自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論 / 逆卷しとね

自由、自立、自己決定。「個人」という言葉にはそんなイメージがつきまとう。だが、私たちはむしろ、様々な物事との関係に拘束されながら生きているのではないか? だとすれば、思い通りにならない〈生〉をデフォルトととらえることで、おもいがけない世界が見えてくるかもしれない。在野の研究者による、人間観と身体観を問い直す哲学的試み。  

個人認証と不審な《この生》

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自己紹介

 僕は自己紹介が苦手だ。所属や職業、趣味をスマートに紹介できない。自己紹介の定型で用いられる項目のすべてが僕の場合は空欄であり、他人が常識として共有している「自己」の指標にいささかも関心がないのだから無理もない。体裁だけ整えるなら、「野良研究者/学術運動家」という肩書を挙げることになる。ところが、僕にはその肩書らしきものの意味がよくわからない。「地球防衛隊です」と言っている感覚に近い。聞いている側もさっぱりわからないだろう。そこで手心を加え「HAGAZINE九州支部」や「在野研究者」という比較的穏当に聞こえる余地のある自己紹介をすることもある。

 持ち時間に融通が利く機会には、自己紹介という形式には嵌まらない話をだらだらすることもある。文芸共和国の会という市民参加型学術イベントを知り合いと立ち上げてみて、いろんな学者や興味本位で集まってきた人たちと交流しているうちに、だんだんとそれまで一冊も本を読んだことのなかった領域やよく知らない人の身の上話に首を突っ込むようになる。気がつけばファミレスで初対面の不動産会社の社長さんの自殺未遂に関する打ち明け話に夜が明けるまで耳を傾けていたり、これまた初対面の鹿児島出身の酔客の数奇な人生を居酒屋の丸椅子に座ったまま聞いていたりする。アーティストのプロジェクト(≒いたずら)に片足をつっこんだり、いろんなやんちゃをやらかしてきた人たちの話を聞いたりする。カビとキノコの本やマリア・プイグ・デ・ラ・ベラカーサ1 の論文を読みつつ、時には山口の立ち飲み屋で出会った二十歳そこそこのややたちの悪い集団と朝まで飲み比べをするという徒労の苦汁を舐めることもある。blah, blah, blah.

 本を読んだりなにごとかを書いたりもしているので、たぶん「学術」の末席に尻の半分くらいは引っかかっている。いろいろと動き回っているのだから、「運動家」ではあるだろう。とはいえ、これが自己紹介という形式で語ることを求められているような話ではないことはこんな僕にも察しがついている。


 自己紹介は、近代的自我と社会性を備えた《個人》と、得体の知れないなにかに巻きこまれつつ不断に移ろう《この生》を分けるポイントのひとつなのかもしれない。自己紹介の形式は、紹介する当人にも把握できていない動性の余剰をそぎ落とす。属性や職業、肩書といった「名詞」を交換する社交の習慣が自己紹介であるとするならば、《個人》の属性に基づいた自己には所有できない動的な関係性の束である《この生》を、その形式に沿って伝えることが難しいのも得心がいく。そのような場では、《この生》のしもべを囚われの身にする「動詞」を紹介することは求められていないからだ。
 
 前回紹介した『アセンブリ』でジュディス・バトラーが論じていた、傷つきやすさに曝された身体に発する不安定な生と、僕が囚われている「わたしたちの具体化」を、名詞として紹介することはできない。

僕の思い通りにはならない《この生》の問題に取り組むには、《個人》や個人を整然と並べた集合とは別様の身体を具体化すること、つまり「わたしたちの具体化」(our embodiment)について考えなければならない。「わたしたちの具体化」に組みこまれているときの僕は、動的な糸状体に次々と拘束されるのが所与なのだから、《個人》が所有し自己決定できる身体とはとても言い難い。きっとこの身体性が、不意に変わってしまう不本意な僕の気分を縛っている、あの糸の一端なのだろう。(本連載第2回)

 わたしたちの具体化は、(同質であれ異質であれ)個々人をひとつにまとめあげた共同体や連帯からはほど遠い。それは内に閉じてはおらず常にうようよと蠢いているからうまく名指すことができない。おまけに「偶然に蹂躙された、強制的な共生」というその動性のために、「名詞」として把握することはできない《この生》は、「動詞」の糸状体となって僕を不意に襲う。それは意味のあるものか、よいものか、役に立つものか、僕にはまったくわからない。わたしたちとして具体化するこの身体の傷つきやすさを介して、僕は僕の意のままにはならない未定のわたしたちの具体化に対する不安に開かれていなければならない。恐ろしいことではあっても、《この生》を予め善悪や好悪を判断することのできない偶然に開いておくために。

