への参加が奪われている私的領域を、単に公的領域の劣位に置いて退けるのではなく、両者が連絡する接面をアレントは財産に見出している。
  13. 田中拓道『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』(中央公論新社 2020年)の整理に従うなら、ロックは個人の自由を守るために国家の介入をできるだけ排除する古典的自由主義に属し、アレントは個人の自由を守るために国家の積極的な介入を認めるリベラリズムに属している、ということになるだろう。
  14. 僕の非常に偏った読書遍歴のなかから挙げるなら、有賀夏紀『アメリカ・フェミニズムの社会史』(勁草書房 1988年)、岩本裕子+緒方房子+武田貴子『アメリカ・フェミニズムのパイオニアたち 植民地時代から1920年代まで』(彩流社 2001年)、奥田暁子+秋山洋子+支倉寿子編著『概説 フェミニズム思想史』(ミネルヴァ書房 2003年)など。
  15. 岩本裕子『物語 アメリカ黒人女性史(1619‐2013) 絶望から希望へ』(明石書店 2013年)、ベンジャミン・クォールズ『アメリカ黒人の歴史』(明石紀雄+岩本裕子+落合明子訳 明石書店 1994年)、ジェイムス・M・バーダマン『アメリカ黒人史 奴隷制からBLMまで』(森本豊富訳 筑摩書房 2020年)など。
  16. 阿部珠理編著『アメリカ先住民を知るための62章』(明石書店 2016年)、松永京子『北米先住民作家と〈核文学〉 アポカリプスからサバイバンスへ』(英宝社 2019年)、鎌田遵『ネイティブ・アメリカン 先住民社会の現在』(岩波書店 2009年)など。