 偶然を含み持つ《この生》は、未完の動性につきまとわれている。なにがどうなるかまるでわからないのだから、とても恐ろしい。だから「名詞」を交換する自己紹介とは異なる、「動詞」を絡まりあわせたわたしたちの具体化への招待を始める僕は、《個人》のフィクションを生きている人たちにとっては不安を招き入れる存在に映るのかもしれない。しかし、これがとり立てて異常なことであるようには僕には思えない。「わたしたち」という一人称は、いつも代名詞の範疇を超えた恐ろしさを湛えている。そのなかに何が含まれているのか、どこまでがわたしたちなのか、これからどんなわたしたちになってしまうのか。「わたしたち」は抽象的な代名詞なのではなく、具体化する動詞なのだから恐ろしい。

強迫する自己同一化アイデンティフィケーションの限界

 《この生》の問いを先鋭化させるために、これから《この生》の恐ろしさについて論じてみようと思っているのだけれども、その前に《個人》のホラーに寄り道しておきたい。《個人》にも不安や恐怖はあるし、恐らくそのほうが一般的だろう。自己紹介を枕に置いたのは、《個人》のホラーの問題に名詞とアイデンティティの問題が深くかかわっているからだ。

 「アイデンティティ」(“identity”)は、14世紀フランス語に由来する、「同一であること、ひとつであること、同一である状態」を指す言葉だ。2 この用語は通常、発達心理学者エリク・エリクソンの「自我同一性」(ego identity)や社会学における「自己同一性」(self-identity)の意味で使われることが多い。その延長線上に、ある集団に対する同一化を表す文化的・民族的アイデンティティ(アフリカ系アメリカ人、「アイヌ」、縄文文化圏)や、個人の自己認識と規範との関係性を示す「ジェンダー・アイデンティティ」(シスジェンダー、トランスジェンダー、ノン・バイナリー)のような用法がある。3 いずれにしてもアイデンティティの問題系が焦点とするのは、個人の自己感覚・意識をなんらかの理想・イメージ・「属性」を表す名詞に「一致させるアイデンティファイ」傾向である。


 《個人》のホラーという言葉で僕が想定しているのは、たとえば、「女性」や「公務員」、「ニカラグア人」といった名詞に自己同一化アイデンティファイしている個人が、その同一性アイデンティティを喪失するような事態だ。結論を先どりしてしまえば、失職して「無職」に転落する、性の揺らぎを経験する、祖国を失い難民になることへの恐れは、自己同一性を保証する国家的・社会的な《個人》の制度に由来している。実際、社会保障番号、マイナンバー、戸籍、免許証、保険証、パスポート、果てはウイルスソフトのアクティベーション・キーからTカード、レンタルDVDの会員証に至るまで、個人の正体を保証するドキュメントや数字には事欠かない。これらの存在は、「お前は何者でもない」という権利はく奪の宣告と紙一重だ。ひとたび証明書を紛失してしまえば、さまざまなサービスを受けることができなくなる。警察が職務質問の際に、身元を示す証明を求めてくるのも同じ理由による。この社会は得体の知れない不審者を恐れる。その裏返しとして、個人は固有名や職業、住所などの複数の名詞を所有することに固執し、不審者に転落することを恐れる。

 名詞を失うことへの恐れは、ある名詞に対する自己同一性アイデンティティを社会的に承認してもらえないことへの怒りと同根である。茨城県牛久の東日本入国管理センターに収容されている、あるいは収容される可能性のある外国人不法滞在者、法的な婚姻関係を認められない同性愛者、痴漢や暴行の危機に曝される女性、新型コロナウイルス対策のための助成金受給対象から外されている風俗業関係者、ことあるごとにヘイトスピーチの圧力にさらされる在日朝鮮人コミュニティ、恋愛や性愛を経験することを当然とする世間に居場所のなさを抱えているAro/Ase4、女性としての地位を認められず偽物として扱われ時には暴行魔の烙印さえ負わされるトランス女性。彼らはみな、「定型」の名詞をもっていない、あるいは世間の常識に照らして「正しい」自己同一化を果たしていないと見なされるために排他的な圧力を受け不安や恐怖をかこち、それに伴う自分の存在や権利の認知の不足に怒りを覚える。とはいえ、彼らの苦しみの源は、それぞれのある特定の自己像への同一化が社会的に認められないということにはない。彼らは人間として当たり前の人権を享受できないために苦しむのである。しかし、彼らに人権を認めない法律や世間のあり方を変えるよう働きかけるときには、人間であること以上に彼らが自己同一化しているものの未だ人間のサブカテゴリ―として公認されていない名詞を掲げ、その名のもとに連帯することが力となる。

 社会的に登録されていなかったり、差別的に冷遇されていたりする人々が自己同一化している名詞の地位を変えようと試みる政治をアイデンティティ・ポリティクス(identity politics)と呼ぶ。アイデンティティ・ポリティクスは、どんな身分・属性に自己同一化している人であろうとも、人間としての地位を保証すべきだと考える普遍主義に基づいている。同じ人間として当然所有しているはずなのに、ある特定の名詞からはく奪されている法的・社会的権利を償還するよう要求する。このようにある特定の名詞に対する自己同一性をめぐる《個人》の政治は、人間の規範を設定すると同時にある種の人間を排除する自己同一化アイデンティフィケーションの体制に働きかけ、その体制の不備を問い、人間を示す「正規の」名詞群に彼らのそれを新規登録することを目指す。

 アイデンティティ・ポリティクスがこの社会で有効なのは、わたしたちが自らの存在をなんらかの名詞に自己同一化することを当然とする社会のなかに生き、これに予め適応することが必須になっているからだ。たとえば生誕後2週間以内に届け出ることが戸籍法で義務化されている、出生届に記載された新生児の名前がそうだ。親が決め法的に登録された名前は、周りの人々にそう呼びかけられる過程で、やがて自分の名称として、ひいては自己紹介のタグとして引き受けられることになる。


 しかし名前への自己同一化に揺らぎがないわけではない。名前は、ここに生きているこの存在と原理的に一致しない。山田田吾作は、この「わたし」が存在していることを指し示してはいるが、「わたし」の性質をなにも説明してはいない。「福男」や「佳恵」に「幸福な男になってほしい」「佳い子で恵まれてほしい」という親の願望は多少なりとも込められているだろう。だが、それが親の思っていた通りに成就することは滅多にない。むしろ「幸子」が不幸だったり、「蹴斗」がボクシング選手になってしまったりすることはままある。名前に刻み込まれたジェンダーの偏りが、実際に生きている当人の生において実現するとは限らない。「わたし」に宛がわれている戸籍上の名前を鬼龍院翔やアイリーン・アドラーに改名したところで、名詞への自己同一性に違和が発生する可能性が残ることに変わりはない。どんなに自己同一化の努力をしようとも、これらの名前には「わたし」を指示する機能しかなく、それらが「わたし」と一致し、「わたし」のすべてを説明してくれることはないからだ。だから自己同一化という規範のもとで生きるうえでは、不安や恐怖が生じる可能性は絶えずある。

 不安や違和は姓の変更にもあるだろう。婚姻に際して、制度上片方の姓の変更が強制される、夫婦別姓が認められない国では、家父長制のなごりゆえに妻の側が夫の側の姓を名乗ることが多い。さまざまな書類に関する煩わしい名義変更の手続きは措いたとしても、生まれながら親しんできた姓を失うことに喪失感を感じる人はいるだろう。僕の場合、中学生のときに両親が再婚したために、姓が変わった。するとその前後であだ名が変わる。姓の変更以前の人間関係と変更後のそれは、ふたつのあだ名というかたちで併存し、まるでふたつの運動する同心円の真ん中でぐらぐら揺れる木馬に跨っているようだった。姓の変更ひとつで、自己同一性をつなぎ留める南京錠のツルはぽきりと折れてしまう。それが、名前に自己同一化することを当然のこととする、社会の規範性の効果のひとつだろう。

 しかし姓は、血縁関係の維持と再生産=生殖(reproduction)のために存在する(規範的な)家族の物語にどっぷり浸かっているし、結婚制度自体が戸籍に代表される、名詞を使った管理のための制度である5。とはいえ、書類上の名前はともかく、さまざまな関係や状況に応じて名前を変えることは今でも可能である。事実、逆卷しとねというふざけた氏名宛てにも郵便物が届く。こういうふうに考えてしまうのは僕があまり名前に関心がないせいかもしれないし、そもそも他人の固有名を覚えるのが苦手という僕の性向もあるかもしれない。いずれにしても、血の係累を引きずる姓を残すことにこだわるよりは、姓だけではなく名前も変えるという選択肢も含めて、さまざまな可能性を探るべきだろう。名前とそれへの同一化は、《個人》のフィクションに過ぎないのだから。

 職業や肩書も自己同一化に深く関わっている。仕事に誇りを持っている人は多いだろうし、それは日銭を稼ぐ手段としてだけではなく、働き生計を立て税金を納めるという「社会人の義務」を果たしているという真っ当な感覚を得るためにも必要なことなのだろう。しかしその内実は曖昧だ。たとえば「会社員」は会社に勤めている。だがその実態はブラック労働にあくせくする社畜であるかもしれないし、福利厚生に恵まれたゆとりのある生き方をしているエリートかもしれない。「公務員」は行政や国の機関で仕事をしている。外務次官のように天下り先を確保することができる人もいれば、ごく短期的な時給制のデスクワークをしている人もいる。誰かの職業の内容を名詞として表象することにはいつも限界がある。これを克服するためには、部署、仕事内容、収入、赴任地といった基準で名詞を細かく割っていくという方法もある。しかし自己紹介で用いられる名詞群がそもそも曖昧で、ファジーで、緩やかな自己同一化の産物である、という了解は必要だろう。

 強迫的なまでに身分照会を求めてくるこの社会においては、不審者への転落や人権のはく奪に対する恐怖に打ち克つために、アイデンティティを起点とした生き方や政治にとりくむことは大切なことではあるけれども、名詞への自己同一化にはいつも限界がある、ということを確認して、ひとまず満足しておこう。

かけがえのないわたしの挫折

 自己同一化には限界がある。しかしそれでもなお、わたしはわたしとして存在することが確証されなければならない。自己同一化の社会では、わたしという存在のかけがえのなさと、時間の経過を経てもなおわたしとして認めうる一貫性が要請される。《個人》のフィクションを生きるためには、わたしは他とは異なる個人としていつも「決定」されていなければならない。

 たとえば、個人のアイデンティティは複合的に絡み合っているために特定の帰属をそこから切り離すことはできない、という立場を貫くレバノン生まれフランス在住の作家アミン・マアルーフでさえ、「ひとつの全体」としてのアイデンティティにこだわる。

ここまでずっと、アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。ある人のアイデンティティは、自律したいくつもの帰属を並べ上げたものではありません。それは「パッチワーク」ではなく、ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様なのです。たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです。6

 さまざまな経験や出所来歴は生身の皮膚のパレットで調色を施されそのまま沈着する。わたしがわたしであるという感覚アイデンティティを抽象的な概念ではなく、さながら全身に彫られた刺青のようにイメージするその筆致は魅力的だ。しかしここで注目に値するのは、マアルーフがアイデンティティの複数性を退け、その唯一性にこだわっている点だ。アイデンティティは、他人のそれとは構成が異なる「ひとつの全体」として生きられている。いかにそれが複合的な帰属から構成されていようとも、時間の経過において流れるものであろうと、マアルーフの「ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様」は「わたし」と一致するひとつのものとして同定される。この「ひとつの全体」という表現に見られるアイデンティティのかけがえなさと他人との境界画定は、そのままその裏面として《個人》が抱えざるを得ない、一致しないアンアイデンティファイことの不安や恐怖につながるだろう。7


 社会的承認のはく奪や権利の喪失に対する怯えは、他の誰とも異なる個人を際立たせ「ひとつの全体」として維持する、自己同一化のシステムと背腹の関係にある。とりわけ本連載初回の《個人》と所有の問題を念頭に置くなら、所有とアイデンティティを同系の問いとして並べる鷲田清一の論は示唆的だ。

 鷲田はアイデンティティの問題系を「固有性」と「人格の同一性」のふたつに分ける。固有性は、自分探しやわたしがわたしとして定まらないという危機アイデンティティ・クライシスの渦中にある(長い)思春期のように、他の誰とも違う唯一の自分を画定させなければならない、というフィクションにかかわる。他方、人格の同一性に託されているのは、「時間のなかでの身体の不断の様態変化をつらぬいてわたしが<わたし>として同一の持続的存在であるのはどうしてか」という主題である。8 つまり、ものごころつく前の幼児の僕と今ここで蕎麦を啜っている僕が連続した存在であるという、時間的変化を経てもなお維持される自己の同一性の問題である。9

 鷲田は、固有性と人格の同一性というアイデンティティの二大テーマを所有が串刺しにしていると考える。

〔西洋近代の思想では、〕時間のなかでおなじ自己を「保ちつづける」意識のはたらき、記憶というかたちで自己を「持ち」つづけるという、意識の自己所有のはたらきのなかに、人格の同一的な存在の根拠が探しもとめられたのである。これは、ある人格の自己同一的な存在が人格による「自己の所有」という事態へと還元するというかたちで、<存在>を<所有>に定位して理解しようとする思考にほかならない。このような思考法が、主体の自己固有性を、他者とは異なるものとして自己内在的に規定しようとし、かつまた時間的には過去に向かって自己の同一化を図ろうとする点で、まさに二重の意味で、他者にたいして身を閉ざすものであることは、あらためて確認するまでもないことであろう。10

 自己同一化は、他者とは異なる「わたし」のなかに「わたし」の基礎となるもの(固有性)を探し求める運動と過去の「わたし」と今の「わたし」の一致(自己の同一性)を追求する運動のふたつからなる。このふたつの運動の原動力となるのが「自己の所有」、すなわち「<存在>を<所有>に定位して理解しようとする思考」である、と鷲田は考える。鷲田はこの後、モノの同一性が崩れたり、自己を所有することへの強迫観念が自己同一性アイデンティティを揺らがせたりするときに、他者へと開かれていく契機について論を展開している。鷲田のように、自己の所有を挫く契機に自らの存在を認めてくれる他者の次元へと「わたし」が開かれる、というのは他者論の典型でもある。


 自己同一化の限界や揺らぎに他者への開示を見る他者論は、『ジェンダー・トラブル』でジュディス・バトラーが展開したアイデンティティ論とも共通する。バトラーはアイデンティティの未完性について次のように解説している。

肌の色やセクシュアリティや民族や階級や身体能力についての述部を作りあげようとするフェミニズムのアイデンティティ理論は、そのリストの最後を、いつも困ったように「等々エトセトラ」という語で締めくくる。修飾語をこのように次から次へと追加することによって、これらの位置はある状況にある主体を完全に説明しようとするが、つねにそれは、完全なものにならない。11

 自己同一化は必ず過剰や失敗をはらんでしまうため完全なものにはならない。だからどれだけ説明を重ねても「わたし」は完全な「わたし」を呈示することができない。しかしそれは、完全な自己がどこかに予め実在しているのに、「わたし」の能力が不足していてそこに自己同一化が届かないから、ではない。自己同一化の理想的な対象である「ほんとうのわたし」は実在しない。上記引用以降のバトラーの立論に従えば、自己同一化が対象とする自己は、他者との関係のなかで行われる相互行為のあとから構築されていくものである。自己同一化を果たすためには、自己同一化の対象となる自己をつくりあげる他者がいなければならない、というバトラーのアイデンティティ理解は、鷲田に似ている。12

 鷲田やバトラーの考え方は、《この生》に含まれる関係の糸を《個人》が所有することはできない、という本連載のテーマとも近い。ただし、鷲田やバトラーは、自己同一化そのものを退けているわけではない。両者共に自己には閉じない「他者との関係」を重視はするが、それは自己になんらかのかたちで資することになる。しかし、本連載ですでに論じたように、《個人》のフィクションは自己と他者とが予め分かれているものであるという前提に立っている。鷲田もバトラーも、自己が存立するには他者が欠かせないという弱い自己同一化の批判にとどまり、その議論の前提となる自己と他者を分ける《個人》という制度の問題には触れない。もちろん、《この生》の問いのほうが彼らの問題設定より優れていると言いたいわけではないし、《個人》のフィクションに満足できるのであればそれで構わない。ここで僕が提起したいのは、指紋認証のように自己同一性アイデンティティを要求してくる、他者を含めた社会的な慣習が《個人》のフィクションに固有の恐怖の源泉なのではないか、という仮説である。この仮説を裏返すと、《この生》のホラーは、自他の区別を所与とする名詞への自己同一化アイデンティフィケーションには依らないということになる。

不審な動詞

《この生》のフィクションに迫る足がかりとして、米国を代表する活動家のひとり、アンジェラ・デイヴィスが書いたアイデンティティに関する短いコラムからの抜粋を見てみよう。

それゆえ、人種(race)がコミュニティを構築する手段として廃れる一方なのは、きわめて疑似科学的なかたちでそれが準拠しているのが、不変で揺るぎない生物学的事実なるものだからなのではないかと思う。そして、そんなふうには静止しないコミュニティにわたしの関心事はある。目下の自分の政治的実践の観点から言えば、これこそわたしが取り組んでいる事案、つまりわたしたちは人種とは別の集まる方法を見つける必要がある、ということである。
 自分のコミュニティに錨を下ろしてはいけない、ということを言いたいのではない。隠喩を使うなら、その錨にくっついているロープには、わたしたちが他のコミュニティに入っていける(move into)くらいのゆとりがあるべきだと思う。13

 政治運動はひとりではできないため、多くの賛同者を集める方法をひねり出すのが基本である。デイヴィスには、人種に基づいたコミュニティはあまりにも静的に見えていた。人種のコミュニティは閉じている。どうしたら他の人種や他の問題系を扱う政治コミュニティと連帯できるのだろうか。デイヴィスはひとつの比喩を用いてこの問いに応えている。すなわちアイデンティティは、マイノリティの人々に根づきの感覚を与える錨の役割を果たすだけでは足りない。そこに他のアイデンティティをもつ人々と連帯するための越境を許容する、縛りの緩やかなロープをつけ足す必要があるのではないか。そうすると、コミュニティやアイデンティティは、籠城の拠点ではなくホームに帰るための命綱となって、戦線を拡大したり仲間を増やしたりすることができるようになる。このデイヴィスの人種アイデンティティ論からは、一致を求め絆を強めるアイデンティティのあり方に動性をつけ加えるという発想がうかがえる。

 アイデンティティの動性に関しては、自己同一性の背後に潜んでいる、それを実体のあるものにする反復行為に注意を向けるジュディス・バトラーの考察も参考になるだろう。

アイデンティティとして意味されているものは、歴史のある時点で意味が与えられれば、それ以降は、実体的な言語の不動の部分として存在していくものではない。たしかにアイデンティティは、多くの不動な実体詞として現れてはいる。事実、認識論のモデルは、この見せかけを理論の出発点とする傾向にある。だが実体詞としての「わたし」は、その作用を隠蔽し、その結果を自然化しようとする意味づけの実践によって、実体詞と見えているだけである。さらに言えば、実体的なアイデンティティの資格をもつことは、なかなか困難なことである。というのも、実体的なアイデンティティのように見えてはいても、それは、規則によって産出されるアイデンティティにすぎないからだ。つまり文化的に理解可能なアイデンティティの実践を条件づけ制限している規則を、たえず繰りかえし発動させることによって得られるアイデンティティにすぎないものであるからだ。14

 同一性アイデンティティは、ある名詞を歴史的に定義されたこれ以上変わらない名詞、つまり「不動な実体詞」として見せる。たとえば、僕の目の前にある黄色い皮に包まれて房をなしている果物は社会慣習上「バナナ」と呼ばれている。だから僕はそれに則り、この果物をバナナと呼ぶ。このときバナナという名詞は、社会的・歴史的に決定された「不動な実体詞」であるように見える。しかしバトラーによればこの現象は、この果物をバナナ以外にはありえないものとして「自然化しようとする意味づけの実践」に僕が加担しているためにそう見えているに過ぎない。実際には、この果物=バナナの同一性アイデンティティは、僕を始めとするさまざまな人たちがその習慣を「繰り返し発動させること」によってそのたびに確認されている。バナナをかぼちゃと呼ぶこともできるのにバナナをバナナとして呼ぶ僕の行為が、この果物=バナナという規範的な一致アイデンティティを強化する。このようにその同一性アイデンティティが確立しているように見える名詞の背後には、その名詞を用いて呼びならわす行為の反復という、動詞的な側面が隠れている。同一性アイデンティティは「実体詞」ではなく「実践」なのである。15

 バトラーは「繰り返し発動される」規則的な反復行為のなかに、ジェンダー・アイデンティティを撹乱する契機を禁欲的に論証していく。しかし僕は自他の分割や同一性アイデンティティに固執する《個人》のフィクションをこれ以上裏書きすることはしない。デイヴィスやバトラーの慧眼に学ぶべきところはあるかもしれないが、それでは名詞に特徴づけられた自己同一性の問題系に留まることになる。自他の腑分けを当然視する《個人》のフィクションでは、どれだけ他者に対する愛を語ろうとも、個人主義や自己責任から逃れることはできない。バトラーやデイヴィスは、アイデンティティに根ざした個人の自由と他者や規範との関係性による不自由のあいだで揺れている。しかし《この生》は、名詞への同一化という人間的な規範に従うことはなく、不安を掻き立てる動詞の群れへと開かれ、それらがつくりだす関係性のなかに絶えず拘束される。ここには《個人》とはまた別の恐ろしさがある。名詞の一致・不一致ではなく、個人には所有できない動詞の束が《この生》とそのホラーへのとば口となる。


 たとえば「編集者」で考えてみよう。「編集者」はその他の「営業」や「書店」、「経理」、「作家」などさまざまな職業や職種を示す他者の名詞の関係のなかにいる。だからリストラや不祥事などの事由で起こる失職を、他者の名詞の関係から抜け落ち無関係へと没落する現象として言い換えることができるだろう。これは、自己同一化した名詞とその他の名詞との関係に関する《個人》の恐怖・不安である。

 だがよく考えてみると、編集者ではなくなるからといって編集ができなくなるわけではない。ライターという肩書で編集をしている人はたくさんいる。それに編集者という肩書を掲げていてもとりたてて編集には携わっていない人もいるかもしれない。オンラインサロンの経営や編集論を語ることに血道をあげる編集者もいる。それに編集者をとり巻く動詞は編集行為には限られない。彼らもふだんから食べたり寝たり(おそらく)しているはずだ。さらに言えば、その巧拙を別にすれば編集行為は編集者でなくともできる。プロの編集者ではないただの鵜飼いが鵜飼い雑誌の編集をすることもあるだろう。このように「編集する」という動詞は必ずしも「編集者」を主語とはしないし、「編集者」を主語とする動詞が「編集する」に尽きるわけではない。

 さて「編集する」という動詞に戻って、これを微分していくと、それが編集者には独占できないさまざまな動詞の輻輳ふくそうする場であることがわかる。僕のつたない原稿に朱を入れたり、企画会議を通したり、おもしろそうな著者をリクルートしたり、新しい媒体を立ち上げたり、インタヴューをとったり、文字起こしをしたり。これらの動詞の主語にはこの僕でさえなりうる。現に僕は、原稿に朱入れしたり、おもしろいことを書きそうな潜在的著者を編集者に紹介したりしたことはある。ある意味、僕は編集者とその実践において「わたしたち」を構成していると言えるかもしれない。このように個人に対して宛がわれる「編集者」という名詞を見ていくよりも、さまざまな得体の知れない主語(わたしたち)が部分的に実践している動詞の乱交に、《この生》における実践の束とそのふるまいに迫るヒントはあるように思う。

 他方で、編集者という名詞は、「編集する」という動詞に内包されていないさまざまな動詞に常にそそのかされている。他の人と同じく、編集者はいびきもかくだろうし、ボールを蹴ろうとして地球を蹴ってしまうこともあるだろうし、畑を耕したり窃盗したりしているかもしれない。「編集する」という動詞に縛られない動詞群は、編集者という自己同一性を奪うことになりかねない。それどころか編集者に絡みついているありとあらゆる動詞の関係性をきちんと突き詰めていくと、その自己同一性はいつも路頭に迷っている。野放図な動詞の連なりによって、編集者は、編集とはまったく関係のない畑仕事仲間や窃盗団が交錯する名詞のネットワークに接続されてしまう可能性すらある。だから《この生》は自己同一化のメカニズムや名詞によって表象することができない。16

 自分の存在を「名詞」に同一化して行われる自己紹介は、あくまでも個人の単位での正体や立場、身元を明かすことを常識とする慣習に従っているにすぎず、実はその胡乱うろんな内情をなにも語っていない。「学術運動家」という肩書は怪しい。「野良研究者」という肩書も明らかに怪しい。これらの肩書が怪しく響くのは、それらが職業として確立していないと同時に、その背後にある動詞の群れが見えない、つまり「なにをやっているのかわからない」からである。不審者である。不審者は「名詞」に頼ることができない。喪失するかもしれないなにかをそもそも所有していないからだ。だからなにをやるか、どうやるか、なぜやるか、なにと、誰とやるか、という動詞をめぐる関係性だけが問われる。


 アイデンティティに関する《個人》の喪失感や恐れは、このような「動詞」的な関係がその名詞に表象されているという信仰にあるのかもしれない。つまり、多彩に蠢く動詞の群れからなる「わたし」を単一の名詞に同一化する習慣とその同一化の不完全さが、失職やはく奪などの《個人》の恐怖の根源にあるのかもしれない。だが《この生》を生きているのは、名詞ががらんどうの、動詞に巻き込まれた不審な生である。それは僕だけではない。《この生》から眺めれば、IT企業の社長だろうが、路上生活者だろうが、マッサージ師だろうが、殺し屋だろうが、アーティストだろうが、その不審さは変わらない。あらゆる名詞は空っぽで、動詞の蠢きとその意想外のもつれに蹂躙されている。みんな不審者である。不審者に転落するかどうかは問題ではない。なにをやらかしてしまっているか、どのアクションに応えているのか。不審者として生きてしまっているという現実のなかに《この生》のホラーはある。
 
 「わたしたちの具体化」とは名詞の列挙ではない。それは「わたしたち」という人称をいつも不審なものにしてしまう、野良犬のごとき動詞たちが切り拓くけもの道の軌跡である。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. Maria Puig de la Bellacasaは、STS(科学技術論)、フェミニズム理論、環境人文学など幅広い領域で活躍する研究者。主著にMatters of Care: Speculative Ethics in More than Human Worlds (Minnesota University Press, 2017)。HP: https://warwick.ac.uk/fac/cross_fac/cim/people/maria-puig-de-la-bellacasa/
  2. “identity” (Online Etymology Dictionary https://www.etymonline.com/word/identity)。
  3. アイデンティティはしばしば「属性」と混同される。「属性」は、「帰属」(“attribute”)の意味ならばある結果を生み出す原因を指し、「特性」(“property”)の意味ならば、連載第1回で論じた個人による身体の所有のように、ある主体が所有している性質を指す。つまり属性は、なんらかの名詞を原因/結果の関係や所有/被所有の関係のなかで表現する。
  4. たとえば「夜のそら・Aセク情報室」の連載(https://note.com/asexualnight/m/m0d3ce6ede715)や「AセクAロマ部」https://acearobu.com/)を参照。
  5. 家族の多様な可能性については、佐々木ののか『愛と家族を探して』(亜紀書房 2020年)を参照。
  6. アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳 筑摩書房 2019年)36頁。
  7. マアルーフは、宗教や部族が個人のアイデンティティのなかの特定の帰属だけを選択しそれを集合的なアイデンティティとするよう個人に迫る点、そしてそれが戦争や紛争、差別につながる点を批判している。そして解決の一案として、あらゆる人々の帰属の総和となる人類統合的なアイデンティティを夢想する(マアルーフ 120頁)。フランス知識人らしい普遍主義というべきか。
  8. 鷲田清一「所有と固有 propriétéという概念をめぐって」(大庭健・鷲田清一共編『所有のエチカ』 ナカニシヤ出版 2000年 4-41頁)21-22頁。
  9. 飯盛元章『連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学』(人文書院 2020年)では、抱握と合生によるA・N・ホワイトヘッドの有機体の哲学に共時的断絶、通時的断絶、垂直的断絶、実在の深みとの断絶が見られる、と論じられている。アイデンティティの問題系が心理機制を焦点とした認識論の範疇にあるのに対し、有機体の哲学は存在論の範疇にあることを考慮しても、これらの断絶は認識論的に同一性が完成しない要件を存在論の観点から満たしているとも考えられる。とりわけ時間的に離れた存在どうしに見られる通時的断絶と存在を実在が破壊しうる可能性を秘めた実在の深みとの断絶は、鷲田の言う人格の同一性と固有性の問題に重なる。
  10. 鷲田22-23頁。
  11. ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの撹乱』(竹村和子訳 青土社 1999年)252頁。
  12. バトラー250-60頁、とりわけ250-52頁を参照。バトラーの考察の本丸は言語行為論だが、本筋から外れるため、ここでは自己には他者が必要、というおおざっぱな枠組みだけ提示しておく。
  13. Davis, Angela. “Defining Identity: Four Voices; Rope.” (The New York Times.May 24, 1992. Section 4, Page 11. https://www.nytimes.com/1992/05/24/opinion/defining-identity-four-voices-rope.html)。拙訳。
  14. バトラー 254頁。
  15. 鷲田の言う「人格の同一性」は記憶の問題でもある。過去の自分と現在の自分の同一性の証となる記憶においては、すべてを記憶することができない以上、必然的に忘却の問題がつきまとう。その際、なにを覚えておくか、どれは忘れてよいのか、という記憶の倫理、すなわちある共同体にとって正しい記憶とは何かが問われることになる。バトラーの構図にあてはめるなら、記憶は実体詞ではなく反復のたびに動詞として働いており、それ自体「繰り返し発動される」規則への同一化を問い直す契機であるだろう。三村尚央『記憶と人文学 忘却から身体・場所・もの語り、そして再構築へ』(小鳥遊書房 2021年)192頁を参照。
  16. 以上の名詞と動詞、あるいは動詞的名詞の議論は、ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』(小泉義之訳 河出書房新社 2007年)やブリュノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク・セオリー(ANT)、ダナ・ハラウェイの一連の著作における名詞の動名詞化、清水高志による「画餅」をめぐる道元の解釈の読解(『ÉKRITS / エクリ』「仏教哲学の真源を再構築する ナーガールジュナと道元が観たもの」 More-Than-Human Vol.3 清水高志インタビュー 聞き手:師茂樹 https://ekrits.jp/2020/08/3782/)から示唆を受けている。